【2021年3月】<元日本兵・古川さんの46回目の法要>、/カラオケ騒音問題、年末までに解決目指す
春さんのひとりごと
今年も、メコンデルタのCai Be(カイ ベー)で行われた「元日本兵・古川さんの46回目の法要」に参加させて頂きました。今年は3月6~7日の2日間に亘って行われました。今までの「法要」はCai Beに赴き、「宴会」と地元の人たちの「カラオケ大会」を聴き、<楽しく過ごす>ことで終わっていました。しかし、今回の法要では、私たち日本人側に「大きな目的」が有りました。
今年の法要に参加したのは、日本人側は「さすらいのイベント屋の中村さん」。中村さんはいつものようにハノイから飛行機で飛んで来られました。そして、「映像関係のNTさん」。NTさんは2019年の<ベトナム南北縦断の旅>の時、ハノイからNhin Binhまで私と同行して頂いた方です。NTさんのおかげで、ハノイからNhin Binhまで道に迷うこと無く、バイクで走ることが出来ました。
NTさんは2019年の「古川さんの44回目の法要」の時、今は亡き山元さんから誘われました。Cai Beで行われる、その<法要>の時に、「動画」を撮るつもりで張り切っておられました。しかし、その時どうしても都合が付かず、参加出来ませんでした。「あの時参加しておけば、生前の山元さんが青春時代を過ごしたCai Beで、ご本人自らの口から語って頂けたのに、本当に残念です。惜しい機会を逃しました」と、今でも残念がっておられます。
さらには、NTさんの会社に新しく勤めることになる予定のTam(タム)さんという若い女性も参加することになりました。TamさんはNTさんから3月6・7日のCai Beでの<元日本兵・古川さんの法要>の話を聞いた時、大変強い関心を抱き、「私も是非参加させてください」と申し出てくれたそうです。それを聞いた時、私も嬉しくなりました。
NTさんの話では「Tamさんは<日本語能力試験>のN4を持っていますよ」とのことでした。それを聞いた私は「わぁー、それはいいですね。私もTamさんに会えるのが楽しみですと伝えてください!」とNTさんに伝言しました。<日本語能力試験>の「N4レベル」でも、日本語を理解できるベトナム人の参加者の歓迎は<大歓迎!>でした。と言うのも、今回の私たちの、「大きな目的」の手助けをしてくれるのでは・・・という期待が有ったからです。
本当はもう一人の日本人と、その奥さんでベトナム人の方も<参加希望>の予定でした。しかし、当日になって、急に奥さんの体調が悪くなり<不参加>になりました。昨年私と一緒にCai Beまで行ったKSくんとその奥さんです。KSくんの奥さんも<Cai Beでの法要>の話を知り、強い興味を持たれたそうです。それを聞いた時、私自身は大変感動しました。その前日まで、二人は参加の予定でした。しかし、当日になって、上記の理由で奥さんの具合が悪くなり、残念ながら参加出来なくなりました。
今年の<法要>の前に、私からはVuさんにその3日前に、「3月6日」当日参加者の人数を連絡しました。寝具の手配などが有るからです。<法要>が終わった日の夜は、古川家の家族たちが、サイゴンから来た私たちや、遠くから参加した人たちの寝具を敷いてくれたり、蚊帳を吊ってくれたりします。私たちは一泊ぶんの衣類を持ち込むだけで良いのです。
●サイゴン ⇒ Cai Beへ ●
昨年と同じく、今年の<法要>もバスには乗らないで、バイクで移動することにしました。そちらのほうが便利だからです。四人だけでの移動になりますので、NTさんと事前に打ち合わせしたのは「私のバイクの後ろに中村さんを乗せて一台」「NTさんのバイクの後ろにTamさんを乗せて一台」、合計二台のバイクで行きましょう!と決めました。
当日は、中村さんが泊まっている「1区のLe Lai通りにあるホテル前に朝7時に集合!」と決めました。この日、私は朝5時半に起きて身支度をして、朝6時50分にそのホテル前に到着。すると、すでに中村さんはホテルの前に立って待っておられました。そして、その僅か2分後にNTさんとTamさんも到着。
TamさんはNTさんのバイクの後ろに座っていて、そこに着くなりバイクから降りて、我々二人に頭を下げて「おはようございます!」とキレイな日本語で挨拶してくれました。彼女は小柄で、明るい笑顔をしていました。この後、Cai Beでの<法要>で彼女と一緒に過ごしていた時に感じたことですが、彼女は大変「素直で、好奇心が強い性格」でした。結果として、今回の「大きな目的」を進めてゆく時、彼女が大活躍をしてくれました。
予定時間通り、朝7時にサイゴンを出発。NTさんのバイクが先導で、私たちが後に続きます。NTさんがGoogleマップで示したルートでは「市内から7区のNguyen Van Linh(グエン バン リン)通りに入り、その道をずっと進むと国道一号線に合流します。それが近道です」とのことなので、そのルートでバイクを走らせました。
そして、9時ちょうどにMy Tho(ミー トー)市内に入った時の目印となるロータリーに着きました。サイゴン市内からここまで67km。この時、私のバイクのガソリンの針の表示が赤線の位置に来ましたので、NTさんに「ガソリンが無くなりそうなので、すぐ近くのガソリン・スタンドで休憩しましょう」と言いました。
不思議だったのは、同じ距離を走りながら、NTさんのバイクはガソリンがほとんど減っていなかったのです。私が「昨日ガソリンを満タンに入れたのに、二時間ほど走っただけで、もう無くなりました」と言うと、NTさんも笑っておられました。NTさんが「そのバイクはいつ買いましたか」と訊くので、「十年前です」と答えると、「あー、そのせいでしょうね。車もバイクも古いと燃費が悪くなりますよ」と言われるのでした。(そうなのか!)と私も納得しました。
しかし、バイクで二時間も走ると、同じ姿勢を続けているので、足腰がくたびれてきます。特に、後ろに座っている人はそうです。実際、バイクに二人乗りで移動する時には、バイクを運転している本人よりも、後ろに座っている人のほうが、重心が不安定なので大変疲れるものです。それで、二時間に一回ぐらいは休憩を入れる必要が有ります。
そして、My Tho市内に入ってすぐにガソリンを入れた時、たまたまガソリン・スタンドのすぐ横にカフェー屋が有りましたので、そこで休むことにしました。昼間でもあるし、バイクでの移動中ですから、みんなアイスコーヒーやジュースしか頼みません。飲み物がテーブルに置かれた時、この日初めて会ったTamさんと落ち着いて話すことが出来ました。
私がTamさんに「今何歳ですか?」と訊くと、「23歳です」との答え。「日本語はどのくらい勉強しましたか」と訊くと、横からNTさんが「彼女はYouTubeで日本語を勉強したそうですよ」と教えてくれました。その後、Tamさん本人が「最初の4ヶ月間は日本語のセンターに行きましたが、忙しくなってそこを休んだ後は、YouTubeで勉強しました」との答えでした。それを聞いて、私は感心しました。結構<会話>が上手かったからです。
彼女のお父さんはサイゴンの出身で、お母さんの故郷はDong Thap(ドン タップ)省のSa Dec(サー デック)と言いましたので、「そうですか!Sa Decには2019年に友人の結婚式でそこを通りましたよ。大変キレイな町でしたね!」と言うと、彼女も喜んでいました。「友人の結婚式」と言うのは、2018年4月号<元日本兵・古川さんの奥さんの法要に今年も参加>に載せたNHくんのことです。彼の新婦の故郷がSa Dec なので、私もそこに行ったのでした。
そして、彼女が言うには「母と一緒に私の田舎からまたサイゴンに戻り、このMy Tho市内に入った時、必ず立ち寄る美味しいHu Tieu(フー ティウ)の店が有ります。地元で40年ぐらい続いている大変有名な店です。ここから歩いて2・3分の場所です。皆さん朝ご飯を食べていないし、この後そこに行きませんか」と誘ってくれました。我々三人の日本人全員の答えは「では、是非そこに行きましょう!」となりました。
そこは確かに歩いて2分ほどの場所にありました。店内はさほど広くはなく、30人も入れば満席になる椅子の数でした。店の名前は「Hu Tieu43」。番地がそのまま店の名前になっているという、ベトナムには多い名前の付け方です。私はこの十年ほど、朝から熱いスープと麺がドンブリに入って出てくる「フォー」や「フーティウ」などは食べていません。食べ終わった後、暑くて・暑くて堪らないからです。それで、最近はいつもパン食です。
でも、この日は(久しぶりに食べてみるか!)と、食欲が湧きました。注文は、ここを良く知るTamさんに任せました。彼女は「五目フーティウをください!」と店員に頼んでいました。フーティウのスープの麺と一緒に、いろいろな具材が入っているものが出てくるだろうな・・・とは想像出来ました。しばらくしてそれがテーブルの上に置かれました。やはり、フーティウの麺の上にワンタンや豚肉などが載っていて、実に美味しい「五目フーティウ」でした。でもやはり、たくさんの汗が出てきましたが・・・。
そこを出る前に、Vuさんに「今、朝ごはんを食べ終わり、今からCai Beに向かいます!」とメッセージを送りました。10時少し前にそこを出て、またバイクに乗りCai Beのフェリー乗り場を目指します。昨年は国道一号線ではなくて、クリーク沿いの道「864号線」をKSくんと一緒に走りましたが、今年もそうしました。事前にガソリン・スタンド横のカフェー屋で、NTさんにはその道路が書いてある地図を見せましたので、間違えずにそのルートに入ることが出来ました。
そして、11時ちょうどにNha Beフェリー乗り場に到着。この日はお客さんが多かったですが、11時15分には対岸のTan Phong(タン フォン)村に渡ることが出来ました。フェリー代は徒歩の人が3千ドン、バイク一台と運転手一人で6千ドンです。ここから「古川家」まで行くルートは曲がりくねっていて複雑なので、いつも誰かにフェリー乗り場まで来てもらっています。
それまで少し時間有るので、みんなは飲み物を頼んでいました。私はノドも乾いていなかったので、フェリー乗り場内の売店で「缶ビール」を一ケース購入しました。15分ほどして、古川さんの長男・Tuanさんの長男が到着。私たちの荷物が多いのを見て、私のバイクに積んでいた「缶ビール」のケースを自分のバイクに移してくれました。それから出発。
そして、30分ほど走ると「古川家」のすぐ近くにある、いつも竜眼がたわわに実っている道に入りました。今年もやはり今まで以上にたくさんの竜眼が実を付けていました。「古川家」に到着したのはちょうどお昼の12時。サイゴン市内からここまで112kmでした。その後、すぐに四人で「古川家の祭壇」の方に行き、お線香を上げました。NTさんとTamさんは初めてでしたから、私がそこに案内しました。
この「祭壇」には「古川さんご夫妻」、「山元さん」、そして、「澤口さん」の遺影が置いて有ります。その四人の遺影に向かつて、お線香を上げさせて頂きました。特に、私はここ最近、毎年<法要>には参加していますので、「古川さんご夫妻」の遺影に対しては、「また今年もこちらに来ました。今日と明日までお世話になります。本当に有難うございます」と、言葉に出して「感謝」」のご挨拶させて頂きました。その後、「古川さんご夫妻」の遺影の横に飾ってある「山元さん」と「澤口さん」、お二人の遺影にもお線香を上げさせて頂きました。
その後、一つのテーブルに座りました。しかし、いつものように、「料理」や「果物」などが私たちが座っているテーブルに次々と運ばれてきそうな気配でした。それで、Tamさんが「朝ご飯は先ほど食べて来たばかりなので、結構ですよ」と言いますと、お茶や果物だけをテーブルの上に置いてくれました。実際、私たちは少し前に食べたばかりなので、それほどお腹も空いていませんでしたから、それで十分でした。しかし、テーブルの上に出てきた「マンゴー」を一つ摘まむと、十分に熟れていて、実に美味しいものでした。ついつい、三つほど食べてしまいました。
そして、中村さんとNTさんと私たちは、今回のCai Be訪問の「大きな目的」についての詰めをしました。今回の「大きな目的」とは、「古川さん」の6人の子どもたちを一同に集めて、「古川さんの思い出」について「インタビュー」するというのが「大きな目的」だったのです。それは、Vuさんの「日本訪問」に向けて、【確かにVuさんは元日本兵・古川さんの子どもです】という<基礎資料>を固めるために必要だったからです。
我々日本人から見ると、「出生証明書」があれば簡単じゃないの・・・と思いますが、戦争当時の混乱期の中で、それが無い人たちもいたようです。事実、私の女房の親族にも、出産を産婦人科ではなく、自宅で行ったので、未だに「出生証明書」を貰っていない知人がいると言います。
中村さんは今回の「インタビュー」のために質問事項を作成し、それを私やNTさんにも事前に送って頂きました。NTさんはそれを日本語が出来るTamさんにお願いして、ベトナム語に翻訳してもらい、それを人数分コピーして、この日持ち込んで来てくれていたのでした。本当に、今回の<法要>では中村さん、NTさん、Tamさんに大活躍して頂きました。
これをベトナム語に翻訳してくれたTamさん自身がベトナム語で<質問>し、6人の子どもさんたちがそれに<返答>し、NTさんが<映像で記録>してゆけば、【貴重な記録】が完成することでしょう。「インタビュー」は、少し涼しくなる頃の、「夕方5時頃にしましょう!」と決めました。そのことをVuさんにも伝えて、「5時頃にはみんなどこにも行かないで、家の中に居てくださいね」とお願いしました。Vuさんも「分かりました!」と肯いてくれました。
それだけの打ち合わせをして、午後2時過ぎに一旦昼寝をしました。この日、みんな朝早く起きて、バイクの移動でここまで来て、少し疲れていました。昼間ですので、寝具も蚊帳も無く、私などはタイルの上に枕一つでゴロ寝です。NTさんとTamさんはハンモックに揺られて寝ていました。でも、ハンモックは寝返りが打てないので、私は使いません。そのタイルの上に寝転がりながら、(やはり、この日6日(土)に来て良かったな・・・)と思いました。
実は、事前にVuさんから来た今年の<法要>の日程は、3月7日(日)でした。その日が地元の人たちも含めて、たくさんの人たちが参加するからと言う理由でした。しかし、その日程ですと、7日(日)にCai Beに泊まり、8日(月)にサイゴンに戻ることになります。NTさんも私も8日(月)は平日で仕事が有りますから、それは無理でした。
さらには、今回の<法要>の「大きな目的」として「六人の子どもたちへのインタビュー」が有りましたから、出来るだけ静かな雰囲気の中で行わないと、落ち着いた「インタビュー」は出来ません。毎年恒例の<法要>では、食事会としての<宴会>が盛大に行われ、大音響で歌いまくる<カラオケ大会>が始まるからです。それが、恒例のパターンです。
<カラオケ大会>が始まれば、とてもとても「インタビュー」など出来るものではありません。でも、この日は地元の人たちは来ていなくて、一テーブルだけ、身内の方たちだけの参加でしたので、静かなものでした。私たちが話していたすぐ傍で、幼い子どもたちだけが賑やかにはしゃぎ回っていました。その子どもたちにも「日本人・古川さん」の血が流れているのです。じーっと眺めながら、そういう感慨が湧いてきました。
午後3時に私は眼が覚めました。中村さんはすでに先に起きておられて、パソコンで「インタビュー」の質問事項の再チェックをされていました。私は果樹園のほうに歩いて行き、竜眼やドリアンを眺めていました。家の眼の前にあるドリアンはまだ実が小さかったですが、竜眼は枝が垂れるほど実が付いていて、家族の人がそれを枝ごと手で折り、私たちのテーブルの上に「はい、どうぞ食べて!」と置いてくれました。それを食べると、外側の皮は固かったですが、中の実は大変みずみずしくて、美味しいものでした。
さらに、大きいドリアンの実も持って来てくれて、私たちの眼の前でそれに包丁を入れ、ドリアンの実を取り出し、私たちに振る舞ってくれました。この大きなドリアンもこの果樹園の中で育ったものだと言いました。それを食べましたが、濃厚なクリームを味わっているようで、何とも絶品でした。日本人の中には特にドリアンの匂いを苦手とする人もいますが、ここにいる私たち三人の日本人は平気で、採れたてのドリアンをバクバクと食べました。
「古川さんの六人の子どもたち」
夕方5時から「インタビュー」を始める予定なので、「古川さんご夫妻」の祭壇の近くに六つの椅子を置いて、そこに座ってもらうことにしました。前四つの椅子に「長女Aさん」「次女Bさん」「三女Hueさん」「長男Tuanさん」。後ろ二つの椅子に「次男Vuさん」「四女Thuyさん」という具合です。良く考えれば、今まで何回も「古川家の法要」に参加していながら、こうして「古川さんの六人の子どもさんたち」全員が集まり、座っているのを見たのは、この時が初めてでした。
Tamさんが自分で翻訳したコピーを手に持ち、NTさんがビデオをセットし、中村さんはパソコンをテーブルの上に置きました。Tamさんが質問する時、言葉だけでは説明できない質問には、そのパソコンの中にある昔の写真や新聞記事を見てもらうためにです。三人の呼吸がだんだんと合ってきました。私自身は横でただそれを眺めていました。
そして、予定通り5時過ぎに「インタビュー」がスタートしました。Tamさんがまず口火を切り、中村さんたちが「Vuさんの日本訪問の実現」に向けて、今努力されておられること。そのために、今からみなさんたちに「インタビュー」を行いますと話しました。六人みんなが肯いていました。 まず、各自の「自己紹介」から始めてもらいました。それが終わると、「お父さん・古川さんの思い出」を話してもらいました。次に、当時このCai Beに「古川さん」を訪ねて来た人たちの写真を中村さんが見せます。当時ここには新聞社の人、作家、写真家、「古川さんの家族」など、いろいろな人たちが訪問しています。「古川さん」と一緒に写っている写真を見せて「この人は覚えていますか」と訊きます。
しかし、今から50年近い前のことでもあり、その当時は幼い年齢の人たちもいて、ある人は「覚えています」、ある人は「覚えていません」と言う、違う答えが出て来ても不思議ではありません。さらに、ここには「古川さんの日本の子ども二人」も訪問しています。その写真も見せました。
そして、実はその「日本の子ども二人」はまだ日本でご健在だというのです。しかし、ご高齢でもあり、中村さんは「Vuさんの日本訪問を急がないといけない」と気をもんでおられるのでした。「インタビュー」は40分ほど続きました。すぐ隣には、一テーブルだけ、遠くから来た親族がビールを飲んで、料理を食べていました。
中には、私も良く知る「焼酎好きのおじさん」もいます。時に大きな声を出していましたが、敢えて我々の側から制しませんでした。そのほうが「現地でインタビューした臨場感」が有っていいかな・・・とも思いました。作り物の「インタビュー」ではなくて、自然な感じが漂う「インタビュー」のほうがいいだろうと思ったからです。
「インタビュー」が終わり頃に入った時、「古川さんが不慮の事故」で亡くなられた時の「新聞記事」があり、その写真を中村さんがパソコンの画面で見せました。Tamさんがその記事を簡単に説明しました。すると、「Aさん」は前の列の席に座っていたので、パソコンに現れた、生前の「古川さん」の写真が鮮明に見えたからでしょうか。
「Aさん」が最初に両目に涙を流しました。すると、「Bさん」「Hueさん」「Tuanさん」の四人全員が次々と両手を自分の眼に押し当てて、声に出して涙を流していました。それを見て、私も涙がこぼれ落ちてきました。中村さん、NTさん、Tamさんも次に出る言葉を抑え、シーンとした雰囲気になりました。
それで、私もみんなの前に出て次のように話しました。「このインタビューは、いつか近いうちにVuさんが日本に行き、お父さんの故郷を訪問してもらうために、古川さんのベトナムの家族のことを知ってもらいたくて、今日こうして集まってもらいました。今日は本当に有難うございました」と挨拶して、この日の「大きな目的」である「インタビュー」を終わらせて頂きました。
中村さん、NTさん、Tamさん、六人の「古川さん」の子どもさんたちにも、大変「思い出深いインタビュー」になりました。そして、私自身も大変感動しました。今までCai Beの<法要>には参加していても、「古川さん」の六人の子どもたち全員がこうして一堂に集まり、「お父さんの思い出」やCai Beに「古川さん」を訪ねて来た人たちの追憶を聞けたのは、今回が初めてのことだったのですから。
この後は、夕方6時半過ぎから、またまた<宴会>が始まりました。揚げ物、蒸し物、ベトナム風のお好み焼き「Banh Xeo(バイン セオ)」や、果物や缶ビールなどが次々とテーブルの上に置かれました。大変なご馳走でした。特に、「Banh Xeo」は我々が一枚平らげると追加でもう一枚、それも平らげるとさらにもう一枚次々に出てきたのです。さすがに、三枚も食べるとお腹がいっぱいになり、それ以上の「Banh Xeo」は「もう、結構ですよ!」と、お断りしました。
夕食を終えて一段落して、中村さんがTamさんに声掛けして、「今からそこの果樹の横に水が流れている場所に行きましょうか!そこには蛍がいますよ!」と言いますと、彼女は目を輝かせて「わぁー、有難うございます!是非行きたいです」と答えました。良く訊くと、彼女は今までベトナムの田舎に行ったことはあっても、蛍は見たことが無いと言うのです。
(へぇ~、そういうベトナム人の若者もいるのか・・・)と、私はTamさんをこの日、朝から今までずっと彼女を見ていて、いろいろなことに「興味」「好奇心」を抱く彼女に大変感心しました。このような「興味」「好奇心」をこれからも持続してゆけば、彼女の「日本語能力」は今後ぐんぐんと伸びてゆくことでしょう。
そして、中村さんの案内で、竜眼の小道を歩いて行きましたが、街灯も無いので真っ暗です。竜眼の上のほうの枝をじーっと眺めていますと、蛍が一匹・二匹、確かに枝に止まり、明滅していました。中村さんの話では、以前来た時には蛍の群れが枝一杯に止まり、無数に光っていたそうですが、この日の夜は数匹の蛍さんしかいませんでした。それでも、Tamさんは十分喜んでいました。自分で一匹の蛍を捕まえて、掌の上に載せて、その後すぐに空に放してあげました。蛍さんはピカピカ小さい光を輝かせながら、夜空に飛んで消えてゆきました。
この日はお客さんたちも多くは来ていなかったので、いつもなら夜遅くまで続く<カラオケ大会>の騒音も聞こえてきません。家の中では家族たちが歌っていましたが、大してウルサクはありません。家族の方たちも9時半過ぎには寝床の準備をし始めました。私たちは明日も「もう一つの目的」が有ったので、朝は早起きする予定でした。それで、10時過ぎにはベランダの下に蚊帳が吊ってある寝床に入りました。夜空の星が見える以外は、辺りは闇につつまれて大変静かです。すぐに、私は深い眠りに落ちました。
●Cai BeからAn Huu村。そして Sai Gonへ●
朝5時過ぎに私は起きました。隣の寝床を見ると、中村さんとNTさんはまだ寝ています。しかし、幼い子どもたちはもうこの時間にはすでに起きていて、庭を走り回っています。私は果樹園のほうに歩いて行きました。今ここに植えてある果樹は「竜眼」と「ドリアン」です。それらの果樹の世話をしているのは「長男Tuanくん」の奥さんです。
しかし、Tuanくんは若い時椰子の木から落ちて、今に至るまでずっと「車椅子生活」です。働くことは出来ません。ですから、奥さんが一人で果樹園の管理をしているのです。生前の「山元さん」が私に良く次のように話されていました。「大したもんだよ、あの奥さんは。家事も切り盛りし、果樹園の世話を一人でやっているのだから・・・」と。
今は水道管を果樹園内に引き入れて、水遣りはスプリンクラー型式になりましたが、以前はそういう設備も無くて、水道のホースを一人で手繰りながら、広い果樹園内に水を撒いていたそうです。毎年のこの<法要>では、我々日本人が家に着くや、すぐに家の中から出て来て、ニコーっとした笑顔で迎え入れてくれるのでした。
6時過ぎに中村さんが起きてこられました。そして、一人で魚の「養殖池」のほうまで歩いて行かれました。その方角から家の中にいる私たちに聞こえるような大きな声で「すごいキレイな朝陽が出てきたよー!」と叫ばれました。それを聞いたNTさんとTamさん、そして私の三人でそちらまで行きました。すると、養殖池の背後を流れるメコン川の方角から、確かに実に美しい朝陽が昇ってきていました。しばらく、私たちはその朝陽に見とれていました。その朝陽を「古川さん」や「山元さん」もたぶん毎日眺めておられたことでしょう。
そして、また家に戻ると、テーブルの上に、私たちのためにインスタント・ラーメンが用意されていました。ラーメンの中にはワンタンも入っていました。Cai Beでの<法要>の翌日の朝食はいつもこのパターンです。前日にビールを飲み過ぎているので、こういう軽い食事がちょうどいいのです。そして、これが大変美味しいのです。
食事を終えた後、「もう一つの目的」を果たすために、7時にはこの「古川家」にお別れをすることにしました。「もう一つの目的」とは、この後、「古川さんご夫妻のお墓参り」に行く予定にしていたからです。「古川さんご夫妻のお墓」はCai Beには有りません。奥さんのご実家があるAn Huu(アン フー)村にあります。Vuさんが言うにはCai Beから約30kmの所にあるそうです。
私自身は今から12年前の2008年12月に、An Huu村に有るその「古川さんご夫妻のお墓」を一度だけ訪ねたことがあります。その時に案内して頂いたのが「山元さん」。そして、東京浅草にあるお好み焼き屋<染太郎>の支配人をされていた「澤口さん」です。今、お二人は亡くなられています。あれから約12年の長い歳月が流れました。その時のことは、【2009年1月号<元日本兵の墓を訪ねて>】に載せています。
ちょうど7時に「古川家」の家族の方たちにお別れを告げに、長男のTuanくんと奥さんの元に挨拶に行きました。奥さんが「今日はみなさんたちがたくさん集まるので、お墓参りを終えた後は、またここに戻っていらっしゃい!」と誘って頂いたのですが、またここに戻り、それからサイゴンに帰るとなると、何時に着くか分からないので、それは丁重にお断りしました。そして、奥さんの手に謝礼を包んだ封筒を渡し、<来年の再会>を約束して、そこを後にしました。別れ際には大量の「竜眼」と「テトの餅」を頂きました。
この日の目的である「古川さんご夫妻のお墓参り」に行く時、「両親の墓まで約30kmありますよ」と、Vuさんから聞いた時、(全員がバイクでそこに向かうよりも、車に乗って行くほうが安全だろうな)と思い、Vuさんにもそのようにお願いしました。彼も「はい、分かりました。では、私の友人が車を持っていますので、彼にお願いしてみます」と答えてくれました。
当日はTan Phong村内にある駐車場に、その友人の車が停めてありました。友人の運転手とVuさん二人はその車に乗り込んで、Tan Phong村の対岸のCai Beのフェリー乗り場に向かいました。私たちはバイクでその後を付いて行きました。そして、対岸に渡り、我々二台のバイクを預ける駐車場までVuさんが車で案内してくれました。
そこにはすぐに到着しました。良く見たら、そこは、いつも我々がCai Beの<法要>にバスで行っていた時、バスが着いた時に降り立つ「停留所」の近くでした。そこからサイゴンに帰るルートは良く知っていますので、全然問題有りません。そこから全員が一台の車に乗り代えて、An Huu村にある「古川さんご夫妻のお墓」を目指します。
そして、8時35分に「古川さんご夫妻のお墓」がある家の前に到着。車に乗って、約45分で着きました。そこが「古川さんの奥さんのご実家」ですが、今ここには奥さんの弟の息子さんが住んでおられます。名前を「Bay(バイ)さん」と言いました。家の周りは一面が果樹園で、この時はたくさんの「グアバ」が植えられていて、それがたわわに実っていました。大きくなった実には白い袋が被せてありました。
「古川さんご夫妻のお墓」はその果樹園の中に有ります。Vuさんが先に行き、私たちが後に続きます。歩いて2分ほどで着きました。果樹園の中に「古川さんご夫妻のお墓」が二つ並ぶように、平行に置かれています。亡くなられた後も、お二人が手を繋いで眠っておられるかのような印象です。
以前来た時はお墓の前後にもう少し広い空間が広がり、そこに私たちが座って写真を撮った記憶が有りましたが、今はお墓の前後すぐ近くまで「果樹のグアバ」が植えられていました。お墓自体は12年前に私がお参りした時のままです。お二人のお墓の正面には「写真」も埋め込まれています。宮城県で生まれた日本人「古川善治さん」は、今ここに眠っておられます。「古川さん、奥さん、久しぶりにここに来ることが出来ました」と挨拶しました。私はしばらくじーっと、お二人のお墓の前に立っていました。
VuさんはCai Beから<法要>で私たちに出して頂いたものと同じ料理や果物などの数々を、このお墓まで持ち込んで来られました。そして、それらの料理と果物をお二人のお墓の前にお供えしました。それだけで、お墓の周りのスペースは線香立てを置くだけで、それ以上は何も置けないような狭い状態になりました。
「線香」と言えば、中村さんはこの「お墓参り」のために「特製の線香」をわざわざハノイから持参して来られていました。どこにでも売っている市販の「線香」ではなく、中村さんが今ハノイに住んでおられるアパートの大家さん自らが作成された「特製の線香」だと言われるのです。それを私が片手で握ると、指が回らないぐらいの量でした。私がその「線香」を手に取り鼻に近づけますと、何とも言えない独特の芳香がしてきました。しかし、自分でこういう「線香」を作られるとは、何という「器用」な大家さんでしょうか。
察するに、中村さんがハノイのその大家さんに、今回の「お墓参り」のことを話されたのでしょう。それで、こころ優しい大家さんが自分でわざわざ作り、中村さんに持たせてくれたのでは・・・と想像しました。「何故大家さんがこのような線香を持たせてくれたのですか」と言うことを、うっかりして聞き忘れましたので、私の「想像」ですが・・・。しかし、中村さんの先を読む気配り、その大家さんの心情の優しさにはこころ打たれました。
全員が中村さんからその「特製の線香」を受け取り、火を点けて黙祷を捧げ、焼香しました。初めてここにある「古川さんご夫妻のお墓」にお参りされた中村さんは、特に「古川さんのお墓」に刻まれた「Quoc Tich Viet Nam(国籍ベトナム)」という文字を注視されました。「古川さんは日本人なのに何故?」と言う疑問です。
お二人のお墓の焼香を終えた後、少し休憩するために、Bayさんが待っている家にまた戻りました。部屋に入ると、テーブルの上には冷たいココナッツ・ジュースが置いてありました。そこで、中村さんが抱いた疑問「古川さんのお墓にはQuoc Tich Viet Nam(国籍ベトナム)と刻んでありますね。あれは何故?」をBayさんとVuさんに質問し、Tamさんがそれを通訳してくれました。
そのことについては、2008年12月にここを訪れた私も不思議に思いましたが、2009年1月号の記事の中で、私は想像して、こう記しました。「私の夫は生まれは日本だけれども、このベトナムで亡くなった時には、ベトナム人である私の主人として、そして私と同じ国籍のベトナム人として、これからベトナムの大地に化してゆくのだ・・・という、奥さんの古川さんへの熱い思いなのでしょうか」と。
しかし、<真相>はどうも違うようです。今回、それをVuさん自身の口から聞いて初めて<実情>が分かりました。Vuさんの答えでは「ベトナム戦争が終わった後、こういう田舎町で父親が外国人、特に日本人だと分かるとイジメられたり、上の学校に進学する時、いろいろ困難なことが起きる可能性があったからです」と言うものでした。
確かに、そういうことは有り得るだろうな・・・と、私たちも理解出来ました。特に、古川さんは日本人でありながら、「ベトミン」としての任務もこなされていましたから、地元でも「知る人そ知る存在」だったことでしょう。さらには、「ベトナム戦争」当時、日本はアメリカの<同盟国>であり、そのことはベトナム側から見れば<敵>であったわけです。
1975年の「ベトナム戦争」終結後、「外国人退去命令」が出た時、あの山元さんもしばらくして日本に帰国されています。古川さんは「ベトナム戦争」終結直前に亡くなられていますが、「あの子の父親は外国人である日本人だ」ということによる影響は、特にこうした田舎町であれば、私たちの想像以上に大きいものがあることでしょう。それは良く理解出来ました。
今回この奥さんの実家でも、BayさんとVuさんを前にして、我々日本人三人の質問をTamさんが通訳してくれました。Cai Beでの六人の子どもたちへの<インタビュー>でも然り、ここでも彼女が二人に丁寧に質問し、我々に通訳して教えてくれたことで判明した、多くのことが有りました。今回の彼女の活躍・応援には大変有難いものがありました。
そして、9時50分に家族の皆さんたちにお別れの挨拶をしてAn Huu村を去りました。別れる時にはたくさんのグアバをプレゼントしてくれました。そして、我々のバイクが駐車してある所に着いたのが10時35分。行きも帰りもちょうど45分でした。そこで、我々は車から全員降りました。
しかし、自分の荷物とCai Beで頂いた大量の「竜眼」や「お餅」、An Huu村で頂いた多くの「グアバ」を全部バイクに積んで持ち帰るのは大変危ないし、不可能です。それで、我々のバイクの前の席に積めて、運転に支障が無いくらいの量だけを貰うことにして、「残りは、今日の<法要>に参加している人たちで食べてください。我々はこれだけで十分ですから」とVuさんに言いました。彼も申し訳なさそうにしていましたが、了解してくれました。
そして、この後は一路サイゴンを目指しますが、その途中で休憩も兼ねて、私が是非立ち寄りたい場所が一つありました。そのことは、中村さんにもNTさんにも事前に知らせていました。そこまでの帰りも、NTさんが先にバイクで進みます。バイクの駐車場を出て、ちょうど一時間後の11時半過ぎにMy Tho市内の「ロータリー」に到着。駐車場からここまでは37kmでした。
そして、10分後、11時45分に「MEKONG REST STOP」に到着。ここはCai Beまでバイクで行った帰り道に立ち寄る時、ちょうどいい場所にあります。それだけが大きな理由ではなくて、ここは2009年2月に今の「天皇陛下」が「皇太子時代」に立ち寄られた由緒ある「レストラン」なのです。
入口正面の上のほうに、その時の<記念のお写真>が飾ってあります。そのすぐ下に若い女性のスタッフがいたので、「この方に会ったことはありますか」と訊きましたら、「はい、ありますよ!」とニコッとして答えてくれました。「写真の人」がどういう人であるかも知っている感じでした。しかし、「陛下」がここに来られたのは12年も前のことですから、彼女はずいぶん長くここで働いていることになります。
私自身は、今までここに二回来たことがあります。初めてここに来たのは2012年1月でした。二回目が2015年1月です。最初は、私が教えていた学校の仕事で行く途中にここに立ち寄りました。二回目は旅行会社主催の「メコンデルタ・ツアー」に行った帰りに、ここに案内されました。いずれの時も、私自身が一人で行ったわけではないので、その時幾ら払ったのかは知りません。
この園内にある庭や池、そして、ここに咲き乱れている花々のキレイさは見事ものです。「高級レストラン」というべきです。(ここまでの美しさを維持するのは、大変な人手が掛かっていることだろうなぁー)とは想像出来ます。事実、この日もホウキと塵取りを両手に持ったおばさんたちが、庭の芝生の上に落ちている枯れ葉やゴミをホウキでセッセと集めていました。毎日の作業のようでしたから、大変な労力でしょう。
最初に通されたテーブルは国道が眼の前に見える場所だったので、少しウルサク感じ、東屋ふうの棟のほうに行きました。そこは涼しくて、他のお客が誰もいなかったので、そこに座りました。「コロナ」のせいなのでしょうか、この日お客さんはあまり多くはありませんでした。私たちは「魚の鍋料理」をメインに、そのほか3種類ぐらいのメニューを頼みました。
この後、さらにまたサイゴンまでの移動があるので、ビールは飲みません。冷たいお茶で「乾杯!」しました。今回の<法要>に四人で参加し、「大きな目的」を無事終えて、大変満足のゆく結果となりました。それは、大活躍してくれた、若いTamさんの協力のおかげでもあります。あらためて、この場で彼女に<お礼>を述べました。
しばらくして、次々と料理が運ばれてきました。そのどれもが大変美味しいものでした。やはり、「高級レストラン」と言えます。この後、NTさんは「長時間のバイクの移動で腰がズキズキして痛くなりました。サイゴンに早く着いて治療したいと思います。ここからは一本道なので、Googleマップに頼らなくても、大丈夫だと思いますので、お先に失礼してもいいですか」と話されました。
私も「ええー、大丈夫ですよ。ここからは私も大体のルートは分かりますので、心配要りません。中村さんと私はゆっくりと帰りますので安心してください」と答えました。今回の移動では、私は平均40kmぐらいのスピードで走っていましたが、NTさんは50kmぐらいで走り、いつも途中で私の到着を待っていてくれました。
NTさんは体格も雄偉なので、長時間バイクで同じ姿勢を続けていると、腰に負担がかかるのでしょう。それで、「MEKONG REST STOP」での美味しい食事を終えて、ここからはNTさんは先にサイゴンに帰ることになりました。店員の女性に「お勘定をお願いします!」と頼み、彼女が渡してくれた「清算」の紙に書いてある金額を見ると、値段も「高級」でした。
そして、午後1時15分にレストランを出発。NTさんとTamさんが私たちにお別れの挨拶をして、先にバイクを走らせました。私が大きな荷物を積み直し「国道一号線」に出ると、もう二人の姿は見えませんでした。この時間からは陽射しも強くなります。昨年サイゴンに戻った時に通った「50号線」と違い、「国道一号線」は車やバイクの交通量も多くなりますので、「安全運転」を心がけました。
しかし、途中の景色が少し変化している場所も有り、(あれ、この道で良かったかな?)と一瞬迷った時もありましたが、午後2時55分、サイゴン市内にある中村さんのホテル前に到着。「無事故」「無違反」、交通警察にも捕まらず、無事サイゴンに戻りました。今回の走行距離を見ると、Cai Beのバイクの駐車場から114km。「MEKONG REST STOP」からがちょうど60km。今回一泊二日でサイゴンとCai Beを往復した距離は226kmになりました。
ホテル前で中村さんに<お礼>を述べて、一旦お別れ。ホテルで休憩した後、また夕方「スシコ」で会うことにしました。私は家に戻る途中、この日のあまりの暑さに「スシコ」で生ビールを飲むことに。「スシコ」に着くと、この時間には珍しく、日本人らしき四人ほどのグループがいました。バッグからテニスのラケットが覗いて見えたので、その帰りなのでしょう。私は一杯だけ生ビールをキューッと飲んですぐ帰宅。
少し眠り、夕方また「スシコ」へ。私が着くと、その後すぐに中村さんも到着。二人で今年の<法要>に無事に参加出来たことに対して「乾杯!」。今回の<法要>は今までと違い、大変<稔り多き法要>になりました。さらにまた、私は中村さんと話していた時、<46回目の法要>と言う数字に、私自身は思いを馳せていました。
「46回目」、あと「4回」で「50回目」になるのか・・・と。今後、半世紀も続き、さらにまたずっと続いてゆくことでしょう。Cai Beには毎年欠かさず、<両親の法要>を続けている遺族たちがいます。私の父は2007年に亡くなりました。一番最近の<法要>は、2019年4月に「十三回忌の法要」として行いました。そのことは【2019年5月号 亡父の十三回忌の法要】として載せています。
しかし、それ以来<父の法要>は行っていません。さらに言えば、日本とベトナムでは<法要>のスタイルが違います。日本の我が家のパターンでは、お坊さんを自宅に呼んで読経を読んでもらい、「講話」をしてもらいました。参加する人たちも「親戚」「縁者」だけです。そうでない人は「近所の人」でも呼びません。<法要>の雰囲気は<厳かな法要>と言えます。
しかし、ベトナムでの<法要>にはお坊さんは来ません。参加者たちだけで、飲んで騒いで賑やかな<大宴会>となります。さらに、大騒音の<カラオケ大会>が昼間から深夜まで続いてゆくのです。参加者も毎年カンボジアに近いChau Doc(チャウ ドック)から来る「焼酎好きのおじさん」や「古川さんの家」まで220kmほど離れたDong Nai(ドンナーイ)から来る人たちもいます。
さらに地元の人や近所人たちも参加して、実に<賑やかな法要>になるのです。どちらが「良いか、悪いか」ではなく、どちらのほうが「故人が喜んでくれるだろうか」と、今回<46回目の法要>を終えて、ふと考えた次第です。Cai Beには、今は亡き「山元さんの遺影」も置いていますので、また<来年の法要>の時にお伺いしてみたいと思います。
ベトナムBAOニュース
■カラオケ騒音問題、年末までに解決目指す■
ホーチミン市人民委員会のボー・バン・ホアン副主席は、このほど開かれたカラオケ騒音問題に関する会議で、年末までに問題の解決を図るよう関連部署に指示した。
具体的には2段階で対策を実施する。5月末までの第1期では、市民やカラオケを使用する店などに対する注意喚起と、騒音問題の処理に関連する法規の整備に取り組む。この段階では行政違反の処理は行わず、人々の意識を高めることに注力する。
6月から年末までの第2期では、カラオケ騒音の検査を集中的に実施し、政令に従って違反行為者を厳格に処罰する。ホアン副主席は「規定は既にある。重要なのは人員や測定機器の不足をできない理由にしないことだ」と述べ、年末までにカラオケ騒音問題の解決を目指すと強調した。
同市資源環境局によると、騒音の発生源は、カラオケ店、ディスコ、バー、ビアクラブ、路上飲食店、家庭でのカラオケ、結婚式・葬式・パーティー・スーパーマーケット・市場・公共施設での音楽などさまざまある。
同局のグエン・ティ・タイン・ミー副局長によると、騒音関連の政令は複数あるものの、罰金が低額だったり、時間帯が限定されていたりと取り締まりに困難が生じているという。ミー氏は、騒音の処罰に関する規定の見直しを政府に要望するよう人民委員会に提案した。
<VIETJO>
◆解説◆
「カラオケ」はベトナム語でも声調記号無しの「Karaoke」です。日本人が発明した「カラオケ」は「英語表記」でも「中国語の発音」でも、発音は少し違うようですが「Karaoke」ですね。(他の国の言葉ではどうなのだろうか?)といつも思っていました。そんな時、ちょうど数日前に、かつてのSaint Vinh Son小学校の運営責任者の、あの「藤牧さん」が「スシコ」に来られたので訊いてみました。
「藤牧さん」は若い頃からいろいろな国のホテルで働かれていたことがあるので、そういうことには詳しく、良くご存じです。「藤牧さん」の話では、ヨーロッパのいろんな国でも、やはり「カラオケ」は「Karaoke」だそうです。日本で発明された「カラオケ」は個室の中やスナックの中だけでなく、いろいろな国でそのスタイルを変えて、その国の言葉で歌われているのでしょう。
ベトナムでの「Karaoke」は「カラオケ店」や「スナック」や「バー」などの室内で歌うだけではなく、上記の記事にもあるように、「路上飲食店、家庭でのカラオケ、結婚式・葬式」など、外にも聞こえるような「大音量」で歌うところに、ベトナム風に発展・変化した「カラオケ文化」があると言えるでしょうか。
私自身はあまり「カラオケの騒音」は気にしないのですが、同じ日本人でも「カラオケの騒音が苦手」と言う人もいます。2013年8月に「スシコ」で出逢ったTMくんがそうでした。彼と話していた時、向かいにある路上屋台の店で、たまたまある一つの家族の「誕生日パーティー」が開かれていました。
路上に置かれた大きなスピーカーから、とてつもない大音量の歌が流れてきました。聞いている人の腹の中に響くような、「ズーン・ズーン」という大音量でした。当然我々も会話が出来ません。その音楽が流れ始めて十分くらい経つと、TMくんの表情が変わり、彼は額に手を当ててうつむきました。さらに、だんだんと顔色が蒼ざめてくるのが良く分かりました。やはり、大音量の音楽が原因で、気分が悪くなったようでした。
もう一人の日本人の方も知っています。今ハノイにおられるTR先生です。TR先生がサイゴンに住んでおられた時、アパートの前にレストランが有りました。そのレストランでは深夜から朝方までTR先生が眠れないぐらいの大音量で、カラオケの歌声が聞こえてきたそうです。TR先生はそれで不眠症になり、体調を崩されました。
ハノイに行ってからはそういうことも無くなり、喜んでおられます。しかし、同じ日本人でも、路上の「カラオケ屋さん」のマイクを奪い、喜んで歌っていたNHくんのような若者もいます。彼は2018年3月にCai Beでの<法要>に参加した時、その見事な歌声を披露し、みんなから拍手大喝采でした。
この記事を読んだ時、(今までカラオケの騒音に対して鷹揚だったベトナムの人たちも、カラオケをウルサイと感じるようになったのかな・・・)と、面白く思いました。しかし、ベトナムでの「カラオケ文化」は「カラオケが好きで歌う人」だけではなく、「カラオケで生計を立てている人」もいるので、『年末までに解決目指す』のはたぶん無理だろうなと思います。
路上屋台の店「スシコ」で飲んでいますと、さまざまな「カラオケで生計を立てている人」たちが登場します。その人たちは路上で「カラオケ」を歌い終わった後、お客さんのほうにやって来て、お菓子などを売りに来ます。それで「生計を立てている」のです。
路上での「カラオケ」が禁止されたら、彼らのような人たちは路頭に迷うことでしょう。 しかし、逞しい彼らはまた場所を変えて、違う所で歌い続けてゆくでしょうから、『年末までに解決目指す』のは実現しないだろうなーと思う次第です。