【2007年10月】“ベトナム人の眼で見た日本の歴史”を綴っている人/日本人は環境を“愛撫”する

春さんのひとりごと

<“ベトナム人の眼で見た日本の歴史”を綴っている人>
とある日曜日、今ホーチミン市内の大学で日本語を教えている年配 のベトナム人のT先生に会いました。私が今回彼に会った目的は、今年の12月に実施される日本語能力検定試験の試験監督の手配を依頼されたからでした。

彼に会う予定の時間の少し前にたまたま大雨が降り、私は約束の時間に五分ほど遅れましたが、彼はもうすでに先に着いていて私を待っていました。私は今までベトナムの人と会う約束をしていて、相手が先に着き、私のほうが遅れたのは今回が初めてでした。最初に遅参の詫びをして、お互いの自己紹介をしました。

私と彼が会った場所は、レストランでも喫茶店でも路上のカフェーでもなく、バイクの駐輪場の中でした。そしてその入り口に置いてある、バイクの駐輪のために切符を切る受け付けの机の前でその話をすることになりました。当然一杯のコーヒーも、水も、オシボリも出て来ません。

まあしかし、サイゴンにある普通のカフェー屋さんはどこもかしこも賑やかで、耳をつんざくようなうるさい音楽がガンガン鳴っていて、お互いが大声を出さないと会話が出来ませんので、このように真面目な話をする時にはむしろこういう場所がいいこともあります。

喫茶店などでのベトナムの人たちの顧客サービスの感覚というのは、店内に賑やかな、うるさい音楽をガンガンかけるのがお客に対するサービスだという発想ですので、時に日本人が「うるさくて話が出来ない。音を小さくしてくれ!」と店員に言うと、(音を小さくしたら寂しいだろうに・・・)という風な表情をして、ケゲンな顔します。

そういう顔付きをした店員は、すぐには音を小さくしませんので、「いいから、とにかく音を小さくしてくれ!!」と怒鳴るように言って、ようやくボリュームを下げてくれます。しかし他のベトナム人のお客はこういう賑やかでうるさい音楽が好きなのは知っていますので、電源を切って音楽そのものを消すことは嫌がります。

さて私達は自己紹介が終わった後、時に外から雨が降り込んで来る中で、受け付けの机をお互いが挟むような形で話しましたが、T先生は私と会話する時、その発音といい、文法といい、語彙表現の正確さといい、見事なほどの日本語で対応してくれましたので、私達二人の会話は、私にとっては一番楽な日本語で話を進めることが出来ました。

T先生は私に、「今年の受験者数は昨年よりもさらに増えて、試験監督の手配に今苦労していますので、いろんな日本語学校の先生方々に協力をお願いしています。是非あなたにも協力して頂きたいのですが・・・」と話されました。

もちろん私は「いいですよ。私の知り合いの人たちに声を掛けて見ます。」と答えましたが、私は彼が話している時にその彼の見事な日本語を聞きながら、(どこで、どのようにして、この先生はこのような素晴らしい日本語能力を身に付けたのだろうか・・・?)とそちらの方に興味が湧いて来ました。そして一通り日本語能力検定試験の話が終わってから、私のほうからT先生にその事について聞いてみました。

彼は今年65歳になりますが、見た目は大変若く、紳士然として大変知的な印象を受けました。彼はベトナム戦争終結まではホーチミン市内にある師範大学に勤めていて、戦争後はまた別の大学で60歳の定年になるまで日本語を教えていました。そして定年後も続けて教えて欲しいと同じ大学から請われて、今でも夕方から大学生に非常勤で日本語を教えていると言いました。

T先生は今はそうやって夕方から日本語の先生をしていますが、毎年12月の日本語能力検定試験の試験監督の時期には、その流暢な日本語能力と実務能力から、日本語能力検定試験の総責任者として会場の手配や試験監督の人員の手配などを担当しているようでした。

彼が日本語を習い始めたのは実に今から35年前で、まだベトナム戦争が続いている最中でした。その日本語は、日本政府から派遣されて、当時ベトナムに赴任していた日本人から習ったということでした。その日本人も当時は彼と同じ30歳くらいで、今でもその人が時々ベトナムに来られた時には再会を喜んでいるそうです。

しかしその当時ベトナムにいた日本人の数は、以前私が紹介したあの「ベトナム戦争当時にバナナを植えていたYさん」から聞いた話でもあまり多くはなかったようですから、T先生のようにその数少ない日本人から日本語を学んでいたベトナム人もさらにまた少なかったことでしょう。

「そういう時期に、またどうして日本語を勉強したいと思ったのですか。」と質問しますと、「ベトナム語で書かれた日本の歴史の本を読みまして、特に江戸時代と明治時代に強く惹かれたからです。」と答えてくれました。彼は日本へ留学した経験もあり、その時にも日本の歴史に関する多くの本を集めてベトナムに持ち帰ったそうです。

そしてさらに続けて、「江戸時代のように、政治も文化も芸術も特異な時代は世界のどこにもありません。そしてさらにまた、その江戸時代とは政治も文化も芸術もまるで異なる明治時代が、一つの国の中でその後に続いていることの面白さ、不思議さに大変強い興味を抱きました。」

「さらに興味深いのは、まるで違うようなこの二つの時代が、日本という国の根幹では一貫して連続していて、本質的な部分では変わらぬ何かがあるような感じを持ちました。」

「それで実は今私は、日本の歴史の本を執筆中です。私たちベトナム人が今まで読んでいる日本の歴史の本は、すべての資料が欧米で書かれた英語の資料を参考にして書かれています。」

「私はそういうやり方ではなく、日本語で書かれた文献に当たり、日本語の資料を読んで、日本語の記事や資料を直接引用して、それをベトナム語に翻訳し、ベトナム人のために“ベトナム人の眼で見た日本の歴史”を書こうと思っています。」というふうに、T先生の話は聞いているこちらのほうがワクワクして来るような内容でした。

「その完成はだいたい何年後くらいになりますか。」と聞きますと、「五年後くらいを予定しています。」という答えでした。さらにその後には、越和辞典の出版も計画しているので、日本歴史の本の執筆と併行して、そのための資料集めも今進めているということでした。しかしこのように高度な創作作業というのは、T先生のように高い語学の才能を持っている人にして初めて出来ることでしょう。

私たちは一時間ほどそこで話したでしょうか。T先生との別れ際には、「お体に注意されて、是非その本を完成させて下さい。ベトナム人の眼から見た日本の歴史の本は、私たち日本人もまだ読んだことが無いし、大変興味深いものになることでしょう。さらにまたベトナムの人たちにも、日本理解の大いなる手助けとなることでしょう。」と、私はその本が出来あがる日を期待しつつ、T先生にそのように挨拶させて頂きました。

ちなみに今年の日本語能力検定試験の受験者数ですが、9月初めに締め切った時点で、このホーチミンの試験会場だけでも8200人を超える受験者がいるそうです。昨年が6300人くらいですから大変な増え方です。T先生の依頼もあり、私も当日は試験監督として出向くつもりです。

そしてまたこのように今現在日本語を勉強している受験生たちだけではなく、日本に関心のあるベトナムの人達にも、T先生が日本語の文献や資料を読み解いて、ベトナム語で書き上げた、“ベトナム人の眼で見た日本の歴史”の本を読める日がいずれ来ることになるでしょう。

ベトナムBAOニュース

「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。
「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。

■ 今月のニュース <日本人は環境を“愛撫”する ― Tran Dinh Lam(チャン ディン ラム)博士> ■

日本に着いてから私はさらに、日本人が環境に大変注意を払っているというのが良く理解出来た。このことは、今日本において大学生に対しては環境保護の意識を高める教育と、景観を護ることの大切さの呼びかけが至る所に現れていることでも分かる。

私は最初日本に着いてから、寮で暮らす生活を始めた時に、分別ゴミを区別するために、8~9種類のゴミ箱が写真付きで置いてあるのを見たけれど、それぞれのゴミの種類がどのような違いがあるのかを理解するのに大変困ってしまった。

また日本のあるレストランに入った時、私は大変びっくりしてしまった。その建物にはクーラーなどの設備は一切なく、自然の素材の木や土を利用してあるのだが、中は大変涼しくて、うっとりするような芳香が漂っていた。そしてそれはある一人の建築家の独特のアイデアによるものだということだった。

ある日本人の教授は今ベトナムの中小企業について研究しているが、彼は私にこう言った。「今中国では日本から高級かつ安全な米を輸入している。その値段は中国の米の値段の20倍もするが、それでもそれを買い求める人が多い。リンゴにいたっては一個が800円もするのが売られているが、中国人には人気があり供給が追いつかない。」

「ベトナムの中小企業も、今後のベトナムの経済の発展につれて、消費者が豊かになって来ると、中国と同じように食の安全に対する意識は高まるはずですから、安全で高級な食品や果物を作る努力をしていけば市場で必ずや受け入れられるでしょう。」と。

今日本では、消費者は食品に関しては世界の中でも大変敏感になっていて、安全な食品に対する消費者の目は厳しいものがある。生産者もそういう消費者の要求に応えるやり方が広まり、化学物質や殺虫剤や人工着色料を出来るだけ使わないようにして、生物や自然の環境生態系に優しい農業を志向している。

ベトナムの経済の発展について、東京大学の人文生態学科で話していた時、そこにいたワタナベ教授はベトナムの最近の経済の発展について高い評価をしつつも、「経済の発展と人間の生活文化の向上と環境生態系の保護はどちらも必要であり、そのバランスを上手く舵取りしていかないといけません。」

「日本は今のように高度工業化社会に到達する前に、深刻な公害病を経験して来ました。そして今日本では環境生態系の保護や、環境に優しい農業や、地球環境に配慮した生活の仕方に深い関心を持つようになりました。」

「企業も環境保護活動に対して意識が低い企業は社会から非難されます。日本もそうですが、ベトナムも経済がこれから発展してもそれは環境生態系に配慮したものであるべきです。」と話してくれた。

また東京情報大学は、ホーチミン市の東にあるBinh Thuan省の貧しい村にある小学校に600本のマンゴーの木の苗を贈った。そのうち300本が今根付いて、生徒たちがマンゴーの実を収穫している。この果樹園では、この大学の指導を受けて出来るだけ農薬や殺虫剤を使用しないやり方で果樹を育てており、質の高いマンゴーの実が獲れる。そして、その収益は生徒たちの文具の購入などに充てられている。

東京大学で親身になってアドバイスをくれた教授たちといい、このような大学の活動といい、遠い国日本からベトナムの環境を護るために、ベトナムの環境に深い理解を示してくれる、優しいこころに満ち溢れた人々がいることに深い感銘を受けた日本滞在であった。

(解説)
これは「ベトナム人の眼」で見た、今の日本、そして日本人の環境問題や意識についての感想と言えるでしょうか。

私が子供の頃の今から40年前以上くらいは、日本人もゴミは棄て放題でしたね。ゴミ収集車自体もまだ無い頃ですし、当然まだ分別ゴミの仕分け方などもない時代ですから、田舎にある我が家では燃える物は庭先でほとんど燃やし、生ゴミは畑に埋めたり、燃えない物は山や川や海の中にボンボン棄てていました。ですから海水浴などに行っても、その当時は海岸などはゴミだらけでした。まあ不燃物は今ほどは多くはありませんでしたが。

今の環境問題に対してのベトナムの人たちの意識のレベルは、40年前のその当時の日本と同じような段階くらいにあるといえるでしょうか。しかし不燃ゴミや、ビニールなどの腐らないゴミの多さは当時の日本とは比較になりません。

しかも今のベトナムの人たちはゴミを道路にボンボン棄てても、(どうせ最後は清掃員の人たちが毎日ホウキで掃除してくれるから)という考えがみんなにあるせいか、道路にゴミをボンボンと棄てるのはお構いなしの国になってしまっています。

この社会主義国ベトナムでは、日本には存在しないようなホウキを持った道路清掃員が、“出来るだけ国民みんなに仕事の場を与えよう”という目的で存在しています。

その人たちはみんなが道路に棄てたゴミを毎日、(サイゴン市内では)朝早くから夜遅くまで掃除しています。それに甘えて、みんなが道路にゴミをボンボン棄てても平気という習慣が出来てしまっているわけです。

今私が住んでいる区域の人たちは、自分の家の中のゴミをすべて外の道路に掃き出しても、自分の家の前に散らかっているゴミまでは自分で掃除しようとは全然しません。それもまた道路清掃員さんにお任せしています。ですからまた、そういうのも道路清掃員さんのお仕事になるわけです。

ゴミが棄て放題だけならまだしも、下水もまた垂れ流しの状態ですから、ホーチミン市内にあるクリークはどこもかしこも黒く淀んでいて、ドブ川状態で悪臭を放っています。そのクリークに架かっている橋の上をバイクで通るだけでも、強烈な匂いが襲ってきます。

最近私は橋の上をバイクで通過する時には、その前から息を止める癖が身に付きました。サイゴン市内にあるドス黒く汚れたクリークには、おそらく一匹のお魚さんも棲んでいないでしょう。その証拠には、釣り竿を垂らして魚を釣っている人など一人もいません。

しかしベトナムの人たちは鼻の穴の中に自動的に閉まる鼻栓でも付いているのかどうか、その悪臭が漂っているクリークの路上のすぐ近くに、テーブルと椅子を並べてカフェー屋を出して平気でコーヒーを飲んでくつろいでいたり、またクリークのそばには鍋屋さんの店もあったりして、そこで海鮮鍋をみんなで楽しそうにつついていたりします。そういう場所でも鼻を押さえながらコーヒーを飲んだり、鍋を食べている人など誰もいません。

それにしても、クリークのあのような悪臭をものともせずに、その近くに座って悠然とコーヒーを飲んでいたり、美味しそうに鍋を食べていたりしているその神経は見上げたものです。ヤワな日本人がこんな場所に座ったら、五分もしないうちに失神して倒れてしまうでしょう。

しかし今のベトナムの川や湖やクリークの汚染のひどさは、北部や中部や南部まで共通した深刻な問題です。ハノイの中心部にあるホアンキエム湖は大変こじんまりした落ち着いた湖で、私もその雰囲気が大好きな場所の一つですが、行く度に湖の汚染が進んでいる感じです。昨年訪れた時には魚釣りをしている人たちがいましたが、今はどうでしょう。

今まで日本がベトナムに支援して来たODAは、日本の土建業者が参入して道路や橋などの大型物件に使われて来たことが多いようです。しかしこの9月の、南部のカントー大橋の崩落事故で死者50人以上の惨事があったのを契機に、今後そういうのは外国の企業に任せたらいいのではないでしょうか。

私は今後日本がベトナムの川や湖やクリークをきれいにするために、現在の日本が持っているすぐれた省エネの技術や、環境生態系を保護するためのノウハウを、今のベトナムに支援する時が来ているのではと思います。

そのほうが後世から見たら、環境意識の低い今のベトナムの人たちからは大変感謝されることではないだろうかと思います。

「これからのベトナム経済の発展が、環境生態系に配慮したものであるためにも・・・」

Posted by aozaiVN