【2022年7月】24年後のサイゴンでの再会:国民的音楽家チン・コン・ソンの映画「Em Va Trinh」、動員数100万人突破
24年後のサイゴンでの再会●
6月半ば過ぎ、以前[ベトナムSKETCH]の編集長を務められていたNAさんから私に連絡がきました。
「NSくんと言う方から、あなたに連絡をしたいと言う内容の、以下のような連絡が私のほうに届きました。近々、そのNSくん本人から連絡が入るかもしれません」と。その≪以下のような連絡≫とは、次なる内容でした。
…≪以前にマングローブの件で、お世話になった。連絡を取りたいのだが≫…と。
NAさんについては、以前【2015年5月号】の<石川文洋さんに会う>の中でも触れさせて頂きましたが、以前このベトナムと日本を繋ぐ情報誌「Vietnam SKETCH」の編集長を務められていた日本人の方です。実に素晴らしい仕事をされていました。でも、今はこのベトナムにはおられません。
NAさんから私はその話を伺い、「以前にマングローブの件で、世話をしたNSくん」…。
と、ふと考え込みました。我が社の関係で「マングローブ植林」に来た子どもたちであれば、今までの全ての参加者たちは20年以上前から記録に残していますので、今でも鮮明に覚えています。
しかし、それ以外の日本人の関係者で「マングローブ」と言えば、十数年前か、ここ最近ぐらいに出会った友人・知人であれば、私もすぐに思い出したのでしょうが、そのNSくんとの出会いは、たぶん20年以上も前になるだろうな…とは思いました。やはり年を重ねたせいか、その時にはすぐには思い出せず、しばらくの間、(はて、誰だったかな…?)と、昔の記憶をたどりました。
それから、私の記憶が溜まった「井戸」の中にツルベを投げ入れて、上に手繰り寄せて中を覗き込んだら、(思い出したぁー!!あのNSくんだぁー!!)と、懐かしい記憶が蘇りました。私自身が年を取ったからでもあるのでしょうが、ずいぶん昔の記憶を呼び戻す時には、そういう現象が起き得るのですね。
そして、その後すぐにNSくん本人から連絡が届いて、6月25日(土)に「スシコ」で会うことになりました。会う時間は夕方の4時半。この同じ日に彼は、また別の会合が有り、そちらにも顔を出さないといけないとのことなので、少し早い時間になりました。
私が4時10分頃に着くと、彼は先に到着し、私を待っていてくれていました。バイクから降りた私は、すぐに彼と固い握手をお互いに交わしました。現在、NSくんは46歳になったそうですが、いやぁー、昔の雰囲気と変わらず、明るく、快活な青年のままでした。彼は今現在はハノイの銀行の駐在員を務めていて、6年半のベトナム勤務を終えて、近々日本に帰国する予定だと話してくれました。
彼がサイゴンに来たのは、私と同じ1997年で、当時彼は「大阪外大」の学生でした。その後、大学を卒業した後は「M銀行」に就職し、6年半前からベトナムに駐在員として赴任したというのでした。あの時以来、二人とも長い間会うことも無く、お互いにどこにいるかも知らずに過ごしてきましたが、この日に「スシコ」で感動的な《24年後の再会》が実現出来た次第です。私自身も嬉しくて堪りませんでした。
NSくんと話してゆきながら、「あぁー、そうでしたね!」と、二人の共通の思い出の中で、今も最も強く印象に残っているのは、1998年4月9日~14日の期間で、『マングローブ植林行動計画・アクトマン(ACTMANG)』の主催で、ベトナム南部のカンザー地区で、三人の【日本人歌手によるコンサート】が開かれた時のことでした。
あの時は、「アクトマン(ACTMANG)」代表の向後さんの呼びかけに応えて、カンザー地区で「マングローブ植林」と「日本の歌手のコンサート」の実現のために、わざわざ日本から、三人の日本人の歌手がベトナムに来られました。その三人の日本人の歌手の方々とは、【喜納昌吉さん】、【加藤登紀子さん】、【新井英一さん】です。
その時、ベトナムの事情や言葉も分からない日本人の歌手の方々のために、通訳やサポートを兼ねた「ボランティア・スタッフ」として、日本人とベトナム人の若者を募集しました。
そこにNSくんも応募してくれて、彼にはあの時【喜納昌吉さん】の付き人を務めてもらいました。あの時の【運営案】は、浅野さんに依頼されて、私自身が作りましたので、私も良く覚えています。
この日は、共通の思い出が多いその時のことも、楽しく、懐かしく話してくれました。付き人として世話した「喜納庄吉さん」が、市民劇場近くで大きな船の模型を購入された時のエピソードも話してくれました。私もあの辺りはいつもバイクで通っていましたので、その店も良く知っています。
そこには大・中・小の船の模型が売られていました。喜納さんはその店の中でも一番大きな船の模型を気に入り、すぐに購入し、その後日本に船便で送られたというのです。その配送の手続きの時も、NSくんが手伝ってあげたそうです。ですから、喜納さんのお家にはたぶん今もその大きな船が飾られていることでしょう。
そして、あの時「ボランティア・スタッフ」として活躍してくれたメンバーの中の数人とは以前「スシコ」に集まり、楽しい<再会>が実現出来たのでした。その<再会>の時のことは、【2017年2月号】<十五年後の懐かしい再会>に載せています。あの時の再会の時には、「ボランティア・スタッフ」として頑張ってくれたメンバーのほとんどが参加してくれていました。
しかし、NSくんは皆んなが集まった、あの時の<懐かしい再会>の時には来ていませんでした。NSくんとは1998年のその「コンサート」以後は会うことは無く、彼の連絡先も分からなかったからです。それが、24年後のこの日、「スシコ」で<感動の再会>が実現出来たのでした。何という稀有なことでしょうか。この日の私の感激は言うまでもありません。
NSくんがベトナムに来た時は21歳。私が出会った時、彼は22歳。あれから長い歳月が流れました。私達はお互いに向い会った席に腰を下ろし、《乾杯!!》しました。そして、彼に今の年齢を尋ねましたら、彼は「今年46歳になりました!」と、笑いながら話してくれました。しかし、髪が少し薄くなったとは言え、彼の風貌は昔のまま明るく、爽やかな笑顔を湛えていました。
彼と話していた時、あの当時の<共通の知人>の名前が多く出てきて、私自身がそれを聞いて「あぁー、そう、そうだったね!」と懐かしく回想した人が数人いました。その中の一人に「SJくん」がいます。当時、彼も我々と同じく1997年にサイゴンに来ていましたが、彼も語学留学生として「人文社会科学大学」でベトナム語を勉強していました。
彼との出会いで印象深い思い出は、このサイゴンで知り合ってしばらく経った時、たまたまあの浅野さんが彼に会ったことがあります。その時、ベトナム語の達人でもある、あの浅野さんが「おぉー、あなたはベトナム語の発音が大変上手ですねー!!」と褒めていたことです。
あのベトナム語の達人の浅野さんからそのように褒められたのですから、大したものです。SJくんは短い期間ながらも、ベトナム語を流暢に話していたのでした。私も彼には会いましたが、快活で、<明るい好青年>という印象でした。
その後数年が経ち、SJくんはこのサイゴンで「ベトナムの家庭料理」をみんなに提供したいという夢を持ち、2001年にベトナム料理のレストラン『Huong Lai(フーン ライ)』を開きました。その店名にも彼のこだわりが有り、彼は花の【ジャスミン】が好みらしく、彼自らその店名を“ジャスミンの香り”を意味する『Huong Lai』と名付けたということです。
しばらくすると、その『Huong Lai』はベトナム料理の美味しさが評判になり、日本人やベトナム人の間で大変有名なレストランになりました。私も友人と一緒に行ったことがありますが、評判通り大変美味しい料理でした。その時には、彼も奥の部屋から出て来て、私達に明るくニコッと挨拶をしてくれました。
しかし、この日NSくんに会い、SJくんについて、彼が開いたレストランのエピソードで感動したのは、そのことだけではありませんでした。SJくんはそこで働くスタッフの採用時に、単に普通の若者たちを募集していたのではなく、【孤児や元ストリート・チルドレン、貧困家庭出身の若者】など、<社会的に恵まれない若者を採用>していたというのでした。
そのことは、私自身も友人たちからも聞いていた情報で知ってはいました。しかし、この日NSくんからさらに直接詳しい話を聴いた時、私が「えっ、そうだったのですか!」と驚いたことが有りました。それは次のことです。その<社会的に恵まれない若者を採用>していた時の、「ストリート・チルドレン」のことに関してです。
このサイゴンで、「ストリート・チルドレン」を支援している有名な組織としては「FFSC」が有ります。その代表者はベトナム人の「チャン・バン・ソイ」さんと、その奥さまである「吉井美知子」さんです。最初にソイさんは、子供たちが無料で授業が受けられる施設を1984年に設立されました。「吉井美知子」さんは1993年に渡越され、ソイさんと知り合い、結婚されました。
その後、お二人でNGO団体「ストリート・チルドレン友の会(FFSC)」を設立されたのでした。それからのお二人のその献身的な活動内容は日本でも次第に認められて、「FFSC」は『社会貢献支援財団』より2013年に【社会貢献賞】を授けられました。その時のことは「平成25年度:社会貢献者表彰」として発表されました。以下のURLを参照ください。
そして、私自身もその「ソイさん」と「吉井 美知子さん」のお二人には二度ほどお会いしました。その「FFSC」の施設を日本人とベトナム人の数人で訪問したことがあるからです。
それは、今から22年も前の2000年10月末のことでした。その時の私のレポートは以下に載せています。以下のURLを参照してください。
・・・<ストリート・チルドレン施設訪問記2>・・・
http://www2m.biglobe.ne.jp/~saigon/ffsc2.htm
SJくんは、その「FFSC」から、自分のレストランで働くスタッフとして、<恵まれない若者>を優先して採用していたというのでした。今回初めて私はそれを知り、本当に胸が熱くなりました。(あのSJくんは「FFSC」の活動内容を知り、ベトナムの恵まれない若者たちに手を差し伸べてくれていた、何という【心優しい日本人の青年】だったのか・・・)と、その時初めて知った次第でした。
しかし、残念ながら、このサイゴンでも長く続いた「コロナ禍」で、レストランであれ、ホテルであれ、お客さんの足も遠のき、多くの人たちに惜しまれながら、2020年8月には「臨時休業」になり、最終的には「閉店」になりました。SJくんの悲しみと口惜しさは如何ばかりでしょうか。最近彼に会っていないだけに、彼の胸中を想像しています…。
この日は、共通の思い出が多いその時のことなどを、NSくんは楽しく、懐かしく話してくれました。私たちの話は、お互いの最初の出会いから、結婚の思い出話、子ども達の教育のこと。そして、今現在の仕事のことなど・・・、いろいろ話しました。話は尽きませんでした。
しかし、惜しいことには、夕方5時半過ぎには彼はまた別の会合に顔を出す予定とのことなので、この日NSくんとは一時間ほどの《感激の再会》になりました。でも大変《充実した再会》でした。彼は本当に嬉しい、懐かしい思い出を私に贈ってくれました。
“NSくん、有難う!!またの再会楽しみに!!”
ベトナムBAOニュース
■国民的音楽家チン・コン・ソンの映画「Em Va Trinh」、動員数100万人突破■
ベトナムの国民的音楽家チン・コン・ソン(Trinh Cong Son)をテーマにした映画「Em Va Trinh(わたしとチン)」が、先行上映を含めて公開10日間で動員数100万人を突破した。今年公開されたベトナム映画の中で、最速での100万人突破となった。
「Em Va Trinh」は今月17日に公開された。公開の1週間前から先行上映が行われ、先行上映5日間の興行収入は240億VND(約1億4000万円)だった。
ボックスオフィス・ベトナム(Box Office Vietnam)のデータによると、24日時点で興行収入は798億VND(約4億6400万円)となっている。製作側は、公開3週目には1000億VND(約5億8000万円)に達すると見込んでいる。
当初は、チン・コン・ソンの若き日を描いた「Trinh Cong Son」と、チン・コン・ソンの生涯にわたる恋愛を描いた「Em Va Trinh」が2本立てで公開される予定で、6月10日から2本が先行上映されていたが、6月17日以降は「Em Va Trinh」のみが上映されている。
理由として、上映時間95分の「Trinh Cong Son」と同136分の「Em Va Trinh」は一部の内容が重複しており、「Trinh Cong Son」の先行上映5日間の興行収入が16億VND(約930万円)に留まったためだ。
「Em Va Trinh」では、チン・コン・ソンと恋に落ちた日本人女性のミチコ(Michiko)役を、ユーチューブ(YouTube)チャンネル「aNcari Room」で人気の中谷あかりさんが演じている。
◆ 解説 ◆
7月3日(日)に、今話題になっている映画「Em Va Trinh」を、私の教え子たち数人と一緒に観に行きました。教え子たちと一緒に行った訳は、普段は教室の中で日本語を教えている日本人の私しか接することが少ない彼らに、その映画の中に出演している日本人の女性でもいいので、日本女性の仕草、そして、「日本人の考え方・生き方」そのものに親しみを感じて欲しかったからでした。
しかし、映画と言えば、ここ最近(どころか、20年近くも)、私はベトナムでも日本でも映画などは全然観ていませんでした。それが「良し、久しぶりに観に行くか!!」と思ったのは、こちらの日本語情報誌「VIETJO」に、上記の記事が載ったからです。
その映画の中の主役である「チン・コン・ソンさん」が、このベトナムでは大変「有名な作曲家」であることは、私自身も知ってはいました。でも、その詳しい活動内容や、彼の人柄までは知りませんでした。
しかし、この記事を読んで、(えっ!)と大いに驚いたことが書いてありました。それを読んで眼を見張りました。大変感激しました。何故なら、その「チン・コン・ソンさん」と恋に落ちた「日本人女性」=ミチコ(Michiko)さんと書いてあるではないですか。
この「VIETJO」の記事に載っている【日本人女性のミチコ(Michiko)さん】とは、私が今月号の「24年後のサイゴンでの再会」の中でも紹介した、「ストリートチルドレン」の子どもたちを支援する団体「FFSC」を設立された「吉井 美知子さん」」、その人のことなのでした。
(あのミチコさんとチン・コン・ソンさんにはそういう麗しい恋愛ドラマが有ったのか!!)
それを知り、もうー、涙が出るくらいに感動したのです。それまでは、美知子さんに、そういう「ラブ・ストーリー」が有ることなど全然知りませんでした。そして、私自身が「美知子さん」に直接お会いして、長時間いろいろなお話を伺うことが有っただけに、その時のことも思い出して、大変感無量でした。
今回初めて私はこの映画を観ましたが、本当に感動しました。映画の内容を紹介することはルール違反になるので、ここで詳しくは説明しません。しかし、どうしても皆さんに紹介したい「一場面」が有ります。その場面では、実は私自身涙が溢れてきたのでした…。
それは以下の場面です・・・。
【演奏会が始まり、司会者にチン・コン・ソンさんが紹介されて、ギターで曲を演奏しよう としたまさにその時、場内が突然停電になり、真っ暗闇に包まれました。その時、チン・コン・ソンさんは落ち着いて、いつもの演奏の時と同じように、静かにギターを奏で始めたのでした。最初は一瞬ざわついた観客も落ち着き、静かに聴き始めました】
その場面を観た時に、
(チン・コン・ソンさんはあのベトナム戦争が続いていた暗~い時代に、自分の使命として、音楽を通して国民に明るさを与えられていたのだな・・・)
と、あの象徴的な場面を観て、私はそう感じました。
何故【国民的音楽家チン・コン・ソン】と、このベトナムで今も慕われているのか、その理由の一端が分かったような気がしたのでした。
そして、この映画でチン・コン・ソンさんの恋人役:(Michiko)さんを見事に演じておられた日本人女性「中谷あかりさん」の演技が実に素晴らしいものでした。映画の中で、二人が初めて出逢った場面の演技といい、そのベトナム語の見事さといい、映画初出演とは思えないほどでした。
「中谷あかりさん」はベトナム在住歴約6年になるそうです。私自身は「中谷あかりさん」にはまだお会いしたことは有りませんが、彼女のことに関しては同じ<VIETJO>に以前、次のようなことが載っていましたので、私も強い関心を抱いていました。
【ベトナム語で動画配信の日本人女性YouTuber、「ベトナムと日本の架け橋に」】
~~友人との縁がきっかけでベトナムへ~~
https://www.viet-jo.com/news/special/180112150628.html
「彼女とベトナムとの縁は、1人のベトナム人の友人だった。今その友人は日本に住んでいるが、ベトナムを気に入ったあかりさんは、ベトナムに一定の期間住もうと決めた」
・・・「日本の大学で環境学を専門に学んでいたとき、ベトナム人留学生の女の子と出会い、後に私の1番の親友になりました。その友人の紹介で、何度か旅行でホーチミン市に来て、卒業後にベトナムに住むことに決めました。この国に心を打たれ、自分自身に挑戦したかったからです」と、あかりさん・・・
日本で「中谷さん」が通っていた大学には、実は私の教え子たちも数人留学していたことが有りますので、もしかしたら、その「親友」とは、私も知っている人物かもしれません。そう想像しただけでも、何か嬉しい気持ちになりました。
中谷さんは、今年の9月からホーチミン市人文社会科学大学で「ベトナム学科」に入学予定ということです。いつかまた「中谷あかりさん」が活躍する次の映画の公開を私達日本人も期待しています。たぶんベトナムの人たちも楽しみにしていることでしょう。