【2020年12月号】今年の終わりの感慨。最後を締めくくった結婚式/日越関係で17の個人・団体が外務大臣表彰を受賞

春さんのひとりごと

今年の終わりの感慨。最後を締めくくった結婚式

2020年ももうすぐ終わります。今年に起きた世界最大の<災難>はやはり「コロナ」に尽きるでしょう。世界で起きた「コロナ」による<災難>はニュースでしか知ることは出来ませんが、私自身の身近にも、「コロナ」の影響で実に多くのことが起きました。 そして、今年も終わろうとする頃、私のベトナム人の知人で、「村山日本語学校」の先生でもある、女性のHuong先生が結婚式を挙げられました。一年が終わろうとする頃に、嬉しい出来事「生徒の日本行き」「結婚式」の二つが重なりました。

●11月に日本へ行った教え子たちのその後

先月号で、ベトナムでの11人の教え子たちが「実習生」として日本に行くことを報告しましたが、彼らは無事に日本の「成田国際空港」に着きました。彼らが働くのは三重県なのに、何故「関西国際空港」に降りないで、「成田国際空港」なのか、彼らの出発時にはその理由が分かりませんでした。

しかし、その後分かりました。彼らが日本に行った時、ベトナムから日本への直行便が有るのは「成田国際空港」しか無く、「関西国際空港」に行くためには韓国経由で行くしかなかったのでした。韓国経由で行く場合は「待ち時間」が発生します。それで、わざわざ遠い「成田国際空港」まで行ったと言うことでした。それを、日本に行った教え子たちから聞いて分かりました。

日本に着いてからの動きについて私にコマメに連絡くれたのはQuyet(クィット)くんという名前の男子生徒です。ベトナムから持ち込んだスマート・フォンの機種で、日本のLINEの機能がそのまま使えるようで、「隔離生活」の合間を縫って連絡してくれたのでした。しかも、そういうメッセージを何回送っても無料だというのですから、ガラ携しか持たない私には驚きです。

ちなみに、Quyet(クィット)くんのベトナムの名前を漢字で表すと「決」になります。「漢越語」ですので二つの発音は似ています。ベトナムは過去において「漢字」を採用していたことがあるので、今のベトナム語の中には「漢字」で書き表せる単語が、全部のベトナム語の単語ではありませんが、数多く有ります。

2016年11月号●<ダナンでの“十一面観音菩薩像奉納の儀式”に参加>●でも触れていますが、今のベトナム語のアルファベットの表記自体が、ベトナムの学校教育に採り入れられたのは、実は1945年から始まった新しいものなのです。しかし、漢字を知らない今のベトナムの人たちはその由来を知らないまま日常生活で使っています。その中で、日本語とベトナム語は似たような発音や意味が同じものも幾つもあります。例を挙げると、日本語の「注意」はベトナム語でも「Chu y(チュー イー)」です。

先月号でも触れたVu(ヴー)くんは漢字で表すと「宇宙」の「宇」。11月に日本に行った生徒では、Toan(トアン)くんは「安全」の「全」Duong(ユーン)くんは「太陽」の「陽Phong(フォン)くんは「台風」の「風Vinh(ヴィン)くんは「光栄」の「栄」などです。まだこの他にもたくさん有ります。

こういう「漢越語」で書き表せる名前を持った生徒たちが日本人の前で「自己紹介」を行う時には、名前のアピール度が違ってきます。普通の日本人にはベトナム人の名前は覚えにくく、発音も難しいからです。しかし、漢字で書くと「ああー、そうか!」と、日本人にも分かります。

彼ら実習生たちや留学生たちが日本に着いたら、会社や工場や会合など、いろいろな場面で「自己紹介」をすることが多くなります。それで、日本行きが決まった彼らには、「自己紹介の仕方」の訓練をしてあげました。それを聴いている人たちは、全員が日本語しか分からない日本人たちであるという前提で「自己紹介」に慣れさせておくのです。

その具体的な例をQuyet(クィット)くんに挙げれば、「初めまして」「私はベトナムのQuyetと申します」「Quyetは日本語で<決心><決>という意味です」と話して、黒板にその<決心>という漢字をチョークで書きます。その漢字の「筆順」や「払う」「止める」「撥ねる」なども事前に正確に、何回も練習しておきます。

それから、以下・・・「家族」「田舎」「趣味」「専門」などの紹介が続き、最後にまた<決心>の漢字を指さし、「日本で3年間しっかり頑張ろうと決心してこちらにやって来ました。よろしくお願い致します」というふうに「自己紹介」をすれば、聴いている日本人たちも(へえ~、そうなのか!)と、彼に対する印象度が、一日目にしてずいぶん違うことでしょう。

そのQuyetくんが送ってくれたメッセージで、「日本到着後の動き」「隔離生活の様子」も分かりました。彼らは成田国際空港に到着後、成田で「隔離」されたのではなくて、バスで「岐阜県」まで移動しました。その岐阜県で「隔離生活」が始まりました。それから、ホテルの中で「隔離生活」がスタートしました。予定通り2週間の期間です。

ホテルの部屋は一人一部屋が割り当てられています。その部屋の中の写真も見ましたが、ホテルというだけに、大変キレイな部屋でした。食事はホテル側が用意した「幕ノ内弁当」のようなお弁当が写真にUPされていました。日本人の私から見ても、(わぁー、オイシそう!)と思える写真でした。

しかし、QuyetくんとVinhくんがその同じ「幕ノ内弁当」を食べた後の感想は、二人とも「見た目は美味しそうでしたが、食べたらマズかった!」と言うものでした。それを読んで、思わず笑いました。マズくても食べるしかないでしょうが、日本のホテルにベトナム人の若者たちが2週間「隔離」され、毎日三度の日本食を摂ることになります。

ホテル側もベトナム人が十数人宿泊するにしても、ベトナム料理に定番の「ヌックマム」などは用意していないでしょう。それで彼らは物足りなく感じたのかもしれません。でも、ある一人の生徒は「美味しいです!」とコメントしていました。しばらくしたら、みんな「日本の味付け」に慣れてくるでしょう。

Quyetくんは「隔離生活中の過ごし方」についても詳しく知らせてくれました。これは全員に共通した「一日の過ごし方」ですので、今後の参考にもなるかと思います。それを紹介してみますと・・・

◎全員が朝6時半起床。洗顔と歯磨き。部屋の中で一人で食事。
◎朝8時に検温。その結果を組合にいる女性の先生にLINEで報告。
◎8時半からみんなZoomを使って、日本語のオンライン学習。
◎11時50分から1時10分までお昼休み。夕方5時半までまたオンライン学習。
◎その後、シャワーと食事。夜は7時から8時半までオンライン学習。
◎その後、10時に就寝。
 

以上がQuyetくんから送ってきた「隔離生活中の過ごし方」です。このような規則正しい生活が2週間続いた後、ようやく彼らは「隔離生活」から解放されて、次は組合での日本語学習が一か月続き、その後ようやく 「実習生」として日本での職場に入ってゆくのです。今年は「コロナ禍」のせいで、いろいろ面倒なことが起きましたが、日本へ行く<夢>を抱いてベトナムで長い間頑張ってきた思いが実現します。

先月号で、Vuくんの「日誌」に書いてあった、彼の苦悩が滲み出ている内容を紹介しましたが、今ベトナムに残って頑張っている生徒たちもまた、同じような悩みを抱えています。「いつ日本に行けるか分からないので、一度退学して働くことも考えています。でも、両親は私に続けて欲しいと願っています」と、ある男子生徒が書いていました。

私たちの役目は、彼らを励まして、日本語の勉強を続けさせてゆくことしか出来ません。そういう悩みを抱えた生徒たちが、今ベトナム全土で日本語を勉強しながら、日本行きの<夢の実現>を願っていることでしょう。この時期に日本に行ったベトナム人の「実習生たち」は、そういう悩みを抱え、それらを乗り越えて日本に向かった若者たちであることを、日本の人たちにも知って頂きたいと願っています。

「日本語会話クラブ」もお休み

毎週日曜日の午前中にサイゴン市内の「青年文化会館」では、今まで「日本語会話クラブ」が行われていました。しかし、今年は「コロナ禍」で「お休み」が多くなりました。「お休み」が多くなると、今まで毎週参加していたクラブのメンバーも足が遠のいてゆきます。常連のメンバーが「お休み」すると、新しい参加者も来なくなります。今年一年はその繰り返しでした。

そして、またまた11月末に市内で「コロナの感染者」が発生しました。今回の感染者は「ベトナム・エアーライン」の客室乗務員の一人だったそうで、それだけでベトナム・エアーラインの乗務員たちが勤務する建物全体が「隔離」。さらには私の娘が通う「HUTECH大学」においても、一人の生徒の感染者が出たそうで、12月最初の週は大学が「休校」。

それで、(もしや・・、日本語会話クラブはお休みかな?)と思い、12月6日の日曜日に「青年文化会館」に行ってみました。その3週間前に「日本語会話クラブ」を覗いた時には、わずか四人の参加者しかいませんでした。それも「個室」で行っているわけではなくて、会館に入ってすぐの入り口横の狭いスペースで細々と行っていました。

それが、12月6日に行ってみると、誰もいない状態。そのすぐ隣では別の小人数のグループが集まっていましたので、彼らに「日本語会話クラブは?」と訊くと、「お休みのようですよ」との答え。彼らは「英会話クラブ」の参加者たちでした。今後も継続して「日本語会話クラブ」が行われるかどうか、分からない状態になりました。

幸いにも、私の娘が通う大学の「休校」は一週間だけで終わりました。今年初めから始まった「コロナ騒ぎ」でしたが、そのせいで、私自身は日本への帰国が叶いませんでした。しかし、今後もまだまだ「コロナ」に振り回されそうな予感がします。来年が明るい年になってくれることを祈るだけです。

Huong先生の結婚式

12月に入った二週間目に「村山日本語学校」で日本語を教えていたHuong先生から連絡が有りました。「12月13日に結婚式を挙げるので、招待状を渡したいのですが、どこで会えますか」と。それで、私は「ではスシコで会いましょう。夕方6時半頃に、私は着くようにします」と返事をしました。ちなみに、私の教え子で「実習生」として日本に行き、その後「実習生」に日本語を教えていたHuongさんとは名前は同じですが別人です。

「村山日本語学校」のHuong先生には、我が社・ティエラの夏合宿「ベトナムマングローブ子ども親善大使」が大変お世話になった思い出がたくさん有ります。昨年まで毎年ベトナムに来ていた「親善大使」の生徒たちは、ベトナム到着後二日目には「市内観光」をするのが恒例の行事になっていました。

その時には「村山日本語学校」の生徒さんたちに「市内観光」にも一緒に付き合ってもらいました。さらには市内の公園の中の木陰でベトナム人の生徒さんたちに「ベトナム語の先生」になってもらい、簡単な「あいさつ言葉」や「自己紹介」がベトナム語で言えるように、日本の生徒たちに一対一で指導してもらいました。後日予定している「ホームステイ」で役立ててもらうためです。

そのベトナムの生徒たちとの<交流会>は全部で3回ほど有りましたが、ベトナム側の生徒への声掛けや参加者の人数の調整や引率などを、すべてHuong先生にして頂いたのです。「親善大使」がベトナムを去る前日には、ホテル内の食堂でみんな一緒に食事しながらの<お別れ会>も行っていましたが、事前に連絡してもらったベトナムの生徒の人数と当日の参加者はピッタリと合っていました。

そういう手配と段取り、連絡を彼女がやってくれていたのです。それは、私一人では出来ない役目でした。そういう意味でも本当にお世話になっていた存在でした。しかし、その彼女が2017年から日本に留学することになりました。それでも、後任の女性の先生もキチンと手配して日本に行きましたので、その後も「親善大使」の活動が支障なく行えました。

そして、昨年彼女がベトナムに戻ったことは聞いていました。その後お互いに連絡はしていませんでしたが、私自身はまた「日本語学校」でずっと教えておられるものと思っていました。しかし、今年の3月頃から「村山日本語学校」の前をバイクで通り過ぎてゆく時(あれ・・・!)と思うことがありました。今まで校門の前に掲げて有った、ベトナム語の表記の「村山日本語学校」の看板が消えていたからです。

我が社の「親善大使」の行事も今年は中止になり、関係している諸機関にその「お詫び」の連絡を入れました。当然「村山日本語学校」にも連絡しましたが、そのことについては私も聞かずじまいのままでした。それで、Huong先生が結婚式の招待状を持って来るというこの日に確認したいと考えていました。

約束通り、Huong先生は私が着いてしばらくしてからバイクに乗って一人でやって来ました。マスクをしていました。私の眼の前に座ってもらい、いろいろ話しました。その間彼女はずっとマスクは着けたままです。私はと言えば、マスクをしていると暑いし、ビールを飲みたいので外しています。

早速「今、村山日本語学校はどうなっていますか?」と質問しました。すると、私が恐れていた通り「あのコロナ騒ぎの後、2月から休校になり、3月からは閉校になりました。生徒たちはみんな辞めました」と言う返事でした。(やはり、そうだったのか・・・)と、予想はしていましたが、大変ガッカリしました。「村山日本語学校」で日本語を勉強していた生徒さんたちが、あの学校からいなくなったのです。当然Huong先生はじめ、他の先生たちも辞めました。

それから、Huong先生はバッグから招待状を取り出して、私に差し出しました。その招待状の表には「新郎新婦」二人が笑顔で写っている写真が有りました。その新郎さんの顔を見ると、私にも見覚えが有る男性です。(この人は・・・)と私が口を開くと、「そうですよ!あなたも良く知っているはずですよ。日本の生徒さんたちとの交流会にも参加していましたからね」と笑顔で応えました。新郎さんは「村山日本語学校」に関係した人だったのです。Huong先生は「今私はITの会社に勤めています」と話しました。

それから、Huong先生は笑いながら「実は当日の式の時にはあなたに日本の歌を歌って欲しいのです」と言うではありませんか。「えっ、私が歌うの!?」と訊くと「そうですよ。いつか私が結婚する時には長渕剛さんの<乾杯>を歌ってあげますよと、以前言ってましたよ」と言うのです。

おそらく、彼女にどこかで、冗談で話していたのかもしれません。最近物忘れがヒドイので、自分ではすっかり忘れていましたが、そうであれば歌うしか仕方がありません。長渕剛さんの<乾杯>は生徒たちの前で、今も時々歌っていますので、問題は有りません。

(日本語とベトナム語の二つが付いた「歌詞」をコピーしておく必要があるな・・・)と思い、「当日は何人ぐらいの参加者が来るの」と訊くと、「約400人ぐらいです」との答え。それで、1テーブルに3枚ぐらい歌詞を配るとして、翌日150枚をコピーして準備しておくことにしました。彼女とは30分ぐらい話して、「今からまた別の所に招待状を渡しに行きます」と言って、彼女は先に帰って行きました。

彼女が去った後、招待状を開いてみると、当日は「夕方5時半からお客さんを迎えます」となっています。式自体が始まるのは「7時頃」からです。これはいつも通りです。約30分で式場には着くはずなので、翌日の日曜日は6時過ぎに家を出ました。空模様が少しドンヨリしてきたので(雨が降るかも・・・?)と思い、グラブ・タクシーで行くことにしました。

タクシーの中に持ち込んだ<乾杯>のコピーはビニール袋入れていましたが、女房がチラッと見て「それは何?」と訊きましたが「新婦へのお土産」とだけ答えました。式場にはちょうど夕方6時半に到着。式場入り口に書いてあった「案内板」には新郎新婦の式場は2階と書いてありましたので、そこにエレベーターで上がりました。

式場の入り口には、新郎新婦の二人がお客さんを迎えるために立っています。私たち夫婦を見ると笑顔になり、手招きしてくれて、その場で4人の記念撮影をしました。歌詞のコピーは私が中に持ち込んでも仕方がないので、Huong先生から式場内の従業員の人に頼んで、各テーブルにコピーを必要枚数置いてもらうように頼みました。

「今日は幾つのテーブル数がセットしてありますか」と訊くと、「44テーブルです」とのHuong先生の答え。「では、1つのテーブルに3枚ぐらいを配るように、従業員の人にお願いしてください」と言いますと、彼女も「分かりました」と返事しましたので、受付の所にそのコピーは置いて、私たちは式場内に入ることに。

テーブルの上には札が立ててあり、家族や友人や仕事関係で繋がっているグループ同士で座ってもらうように工夫してあります。私たち二人は「村山学校の関係者」のテーブルに座りました。それからしばらくすると、私が頼んだコピーを従業員の方が各テーブルに配り始めましたので安心しました。

それからしばらく水だけを飲んで結婚式の開宴を待つことにしました。従業員に「ビールはないの?」と訊くと「まだ出せません」との返事なので、仕方なく水だけを飲むことに。しかし、周りをじっと見ていると、だんだんと満席に近い状態になってきました。少なく見ても400人の参加者がいた感じです。「日本人の方はいないのかな?」と注意して見ていましたが、どうもそれらしき人はいませんでした。

そして、7時15分頃になり、場内が暗くなりました。いよいよ式のスタートです。しかし、いつもの花道から二人がなかなか現れません。私は花道の横にカメラを構えて待っていましたが、(準備に手間取っているのかな・・・)と思っていました。すると、後ろの舞台のほうから歌声が聞こえてきます。後ろを振り向くと、何と新郎がマイクを握って歌っているではありませんか。

このパターンは●2019年1月号<Trangさんの結婚式>●の時と同じでした。いやそれ以上だったのは、この日はHuong先生自身もマイクを持って花道を歌いながら歩き、そのまま舞台に上がり、二人で腕を組んで歌い始めたことです。もう、参加者みんなの拍手喝采を浴びていました。

それから恒例の新郎側両親の挨拶から始まり、それに応える形で新婦の両親側の挨拶が終わり、いよいよ宴会のスタートです。従業員が片手にお盆を持ち、料理を配り始めます。それに合わせて、歌手が登場。最初は男性の歌手。続けて女性の歌手が歌い始めました。聴いていて、二人とも大変いい歌声をしていました。

Huong先生は「歌手の方の歌が終わった後、あなたに登場してもらいます」とは事前に話していましたが、なかなかその歌手の歌が終わりません。まあ、これはいつものことですから気にしません。しかし、いつお呼びが掛かるか分からないので、トイレにも行けず、ビールをガブガブ飲むわけにもゆきません。

8時前になり、ようやく歌手の歌が終わりました。すると、お客さんの中ですでに先に予約した方がいたようで、3人の方が壇上に上がり、大声で歌い始めました。仕方がないので、ゆっくりビールを飲んで、私の出番を待つことにしました。この頃になり、女房もこの日、この場で、私が歌うことを知り、苦笑いしています。

そして、写真撮影のために新郎新婦が各テーブルを回り始め、私たちのテーブルの近くに来ました。そこでHuong先生が「今から音楽の演奏の方にリクエストしますので、あなたが歌って頂けますか」と私に頼みました。私も「はい、分かりました」と答えて、ビールが入ったグラスを持ち、舞台に上がりました。

この時8時15分頃でした。私が事前にリクエストしていた長渕剛さんの<乾杯>の曲を、大きなテレビ画面に映し出してもらいました。最初に、自己紹介をして、この歌は日本では結婚式時に良く歌われている歌であることを説明しました。それから歌い始めました。

「長渕 剛」・・・ <乾杯!!>  
  
かたい絆に 思いを よせて    
語り尽せぬ 青春の 日々    
時には 傷つき 時には 喜び   
肩をたたきあった  あの日   
あれからどれくらい たったのだろう     
沈む夕日を いくつ数えたろう     
故郷の友は 今でも君の   
こころの中に いますか  

乾杯!今君は 人生の  
大きな 大きな 舞台に立ち  
はるか長い 道のりを  
歩き始めた 君に 幸せあれ!!  

乾杯!今君は 人生の  
大きな 大きな 舞台に立ち  
はるか長い 道のりを  
歩き始めた 君に 幸せあれ!!  

君に 幸せあれ!!    



(以下、省略)

9時前に、新郎新婦に挨拶してタクシーで家に帰ることにしました。12月の最後までいろいろなことがあり、明るい気持ちから遠ざかっていましたが、この日の「Huong先生の結婚式」に参加させて頂いたおかげで、女房と一緒に帰るタクシーの中で明るい気分になりました。

ベトナムBAOニュース

「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。
「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。

日越関係で17の個人・団体が外務大臣表彰を受賞

日本の外務省は1日、令和2年度(2020年度)外務大臣表彰受賞者を発表した。この中で、ベトナムにおける日本語教育の推進、日本とベトナムとの相互理解の促進、日本とベトナムとの経済関係促進の功績により、17の個人・団体が外務大臣表彰を受賞した。 今年度の外務大臣表彰受賞者は、172個人、65団体(うち日本国内在住受賞者は20個人、11団体。海外在住受賞者は152個人、54団体)。受賞者には表彰状が授与されるほか、個人には副賞が贈られる。ただし、今年は新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の蔓延状況に鑑み、表彰式は行わない。 日越関係の受賞者は以下の通り。

◇グエン・ティ・ビック・ハー(ハノイ貿易大学日本語学部非常勤准教授)
◇井川一久(元朝日新聞記者)
◇市川匡四郎(アイ・ビイ・シイ ベトナム有限会社代表取締役会長)
◇臼田玲子(ユーカフェ・ホイアンプロジェクト代表理事)
◇大西和彦(一般財団法人アジア国際交流奨学財団日本語研究員)
◇神田嘉延(鹿児島大学名誉教授)
◇ギエム・ヴィエット・フオン(元ハノイ大学日本語学部学部長)
◇城戸照彦(金沢大学名誉教授)
◇友田博通(昭和女子大学国際文化研究所所長)
◇レ・ティ・トゥ・ヒエン(モア・プロダクション・ベトナム代表)
◇グエン・コン・タン(ホーチミン市越日友好協会会長)
◇認定特定非営利活動法人日越堺友好協会(大阪府堺市)
◇公益社団法人ベトナム協会(東京都港区)
◇認定NPO法人日越関西友好協会(大阪府大阪市)
◇一般社団法人広島ベトナム平和友好協会(広島県東広島市)
◇特定非営利活動法人日本歯科ボランティア機構(北海道厚岸郡)
◇ジュンコアソシエーション(神奈川県鎌倉市)                                     

<VIETJO>

◆ 解説 ◆

今年発表された「外務大臣表彰受賞者」の中に(おっ!)と、私の眼を惹いた一人の方と一つの団体が有りました。「グエン・コン・タン(ホーチミン市越日友好協会会長)」と「ジュンコアソシエーション(神奈川県鎌倉市)」です。

特に、「グエン・コン・タンさん」とは、最初にお会いしたのが今から20年も前のことになりますので、実に感慨深いものがあります。2000年に私が「タンさん」に直接インタビューをしたことがありました。その時65歳でしたから、今は85歳になられているはずです。でも、2000年にお会いしたその後は「タンさん」にお会いする機会がなかなか有りませんでした。

しかし、我が社の「ベトナムマングローブ子ども親善大使」が「ホーチミン市友好協会」を2014年に最初に訪問して以来、毎年お会い出来るようになりました。「タンさん」がそこに勤務されておられたからです。そのことについては、2014年9月号の●「ホーチミン市友好協会」で、Tanh(タン)さんとの再会 ●と 2015年5月号の●<戦争証跡博物館>で石川文洋さんの写真の記念式典●の中で詳しく触れています。

そして、2016年まではずっと「ホーチミン市友好協会」を表敬訪問させて頂いて、その中で「村山日本語学校」の生徒さんたちとの交流会を行っていました。しかし、その翌年からは「ホーチミン市友好協会」が建物の工事に入り、そこでの交流会が出来なくなり、場所を「村山日本語学校」に変えました。

そこにきて、今年の「コロナ禍」で<Huong先生の結婚式>でも触れたように今年の2月から「村山日本語学校」も「休校」になり、最終的には「閉校」になりました。本当に残念でなりません。でも、また「タンさん」にはお会い出来ると思います。

もう一つの団体の「ジュンコアソシエーション」については2017年12月号の●<年末に贈る三つの物語>●でも触れていますが、<JUNKO Association>の活動が注目されたことは嬉しいことです。2019年5月にJunkoさんのお父さんが「Junko小学校」を訪問されました。

それがこちらのTuoi Tre新聞にも載りました。その記事を紹介したのが●2019年6月号の「Quang Nam(クアン ナム)省のJunko小学校と日本人の父親●です。あの記事を読んでゆきながら、Junkoさんのお父さんの謙虚な人柄にこころ打たれました。お父さんもさぞお喜びのことでしょう。

Posted by aozai