【2007年11月】村山日本語学校を訪問する/ベトナムに住んで生活している、市井の日本女性
春さんのひとりごと
<村山日本語学校を訪問する>
今ホーチミン市内にある公立のL高校で、今年の9月から日本語教育がスタートしました。生徒たちは全員ベトナムの高校生です。実はこの学校では、中学生を対象に2年ほど前から日本語教育をスタートさせて来ました。その担当をしていた日本人の先生とは私も懇意にさせて頂いていましたが、任期が切れて9月に日本に帰国されました。
それが9月の新学期から、この高校に在籍している1年生を対象に、新たに日本語教育をスタートすることになったのでした。公立学校の中で行われるこの授業の学費は無料です。そしてもちろん中学校のほうでは、今も続いて日本語教育が行われています。
この高校での日本語学校の設立に当たり、全面的な支援を申し出たのが、あの「村山元首相」です。そして、その名前も「村山日本語学校」と名付けられました。
日本では「村山元首相」といえば、あの阪神大震災の時に、何の緊急支援の手も打たず、全くの無為無策状態でしたね。あの時に「普通の常識的な判断が出来る宰相」であったならば、阪神大震災では多くの人命が救われたことでしょう。
しかしこちらに滞在していると、村山元首相など「あの人は今・・・」の世界の人で、日本では何をしているかも分からないでいましたが、それが最近こちらベトナムの新聞に、村山元首相の名前が載っていて、大変私の興味を引きました。
その新聞記事によりますと・・・
ベトナムのグエン・タン・ズン首相は村山富市元首相に「友好勲章」を授与した。村山元首相は1994年、南北統一後のベトナムを日本の首相として初めて訪問し、2国間関係発展の新たな道筋を作った。
首相の職を退いた後、2000年に日本ベトナム平和友好連絡会議(JVPF)JVPFを設立し、会長に就任した。JVPFはこれまでに、北部タイビン省での枯葉剤被害者や社会援助センター建設への支援活動、北部ハタイ省での奨学金支給活動などを行なっており、支援金額は数十万米ドル(数千万円)に上る。
さらに村山元首相はホーチミン市内にあるL高校を訪れて、「村山日本語学校」の開講式を行った。この日本語学校は、第2外国語として日本語を選択した学生を対象に、無料で授業を実施していく。
ここを3年後に卒業した生徒たちは、日本語を生かした職業に就いたり、日本に留学したりするなどの進路選択の可能性が広がってゆくことだろう。
・・・・という内容でした。
そして実はこの「村山日本語学校」を設立するに当たり、そこの学校の校長先生として村山元首相がお願いしたのが、あの「あけぼの日本語学校」の校長のLuan(ルアン)先生でした。
Luan先生は、1994年に村山元首相がベトナムに来た時の通訳をしたのが縁で、それ以来親交が続いているといいます。Luan先生の家には、2人が並んで立っているその時の大きい写真が額に入れて今も飾られています。
村山元首相は在任中にベトナムを訪問したのを機会に、今までも時々はベトナムに足を運んでいたようです。その時には毎回Luan先生と会っていたようなので、そういうところからこの“公立高校の中に日本語学校を開講する”という話に繋がっていったのでしょう。ベトナムでの日本語教育の普及という面からは、それはそれで評価されることでしょう。
そのLuan先生から「一度村山日本語学校を見学に来て下さい。」という誘いがありましたので、当日の夕方にL高校へ行って来ました。
L高校は校庭はさほど広くはありませんが、大きい木が何本も生えていて、歴史を感じさせます。そして実はこのL高校は、ホーチミン市内で上位三本の指に入るくらいのレベルの高い進学校です。
ここで日本語を受けている全員の生徒(約240人くらいいるといいます)は昼間の授業を受けてから、また夕方から週3回だけ月・水・金か火・木・土の2グループに分かれて授業を受けています。Luan先生は、「ここの生徒たちのレベルは高いので、教えたこともすぐ吸収してくれます」と大変喜んでいました。
私が訪問した時には、教室に20人くらいの生徒たちがいました。この日は全部で3クラスの授業をやっていました。驚いたことには、すべてのクラスにはクーラーが備え付けてありました。さらには、またパソコンの機器やスクリーンもありました。これだけでもずいぶん恵まれていると言えるでしょう。
しかしその使っているテキストを見ると、表紙に「村山日本語学校」のタイトルが切り貼りしてコピーしてありました。おそらく独自のテキストの準備までは間に合わず、既成のテキストの表紙に上から名前だけコピーしたのでしょう。
この時点では、すべてのクラスがまだ“ひらがな”をようやく習い終わった頃でしたが、挨拶の言葉は最初に教わっているらしく、私が教室に入ると全員が立ち上がって「先生、こんばんは!」と元気に挨拶してくれました。
Luan先生は授業の途中くらいから、教室内にあるパソコンの機器を使って、日本の文化紹介のDVDを生徒たちに見せて解説していきます。それは日本人である私が見ても大変興味深い内容でした。もちろん生徒たちも、DVDが始まる前からどんな内容なのか期待に想像を膨らませていて、いざ画面が現れると大喜びでした。
Luan先生は私に、「せっかくですから、生徒たちに一言挨拶して下さい。」と頼んできましたので、私も生徒たちに励ましの言葉を贈りました。
「まだみなさんのような若い世代の人たちが、日本語を勉強しているのを見ると嬉しい限りです。これからこの新しい学校でしっかり日本語を勉強して、将来ここで学んだ日本語を生かして日本に留学したり、日本の文化を研究したり、日本の会社で働いたり、日本とベトナムの架け橋になるような役割を果たして下さい。」と励まして来ました。
普通の日本語学校は、大学生や社会人くらいの年齢が多いのですが、この「村山日本語学校」ではこれから毎年・毎年、若い高校生が入学して日本語の授業を受けることになります。
今ベトナム全土には約3万人の日本語学習者がいるといいますが、これから毎年この高校で日本語を学ぶ生徒たちの存在は、日本とベトナムの高校生同士の交流会などにおいても大きい活動の輪が広がっていくだろうと、私は期待しています。
ベトナムBAOニュース
「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。
「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。
■ 今月のニュース <ベトナムに住んで生活している、市井の日本女性> ■
今いろんな国から、肌の色や年齢を問わず、多くの外国人がベトナムに来て生計を立てながら暮らしている。またヨーロッパ人のほかに、多くのアジアの女性たちもベトナムで生活するために来ている。
そして、このようなアジアから来た女性たちは、ベトナム人の女性たちと同じように毎日を忙しく暮らしている。そしてこのベトナムで、彼等は楽しみと幸福を見付けている。
◎ベンチでの日本語教室◎
ミチコさんは、毎日朝5時に自分の一日の仕事を始める。急いで朝食のインスタントラーメンを食べた後で、お昼ご飯を作って大学に持って行く。そしてバスを待って、人文社会科学大学に向かう。この時間にはまだ、大学の中庭にあるベンチに座っている生徒たちが少ないからである。
「ここに座って教えるためには、早く行かないと場所が無くなるからです。遅く行くと座る場所がないので、外の喫茶店に行って教えないといけなくなりますが、もったいないですからね」とミチコさんは話してくれた。
◎ベトナムに永く住みたい◎
ミチコさんは今ベトナムに来て、これから最低10年以上はベトナムに住みたいと思っている。
「ベトナムと私との縁を懐かしく思い出しています」と、彼女は笑いながら話してくれた。「私がベトナムに初めて来たのは1995年で、その時は数人の友人と一緒で観光旅行に来ました。本当のことを言いますと、その時のベトナムに対する印象は実に悪いものでした。」と、一人のシクロの男の話から語り始めた。
「私たちは“一時間5ドルだ”と値段を相手に確認して、シクロに乗りました。でも往復して帰って来たら““一時間40ドルだ!”と、そのシクロの男は吹っかけて来ました。その後日本に帰ってから、「今度ベトナムに行ったら二度と騙されないぞ!」ということを証明しようと思って、一人でベトナムに戻って来ようとこころに決めました。」と。
そして南部のミート-地方に行った時に、彼女は川沿いに住むある一家と知り合う機会があり、親交を結んだ。その田舎の素朴な家族の人たちと交際していくうちに、その前に抱いていたベトナムに対する悪い印象が徐々に薄れていった。
その後彼女は日本へ帰っても、(またベトナムに戻りたいなー)と、折にふれてはベトナムのことを思い出していた。そしてベトナムに対する愛情は益々大きくなり、抑えがたいものになっていった。
そして遂に「2001年にベトナムにそのまま住もうと決意して、 日本にある荷物を全部まとめて ベトナムに帰って来ました」と、ミチコさんは 心情を語ってくれた。
ミチコさんがベトナムに住もうと決意したもう一つの理由として、「ベトナムの住み易さ」を挙げる。「自分は足が悪いので日本では普通の仕事には就けませんが、ベトナムでは日本語を教えることが出来るので、私のような障害者にとってはベトナムのほうが暮らしやすいのです。」と。
そして彼女は出来るだけ永くベトナムに“永住”するために、毎日倹約した生活をこころがけているのだった。彼女が借りている部屋はホーチミン市の南の7区にあり、広さは10平方メートルで、家賃は1ヶ月50万ドン(約3,700円)である。
ある日彼女の親しい知人が、日本語を習いたいという数人のベトナム人を彼女に紹介した。その時から、ミチコさんは「日本語を教える先生」になったのだった。「最初の頃は、私と学生たちはいつも喫茶店で待ち合わせして、その中で私は日本語を教えていましたが、度重なるとコーヒー代がもったいないので、その後は大学の構内にあるベンチに座って教えるようにしました」と、話してくれた。
その最初の生徒が別の生徒を紹介してくれて、どんどん生徒が増えていった。今は一人の生徒に、一回一時間、週に3回教えている。土曜も日曜も教えている。学費は、仕事を持っている社会人からは一ヶ月15万ドン(約1100円)。働いていない人からは10万ドン(約740円)もらっている。でも働いていてもお金がない人もいるし、苦学生はお金を持っていないし、そういうような生徒からは3万ドン(約220円)しかもらわなかったという。
一台の古いカセットと、二・三冊の日本語の文法書と、古ぼけて擦り切れた一冊のベトナム語の辞書と、昼食用の二・三個のパン。・・・これがベトナムで日本語を教えて生活している時の、ミチコさんのバッグの中身である。
彼女は、「このようにして日本語を教える仕事から、毎月2~3百万ドン(約1万5千円~2万2千円)くらいの収入があります。それで毎日の生活費は足ります。あまりお金は持っていませんが、ベトナムで仕事をしながら生活出来るのは大変幸せだと思います。私は日本人ですが、日本とは縁が薄かったのです。ベトナムに来てから、私は自分の幸福を見付けることが出来ました。」と話してくれた。
◎ベトナムとの縁◎
彼女は悲しい話として、日本の自分の田舎についても語ってくれた。
「実は私が産まれる前には私の家は裕福でしたが、父が悪い友達に騙されて会社が倒産しました。それで私が生まれた頃から、私の両親は借金を背負い貧乏になってしまいました。私に飲ませるためのミルク代もない状態でした。それで私はひもじい時には、自分の指をしゃぶっていました。それで今も私の指は曲がっています。」と、彼女は自分の曲がった指を見せてくれた。
「そして小学校3年の時に母が亡くなり、私は学校へ行くために毎朝早く起きて新聞配達の仕事をしたりしました。でも父の借金は膨らんでいく一方でしたので、ついに私は大学に行くことは出来ませんでした。またある日、突然交通事故にも遭いました。それで今も私の片方の足にはその後遺症が残っています。」
「それから私は自分に合った仕事を見つけるために、ヨーロッパやアメリカなど今までいろんな国へ行きました。でもこのベトナムに私は足を引き止められました。その時までベトナムに住もうなどとは全然考えてもいなかったのに。これもまたベトナムとの縁というべきでしょうか。」
「今のベトナムは貧しくても平穏で、私のような体に障害のある者にも優しい国です。それでずっとこのままベトナムに住みたいと考えています。」とミチコさんは話してくれた。
(解説)
これを読んだ私のベトナム人の知人は、「まるでおしんのような人生ですね。」と嘆息していました。実は私の知人はベトナムでも、日本でもこの記事の中のミチコさんに会ったことがあるそうで、「大変こころ優しい日本女性です。」と、彼女についての感想を語ってくれました。
彼が日本で病気で入院していた時には、まだ数回しか会ったことがないのに、ミチコさんはわざわざ遠くから見舞いに来てくれて励ましてくれたそうです。
私はまだ面識はありませんが、新聞記事には三葉の写真が掲載されていました。その写真を見ると大変小柄な体躯をされていて、気品の高そうな婦人で、芯の強い印象を受けました。
この新聞記事に書いてあるような過去の生い立ちや今の生活。このような人が、今このホーチミン市で日本語教育に関わっておられると思うと本当に頭が下がります。いつか、どこかでお会い出来ることでしょう。