【2014年3月】“ベトナムの思い出”を語った留学生、日本に帰る/~~東日本大震災から三年~~各地で追悼式

春さんのひとりごと

<“ベトナムの思い出”を語った留学生、日本に帰る >

二月末に一人の留学生が日本に帰りました。名前は 「SAORIさん」と言います。 SAORIさんは昨年の三月末にベトナムにやって来ました。目的は、ベトナム語習得のための <語学留学> です。

彼女は兵庫県から来ました。大阪大学の二回生でした。彼女は高校生の時に、ある塾に通っていました。そして、その塾を開かれていた先生は、今から約 25年前に私が姫路で教えていた時の教え子NTくんのお母さんなのでした。

私はそのお母さんと、昨年五月に姫路で久しぶりに、嬉しい再会を果たすことが出来ました。お母さんの息子さんは今 <宣教師> として世界中を飛び回っています。私の教え子で、<宣教師>という仕事に就いているのは彼だけです。初めてそれを聞いた時は大いに驚き、そして感動しました。

今は<宣教師>として世界で活躍している NTくんと、そのお母さんをインタビューしたものが、一昨年の11 月に 【地球サイズの子育て】 というタイトルで、我が社・ティエラから発刊されました。それをベトナムで私も読みました。じっくりと読んでいますと、昔のことがいろいろ思い出されて、感慨深いものがありました。あの時 11 歳だった NTくん は、今 35 歳を超えています。

そして、そのお母さんから一昨年の 11月末頃、「実は、現在大阪大学2回生でベトナム語を専攻している SAORIさん が来春の 4月からホ-チミン市にある <ホン バン大学> と <ホーチミン師範大学> に一年間の期間で留学が決まっているのです。ところが、全く住まいが手探り状態で困っているようです。・・・」という相談がありました。「了解しました。」と、お母さんには連絡しました。

そして昨年の三月末に SAORIさんはサイゴンにやって来ました。その週の日曜日のある日の朝、 「中央郵便局」 で私達は待ち合わせをすることにしました。ここはいつも観光客でごった返しています。私が郵便局に着いて外から電話を掛けると、その観光客の中から背伸びをして、こちらを見ている女性がいました。(おそらく彼女がSAORIさんだろう・・)と思い手を振ると、果たして彼女がそうでした。

その日お互いに初めて会ったのですが、事前に NTくんのお母さんから SAORIさんのことをいろいろ 聞いていたこともあり、「やー、初めまして」くらいで自己紹介が終わりました。初めて会った彼女は、ニコニコとした笑顔をして、(大変明るい性格だなぁー)という印象を受けました。

そこから歩いてすぐ近くにある 「青年文化会館」 まで行き、毎週日曜日の午前中に行われている <日本語会話クラブ>に彼女と一緒に参加しました。事前に彼女にも、この日はそこに案内することを伝えていましたので、彼女も大きな期待を抱いていました。

この日は日本語を勉強しているベトナム人の若者たちと、日本人の有志の方が併せて 40名ほど参加していました。「会話クラブ」の終わりに、いつもの恒例として行っている<自己紹介>を彼女にもしてもらいました。

彼女は 「私は 現在大阪大学の 2回生で、ベトナム語を専攻しています。 これから約一年間 <ホン バン大学>と<ホーチミン師範大学>に語学留学するためにサイゴンに来ました。このクラブの存在を聞いて、今日は大変楽しみにして来ました。これからもみなさんよろしくお願いします。」 と簡単に自己紹介をしてくれました。

自己紹介の最後に、「新人の人にはいつも歌を一曲歌ってもらっているのですが、 SAORIさんも何か歌を歌ってくれませんか。」と私が言いますと、彼女はしばらく考えた後、「分かりました。ではベトナム語の歌を歌わせて頂きます。」と言ってベトナム語の歌を実際に歌い始めたのでした。これには驚きました。

私は彼女がベトナムの歌をここで歌ってくれるとは思っていなかったので、意外でした。それを聴いていた日本人たちはもちろん感心し、ベトナム人の参加者たちも大喜びでした。

聞けばその歌は、大阪大学に留学しているベトナム人の友達から教えてもらったというのでした。

私は彼女がベトナム語で歌うのを聴きながら、 (こういう積極的で、社交的な性格なら、大丈夫だろう。このベトナムで一年間を上手く乗り切ってゆくだろうなー)と思いました。実は、彼女がベトナムに着いて数日後に、私は日本に一時帰国することになっていたのでした。 NTくんのお母さんから頼まれた手前、(どうするべきか・・・?)と、心配ではありました。

そこで、 (よし、<日本語会話クラブ>に参加してもらおう)と考えたのでした。 日本人やベトナム人が集う、この<日本語会話クラブ>に来れば、メンバーたちとも交友関係が広がります。ベトナムに着いた最初の時期、今は右も左も分からないサイゴンではあっても、このクラブに来れば分からない点を、彼女がこのクラブのメンバーに一つ・一つ聞いてゆけば、問題点が解決するだろうと考えました。

そしてやはり、結果として正解でした。彼女はサイゴン滞在中の一年間は、毎週のように<日本語会話クラブ>に参加してくれていたからです。ここでは、日本人やベトナム人の多くの友人達が出来ました。

中でも一番仲が良かったのが、昨年夏にわが社ティエラのベトナムマングローブ子ども親善大使 に女子の世話役として参加してくれた Xuan(スアン) さんです。そもそも彼女も<日本語会話クラブ>に参加していた中から、私が昨年夏にスタッフとしてお願いした大学生なのでした。

そして SAORIさんが初めて参加した<日本語会話クラブ>に、その Xuanさ んにも来てもらうようにしました。何故なら、私が日本に帰国する前に、彼女の宿探しを急がないといけなかったからです。彼女が今住んでいる寮は、相部屋でもあり、いろいろな制約が多く、一人で住める間借りの部屋を探したいという意向でした。

それで、<日本語会話クラブ>終了後に、喫茶店で二人を引き合わせて、私と SAORIさんと Xuanさんの 三人で宿探しに行くことにしました。およその見当を付けている場所は、<日本語会話クラブ>が行われている「青年文化会館」から近い場所にあります。バイクに乗って五分も掛かりませんでした。

そして、私が SAORIさんをバイクの後ろに乗せて、目指すアパートがある区域に入り、バイクで曲がろうとすると、若い二人の女性が先にバイクで同じ区域に入る時、日本語で会話していました。(日本人だろうな・・・)と思いました。

そのバイクはその区域のすぐ先に停まっていたので、私もそのバイクの横に停めて「日本の方 ですか?」 と話しかけますと、「そうですよ。」という答えでした。彼ら二人は、この近くに部屋を借りて住んでいるとのことでした。

「サイゴンでは何をしていますか?」 と聞きますと、 「語学留学です。」 というではありませんか。しかもその語学留学先の大学名を聞くと、 SAORIさんが通う、同じ <ホーチミン師範大学> なのでした。さらにその大学には、SAORIさんと同じ大学から来た人もいるそうで、SAORIさんがその人の名前を聞くと、その人はSAORIさんの知人なのでした。

「何たる偶然!」

と驚きました。その師範大学に通っている友人に電話を掛けてもらうと、 30分ほどして来てくれました。SAORIさんも友人に会えて大喜びでした。アパートを借りようとして見当を付けた区域で、ものの三十分もしないうちに、SAORIさんの知人を知っている日本人の女性に出会ったのでした。

そこで、実際にこの区域に住んでいる彼女たちに、この当たりの部屋代の相場を聞きましたら、一ヶ月 200ドルから300ドルとのことでした。今、SAORIさんが住んでいる寮は、二人相部屋で一人が一日5ドル。一ヶ月で150ドルを払っているといいます。少し余分に払えば、自分だけの部屋を借りることが出来ると分かり、彼女もその気になりました。

その二人が住んでいる家にはまだ空き室があるというので、そこを見せてもらうことにしました。大家さんが出てこられて、我々に挨拶してくれました。 SAORIさんが部屋を見せてもらっている間、私は周りの環境を観察していましたが、この区域は「語学留学生」たちが多く住んでいる区域らしいというのが分かってきました。

大家さんとの部屋代の交渉は、 Xuanさんが全部してくれました。やはり、こういう場にベトナム人がいるといないとでは、大家さんとの交渉では大きな違いが出てきます。値段の点と寮で今後も暮らす場合の制約の多さから言えば、やはり寮を出て生活したほうがいいと言えるでしょう。

しかもこの区域の場所は市内の中心部にあり、いろいろな方面行きのバスもあり便利です。アパート前の道路のバス停から乗れば、大学までは乗り換え無しの直通で行けるということでした。じかし、それ以上に同じ大学に通う日本人の友人が出来たというのが、彼女にとって、一番大きな安心になりました。

さらにまた、別の家に住んでいる人の部屋を二つほど見せてもらいました。それを見ている時、私は SAORIさんに 「今すぐこの場で決める必要はなく、ここの部屋の写真を撮り、部屋代が幾らかをメモしておいて、今日帰った後で、幾つか見た部屋の情報を比較しながら、ゆっくりと考えたらいいですよ。」 と言いました。

さらには、この日の夕方には、その同じ師範大学に通う友人たちが集って食事会をするとのことなので、私は彼女に 「その食事会に参加して、そこでみんなに部屋のことを相談したらいいですよ。みんなも同じような条件の部屋に住んでいるので、いろいろ相談に乗ってくれますよ」と言いましたら、彼女も喜んで、「そうします!!」 と言いました。

その夕食会までは少し時間があるので、彼女は寮には戻らずに、その師範大学の友人が住むアパートの居間で時間を潰しますと言うので、私は彼女とはそこで別れました。去り際に次のような話をしました。

「せっかくベトナムに来るチャンスに恵まれたのだから、ベトナム語の習得と併行して、ベトナム国内をいろいろ旅行して回ったらいいですよ。ベトナムの各地の文化や言葉の違いや歴史なども勉強できますから。」

そして五月中旬に私がベトナムに戻るまで、彼女と連絡を取ることはありませんでした。私がサイゴンに帰った週に、<日本語会話クラブ>に顔を出しました。そこに SAORIさんも来ていました。彼女も私を見ると「ニコッ」とした笑顔をしました。少し陽に焼けて逞しくなったような印象を受けました。

やはりアパートも、私が日本帰国前に紹介した、語学留学生たちが住む区域の宿を選んで、今そこに住んでいるとのことでした。あの時に出会った日本人女性たちとも、まだお付き合いが続いているというのでした。

それから彼女は毎週のように欠かさず≪日本語会話クラブ>に参加していました。そして学校の休みを利用しては、 「ムイネー 」や 「フエ」 に足を伸ばして旅行もしていたようです。<日本語会話クラブ>が終わった後、喫茶店にみんなが集う昼食会でその報告と感想を話してくれました。今年のテトの時には、 「カンボジア」 と 「インドネシア」 まで旅行して来たと言いました。

私が日本に帰る前には、 SAORIさんとは数時間の出会いしかありませんでしたが、ベトナムに戻ってからは、ほぼ毎週日曜にはお互いに顔を合わせました。だんだんと彼女を知るにつれて、(実に素直で、明るい性格だなー)という印象が強まりました。

そして、昨年の十二月の終わり頃、いつものように喫茶店で私たちが話していますと、 SAORIさんが「実は・・・、一年間の留学生活が終わり、あと二ヶ月ほどでベトナムを去ることになりました。二月の終わりには、日本に帰国します。」と、しんみりとした表情で私に話してくれました。

(ああー、そうかぁー。あれからもうすぐ一年が経つのか~・・・。)と、あらためて思いました。それで、SAORIさんに

「一年間よくベトナム生活を頑張りましたね。充実したサイゴンでの日々だったことでしょう。最後の<日本語会話クラブ>の日には、日本語とベトナム語の両方で “ベトナムの思い出” を、みんなの前で発表してくれませんか。会話クラブのみなさんへのお別れの挨拶として、また自分のベトナム生活の思い出の記録として。今からまだ二ヶ月近くあるので、ゆっくりと準備しておいて下さい。」

と言いますと、彼女は嬉しそうに「分かりました!」と返事してくれました。それから私は彼女の帰国時に何をプレゼントしようかと思いましたが、(<日本語会話クラブ>の全員のコメントが記された「色紙」を贈ろうか・・・)と考えました。

そして彼女が日本に帰る一週間前の土曜日に、彼女の<お別れ会>を四区にある、最近出来た大きなレストランで行うことにしました。全員で 20人ほどが参加してくれました。遠くは、シンガポールから来て頂いた女性もいました。このレストランには普通の料理以外にも、いろいろなゲテモノ料理がありました。「鳩」「蛙」「もぐら」など。

この<お別れ会>には、サイゴンでケーキ屋さんを開かれている山本さんご夫妻が、「ひょっとこ」 や 「おかめ」 の仮面などを日本から持ち込まれていて、場を盛り上げてくれました。日本人やベトナム人たちが歌も歌い始めました。小型の拡声器を持ち込んでいましたので、近い場所に座っていたお客さんたちも、興味深そうに我々のほうを見ています。

そしてその翌日の日曜日が、 SAORIさんにとっていよいよ最後の<日本語会話クラブ>の参加になりました。会が終わろうとする頃にみんなに向って、私から「実は・・・・」と切り出し、「今日の<日本語会話クラブ>がSAORIさんにとって最後になります。今日はSAORIさんから “ベトナムの思い出” をベトナム語と日本語の両方で発表してもらいます。」と話しました。小型の拡声器のマイクを彼女に渡して話してもらいました。

最初にベトナム語で五分間話してくれました。近くに座っていたベトナム人の若者が「大変聞き取りやすいベトナム語ですねー。」と感心していました。この一年近くのベトナム滞在の間に、ずいぶん上達したようです。しかし、この段階ではまだ日本人の参加者の大半には、 SAORIさんが何を話しているのかは分からなかったでしょう。ベトナム語で話した後、次に日本語で同じ内容を話してくれました。

「私は二年間大阪大学でベトナム語を勉強してきましたが、ベトナムに来た最初は全く分かりませんでした。また、日本でベトナム人の学長から言われた学費と寮費の額が、こちらに来たら違っていたので、一時はベトナム人不信にも陥りました。さらには、こちらの生活に慣れるまでが大変不安で、いろんな困難なこともたくさん経験しました。」

「しかし、この<日本語会話クラブ>に続けて参加してゆくうちに、多くの日本人やベトナム人の友人たちと知り合うことが出来ました。そうしてゆくうちに、だんだんとベトナム語も上達してきました。ベトナムやベトナムの人たちが好きになりました。皆さんたちとここで出会ったことは、忘れることが出来ません。またサイゴンに戻って来たら、必ずここに来ます。その時には“お帰りなさい”と言って下さいね。」

それを聞いていた全員の参加者が、彼女の話が終わるとしばらくシーンとしていました。大変感動的な、こころ温まるスピーチでした。私も一年前の彼女との最初の出会いから思い出が甦り、感無量になりました。 Xuan さんは、ベトナム語と日本語の両方が分かるだけに、涙ぐんでいました。

そして、彼女の話が終わった後、前の週の日曜日に参加した人と、この日来てくれた参加者全員に書いてもらった、 SAORIさん宛てのコメントと名前入りの色紙を、みんなが見ている前で渡しました。彼女にも大変喜んでもらったようで、後で 「これは私の宝ものです。」 と言ってくれました。

<日本語会話クラブ>が終わった後で、私たちはいつものように喫茶店でお昼ご飯を食べましたが、 SAORIさんはその色紙を何回も見つめていました。ベトナム人の若者達も名残惜しい様子で、彼女を喫茶店の外に立たせて写真を撮り合っていました。この日が最後のお別れになりますので、最後にみんなで記念写真を撮り、そこで別れることになりました。

一年間という短いベトナム滞在ではありましたが、ベトナムでいろんな思い出を作り、多くの友人たちとの交流が生まれ、いろんなことを勉強し、様々な場所を訪問することが出来たようです。ベトナムで貴重な経験を積んで、 SAORIさんは日本に帰ってゆきました。

ベトナムBAOニュース

「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。
「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。

 ~~東日本大震災から三年~~各地で追悼式 

3月11日 14時46分ちょうど、日本の多くの市や町で三年前の大地震と津波で亡くなった犠牲者の追悼の式が行われた。18,000人以上の人々の命を奪った津波は、沿岸地域に住む人たちだけではなく、原子力発電所の事故までも伴い、今に至るまで深刻な結果を引き起こしている。

東京では政府主催の追悼式があり、天皇・皇后両陛下と安倍首相たちが参列した。天皇陛下は震災と津波で亡くなられた犠牲者の方々に、哀悼の言葉を述べられた。東京にある多くの学校では、マグ ニチュード9の地震が襲ったこの「3月11日」を <忘れられない日> として位置づけている。

現在、日本はまだ福島第一原子力発電所からの、放射能漏れのある汚染水の問題を抱えている。そして、その周辺には数千人の住民がまだ許されて生活をしているのである。 AFP 通信によると、今まで誰一人として、放射能が漏れた汚染水が原因で直接死亡する人は出ていないが、その周辺に住む約 1,650 人の住民が複雑なストレスや不安や、それらに関連した原因で亡くなったと言っている。

先週末には、追悼式が行われる前に、東京では数万人の「原発反対!」のデモが行われた。安倍首相の「原子炉再開の決定」に怒りを表明して、デモが行われたのである。

BBC に載った経済学者の Izumi Devalier 氏は「原子力発電の停止の影響は、日本経済に深刻な影響を及ぼしている。現在、日本では国のエネルギーをまかなうためには、海外からエネルギーの 90 %以上を輸入しなければならないからである。それがすべての生産コストの高騰につながる。」と言う。

一方、福島第一原子力発電所からの放射能漏れ汚染水の状況は、政府と東京電力( TEPCO )の努力にもかかわらず、未だに大幅に改善されてはいないのである。

◆ 解説 ◆

あの「東日本大震災」から三年が経ちました。今年もまたこの記事にあるように、日本全国で、さらにはまた海外でも「追悼の式典」が行われました。天皇陛下は次のように述べられました。

「本日、東日本大震災から 3 周年を迎え、ここに一同とともに、震災によって失われた人々と、その遺族に対し、あらためて、深く哀悼の意を表します。 3 年前の今日、東日本を襲った巨大地震と、それにともなう津波は、 2 万人を超す死者・行方不明者を生じました。
今なお、多くの被災者が、被災地で、また避難先で、困難な暮らしを続けています。」

「さらに、この震災により、原子力発電所の事故が発生し、放射能汚染地域の立ち入りが制限されているため、多くの人々が、住み慣れた地域から、離れることを余儀なくされています。いまだに、自らの家に帰還する見通しが立っていない人々が多いことを思うと、心が痛みます。・・・・・」

「この 3 年間、被災地においては、人々が厳しい状況の中、お互いの絆を大切にしつつ、幾多の困難を乗り越え、復興に向けて、懸命に努力を続けてきました。また、国内外の人々が、こうした努力を支援するため、引き続き、さまざまな形で、尽力していることを心強く思っています。」

「被災した人々の上には、今も、さまざまな苦労があることと察しています。この人々の健康が守られ、どうか希望を失うことなく、これからを過ごしていかれるよう、長きにわたって、国民皆が、心を一つにして、寄り添っていくことが大切と思います。・・・」

被災地の方々のこころを打ち、勇気付けられるお言葉だと思います。陛下のお言葉は、また全国民共通の願いだろうと思います。この日の記事には、天皇陛下をはじめ多くの方々の言葉が新聞に載りましたが、次の方の言葉も忘れられません。

「福島県の追悼式典は福島市であり、津波で夫を亡くした、いわき市の高木京子さん(62)は「疲れた時には休みましょう。泣きたい時は泣きましょう。笑いたい時は笑いましょう。生きていかなければならないのですから」とあいさつ。」

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昨年に続いて、今私が教えているベトナムの学校で 「3月11日の追悼式」 を行いました。昨年も3月11日の 12時46分(日本時間2時46分)に一分間の黙祷をしました。

今年は黙祷に加えて、 400人近い生徒たちと先生たち全員で、 『花は咲く』 を合唱しました。この『花は咲く』は、東日本大震災 の被災地および被災者の復興を応援するために 2012 年に制作されたチャリティーソングだということです。

実 は私は今年の2月に、日本にこのような歌があることを初めて知りました。今年の2月に日本から新しく赴任されて来た O先生が、このような歌があるのを紹介されました。それを初めて聴いた時、(何というすばらしい歌だろうか・・・)と思いました。この歌はいろんな人たちが、いろんなパターンで歌っていますが、その一つを紹介いたします(外部リンク)

そしてこの歌を「3月11日」に生徒たちと先生たち全員で歌い、その様子をビデオに撮ることにしました。一昨年は生徒たちの寄せ書き、そして昨年は黙祷の場面の映像を、被災地にある教育委員会に贈らせて頂きました。今年は、この『花は咲く』の大合唱を贈ることになりました。

O先生に紹介して頂いてから約一ヶ月、400人近くいるクラスの全てのクラスで、この歌を練習しました。日本語の歌詞にはベトナム語の翻訳も付けていましたので、生徒たちもその内容は良く理解出来たようでした。この歌は音程自体は易しいのですが、歌詞の区切り方が難しいですね。でも二週間ほど経つと、生徒たちもだんだん上手くなって来ました。

そしていよいよ迎えた「3月11日」。 12時半に校庭に400人の生徒たち全員が集合しました。この時太陽は頭上にあり、大変暑かったです。そして生徒たちの前に立ったS校長がマイクを握って話をしようとしました。しかし、マイクを前に上に向けた時、彼は絶句・・・。嗚咽をこらえて、声が出て来ません。

実は彼の故郷が津波の被害を受けたところなのでした。震災から一年後、彼はその自分の故郷に戻りました。「昔の光景と変わり果てた姿にただ呆然としました。」と、後で話してくれました。この時に、その光景が脳裏に甦って来たのでしょう。

生徒たちも呆然としています。同じように眼を赤くしている生徒もいます。私も胸が塞がる思いでした。そしてしばらくして、 S校長は息を大きく吸い、腹の底から絞るように声を出して挨拶しました。

「今日はみなさん、暑い中に校庭に集まってもらって有難う。今からあの日本時間の 2時46分が訪れます。その時間になった時、全員で一分間の黙祷をしたいと思います。」

そしてその時間が来ました。・・・全員一分間黙祷・・・その後、全員で『花は咲く』を歌いました。時折上空を飛ぶ飛行機の音に負けじと、みんなが力を籠めて歌ってくれました。ベトナムの生徒たちが日本語で歌った『花が咲く』。東北地方の方々のこころに届けば・・・と願っています。

Posted by aozaiVN