【2021年1月号】忘年会と新年会。Diemさんの旅立ち/劇場版「鬼滅の刃」、ベトナムで12月11日公開
春さんのひとりごと
「忘年会と新年会。Diemさんの旅立ち」
<2020年の忘年会>
2020年が残り十日間ほどで終わろうとしていた日、あの<さすらいのイベント屋の中村さん>から、私に連絡がきました。「月末の31日にサイゴンに行きます。大晦日の夜ですがスシコで会いましょう!」と言う内容でした。私は「はい、お待ちしておりますよ!今年最後の宴会になりますね」と返事をしました。
中村さんがハノイやダナンからサイゴンに来られる時には、いつもサイゴン市内で行われている「マラソン大会」に合わせて、飛行機で飛んで来られます。そのためか、70歳を超えられても、大変元気です。「スシコ」に登場される時には、愛用の帽子を被って「イヨッ!」と、いつも元気ハツラツとした姿で登場されます。
そして、大晦日を迎える5日前の土曜日の26日に、あの「Saint Vinh Son小学校」の運営責任者の藤牧さんがフラリと「スシコ」に立ち寄られました。「Saint Vinh Son小学校」自体は2018年5月31日に<閉校式>が行われて、19年間に亘る活動を終えました。その時のことは、2018年7月号「Saint Vinh Son小学校の閉校式」で触れています。
その後も、藤牧さんご自身は今もベトナムと日本を往復されています。しかし、昨年2020年は「コロナ」のせいで、ついに日本への帰国は一度も出来ませんでした。それは、私も同じでした。それは私たちだけに限りません。昨年の「コロナ」発生後、日本に帰国したくとも出来なかった多くの日本人がベトナムにいることでしょう。さらには、日本にいるベトナム人たちも、ベトナムに戻りたくても戻れない人たちが、私の教え子たちも含めて、たくさんいます。
藤牧さんの趣味はテニスです。いつもは日本人のテニス仲間たちとテニスをされていましたが、日本から来ていたその日本人の仲間たちも「コロナ」のせいでいなくなりました。
それで、藤牧さんは健康維持のために「散歩」をされています。藤牧さんの家のすぐそばには「Tao Dan(タオ ダン)公園」が有りますが、そこの散策を日課にされています。
そして、時には片道一時間ほど掛けて、4区の「スシコ」まで足を延ばされます。その散歩が毎日の「健康維持」に役立っているのでしょう。藤牧さんは今年78歳になられます。藤牧さんは長身ですが、今でも背筋がピンと伸びていて、大変お元気です。2ケ月ほど前から、毎週土曜日に定期的に「スシコ」に立ち寄られます。
その26日も土曜日でした。椅子に腰を下ろされた藤牧さんはコカ・コーラを頼まれます。いつもそうです。ビールなどのアルコール類は飲まれません。私が先に注文して、テーブルの上に並べてある料理などを勧めても、「もう食事は済ませてきました」と言われて、一切手を付けられません。
コカ・コーラが来たので、私が「実は、先日中村さんから連絡が有りまして、大晦日の31日にサイゴンに来られます。ここで<忘年会>を兼ねた再会をしますので、藤牧さんも来られませんか」と誘いました。すると藤牧さんは「そうですか!いやぁー大変懐かしいですねー。中村さんとは3年間ぐらい会っていませんよ。是非伺います」と、嬉しそうな顔で応えられました。その後、中村さんにも「藤牧さんも参加されますよ!」と連絡すると「大変楽しみです!」と返信されました。
そして迎えた大晦日の<忘年会>。当日は、中村さん、藤牧さん、私以外に、女性のOanh(オアン)さんも娘さんのThao(タオ)ちゃんを連れて参加してくれました。Oanhさん親子が参加することはその数日前に中村さんからも聞いていました。Oanhさん親子のことは、2020年5月号「全社会の隔離解除後の再会~山元さんの百ヵ日の法要」にも載せています。
5人全員が揃ったところで<乾杯!>。2020年を振り返ると世界中が「コロナ」で始まり、「コロナ」で終わりました。その影響は観光業。宿泊業、飲食業など多くの分野に甚大な影響と被害を与えました。しかし、幸いなことに、この日集まった私たちの身近では、「コロナ」のせいで亡くなった人などはいません。
中村さんも藤牧さんも久しぶりの再会を大変喜ばれていました。私も横で見ていて、大変嬉しかったです。みんなで楽しい<忘年会>を終えて帰宅した後、女房と娘と一緒に屋上に上がりました。この日の深夜0時に、恒例の<花火>がサイゴン川から打ち上げられます。
そして、ちょうど0時になり、予定通り花火が打ち上げられました。昨年は暗い話題が多かった一年でした。大輪の花火が夜空に輝く時、2021年が「明るい年」になってくれることを祈りながら見つめていました。花火は15分間続き、最後には大きな音がして、次にバチ・バチ・バチという音に変わり、しだれ柳のような形の赤い花火が夜空に浮かび、静かに消えてゆきました。新年2021年が始まりました。
<2021年の新年会>
昨年の<忘年会>の時、中村さんが「私は1月3日にはダナンに行きます。それで、1月2日にはまたみなさんたちとここで<新年会>をしたいと思いますので、友人たちに声を掛けておいてくださいますか」という依頼が有りました。「分かりました!」と私も承知して、早速友人たちに連絡しました。
そして、最終的に1月2日の<新年会>に集まって頂いたメンバーは、中村さん、家具屋のABさん、映像関係のNTさん、「宮城県人会」の窓口のYMさんとそのベトナム人の奥さん、私の6人になりました。そして、中村さん、ABさん、NTさん、YMさん、私の5人全員が、中村さんが立ち上げた故・山元さんの遺志=「カイベの想い」のグループに参加しています。そのことは2020年8月号「山元さんの遺志の実現に向けて」でも触れています。
このメンバーの方たちが一同に集まったので、先ずは新年明けの<乾杯!>そして、話は自然と「故・山元さんの遺志=Vuさんの訪日」の実現に向けての内容が多くなりました。今「カイベの想い」は中村さんが音頭をとって動いていますが、やはり中村さんの動きはスゴイものがあります。「人を動かす」「日本・ベトナム側の役所を動かす」「新聞社を動かす」「組織を動かす」・・・などについて、精力的かつ緻密な動きをされているのでした。
この場には「本屋で買ってきたよ!」と言って、ベトナム南部だけが大きく載った地図とCai Beの地理がさらに詳しく載ったTien Giang(ティエン ザーン)省の地図を持ち込まれました。そして、私に「ここが古川さんのバナナ園。ここは古川さんがベトミンの時に活動していた場所なんだよね」と地図を示しながら説明されてゆくのでした。聴いていて、本当に感心しました。
それにしても、頭では分かっていても、やはり(・・・たら)(・・・れば)と思われてなりません。(コロナが昨年起きていなかったら)(今も山元さんがご健在であれば)・・・Vuさんの訪日の実現はずいぶんと早まっていたのでは・・・と思うのです。
昨年の大晦日の<忘年会>の時に、藤牧さんは「もし来年(2021年)に日本に帰ることが出来たとしても、早くても8月か、夏明けの9月過ぎ頃ではないかと思います」と話されていました。今の日本の状況を見ていると、(もしかしたら、そうかも・・・)という悲しい思いもよぎります。
この日に集まったメンバーは全員が元気でした。みなさんたちに「コロナ」の影響について訊きました。やはり、みんなが多かれ少なかれ影響を受けていました。映像関係のNTさんなどは「仕事が8割減になりました」と嘆息されていました。しかし、そういう状況下にもかかわらず、NTさんも含めて、みなさんたちはこの日「スシコ」に集まり、「Vuさんの訪日」に向けて、いろいろな提案をして頂きました。
この日の<新年会>をしていた時、サイゴン市内では「隔離状態」は無くなりましたので、隣の席との間に仕切りも無いし、テーブルも以前と変わらない間隔でセットされていました。マスクを着用して座っている人たちもいません。自由に、楽しく、会食していました。
そういう意味では、サイゴン市内では「コロナ」は収まってきていると言えます。
<Diemさんの旅立ち>
昨年11月末に新しい女子の生徒が学校に入ってきました。彼女の名前はDiem(ズィエム)さん。故郷はベトナム南部のVinh Long(ヴィン ロン)省で、年齢は31歳でした。今私が日本語を教えている生徒たちは、一番若い生徒は18歳。平均すると20代前半です。ですから、彼女は今いる生徒たちの中では最年長です。
実は彼女は一度2015年1月から2018年1月まで「実習生」として3年の任期を終えて、ベトナムに戻ってきました。そして、今度はさらにまた「特定技能生」として5年間日本で働くというのです。日本に行く予定日も、学校に入学した時に聞いていました。2021年の1月初旬だということでした。
日本に行く前はもちろん日本語の勉強はしていました。しかし、日本に行った後は、毎日仕事ばかりで日本語の勉強は出来す、帰国後も日本語の勉強は全然出来ていなくて、すっかり忘れていました。それで、「ひらがな」「カタカナ」の復習から始めて、日本に行くまでに特訓が始まりました。結果としては、彼女が学校で勉強出来たのは1ケ月だけでした。
彼女は性格も大変明るく、最年長だけに「お姉さん」的な雰囲気があり、男子や女子の生徒たちからも慕われていました。また彼女自身も後輩たちの面倒をこまめにみていました。料理も上手なほうで、寮の中でみんなが夕食を作る時には、彼女が自分から進んで、みんなにいろんな料理を作ってあげていたことも後で知りました。
彼女の身の上を聴いた時、思わず(えっ!)と思うことが有りました。会話試験で「お父さんは幾つですか」と訊いた時、彼女は「父は私が子どもの時に30代で亡くなりました」と答えたのでした。さらには、「今結婚していて、9歳の息子がいます」「今、夫は実習生として日本で働いています」と言うのでした。
つまり、彼女は9歳の子どもをベトナムに残して、夫が働いている日本へ行くというのです。9歳の息子をベトナムに置いて、5年間働かなければなりません。
彼女がベトナムに戻った時、息子は14歳になっています。その間は、彼女のお母さんが息子の面倒は見てくれるそうです。彼女が置かれた環境がそういう決意をさせているのでしょうが、大変な苦労をしているなぁーと思いました。
さらにまた授業中に、(アッ!)と驚いたことがありました。彼女の足元をふと見ると、右足のサンダルを脱いでいるのです。(どうしたの?)と訊くと、2年前に日本で働いていた時、誤って油が右足の甲に掛かって大ヤケドをしてしまったと言うのでした。良く見ると、確かに今も右足の甲がケロイド状態でした。
そこの会社は食品加工の会社で、豆腐を作る仕事に就いていたと言います。そこにはベトナム人が40人、中国人が20人働いていたそうです。残業もたくさんあり、多い時には一日だけで残業を入れると16時間の仕事をしたそうです。その月の「給料」は30万円も貰ったと言います。
ベトナムの実習生たちは残業が有ると給料も増えるのでむしろ喜びますが、それでも働かせ過ぎですね。寝る間も惜しんで働いていたのでしょう。そういう厳しい環境下で、ふとしたことで事故が起きたのでした。彼女の右足のヤケドは今でも痛むそうで、時々ベトナムの病院に行って、薬を塗ってもらっていました。
彼女は週末になると必ず故郷のVinh Longに帰ってゆきました。お母さんと息子に会うためにです。特に、今年の1月初めには日本に行くことが決まっていたので、なおさら毎週故郷に帰りたい気持ちが募っていたはずです。今回の日本行きは5年間の長期になるわけですから、お母さんと息子に、日本行きのギリギリまで尽くしたい気持ちだったことでしょう。
私が彼女の心優しさに感激したのは、故郷に帰るたびにいつもその故郷のお土産を持ち帰り、後輩たちに分け与えていたことです。彼女の故郷はVinh Longですが、そこにはネズミさんやカエルさんがたくさんいます。そのネズミさんやカエルさんを捕まえて、袋に詰めてサイゴンまで持ち込み、後輩の生徒たちにご馳走してあげていました。
そして、私もそのご馳走の「おすそ分け」を頂きました。最初の「おすそ分け」は昨年の12月8日のことでした。私が学校に行き、最後の授業で彼女のクラスに入り、その授業が終わった後、Diem(ズィエム)さんが足早に食堂の冷蔵庫からビニール袋を取り出し、「これ、私の故郷のお土産です!」と言って私にそれを差し出しました。私に渡すまで、冷凍室に入れて保管してくれていたのでした。
故郷から持って来たのは3kgほどで、数にして全部で26匹の「ネズミさん」を持ち込んできたそうです。その「ネズミさん」たちを、寮内に住んでいる友人たちとほとんど食べてしまっていましたが、私のぶんだけは残してくれていました。袋の中を開けてみると、中には10匹ほどの「ネズミさん」が凍った状態で入っていました。
早速家に持ち帰り、いつもの行きつけの「スシコ」で、一匹だけ焼いてもらうことにしました。残りは女房の家族にプレゼントしました。しかし、(ネズミさんを頂くのは何年ぶりだろうか・・・)と、ふと思いました。約15年ぶりにはなります。以前、女房とサイゴン市内で2・3度食べただけで、それ以来です。実に懐かしいです。
この「ネズミさん」はメコンデルタで育った「ネズミさん」なので、都会の「ドブネズミ」とは違います。彼らは雄大な「メコンデルタ」の大地を毎日走り回り、「メコンデルタ」に豊穣に稔るコメを常食にして育ってきた、日本人の私でも安心して食べられる「ネズミさん」なのです。都会の街中を走り回っている「ドブネズミ」は都会の道路上のゴミを食べていますので食べられません。
しばらくして、キツネ色に焼けた、香ばしい「ネズミさん」が到着!!いやぁ~、やはり実に美味しかったです。この日はメコンデルタのエネルギーが体の中に入り、ぐっすりと眠れました。すると、翌日の朝起きた時、アラ不思議、左胸にずっと続いていた痛みが消えていました。
実はこの一週間ほど前に、バイクで軽い転倒事故を起こし、その時に左胸を打ったようで、その痛みが続いていたのですが、この日の朝には消えていたのです。やはり、「メコンデルタ」のエネルギーで育った「ネズミさん」の活力が私の体内に入ったおかげでしょうか。
良く考えたら、2020年の「干支」は「ネズミさん」でした。ここ一年の間、「コロナ」「コロナ」の騒ぎですっかり忘れていましたが、「干支」の「ネズミさん」を美味しく頂いて、元気を取り戻しました。「干支」の動物を全部食べることは勿論出来ませんが、今後は意識して(今年の干支の動物は何だったっけ?)と思い浮かべながら食べようと思いました。
そして、2回目の「おすそ分け」をDiemさんから頂いたのが12月21日のことでした。今度のお土産は、同じ田舎で捕まえた「カエルさん」をお土産に学校に持ち込んでくれました。日本で言うところの「ウシガエル」と同じ種類の「カエルさん」です。彼女がその時持ち込んでくれたのは、全部で20匹でした。
その20匹の「カエルさん」を、寮内に住んでいる生徒たちが朝と昼のご飯で15匹食べて、あとの5匹を私のために残しておいてくれました。大変大きい「カエルさん」でした。授業が終わり、家にその「カエルさん」を持ち帰った後、3匹を女房の家族たちに上げて、そのうちの2匹を「スシコ」に持ち込んで料理してもらいました。料理の仕方は「ヌックマムの油炒め」です。
その調理方法を事前に生徒に紙に書いてもらっておいていましたので、それを板前さんに見せますと「OK!」と言って、すぐに調理してくれて、10分後には私が座っているテーブルに置いてくれました。それを口の中に入れた瞬間(何だ!この旨さは!!)と唸りました。
日本の居酒屋でも「カエルの唐揚げ」を食べた思い出があります。しかし、この「スシコ」で食べた「ヌックマムの油炒め」の味付けは、ただヌックマムだけではなくて、ニンニクを細かくスライスして、それを油炒めにしたものが添えてありました。それで、「カエルさん」の、生臭さが消えて、大変いい風味がしました。絶品でした!
昨年は日本に帰ることが出来ず、果たして今年も帰ることが出来るかどうかは分かりません。それだけに、この日に美味しく頂いた2匹の「カエルさん」を「日本にカエルぞ!」「日本にカエルぞ!」と呟きながら頂きました。しかし、「ネズミさん」といい、「カエルさん」といい、Vinh Long省には美味しいものがたくさん有ります。本当にいい所です。いやVinh Long省がいいのではなくて、Diemさんがいい人なのです。
ベトナムでの今年の新暦の「正月休み」は1月1日、1月2日、1月3日の三日間で終わりました。それで、私が昨年12月30日にDiemさんのクラスに入りますと、彼女が「Vinh Long省にコロナの患者が入り込んで来たので、故郷に帰りたいのですが帰れなくなりました。母親にも息子にも会えないかもしれません」と言う悲痛な叫び声を彼女が上げました。もうすぐの「日本行き」が近づいていたのにです。彼女は1月9日の深夜便で日本に旅立つ予定でした。
それを聞いて私も驚きました。いろいろ聞いてみると、カンボジア国境から飛行機ではなく、小舟で入り込んで来たベトナム人がコロナに罹っていて、その患者の故郷がVinh Long省だと言うのでした。それで、その患者が住んでいるVinh Long省の地区の一部が「隔離」されているとのことで、彼女は(もし故郷に戻ったら、サイゴンに入ることが出来ないのでは・・・)と心配しているのでした。
しかし、年が明けて、1月4日にまた彼女のクラスに入りますと、彼女が教室の中で明るい笑顔をして言うには「どうにか故郷に帰れることになりました。母親と息子にも会いたいし、荷物の整理もありますので、明日から3日間ほど休ませてくださいませんか」と言いました。もちろん私たちが反対する理由はありません。これから5年間日本で働く前の「最後の帰郷」になるのですから。
そして、予定通り彼女は3日後の1月7日に学校に戻って来ました。でも、彼女の日本行きの「出発日」の飛行機の便が当初は1月9日だったのが、何とその前日の1月8日の深夜便に変更になっていました。飛行機の便がそれで決まったものであれば、それで行くしかありません。(何でまた急に・・・?)と私も思いました。一日早くはなりましたが、日本に行けるのは間違いないので、私も安心しました。
しかし、彼女は故郷からサイゴンの学校に戻った時、その忙しい時にもかかわらず、先生たちや後輩たちのために、いつものようにまた「お土産」を持ち込んで来てくれていました。今回も20匹の「ネズミさん」を故郷で捕まえて、それを全部サイゴンまで持ち込んで、自分で後輩たちに料理してあげて、振る舞ってくれたそうです。その「お土産」はその日に寮に住んでいた友人たちみんなでほとんど食べて、私のぶんを5匹だけ残しておいてくれました。
しかし面白いのは、今の学校にはベトナム人の先生が3人と事務員が4人働いているのですが、その彼ら7人に、私がDiemさんから頂いた「ネズミさん」をお裾分けしようとしても、全員が手を振って、「いえ~~、いいです!結構です!」と言って、誰一人も受け取りませんでした。それで、日本人である私が、5匹全部を持ち帰りました。
そのうちの2匹をいつもの「スシコ」に持ち込んで炭火で焼いてもらいました。家にはガスしかなくて、炭火が無いのでここの炭火でいつも焼いてもらっているのです。「焼き鳥」なども、やはり炭火で焼かないと美味しくないですね。
そして、15分後には、「ネズミさん」がテーブルの上に届きました。その後、頭からシッポまで、最後まで残さず、全部美味しく頂きました。この日、私の周りにもお客さんはいましたが、私が「ネズミさん」を食べていたとは誰も知らなかったことでしょう。
そして、予定通り、彼女は1月8日の深夜便で日本に旅立ちました。嬉しいことに、今の学校の生徒たち全員と女性の先生たちがタクシーで空港まで行き、Diemさんの旅立ちを見送ってくれたそうです。如何に彼女が後輩たちからも慕われていたかが良く分かります。
” Diemさんありがとう。日本では健康に気を付けてね!!”
ベトナムBAOニュース
劇場版「鬼滅の刃」、ベトナムで12月11日公開
日本で記録的ヒットを飛ばしている『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編(越題:Thanh Guom Diet Quy: Chuyen Tau Vo Tan)』が11日、ベトナムで公開された。当初は2021年1月1日公開予定だったが、前倒しでの公開となった。
これに先立つ5日には、ハノイ市、ホーチミン市、ダナン市 (南中部沿岸地方)、ハイフォン市(北部紅河デルタ地方)のギャラクシーシネマ(Galaxy Cinema)でファン向け限定上映会が行われ、現地の多くの鬼滅ファンが集まった。
上映中の映画館は、全国の◇CGVシネマズ(CGV Cinemas)、◇ロッテシネマ(Lotte Cinema)、◇ギャラクシーシネマ、◇BHDスターシネプレックス(BHD Star Cineplex)、◇ベータシネプレックス(Beta Cineplex)、◇シネスター(Cinestar)、◇Dシネ(Dcine)、◇メガGSシネマズ(Mega GS Cinemas)など。
なお、同作品はベトナムでは「C13(13歳未満の入場・鑑賞禁止)」での公開となっている。
<VIETJO >
◆解説◆
「日本で記録的ヒット・・・」と説明が有るように、「鬼滅の刃」は日本では大変有名な映画だとは聞いていました。それで、娘にもその写真などを見せていました。日本語の題名も教えていたので、インターネットで調べていたようでした。娘はその映画の題名を、日本のアニメに興味を持っている友達にも教えていたそうです。後で聞くと、「ドラえもん」や「探偵コナン」などを愛読している、日本のアニメ好きの間では、この映画は有名になってきているそうです。
そのせいか、1月10日(日)夕方頃、女房と娘が「今からあの有名な映画を観に行こうと思うけど、一緒に行く?映画の開始時間は夜9時15分からで、終わるのは11時過ぎだそうよ」と訊いてきました。「えっ、ホント!」と一瞬驚きましたが、残念ながら私はその日は都合が悪く、女房と娘だけが行くことになりました。行く先は5区にあるショッツピング・モール内の「Parkson」。
開始時間は予定通り9時15分から始まったと言いました。映画の登場人物が話す言葉は「日本語」で、字幕が「ベトナム語」と「英語」の二つで表記されていたそうです。この日の観客は時間が遅かったせいもあり、60~70人ぐらいだったそうです。入場料は一人45,000ドン(約200円)。
映画を観終わって、11時半過ぎに戻ってきた二人に感想を訊いてみました。家に戻って来た後、女房にその映画の感想を訊くと、「漫画は所詮漫画なので、大して面白くはなかったわ」と言う感想。娘は翌日には大学の授業が朝早くからあるので、この日はすぐに寝ました。それで、その日に直接感想を訊くことが出来ませんでした。
それで、女房に「娘の反応はどうだった?」と訊くと、「面白い場面が現れると、両手のこぶしを振り上げて喜んでいたわよ」と言いました。個人さはあるのでしょうが、女房のような大人にとっては「大して面白くはない映画」かもしれませんが、対象が娘ぐらいの年齢であれば「面白い映画」なのかもしれません。私自身は直に観ていないので、その映画の感想を述べることは出来ませんが。そして、この日が最後の上映の日だったそうです。