【2019年4月】二人の日本人の方との「お別れ」と「永別」/「令和」が5月1日から日本の元号となる
春さんのひとりごと
二人の日本人の方との「お別れ」と「永別」
今年の三月、サイゴンで二人の日本人の友人との。「お別れ」と「永別」がありました。偶然ながら、お二人ともサイゴン市内の<人文社会科学大学>で日本語を教えられていました。一人の方は女性でSR先生、もう一人の方は男性でTM先生と言います。お二人とも日本で出会ったことはなく、このサイゴンで初めて知り合った方たちです。
SR先生は3月に「本帰国」されて、もうこのサイゴンで日本語の先生として勤めることは無くなりますが、「また機会を見つけて遊びに来ますよ!」と話されていましたので、いつかまた再会出来るでしょう。
しかし、もう一人のTM先生はあの世に逝かれました。逝去された時は66歳でした。もう二度と、このサイゴンでお会いすることは出来ません。長くはないお付き合いでしたが、「TM先生が亡くなられました」という報せを聞き、生前の明るく、快活な笑いをされていた笑顔を思い出し、深い悲しみを抑えることが出来ませんでした。
● SR先生の「お別れ会」 ●
SR先生は5年ほど前にサイゴンの<人文社会科学大学>に赴任され、ベトナムの若者たちに「日本語の先生」として教鞭を執られてきました。また、<日本人学校>でも、日本人の生徒たちを指導されてきました。出身は大阪でした。
SR先生を紹介して頂いたのは、「国際交流基金」のKH先生です。KH先生については、【2015年11月号】の<ハノイから来られた『日本語教育アドバイザー』>でも詳しく触れています。そのKH先生の紹介で、SR先生とは2015年に「スシコ」で会いました。
その時には何の前触れも無く、突然「スシコ」にSR先生が登場されました。(突然現れて、驚かせてやろう)というイタズラ心からだったようです。その時のハプニングも【2015年11月号】に書いていますが、SR先生はとにかく快活で、冗談を飛ばされる女性でした。
たまたま、その場には、あの「ベトナム戦争当時にバナナを植えていた日本人・Yさん」がおられましたが、SR先生が帰られた後、「あの人はやはり、大阪の人 ですね」と大笑いしながら私に話されたのを覚えています。人生経験が長いYさんの話によると「大阪人は笑いを取るのが好きで、冗談が上手いんですよ」ということらしいです。
そして、後日SR先生と、Yさん、当時Hong Bang(ホン バン)大学で日本語を教えておられたTR先生と私の四人が集まって話していた時に、「大阪人は笑いを取るのが好き」「冗談が上手い」、その実例をSR先生が私たちに披露してくれました。
その場で、SR先生が「私はもう年なので、この顔は一円玉のようなものです」と冗談交じりに言われました。私とTR先生が顔を見合わせて「一円玉のようなもの・・・。どういう意味だろう?」と、しばらく思案していると、SR先生が続けて「これ以上は崩れようが無いという意味です」と言われたのです。それを聞いた私たち二人は大笑いしました。
SR先生がタクシーに乗って帰られた後、Yさんは「いや~、やはり彼女は大阪の人でしたねー」と、前回話した自分の言葉を確信したように、何回も肯いておられました。その後、TR先生と私が会った時には、今でもその「一円玉の話」を話題にしては、二人で思い出し笑いをしています。あのような冗談をサラリと言ってのける才能はスゴイと思います。「やはり大阪の人」はみんながそうなのでしょうか。「大阪人」を多くは知らないので、良く分かりませんが・・・。
SR先生には「Haiさんの奨学金支援の会」でも協力を頂きました。Haiさんが同じ<人文社会科学大学>に在籍していたこともあり、いち早く支援の申し出をされました。Haiさんへの支援はちょうど二年間続きました。
Haiさんが毎月の奨学金を受け取った後、支援した人たちにお礼の連絡を送るのが遅い時などは、同じ大学内にいるので、個別に呼んでHaiさんに注意していたと聞いたことがあります。優しさと厳しさと、その二つを身に付けておられたのです。
SR先生は闊達なところがありました。サイゴンでアパートを借りる時、何と「最初に五年分の家賃を一括で払いました」と言われたのです。サイゴン市内のアパートを借りる場合、借り手側が払うのは普通の慣習では半年分ぐらいです。それをまとめて五年分払われたのです。その理由は、「面倒くさいから」ということでした。
「何かトラブルがあって、引越ししなければならなくなった時、果たして大家が残りの家賃を素直に返してくれるかどうか分かりませんよ」と、私が言いますと、そういうことは気にしていないような表情で、「何回も家賃を払うのは、やはり面倒くさいですよ」と言って、ニコニコしておられます。
サイゴン滞在があと十ヶ月ほどで五年目を迎えようとした時、果たして大家さんから「改築するので、自分の別のアパートに移って欲しい」と言われたそうです。しかし、その大家さんは良心的な大家さんだったようで、別のアパートに移っても、家賃はそのままに据え置いてくれて、さらに余分に家賃を払う必要はなかったそうです。ですから、五年分前払いした家賃のままで、サイゴン生活の最後まで無事に過ごすことが出来たことになります。
そして、五年目を迎えた三月末にSR先生は日本に帰られることになりました。そのお別れの挨拶に「スシコ」までわざわざ来て頂きました。そこには、Yさん、TR先生、そして私が同席しました。この時、SR先生はご主人を同伴されていました。ご主人は私と同じ熊本出身なので、より打ち解けた間柄になり、話も大いに弾みました。
今回ご主人はSR先生の帰国時の荷造りを手伝うために飛行機で飛んで来られたのですが、その荷物の重量が何と80kgにもなったと言われました。確かに80kgの荷物を一人で日本まで持ち帰るのは無理でしょう。
「80kgとはすごい量ですね。そんなにいっぱい何があるのですか」と訊きますと「日本から持ち込んだ着物や茶道具などです」と答えられました。大学内で行われるイベントで、日本の着物を着て「茶道」の紹介や実演などをされてきたので、そういう持ち物が徐々に増えていったそうです。やはり、ご主人と二人で持ち帰らないと無理でしょう。
「茶道で使った茶器なども重いので、あなたにあげますよ」と言われましたが、私自身が茶道を知っているわけでもないし、宝の持ち腐れになります。それに、こちらでは普段、グラスに氷を入れた、冷たいお茶(チャー ダー)しか飲まないので、それは丁重にお断りしました。
SR先生は日本に帰国後、「自宅を開放して、ベトナム人の若者たちに日本語を教えていきたいと考えています」と話されました。日本に帰っても、“ベトナムとの縁”を切らずに、繋げてゆかれる気持ちを持たれているのでした。この日、ご主人と一緒に先に席を立たれましたが、「また機会を見つけては、是非サイゴンに遊びにきますよ」と別れ際に述べられました。
“SR先生、五年間ご苦労さまでした。そして、有り難うございました!またお会いしましょう!”
● TM先生との「永別」 ●
三月初旬、あの「Saint Vinh Son小学校」の運営責任者・藤牧さんから私に 電話が掛かってきました。
ちなみに、「Saint Vinh Son小学校」は今閉校に なりましたが、藤牧さんご自身は定期的に日本とベトナムを往復されています。藤牧さんからの電話は以下でした。
「あのTM先生が亡くなられましたよ。日本にいる友人が知らせてきました」
それを聞いた私は「えっ、本当ですか!信じられない・・・」と、大いに驚きました。何故ならTM先生は私と同じ年生まれの66歳だったからです。一年ほど前に、TM先生とは「スシコ」でSR先生と一緒に顔を合わせて、食べて、飲んだことがありました。
その時はすでに私自身も、TM先生が病気(肺ガンでした)に罹っていたのは知っていました。4年前にその病気がTM先生を襲いました。その後、放射線治療のために日本で検査して「異常なし、転移なし」という結果が出れば、またサイゴンに戻り教壇に立たれていたのです。
「生徒たちの前に立てば、病気も治るだろう」と信じ込んでおられるように、検査結果に問題が無ければ、すぐにサイゴンに戻られていました。TM先生の病名を知っていた藤牧さん、SR先生、私たちは「少しゆっくりされたらいいのに」と話していました。
一年前に「スシコ」で会った時にも、(少し痩せられたかな・・・)というぐらいの感じで、顔の表情といい、話し方といい、以前と変わらぬ元気の良さだったのでした。ご自身でも「病気になっているという自覚が自分でも無いのですよ」と話されていたのです。そのTM先生がこんなにも早く逝かれるとは・・・、どうにも信じられない思いでした。
TM先生と出会ったのは約8年も前になります。出会った場所はサイゴン市内にある「ダムセン公園」という娯楽施設内でした。そこの場所では毎年「Saint Vinh Son小学校」の生徒さんたちをプールに招待していました。そして、日本から来た「ベトナムマングローブ子ども親善大使」の参加者たちと「交流会」をしていたのでした。
その場にTM先生がご夫婦で来られました。奥さんは元スチュワーデスだったということで、大変綺麗な方でした。TM先生夫妻を「ダムセン公園」まで案内したのは藤牧さんでした。TM先生が「サイゴンで日本語の先生として働く」ことを知り、その当時すでに日本語を教えていた私に引き合わせてくれました。それが初めての出会いでした。
そしてその時、TM先生が私と同じ昭和28年の生まれで、同年齢であることが分かり「“花のニッパチ組”ですね!」と言って、大いに盛り上がりました。 それから、TM先生夫妻とのお付き合いが始まりました。お二人とも気さくな 人柄で、会って話すたびに多くのことを教えて頂きました。特に、TM先生は「日本語の先生」としてデビューする前はバリバリの営業マンで、いろいろな 体験談を聴くことが出来ました。
<人文社会科学大学>内の教室では毎週「東日クラブ」が開かれています。そこには多くのベトナム人の大学生たちと、サイゴン在住の日本人たちが集まり、 日本語で会話しています。私が【2011年4月号】の<いつか帰る 愛の故郷>で触れたのも、その「東日クラブ」の中でのことでした。
今から8年も前のことになりますが、あの時には直前に「東日本大震災」が発生し、多くの方々が地震と津波で亡くなられました。それに対して、ベトナムでは官民上げての支援が起こりました。多くの義捐金も集まりました。それに対して、私から「サイゴン在住の日本人の一人」としてお礼の言葉を述べさせて頂きました。
また、私が直接日本語を教えている生徒たちが、「東日本大震災」で被災した日本の人たちに心を痛めて、日の丸を作成して、それに寄せ書きしてくれた <日の丸の旗>もその場に持ち込みました。 みんなが日本語でいろいろな寄せ書きをしてくれていました。そして、一番下に次のような言葉が書いてありました。
<東日本大震災で被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます>
ベトナム人研修生一同
その「東日クラブ」が終わり、私が教室を出て行こうとした時、TM先生の奥さんが私を呼び止めて「あの話を聴いて、眼がウルウルしてきました」と、 感謝の言葉を述べられました。TM先生の奥さんも毎週のように「東日クラブ」 に参加されていたので、私がその時話したことを、同じ部屋で聴いて頂いて いたのでした。
「東日クラブ」は基本的に、<人文社会科学大学>内の教室の中で行われて います。この大学は市内の中心部にあり、郊外や郡部から来た生徒たちが集まるのに便利な位置にあります。 それで、「日本語検定試験」の「日本語能力試験」や「NAT-TEST」などの試験会場としても利用されています。
上記の試験は日曜日に実施されているので、当然「東日クラブ」とぶつかります。それで、そういう試験が行われる日には大学内の教室を使わせてもらえなくなり、別の場所に移動して「東日クラブ」を行っています。その場所は「9月23日公園」です。その日だけは屋外の公園内で実施しています。
私が顔を出す「日本語会話クラブ」は<青年文化会館>の中にあります。そこに行く時、いつも「9月23日公園」の横を通ります。その公園内に数十人のベトナム人の若者たちのグループが集まっているのを見かけることがあり、日本人らしき人たちもいます。その中に、TM先生もいます。(ああ、「東日クラブ」のメンバーが今日はあそこでやっているな・・・)と分かりますが、集まっている場所は私がバイクで通る道路から離れているので、敢えて声は掛けません。
「日本語能力試験」は年二回、「NAT-TEST」は年六回実施されますので、その度に「9月23日公園」内に移動して「東日クラブ」を行っているのです。それは今後も続くでしょう。私も毎週日曜日、そこを通る時「東日クラブ」の人たちが集まっているのを見るはずです。しかし、これからはそこにTM先生の姿を見かけることは無いのです。在りし日のTM先生の面影を重ねることでしょう。
TM先生が逝去される少し前に、こちらのフリー・ペーパーの雑誌「Kilala」に、TM先生の教え子の一人がTM先生について書いた文章がありますので、その一部を紹介します。病と闘いながらも、熱心に「日本語の先生」として活躍してこられた、生前のTM先生の姿がここにはありのままに描かれています。涙無しに読むことが出来ません・・・。
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「大学卒業後、数年が経ってから、私達はTM先生と再会出来ました。日本で放射線治療を受けられ、白髪交じりになって、声と体が弱くなられたTM先生。人文社会科学大学の日本語学科を支えられた8年という月日は決して長くはありませんが、先生にとってかけがえのない日々となりました。
お歳を取られてから教師の仕事を始められたにもかかわらず、私が今まで習ったなかで最も熱心な教師のひとりであったTM先生。・・・
TM先生は日本語クラブ<東日>のサポートもしてくださいました。メンバーたちがアドバイスを求める時や日本語を修正して欲しい時には、細かいところまで手伝ってくださいました。夜中の2、3時まで日本語を修正してくださったこともあり、クラブが終わっても自らお残りいただき、振り返りミーティングをしていただいたことも何回もあります。
<東日クラブ>に通っていた学生なら、いつも笑顔で学生たちとゲームに参加していた年配の日本人の先生が記憶にあるはずです。勇気を出して話しかけると先生はかすれがちの温かい関西弁で返事してくださいました。
Thanh Trucさん(25歳・日本在住)は、
“3年生の時、先生が病気にかかられ、すぐに帰国しないといけないという話をお聞きし、みんなで寂しくなりました。2年生の後輩たちが期末試験を受験できるように、先生は話すことも困難な自分の状態をかえりみずに、試験の直前奥さんへ試験問題を送るように頼まれたそうです。病院で眼が覚め、学生たちからお見舞いのメッセージをもらった時には、自分が早く回復できたのは学生たちのおかげだと、曇りがちの声で話されました”
と語りました。
私たちにそれほどの思いを寄せてくれるTM先生はまるで仏さまのようです。先生を尊敬すればするほど、先生のように生きたいと思うはずです。うさぎでも亀でも自分なりに輝く。些細なことでも軽視せずに、自分の仕事を150%まで果たす。そうすることで、おのずと他人から尊敬されるようになれるはずです」
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まだ若いベトナム人の若者がTM先生について書いてくれた文章ですが、“見事な日本語”というべきです。これを書いてくれたTM先生の教え子の方は、今どういう気持ちでTM先生の逝去を受け止めているでしょうか。さらには、多くの教え子さんたちも同じ悲しみに暮れていることでしょう。
TM先生、私たちがサイゴンで出会った歳月は短いものでしたが、私にとって忘れ難い思い出を幾つも頂きました。それ以上に、ベトナムの若者たちのこころの中に、今も大きな印象を残し、強い影響を与えています。彼らはTM先生のことを生涯忘れることはないでしょう。
“謹んで、TM先生のご冥福をお祈り致します。安らかにお眠りください”
ベトナムBAOニュース
「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。
「令和」が5月1日から日本の元号となる
今の皇太子・徳仁親王が正式に天皇になる5月1日から、日本の新しい元号は「令和」になる。4月1日の朝、日本の内閣官房長官の菅義偉氏がそのニュースを発表した。
安倍晋三首相は、
「新しい元号の令和には人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つという意味が込められております。万葉集は1200年あまり前に編纂された日本最古の歌集であるとともに、天皇や皇族、貴族だけでなく防人や農民まで幅広い階層の人々が詠んだ歌が収められ、我が国の豊かな国民文化と長い伝統を象徴する国書であります。
悠久の歴史と香り高き文化、四季折々の美しい自然、こうした日本の国柄をしっかりと次の時代へと引き継いでいく、厳しい寒さの後に春の訪れを告げ、見事に咲き誇る梅の花のように、一人一人の日本人が明日への希望とともにそれぞれの花を大きく咲かせることができる、そうした日本でありたいとの願いを込め、令和に決定致しました」
と発表したばかりの新元号「令和」の意味を説明した。日本では、「元号」は硬貨、カレンダーなど、さらに主要な新聞などでよく使われている。西暦も日本で広く使用されているが、多くの日本人は依然として「元号」に従って年数を数えるか、日本では年度を表示する時、これらの両方を使用している。
徳仁皇太子の天皇の即位式は、4月30日に父親である明仁天皇が退位する翌日に行われ、1989年から始まった「平成」の元号が終わる。天皇陛下が生前退位されるのは1817年の光格天皇以来、約200年ぶりである。
<Tuoi Tre新聞>
◆ 解説 ◆
新しい「元号」の発表は、日本時間で4月1日の11時半からでした。ベトナム時間では9時半になります。私も(今か・・・、今か・・・)と待ちわびていました。そして、いよいよ発表の時刻、菅官房長官が手にしたのは「令和」という文字でした。
「平成」の発表の時に、特に「何と斬新な!」という印象はありませんでした が、この「令和」もそうでした。しかし、しばらくの時間が過ぎた今は「落ち着いた、いい響きの元号だな」という感じがしてきました。
ベトナムでは「元号」が無いので、ベトナムの人たち自身は「新しい元号は何 ですか」と聞いてくることはありません。無関心です。 でも一応、私が教えているクラスでは、「日本では5月1日から新しい年号が始まりますよ。西暦も また一緒に使います。」と説明しました。
今、日本は「西暦」と「元号」を併用していますが、「元号」は中国からの由来とは言え、本家では消滅しましたから、アジアでは日本だけとなりました。昔高校で、歴史の先生から「日本で元号が最初に使われたのは【大化の改新(645年)】の大化からだよ」と教わりましたが、そうであれば1370年以上経っているわけです。
すでにそれだけの年数が経過していれば、それはもう「日本の文化の一部」になっていると考えていいでしょう。私自身はベトナムにいて(そう言えば、今年2019年は平成で言えば何年だったかな?)と、ふと考え込むことがあります。年齢や歴史年代を数える時には、断然「西暦」のほうが便利です。
しかし、文化というのは長くその国で親しまれていると、「便利」「不便」では片付けられない<愛着>の部分が出てきます。毎日使う「道具」もそうだと思います。私は今でも「スマートフォン」は使わず、「ガラ携」しか持っていません。友人たちは「早くスマホに替えたら。時代遅れだよ」と忠告してくれます。しかし、私が携帯を使うのは、電話を掛けるのと、メッセージを送るだけなので、それで、日常生活に大して不便は感じていません。
新しい「元号」も「便利か」「不便か」と言えば、「令和元年」に生まれた人にとっては、すぐに年齢が計算出来るので「便利」でしょうが、昭和、平成に慣れ親しんできた人間にとっては、最初は「不便」に感じることも多いと思います。
しかし、やはり「元号」はそれを使ううちに<愛着>が出てきます。正式に5月1日からこの「令和」が始まった時には、国民にとっても<愛着>あるものになっているような感じがします。