【2021年4月】68歳の誕生日パーティー/Cai Beでの<法要>後の会合/雨季の足音迫るホーチミン、今年も運河で魚が大量死

春さんのひとりごと

昨年に続いて、やはり、今年の『日本帰国』も無理になりました。実に、悲しい限りです。昨年末から「日本にカエルぞ・カエルぞ!」と念じながらカエルさんを食べ、日本行きのエネルギーを蓄えるために、ネズミさんも食べました。でも、今年も『日本帰国』は諦めました。

毎年の『日本帰国』時には、熊本や姫路での友人たちとの再会。かつて、日本で教えていた当時の生徒たちとの再会。ベトナムの教え子たちとの再会。中学生時代の恩師のお宅へのご挨拶。今は亡き、小学生時代の恩師のご遺影に帰朝の報告・・・などが出来ていましたが、昨年に続いてそれらが無理になりました。

そして、最大の心残りは、高齢の母親に会えないことです。今、私の母親は「施設」の中で過ごしていますが、妹たちが面倒を見てくれています。私が誕生日を迎えた日に、その妹たちに「こちらベトナムで、今日68歳の誕生日を迎えたよ。家族みんなは元気で暮らしているから心配しないでね!」と言うメッセージを伝えてもらうようにお願いしました。

68歳の誕生日パーティー

先月の「3月30日」が私の68歳の誕生日でした。今まではあまり私の「誕生日」を祝うことは少なく、何事も無く過ぎていました。私の「誕生日」を祝ったことで記憶に残っているのは、2016年に「スシコ」で行った時のことです。その時には、女房の家族たちや友人たち、知人たちも参加してくれました。

しかし、今年の「誕生日」には<二つのサプライズ> が有りました。一つ目は学校での出来事。この日、私の最後の時間割はいつもの授業ではなくて、「会話試験」を行っていました。その日は、7人の生徒たちの「会話試験」を行いました。最後の一人の「試験」が、ちょうどいつもの授業時間と同じ頃に終わりました。

すると、ベトナム人の先生がドアを静かに開けて、「試験は終わりましたか。実は、今から四階の部屋で誕生日パーティーをしますので、すぐに来てください!」と私に言うのでした。その時は「誰の」とは言われなかったので、まさか自分の「誕生日パーティー」だとは露知らず、てっきり(今日は、誰か生徒の誕生日なのかな・・・)と思い、「分かりました。すぐに行きます」とだけ答えました。

そして、すぐ四階に上がりました。すると、生徒たち全員が部屋の中に集合し、先生たちと事務員の方たちも集まっていました。その事務員の中のリーダーの女性・Thuy(トゥイ)さんが私に向かって、「お誕生日おめでとうございます!こちらへどうぞ!」と、大きな声で言いました。Thuyさんは日本の沖縄で実習生として働いた経験があり、日本語は大変上手です。

そこには、テーブルの上にバースデー・ケーキが置いてあり、そのケーキの上にベトナム語で「誕生日おめでとう!」の言葉と、私の名前がローマ字で書いてあったのでした。そこで初めて、(今日の誕生日パーティーは私のことだったのか!)と知った次第でした。

そして、Thuyさんが私にライターを渡して「では、ケーキの上のローソクに火を点けてください」と言うので、そうしました。数本のローソクに火を点け終わると、また彼女が「ではフーッと吹いて、火を消してください」と言い、私がローソクの火を消し終わると、生徒たち全員とベトナム人の先生と事務の人たちが一斉に拍手してくれました。胸がジーンとしてきました。ほんの十分前までは想像もしていなかった<サプライズ>でした。

しかし、それにしても(どうして私の誕生日を知ったの?)と不思議に思いました。先生たちや事務の人たちに「私の誕生日」のことなど全然言ってもいなかったからです。(たぶん、生徒たちから聞いたのだろうな・・・)と思いました。そう受け止めて、その厚意を有難く頂きました。

「生徒の誕生日」に関してですが、以前教えていた学校では、生徒の誕生日が来ると、日本帰国時に「100円ショップ」でまとめて買っておいた「三色のボールペン」を「誕生日のお祝い」としてプレゼントしていました。生徒達の「誕生日」の情報は出席簿に記入してありましたので、(ははぁ~、今月は誰と誰の誕生日がくるなー・・・)、と事前に知ることが出来ました。

ある年のこと、同じようにある生徒の誕生日が来た時、その生徒に「三色のボールペン」をプレゼントしたら、その一ヶ月ほど後の私の誕生日に、一冊のノートをプレゼントしてくれました。そのノートには、そのクラスの生徒たち全員が寄せ書きをしてくれていました。その時は、本当に嬉しかったです。

生徒たちが寄せ書きしてくれた、そのノートの最初のページを見ると「2016年」と書いてあります。そのノートはいつもカバンに入れて、今も持ち歩いています。今でも生徒たちに「昔の生徒たちの思い出」を語る時に、それも活用することがあります。今の学校においてもそうしていますので、そのノートを見た生徒たちの情報からベトナム人の先生たちも知ったようでした。

テーブルの上に置いてあったケーキは、少なくとも2~3時間前には準備していたはずでしょう。その優しい気持ちが嬉しくなりました。でも、ケーキはやはり甘いので、私自身は少しだけ食べたら十分で、あとは生徒達みんなで食べてもらいました。そして、みんなに「有難うね!」と、お礼の挨拶をしてその部屋を出ました。学校を出て、バイクで家に帰る道中でも、ジーンとした余韻がずーっと続いていました。

そして、家に戻り、女房と娘に会い、この日の学校での出来事を話しますと、二人ともニコニコしながら聴いていました。女房は当然私の誕生日を知っていますので、

「それは良かったわねー。では、今日は家族みんなでSUSHI KOで誕生日のお祝いをしましょう!」と言ってくれました。しかし、最近の「コロナ禍」の状況下、「密」になることにみんなが過敏になっているので、今回は誰にも声掛けはしませんでした。

それで、夕方6時過ぎに「SUSHI KO」へ行き、家族三人だけで私の「68歳の誕生日パーティー」をしました。食べ物と飲み物が届いて一時間ほど過ぎた頃、「SUSHI KO」のオーナーのLinh(リン)さんが私たちのテーブルに来てお誕生日おめでとうございます!」と笑顔で挨拶してくれました。(よくぞ私の誕生日を覚えているなぁー)と感心しました。Linhさんはその挨拶だけをされた後、バイクに乗って去られました。そして、ここで<二つ目のサプライズ>が起きたのでした。

2016年に「SUSHI KO」で誕生日祝いをした時にも、 Linhさんは私の誕生日を事前に知っていて、「誕生日にはここでパーティーをしてください。サービスしますから」と誘って頂いたので、その厚意に甘えて、「63歳の誕生日祝い」を「SUSHI KO」で行いました。その時のことは、【2016年4月号】<SUSHI KOで誕生日祝い>に載せています。

家族三人で誕生日のお祝い

この日は家族三人でたくさんの料理を食べ、私もビールを何本も飲みました。でも、娘は翌日大学の授業が始まる時間が早いので、先に女房と一緒にバイクで帰りました。私はその後もしばらく、一人だけでビールを飲んでいました。そして、自然と「SUSHI KO」が開店した当時のことを回想していました。

「SUSHI KO」一号店が四区に開店したのは「2013年5月」のことでした。ですから、もうすぐ8年目に入るわけです。「路上屋台のスシ屋」が下町の四区に出現した時の、日本人やベトナム人の驚きと、その後の繁盛ぶりは、【2013年6月号】=BAO=<到る所に増えてきた「日本食レストラン」>でも触れています。そして、最近「SUSHI KO」六号店も開店したとLinhさんから聞きました。

私はしばらく一人でビールを飲み続けて9時半を過ぎた頃、(そろそろ帰るか)と思い、店員さんに「お勘定をお願いします!」と言いますと、「いえ、いえ、今日は結構です。お代は頂きません」と言うではありませんか。この日家族で食べたぶんと飲んだぶんも「払わなくていいですよ!」と言うのです。大いに驚きました。

私は「ええーっ、そんなことは出来ないよ。今日のぶんはキチンと払いますよ」と言っても、店員の返事は「いえ、いえ、今日はあなたの誕生日だと聞いたので、本当に結構です」と、 頑として払わせてくれませんでした。2016年の誕生日祝いを「SUSHI KO」で行った時には人数が多かったこともあり、<割引のサービス>をしてくれました。

しかし、この日は<割引>ではなくて、「お代は頂きません。結構です!」と言うのです。(おそらくオーナーのLinhさんがそう店員に言付けして、先に帰ったのだろうなぁー)と想像しました。それで、有難くその厚意を受けることにました。私の「68歳の誕生日パーティー」は「学校」での生徒や先生と事務員の方たち、そして、「SUSHI KO」の店員さんたちの「温かい気持ち」に包まれて、この日が終わりました。

Cai Beでの<法要>後の会合

今年3月6・7日にメコンデルタのCai Be(カイ ベー)で行われた「元日本兵・古川さんの46回目の法要」では、元日本兵古川さんの6人の子どもさんたち全員を集めてのインタビューが実現しました。これは実に「貴重な記録」を収録出来たと思います。特にインタビューの模様を「撮影」し、古川さんの6人の子どもたちへの「質問⇒答え」を「音声」として記録することが出来ました。

ただし、6人の子どもさんたちは当然ベトナム語で答えていますので、それを日本語に「変換」しないといけません。その作業を行うに当たっても、Cai Beでの法要の時に、6人の子どもたちへの<通訳>を担当してくれたTam(タム)さんが、また活躍してくれました。Tamさんは「映像関係のNTさん」の会社で正社員としてはまだ採用されてはいませんが、その大変な作業を手伝ってくれました。

彼女はNTさんが撮影した時の音声を起こして、6人の「答え」を全部ベトナム語に打ち込みました。そして、次にNTさんが「Googleの翻訳機能」に打ち込んで日本語に翻訳し、それをメールで私にも送って頂きました。しかし、「Googleの翻訳機能」を使った人たちは分かるでしょうが、「完璧な正確さ」は望めません。手直しが必要です。

それで、私もその「原文」の草稿を手直ししました。それを「基礎資料」として、中村さん、NTさん、そして私の三人で「これからどうすべきか?」について、「SUSHI KO」で会合することにしました。そこに、私も「原文」を校正したのを持ち込みました。全部で6ページぐらいになりました。

そして、今回「Tamさんの音声起こし」「ベトナム語原文」「Googleの翻訳」「日本文の手直し・校正」を通して出来上がったものをじーっと読んでゆくと、「新しい発見」「意外な事実」が浮かび上がってきました。故・山元さんからは直接伺っていないような事実も出て来たのでした。

私たち三人が「SUSHI KO」に集まったのは4月2日(金)でした。私が先に着き、席をセットしました。その後NTさんが到着。ほどなくして、中村さんも着かれました。Cai Beでの<法要>以来ですから、約一か月ぶりの<再会>です。<再会>を祝って三人で<乾杯!>

Cai Beでの<法要>後の三人での会合

三人とも今回の「資料」には事前に眼を通してここに来ていますので、当然私が抱いた感想・・・「新しい発見」「意外な事実」に関しては同じような感想を持っていました。特に、生前に山元さんとも親しく付き合っていた中村さんはそうでした。中村さんは「あの話は今回初めて聞いたねー」と、しばし考え込む様子でした。私自身もその中村さんの気持ちが良く理解出来ました。

中村さんは古川さんの次男の「Vu(ヴー)さんの日本訪問の実現」のために、「カイベの想い」というグループを創られました。そのことは、【2020年8月号】<山元さんの『遺志』の実現に向けて>に載せています。そこには今、日本側、ベトナム側併せて16人ほどの人たちが参加しています。

しかし、今回行った「インタビュー内容の全貌」を知っているのは、この時ここにいた私たち三人だけです。三人で話し合ったことは、その方たちにも、今の状況と今後の方向性を決めてゆくためには、今回の情報を<公開>してゆくほうが良いだろうと言うことになりました。

「Vuさんの日本訪問の実現」のためには、ベトナム側にいる私たちだけのメンバーの力だけでは不十分で、日本側にいる方々の協力も仰がないと動いてゆかないだろうと思うからです。そういう意味では、まだスタート・ラインの位置に立っていると言えます。特に、今回の「コロナ禍」が早く収まらないと、日本への「入国」、ベトナムへの「帰国」も難しいでしょうから。

ベトナムBAOニュース

雨季の足音迫るホーチミン、今年も運河で魚が大量死■

このところまとまった雨が降るようになり、雨季に差し掛かかりつつあるホーチミン市。2日と4日の両日には猛暑の中で大雨が降り、同市を流れるニエウロック・ティゲー運河で、同運河に生息する魚の大量死が発生した。同運河では、例年同様の現象が起きている。

大量の魚の死骸が水面に浮かんで悪臭を放っていたため、当局は魚の死骸の回収と処分を急いでいる。5日までに回収した魚の死骸は14tに達しており、死んだ魚のほとんどがティラピアやコイなどだった。

魚の大量死は、急な大雨で下水道や住宅地から大量の廃水やゴミが運河に流れ込んだことや、運河の底に溜まっていた有毒ガスが拡散したことが原因と見られている。

ニエウロック・ティゲー運河は、タンビン区~フーニュアン区~3区~ビンタイン区~1区を流れる全長8.7kmの運河。かつては汚染がひどく「悪臭の漂う運河」と呼ばれていたが、浚渫や水質改善、両岸の植樹などの改修プロジェクトが2011年に完了して、今では魚が生息できるようになっている。

<VIETJO>

◆ 解説 ◆

サイゴンが雨季に入る季節は、例年ですと5月ぐらいからですが、今年は少し早くなって来ているかな・・・という感じがします。今年に入って最初の雨は3月24日でした。でも小雨でした。その翌日の25日にも小雨が降りました。そして、我々3人が「SUSHI KO」で会合した4月2日の深夜には大雨が降りました。

雨が降った日付けが正確に分かるのは、あの故・山元さんに見習って、カレンダーに書き込んでいるからです。山元さんはCai Beにいる間、毎日の天気と温度を記録されていたそうです。大したものです。でも、私が記録するのは「乾季」「雨季」の変わり目だけです。毎日が「晴れ」、毎日が「雨」が続くようでしたらカレンダーには記録しません。

実はこの記事の中にある4月4日(日)に、足腰を鍛えるために家を出て、散歩に行きました。最近は歳を重ねたせいか、休みの日に家の中にばかりいると、どうも体調がオカシクなります。「歩く」という簡単な動作がキツクなります。あの藤牧さんが毎日意識して長時間散歩されているのが最近よく理解出来てきました。

4月4日のその日は、昼の1時半過ぎに家を出て、家の周りからぐるりと回り、最終的には「SUSHI KO」の前を通る道を目指して、テクテクと歩きました。歩いている時、上の空を見るとだんだんと薄暗くなってきました。そして、ポツポツと小雨が降り出しました。(ありやぁ~、もしかしたら大雨が降るかもしれないな・・・)とは予想しました。

それで、いつも歩くスピードよりも少し速くして、ちょうど2時頃に「SUSHI KO」に到着。まだこの時には強い雨は降っていませんでした。私がそこに着いてすぐに、いつも日曜日にテニスをしているらしい日本人のグループも来ました。直接会話したことは無いので分かりませんが、バッグに入っている、その持ち物を見てそう思いました。

「SUSHI KO」に座って生ビールを一杯頼んで、それをキューッと飲み干して一息つきました。すると、15分後ぐらいして、この記事にあるような「大雨」が降ったのでした。それはまさに「豪雨」とも呼ぶべき「大雨」でした。「SUSHI KO」の前の道路も冠水しました。この時、私は傘も雨具も持って来ていなかったので、このような「豪雨」の中では外に出ることは出来ず、家にも戻れません。

いつもは生ビールを一杯だけ飲んでそこを去るのですが、この日はサイゴンビールをさらに一本頼み、それでもまだ雨が止まないので、さらにまた一本追加。結局サイゴンビールを三本飲み終わった頃に雨が弱くなり、ようやくそこを出ることが出来ました。私以外の日本人たちも同じように「SUSHI KO」の中で足止めされていました。

そして、その三日後に出た、この <VIETJO>の記事を読んで大変驚きました。(あの時の大雨でお魚さんたちがたくさん死んだのか、何と可哀そう!何とモッタイない!)と。もし、来年同じ時期に「豪雨」が降れば、また同じような現象が起きることでしょう。この記事中にある「ティゲー運河」というのは、私が住んでいる四区の前を流れていますので、その時にはそのことを予想して、タモ網を持って駆けつけたいと思います。


Posted by aozai