【2019年6月】日本帰国余話・後編/Quang Nam (クアン ナム)省のJunko小学校と 日本人の父親

春さんのひとりごと

日本帰国余話・後編

今年の日本帰国時の後半、初めて会うベトナムの若者との出会い、古くから知るベトナム人の友人との再会。そして、毎年恒例の日本の友人たちとの再会もありました。日本人の友人たちとの再会は私がベトナムに行って以来、今に到るまでずっと続けているものです。

しかし、ベトナムの友人との再会はベトナムで初めて出会った時から長い歳月が流れていましたので、私も大変感慨深いものがありました。ベトナムにいる時から(今年は是非彼らに会いたいなぁー)と希望していましたので、日本に帰国してから連絡を取り合い、今年それが日本で初めて実現しました。(来年もまた日本で再会出来るのでは・・・)と期待しています。

● ベトナム人の若者との出会い ●

私の故郷・玉名市にも最近はベトナム人の実習生たちが働くようになり、昨年彼らを初めて訪問したことがありました。その時のことは【2018年6月号】「日本帰国余話・後編」の●熊本県玉名郡南関町での再会●にも載せています。

今年もそこを訪問したいと思い、帰国してから会社のほうに数回連絡したのですが、昨年窓口になってくれた人との連絡が取れず、残念ながら訪問することが出来ませんでした。私の教え子たちは日本全国に大勢いますが、彼らの迷惑になってはいけないと思い、自分から押し掛けて会いに行くことはありません。それで、今年は南関町の教え子たちに会うことは断念しました。また来年会えれば、それでいいと思います。

そうした時、私の故郷・玉名で一人のベトナム人の若者に出会いました。それは突然出会ったわけではなく、 古くからの私の親友・SNくん紹介してくれたのでした。その親友とは私の高校時代から現在に到るまで付き合いが続いていますので、半世紀にもなろうとしています。

SNくんと私は「英語が好き」「読書の趣味が同じ」だったので、高校時代の友人たちの中でも特に親しくなりました。ある日のこと、学校が終わり、自転車をこぎながら、いろんな話をしてゆき、川に掛かった橋の近くまで来て、(あそこの橋の下で話そうか!)と言うことになり、二人で話を続けたことがありました。川の名前が詩的な名前でしたので、今でも鮮明に覚えています。「菜切川(なきりがわ)」です。

その時どんな話をしたのかは覚えていませんが、話に夢中になり、時が経つのを忘れてしまい、夜の10時ぐらいになっていました。 それで、普通なら夕方には息子が帰る時間なのに、夜の9時・10時を過ぎても帰らないので、両家の両親が心配して警察に届けてしまい、大騒ぎになっていました。翌日には学校の担任の先生から「呼び出し」をくらい、強く叱られた【苦い思い出】がありますが、50年が過ぎた今はそれもまた【懐かしい思い出】です。

その後彼は外語大学に進み、大学卒業後は県立高校の先生になり、英語を定年まで教えていました。自分の母校でも英語を教えていました。そして、定年退職後は私立の高校から請われ、今は熊本市内のSW高校で英語の先生として頑張っています。毎年高校時代の同級生たちと再会する時にも、彼は必ず参加してくれています。今年もそうでした。その同級生たちと会った時、彼がこう言いました。

「最近私が知り合った、一人のベトナム人の若者を紹介したい!」

「へぇ~、そのベトナム人とはどこで知り合ったの?」と私が訊くと、「ありあけ国際交流協会で彼に会いました」と言うのでした。「ありあけ国際交流協会?」と私が首を傾げていると、 「WEBサイトもあるので、いつか後で見たら分かるよ」と答えたので、後日調べてみました。するとありました。そこにはそのSNくんの写真も有りました。アドレスは以下です。

https://www.city.arao.lg.jp/q/list/378.html

その協会は私の故郷・玉名市の隣の荒尾市に拠を置いているそうで、主に土曜日や日曜日などに「日本語学習」や様々な「文化活動」を行っていると言います。今回彼から「ありあけ国際交流協会」のことを聞いて、その存在を私は初めて知りました。SNくんが紹介したいと言ってくれたベトナム人の若者はその「日本語学習」に参加しているとのことで、 オーストラリア人や中国人など、様々な国籍の外国人も来ているそうです。ALT(外国語指導助手)の先生たちも参加されているとSNくんは話してくれました。

それで、私も自分の故郷で教え子以外のベトナム人の若者に会えると知り、 その日が来るのを楽しみにしていました。果たして、当日の夕方、SNくんの車に乗ってそのベトナム人の若者が現れました。会った場所は、玉名市内にある居酒屋です。

私の対面にSNくんとその若者が座りました。私の名前はすでにSNくんが伝えていたようで、私の名前を名乗るとニコッと肯きました。見た感じは大変若い青年です。大変爽やかな印象の好青年でした。名前を訊くと「Quang (クアーン)です」と答えました。「何歳ですか?」と続けて訊くと「23歳です」とのこと。道理で若いはずです。

今、彼は荒尾市内の自動車関係の部品の会社で働いているそうで、日本に来て一年半ほど経っていました。 そこには同期の三人のベトナム人がいると言いました。でも、「ありあけ国際交流協会」に参加しているのは彼一人だけでした。「他の二人も誘えばいいのに・・・」と彼に訊きますと「その二人は休みの日は遊びに行っています」と答えました。

ですから、ベトナム人の同僚の中では彼一人だけが積極的に参加しているのでした。(そうなのかぁー、彼は真面目な性格なのだなぁ~)と感心しました。彼は“「ありあけ国際交流協会」に参加していたおかげで、今日こうしてあなたに会うことが出来ました!”と嬉しいことを言ってくれました。

彼の家族構成を聞くと、お父さんは51歳。お母さんは43歳で、弟が一人の4人家族でした。 田舎はDong Nai(ドン ナーイ)省だと言うので、私も大変親近感が湧きました。Dong Nai省には元日本兵・古川さんの親族が住んでいます。「天然蜂蜜」を貰いに行ったこともあります。その時のことは、【2012年4月号】の<天然蜂蜜を求めて~ Dong Nai 再訪~ >に載せています。それで「私もそこには何回も行きましたよ」と言うと、彼は大いに喜んでくれました。

日本に行く前、彼はサイゴン市内の「人材派遣会社」で約6ヶ月日本語を勉強したと言いました。今は荒尾市内にある自動車部品製造の仕事に就いているそうです。「毎月幾ら給料は貰っていますか」と訊きますと、「残業代を入れて、約20万円ぐらいです。アパート代が電気・水道代を入れて4万円引かれます」という答えでした。ちなみに、以上の私の質問と彼の答えは、横にベトナム語を解しないSNくんがいますので、全て日本語です。

しかし、この時来てくれていたSNくんは、自分で【ベトナム語基本表現10】というのを作成して、今日のこの場に臨んでいたのでした。 10個ぐらいの【基本表現】ですから、「おはようございます」「さようなら」「有り難うございます」「私の名前は○○○です」のような簡単な表現ですが、私はSNくんのその向学心の強さにはホトホト感心しました。

この日私たちが頼んだ料理のメニューの中には、「馬刺し」や「鯛の刺身」などがありましたが、彼はそういう料理を前にしても全く平気で、 私たちと同じペースで食べていました。それを見ていた私は(後一年半ぐらいの日本での実習生活だけれど、彼は無事に乗り越えてゆくだろうな・・・)と、個人的に思いました。

何よりも、日本に実習生として働きながらも、土曜日には「ありあけ国際交流協会」に顔を出して、日本語を学び、日本人と付き合い、 日本の文化を学ぼうとする彼の意欲が嬉しかったし、感心しました。日本に行く目的が、 ただ単にお金を稼ぐだけで終わらず、縁有って来た日本という国のいろんなことを「三年という滞在期間に吸収・理解してゆこう!」 という彼の強い熱意を感じたからです。

翌日彼は朝から仕事があるので、9時前には彼とお別れしましたが、別れる時、「また来年も同じ頃に会いましょうね!」と言って握手すると、彼も強く握り返してくれて「はい、有り難うございます!」と答えてくれました。

● 広島で二人のベトナムの友人との再会 ●

私が日本に帰国し、ベトナムに戻る前には、毎年「岡山」「姫路」で恒例の<日本の友人たちとの再会>があります。それは全員が日本人の友人たちです。 特に「姫路」での宴会などは、私がベトナムに行ってからまもなく始まりましたので、もう20年ぐらい続いています。

それが、今年は「岡山」と「姫路」での友人たちとの再会の前に、「広島」での<ベトナムの友人との再会>がありました。再会出来たのは二人のベトナムの友人で、 一人は男性のDu (ユー)さん、もう一人は女性でNhan (ニャン) さんです。私のベトナム人の友人たちの中でも、特に思い入れが強い二人です。

Duさんとの付き合いは、実に14年前にも遡ります。2005年から私が今の人材派遣会社の日本語クラスで日本語を教えた時以来の付き合いです。彼と一緒にその学校で教えたのは約3年間です。その後、彼は2008年に日本の共同組合で働くことになり、日本で生活することになりました。

彼は非常に面倒見がいい人で、学校の中のベトナム人の同僚や、その当時は日本人一人だけであった私などを土曜日に自分の田舎に招いて、自宅で料理を振舞ってくれていました。彼の家はサイゴンから少し離れた、郊外にあるBien Hoa(ビエン ホア)という所でした。彼のご両親から歓待された思い出が今も甦ります。

彼については、【2008年1月号】の<サライ~故郷を偲ぶ~>の中でも次のように触れています。

“私のベトナム人の友人などは、今現在はこのサイゴンに住んでいて、彼の田舎は郊外にあるんですが、月のうちに平均すると隔週おきに、多い時には毎週のように、日曜日になると必ずといっていいほど「家族に会いに家に帰ります」と言って、片道2~3時間くらい掛かる道のりをものともせずに、バイクにまたがって帰って行きます”

その「ベトナム人の友人」というのが、実はDuさんのことなのでした。その彼が日本に行 った後も、日本で連絡を取ることが出来て、私が日本に帰国した時、彼が私の故郷を訪ねて 来てくれたことがありました。その日は私の家に泊まり、翌日は菊池市の温泉まで連れて行 き、一緒に「露天風呂」に入った懐かしい思い出もあります。それは2009年のことでした。 彼がその後、私の母に送ってくれた「感謝の手紙」を、私の母は今も我が家に置いています。

彼は2012年に結婚しました。奥さんは日本で知り合ったベトナム人で、実習生として日本 に来ていたとのことでした。二人の結婚式がサイゴン市内の式場であり、一足先にベトナムに戻っていた奥さんが私にも招待状を持参してくれましたので出席しました。今回再会し た時Duさんが言うには、「私たちの結婚式の時、長渕剛の<乾杯>を歌ってもらいましたよ!」とのことですが、私自身はすっかり忘れていました。

結婚した後しばらくの間は、彼は広島に奥さんと住んでいました。そして、2013年に女の子が生れ、2015年に男の子が生れて、今は二児の父です。その子どもたち二人は幼い時は ベトナムで育てられ、長女のNhi (ニー) ちゃんは4歳の時、弟のThien (ティエン) くんは2 歳の時に日本に来ました。ですから、現在Nhiちゃんが6歳、Thienくんは4歳になりま す。今二人とも日本の「保育園」に通っています。感心したのは、ベトナム語、日本語の二つの言葉を実に流暢に話すことです。

そして、2014年には「関西国際空港」でDuさんとの偶然の再会が起きました。私がその年の日本滞在を終えて関空に着き、宅急便で送ったトランクを受け取り、それを引いて受付窓口のほうに歩いていると、後ろのほうから私の名前を呼ぶ声がします。(まさか・・・) と思い、一度は聞き流しましたが、また呼ぶ声がします。(こんな所で誰が私を呼ぶ?)と 不思議に思い、後ろを振り返ると、Duさんがそこに笑いながら立っていたのでした。

私も大いに驚きました。そして再会を喜びました。彼もたまたま私と同じ便の飛行機でベトナムに戻るところなのでした。まだ受付で手続きをしていない時でしたので、席を彼と隣り合わせにしてもらいました。機内ではいろいろなことを話しました。日本の組合の中でベトナム人実習生たちの管理と、彼ら実習生たちに何か問題が発生した時、間に入って通訳の仕事もしていることなどを話してくれました。

それから5年の歳月が流れましたが、私はいつも「岡山」と「姫路」で友人たちとの再会を していますので、(よし、今年は広島で降りて、Duさんの家族に会おう!)と決めました。 さらには、広島にはもう一人会いたいと思う、ベトナム人の女性の友人がいました。その女 性にも連絡してみました。すると「その日は夕方まで仕事があるので、少し遅れますが大丈夫です!」との返事を貰いましたので、運よく彼女との再会も叶うことになりました。

面白いのは、Duさんも彼女とは知り合いだったことでした。ある年、二人が日本に向かう 飛行機で偶然同じ席に隣り合わせたというのです。その前に、私は二人とも知り合いでしたので、Duさんが彼女とも結びついたことには何か“不思議な縁を感じました。さらには、 彼女の仕事場も同じ広島県になりましたので、二人が会う機会も多くなり、今回私が「広島 訪問」を希望した時、嬉しいことに「二人との再会」が実現したのです。

彼女の名前はNhan (ニャン) さん私と彼女との出会いもこれまた「数奇な出会い」と言え ます。私が彼女に初めて出会ったのは2007年のことですから、今から12年も前のことに なります。あの時のことを今思い出しますと、実に奇妙な感じがしてきます。さらに、あの時の出会いから今に到るまで、彼女との繋がりが続いていることにもまた不思議な思いがします。

2007年の夏、“ベトナムマングローブ 子ども親善大使”の生徒たちがベトナムに来ていまし た。毎年彼らがサイゴン市内に泊まる時には「電力ホテル」を使わせてもらっていましたが、 その年はそのホテルがたまたま工事中で、代わりに「サイゴンホテル」に宿泊しました。そこもまた市内の中心部にあります。

ある日の夕方、そのホテルで生徒たちと一緒に夕食を食べていると、たまたま隣の部屋で「結婚式」を行っていました。ちょうど始まったばかりのタイミングだったらしく、女性の歌手が唄う声が聞こえてきました。大変キレイな歌声でした。ベトナムの挙式の前座では、雰囲気を盛り上げるために外部から歌手を招いて歌を唄ってもらうことが良くあります。彼らはアルバイトでやっていますので、もちろんその歌手には謝礼を払います。

(今唄っている彼女も歌を頼まれてここに参加しているのだろうな・・・)とは想像出来ま した。でもまだその時には、私たちは隣の部屋で食事をしていましたので、彼女の姿を見た わけではありません。歌声を聴いていただけでした。そして、(あぁー、そろそろ終わりそうだな・・・)と感じましたので、私一人だけ抜け出して、その部屋のほうに行きました。

しばらくして、小柄な、若い女性が出口のほうに歩いてきました。やはり、彼女が先ほど歌っていた歌手その人でした。「私は日本人ですが・・・」と切り出しますと、驚いたことに「わー、そうですか!」と日本語で答えました。彼女は日本語も勉強していたのでした。(そうであれば、話は早い!)と思い、彼女に次のように日本語でお願いしました。

「実は、隣の部屋に日本から来た生徒たちがいます。もうすぐ日本に戻るのですが、ベトナムの思い出に、ベトナムの歌を唄ってもらえれば、彼らにもいい思い出が残ると思います。今あなたは歌が終わったばかりで申し訳ありませんが、一曲歌っていただけますか」

すると彼女は「いいですよ!」と快く引き受けてくれて、ベトナムの歌をキレイな声で唄ってくれたのでした。生徒たちもベトナムの歌の意味は分からなくても、まさか夕食後にベ トナムの女性の歌を聴けるとは思ってもいなかっただけに、大変喜んでいました。私の突然の申し出を気持ち良く受け容れてくれた彼女には、(どこかでまたお礼を言わなければ・・・)と思っていました。

生徒たちに歌を唄ってくれたNhanさんが日本語を勉強しているのを知っていましたので、しばらくしてから「青年文化会館」で毎週日曜日に行われている<日本語会話クラブ>に誘いましたら、「喜んで行きますよ!」と言う返事があり、そこに来てもらいました。あの結婚式での出会い以来、約一ヶ月ぶりの再会でした。後で知りましたが、彼女はこの時25歳の若さでした。日本語は「HUFLIT大学」で学んだと言いました。

その後も時々彼女とは<日本語会話クラブ>で会いましたが、ある日そこで、「実は今年から福岡に留学することになりました」と彼女が話してくれました。それは2009年のことでした。それ以来、 彼女が福岡にいるのは知っていましたが、わが故郷の熊本の隣県ながら(留学中であれば彼女も忙しいだろうなぁー・・・)と思い、会うのは敢えて控えました。

それから8年後の2017年に彼女から連絡が届きました。「今年ベトナムにしばらくの間帰りますので、また<日本語会話クラブ>で会いましょう!」と。それを知り、私は嬉しくてたまりませんでした。彼女は8年も前の<日本語会話クラブ>で日本人やベトナム人たちと話していた時のことをしっかりと覚えていてくれて、またそこに来たいと言ってくれたのです。

その言葉通り、彼女は一時帰国した時<日本語会話クラブ>に来てくれました。そして、またそこで日本語の最近の歌を披露してくれたのでした。それを横で聴いていて、私は涙が出る思いでした。12年前の2007年に、彼女があの結婚式で唄っていた時の光景が甦ってきたからです。あの時はベトナム語でしたが、この時は日本語で唄ってくれました。

その後数日して彼女は日本に戻って行きました。その一年後、彼女から「今年から広島で働くことになりました。福岡では会えませんでしたが、広島で会えるかもしれませんが、その時は連絡ください」というメールが届きました。

それを読んで私は(今Duさんが住んでいるのが広島。Nhanさんの仕事場もこれから広島になるのなら、もしかしたら広島で降りればいつか二人に会えるかも・・・)と嬉しくなり、今年の私の帰国時に、事前に広島に行ける日を電話で連絡しました。すると、 Duさんからは「はい、その日は大丈夫ですよ。その日の夜は私のアパートに泊まってくださいね。ホテルを予約する必要はありません」と言う、実に有り難い返事を頂きました。

Nhanさんからは「はい、私もその日は大丈夫です。でも、仕事が夕方6時過ぎまでありますので、みなさんが集まっている所に行けるのは7時ぐらいになると思います」と返事を送ってくれました。それぐらいの遅れであれば、全然問題ありません。そして、当日私は広島駅でDuさんと待ち合わせをしました。夕方6時過ぎに広島駅には到着。

そこでDuさんと久しぶりの再会を果たしました。それから電車で彼のアパートの近くの駅に着きました。駅に着いて彼が言うには、「今日は市内にあるベトナム料理屋さんを予約していますので、今からそこに行きましょう」とのことで、そのまま歩いて予約してある「ベトナム料理屋」に向かいました。

着いた「ベトナム料理屋」の名前は「Hanoi Pho (ハノイ フォー)」。ここは本格的な「ベトナム料理屋」でした。オーナーはベトナム人です。最初にこの店に着いてすぐ、店の入り口でDuさんと私を店長が出迎えてくれました。その時、店長がベトナム人だということは分かりました。Duさんはすでにこの店に何回か来ていたらしく、店長とはベトナム語で話していました。

Duさんと私が着いた後に、Duさんの奥さんと二人のお子さんも到着。さらに20分後ぐらいにNhanさんも来て、「全員集合!」となりました。Nhanさんは相変わらず、昔のままの若さでした。タイムトンネルを抜け出て来たような、25歳当時から変わらない若々しい彼女が同じテーブルに座りました。

それからDuさんの音頭で、みんなで久しぶりの再会に<乾杯!>。出て来た料理は当然ながら、すべてベトナム料理です。Duさんと奥さんとその子どもさん、そしてNhanさんとの<広島での再会>が実現しました。私とDuさん、そしてNhanさんとの出会いの「昔話」に花が咲きました。二人ともまだ若いだけに、私が忘れているような昔のことも良く覚えています。

このベトナム料理店「Hanoi Pho」で私たちが食べていた時、お客さんが次々と入って来ました。でも、8時過ぎ頃まではお客さんが注文した料理をさばくのに店長も忙しくしておられたので、親しく話すことが出来ませんでした。8時半を過ぎた頃、ようやく余裕が出来たようで、私たちの席に近づいて挨拶されました。

店長の名前はCuong (クーン) さん。私たちのテーブルに座っているのは私以外全部ベトナム人です。しかし、彼はずっと日本語で話しました。それも大変流暢な日本語です。聞けば、彼はもともと「留学生」として日本に来たそうで、その店を開いたのは2年前だそうです。

彼は「今年38歳です」と言いました。すると、Duさんが39歳、Nhanさんが37歳なので、三人は一歳ずつ歳が離れていることになります。この店は開店してまだ2年目ですが、だんだん人気が出て来たようで、予約客が多く、土日は一日に70名~80名が来店し、3回転するそうです。私たちが食べていた時も、来ているお客さんは全員が日本人のようでした

Cuongさんの話では、今広島には留学生と実習生合わせて、約6千人のべトナム人が滞在しているそうです。彼の奥さんもベトナム人で、広島で知り合ったといいます。従業員の中にも若いベトナム人が働いていました。彼は「日本の永住権を取りたいです」と話していましたので、「日本に永く住みたい!」という希望を持っています。

そこでは、店長も交えて私たちは10時過ぎまで楽しく話しました。そこを出て駅に向かい、Nhanさんとはその駅で別れました。「また来年も広島で会いましょうね!」と約束しました。そして、Duさんのアパートにみんなで向かいました。この日の夜は彼のアパートに泊めてもらいます。

そのアパートに着きました。そこは彼が広島に来て以来ずっと住んでいるアパートで、部屋は三部屋ほどあり、普段は子ども部屋として使っているのを私のために空けてくれました。このアパートにはベトナムから来た実習生たちが泊まる部屋が別の階にあり、一ヶ月間の研修を受ける間、ここに寝泊りするそうです。でも、この時はたまたま誰も実習生たちはいませんでした。

台所の横にあるテーブルに座り、また続けてしばらくDuさんと話しました。彼は「ここに来る途中で交番があったでしょう。このアパートに住んだ時、知り合いも友人も近くには誰もいないので、寂しくて・寂しくて、一週間毎日その交番に顔を出し、日本語の勉強も兼ねて話しに行きました。交番の人も嫌がらずに話し相手になってくれましたよ」と話しました。

私が「最近ベトナムには良く帰りますか」と訊きますと、彼は「独身の時はベトナムのテトに合わせて帰っていましたが、子どもたちが出来てからは少なくなりました。最近は2~3年に1回ですね。家族4人で帰ると、日本円で60万円ぐらいかかりますから・・・」と、シンミリとした口調で話すのでした。

私が彼について紹介したように、ベトナムにいた時には、“月のうちに平均すると隔週おきに、多い時には毎週のように、日曜日になると必ずといっていいほど「家族に会いに家に帰ります」と言って、片道2~3時間くらい掛かる道のりをものともせずに、バイクにまたがって帰って行きます”というような、親思い、故郷思いの彼のことでした。今は日本にいるその彼が、毎年・毎年ベトナムに戻ることが出来ない辛さを乗り越えて、日本で頑張っているのだなぁ~と、今ベトナムに戻った私はしみじみと思い起こしています。

「明日私は広島市内を少し観光したいと思いますので、今日はこれで寝ましょう」と言いますと、Duさんは「明日は私も仕事が休みですので、広島市内の案内をしてあげますよ」と申し出てくれました。本当に有り難かったです。

翌日私が朝7時半に起きると、Duさんの家族みんなは起きていました。奥さんは朝ごはんの支度をし、子どもたち二人はベランダに出てプランターの中にある草花に水を撒いています。(何が植えてあるのかな?)と思い、私が覗くと赤い「イチゴ」がたわわに実っていました。

Nhiちゃんがその赤いイチゴを私に指で示しながら「昨日も食べたけど美味しかったよ!」と、カワイイ声で叫ぶのでした。さらには、ミントなどの香菜も植えてありました。奥さんが熟れたイチゴと香菜を摘んでくれて、早速朝食に出してくれました。スーパーで買ったものではなく、眼の前で採れたばかりですので、大変美味しかったです。

朝食後、Duさんと私は先に「広島観光」に出かけました。実は、私自身は広島市内を観光するのは初めてでした。Duさんの案内で、【広島平和記念公園】内にある「原爆ドーム」「原爆死没者慰霊碑」「広島平和記念資料館」の三つを見て回りました。「原爆ドーム」は広島に原爆が落ちた時に破壊された建物がそのまま残してあります。

そして、「広島平和記念公園」に向かいました。そこは3年前の2016年5月に当時の大統領オバマ氏が演説をした場所でもありました。そのすぐ前にあった大きな建物が「広島平和記念資料館」。オバマ大統領はそこも見たそうです。民間人を巻き添えにした「大虐殺」の資料を見てどう感じたことでしょうか。

私自身、今まで写真やテレビなどでは見ていても、実際にそれらの資料を自分の眼で直接見たのは初めてでした。広島市内の建物などが一瞬にして破壊された様子がありありと映像ででも観ることができました。そこには多くの観光客、特に外国人がたくさん来ていました。その中にはアメリカ人もいたことでしょう。

この資料館に入ったのは初めてでした。いろいろな写真や展示物を見て回った時、言葉に尽くせない思いが込み上げてきました。そこに展示してあった一枚・一枚の写真や資料についての説明を見ながら、読みながら、しばらくそこに立ち尽くしました。先を歩いていたDuさんが私のほうに近づき、「妻と子どもたちももうすぐここに着くと連絡がありました」と言うので、そこを後にしました。

「広島平和記念資料館」を見終った後、その近くでDuさんの奥さんと子どもさんたちと待ち合わせることにしました。しばらく待っている間、DuさんがLINEでベトナムに連絡を取りました。すると、彼の携帯電話に彼のお父さんの顔が現れました。実に久しぶりの「携帯電話での再会」でした。お父さんもニコニコして喜んでいました。私も久しぶりの挨拶をベトナム語で交わしました。

その後しばらくして奥さんたちが来ました。ここをみんなで訪れた記念に、「慰霊碑」の前で写真を撮りました。そこにいた欧米人のご婦人に頼みました。後でその写真をよく見ますと、「慰霊碑」の上のちょうど真ん中辺りに一羽のハトが止まっていました。たまたまというか、それは、ちょうどDuさんの頭の上の位置にいました。小さいので明瞭には見えませんが、白いハトのようではありません。でも、ハトはハトです。その「平和の象徴」のハトが写真の中に収まっていたのは、何か暗示的でした。

この後、みんなで一緒にお昼ご飯を食べに行くことに。「広島平和記念資料館」からしばらく歩いて行くと、アーケードの中に食堂街があり、そこには広島名物の「お好み焼き屋さん」がズラリと並んで営業していました。驚いたことには、食堂街の入り口で最初に見た「お好み焼き屋さん」には、20人ほどが行列を作って並んでいたことです。その中には白人の観光客も大勢いました。

そして実はこの時、思わぬアクシデントが起きました。「広島平和記念資料館」からその「お好み焼き屋さん」に向かって歩いていた時、私が履いていたスニーカーの底のゴムが剥がれてしまいました。数歩も歩くと、足を上げるごとにゴム底が落ちてカパカパと音を立てて歩き難いこと、歩き難いこと。後ろの人が見たら、おそらく笑っていたことでしょう。

そのスニーカーは普段は日本に置いていて、一年に数回しか履かないので、ゴムが劣化していたのだろうと思います。(あらぁ~、こりゃイカン・・・)と思い、Duさんに向かって笑いながら「これを見てください。今先ほど靴底のゴムが剥がれました。この近くに接着剤を売っている店はありませんか?」と訊きました。

Duさんは「分かりました。そこの店でお好み焼きが出来るまで女房たちと待っていてください。私が買って来ますよ。ところで、あなたの靴のサイズは何センチですか?」と訊きましたので、「26.5㎝ですよ。でも接着剤だけ買ってきてもらえれば十分です。しばらく持てばいいのですから。」と言いました。

彼は一人でアーケード街のほうに歩いて行きました。そして、20分もしないうちにDuさんは帰って来ました。すると、彼の右手には大きいビニール袋がぶら下がっていました。そして、私に「接着剤を売っている店が無かったので、これを買って来ました!」と言って、そのビニール袋を私に見せました。箱の中を開けてみると、新品のスニーカーが入っていました。私は「ええーっ!」と驚きました。

そして、私に「どうぞ、これを履いてみてください」と、そのスニーカーを両手に持って私に勧めました。履いてみると、私にピッタリのサイズでした。(彼は最初からこのスニーカーを買うつもりでいたのだな・・・)と思いました。それで、私に足のサイズを訊いてきたのでしょう。彼は私の足に合うサイズのスニーカーを見つけるまで、幾つかの店を走り回っていたのでした。

私が「いやー、有り難うございました。助かりました。ところでこのスニーカーは幾らでしたか、今払いますから」と言いますと、Duさんは「いえ、いえ、結構です。これは私からのプレゼントですから」と言うではありませんか。「それは出来ません。あなたに出してもらうわけにはいきません」と言っても、「いいです、いいんです」とニコリと笑いながら、頑として受け取ってくれませんでした。

その店のお好み焼きはDuさんの家族みんなが「オイシイです!」と言って喜んでくれました。私自身も「広島名物のお好み焼き」を現地で食べたのは初めてでしたし、しかもそれをベトナム人の家族のみなさんたちと食べたのは大変良い思い出になりました。最初は一枚ずつ頼んでいましたが、一枚食べると、子どもたちもまだ食べ足り無いらしく「もう一枚!」と追加で頼んでいました。

私はこの日の午後には広島を離れる予定でした。一泊二日の広島への旅でしたが、前日の「ベトナム料理屋」でのDuさんの家族とNhanさんとの再会が実現出来たこと。そして、この日の最後にDuさんの家族たちとお昼を共にして、<思い出深い広島への旅>になりました。

ゆっくりとしたひとときを「お好み焼き屋さん」で過ごし、そこを出てしばらく歩いて電車に乗り、Duさんのアパート近くの駅まで一緒に行きました。そして、Duさんと奥さんと子どもさんたちとはそこでお別れしました。Duさんは別れ際にこう言ってくれました。

“来年もまた広島で必ず会いましょうね。楽しみにしています!”

ベトナムBAOニュース

「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。

Quang Nam (クアン ナム)省のJunko小学校と日本人の父親

10年後、70歳を超えた一人の日本人男性が日本から Quang Nam (クアン ナム) 省Dien Ban (ディエン バン) 町にあるDien Phuoc (ディエン フック) 村に行き、自分の娘にちなんで名付けられた学校を訪問しました。

その人は、Junkoさんの父親であるTakahashi Hirotaro さんで、その時ダナン大学の元学長であるTran Van Nam (チャン・ヴァン・ナム)氏が同行しました。

二人を乗せた車はダナンからDien Phuoc村にあるJunko小学校の前で停まった。Nam氏が車から降りて一緒に歩いてゆくと、Hirotaroさんは自分の娘の名前が冠してある学校の前で数分間立ち止まりました。

「前回あなたがここに来て頂いてから、本当に長い歳月が経ちましたね」と、Junko小学校の校長・Le Quoc Ha氏が語りかけて、 Junkoさんの父親を<伝統的の部屋>に連れて行きました。その場所には、日本人Junkoさんの美しい写真が掛けてあります。Hirotaroさんは娘の祭壇に向かって線香を上げて、 「私はここに戻ってくるたびにいつも心に安らぎを感じています。このような場所はほかにはありません」と話してくれました。

それから彼は図書館、外国語教室、音楽教室などを訪ねました。校庭には3本の木に乳白色の花が咲いていました。これら3本の木は、約20年前に「Junko協会」が植えたものです。庭を走り回っていた子供たちはHirotaroさんに話しかけようと、彼を取り囲みました。太陽が強く照らしている中で、その老いた日本人は子供たちに日本語で彼の名前を書いてあげました。

学校の中の広場に立った時、Hirotaroさんは短い人生を閉じた彼の最愛の娘Junkoさんのことを思い出しました。HirotaroさんはJunkoさんのことを一番愛した末の娘であると話しました。アメリカに留学していたとき、Junkoさんは世界中の多くの国を訪問しました、しかし、どういう理由か分かりませんが、ベトナムに来たとき、私の娘はこの国に「惚れ込んでしまいました」。娘は一ヶ月間ベトナムについて調査をしました。そして娘が言うのに、 「私はベトナムを愛している」と。Hirotaroさんはそう言うのだった。

1993年の夏、Junkoさんがベトナムを訪問した時、Junkoさんはベトナムで多くの新しい場所を調べました。彼女はベトナムを、そしてそこの人々を愛しました。そして彼女はまた、自分が訪問した場所が大変貧しいことも分かりました。多くの子供たちが学校にも行っていなかったのです。

ベトナム訪問の後、Junkoさんは日記にこう書きました。「今の時点で私は経済的な面でみなさんたちを助けることはできませんが、ベトナムのみなさん達が成長するためにはより良い教育を受けられるように、いろんな条件を作り出すことが必要だと思います」

しかし、20歳の女の子が抱いた情熱は、突然彼女を襲った交通事故により奪われてしまいました。そして、Quang Nam省 にベトナムの子どもたちのための小学校を建てたいというJunkoさんの遺志を継ぎ、彼女が実現出来なかった夢を叶えてくれたのがJunkoさんの両親なのでした。

今現在、Junko 小学校は大変有名で、多くの人たちによく知られるようになりました。それは、Junkoさんの家族がQuang Nam省の中の貧しい地域であるDien Phuoc村のために与えてくれた素晴らしい贈り物です。 「私は今とても嬉しく思い、素晴らしい学校を創るお手伝いをしてくださった皆さんにこころから感謝します」とHirotaroさんは言いました。

Junko小学校は1994年12月に着工し、1995年9月に開校しました。この学校の建設費用は、Junkoさんの交通事故での保険金とJunkoさんの預金を併せて約10億ドン(約470万円)の費用で建設されました。

<Tuoi Tre>

◆ 解説 ◆

私がベトナムに戻り、ベトナムでの残務を片付けた後、(さぁー、明日から学校へ行って授業の始まりだな)と予定していた日の前日に、 この記事がこちらのベトナムの新聞に載りました。 <Tuoi Tre新聞>はベトナムでは有名な新聞ですが、この新聞にJunko小学校の記事が掲載されたのを読んだのは初めてでした。

Junko小学校の建物を私が自分の眼で直接見たのは、2017年11月のことでした。 その時の思い出は、【2017年11月号】の<再訪・ベトナム中部への旅>に綴っています。偶然とはいえ、あの時Junko小学校を初めて見た時の感動はその後もずっと余韻を引き、【2017年12月号】の<年末に贈る三つの物語>にも続けて載せました。

それ以来、私が日本語を教えている学校で新しいクラスが始まると、早速彼らには「Junko小学校の物語」の話をしてあげます。 クラスの中にJunko小学校があるQuang Nam省出身の生徒がいる時があります。その時はその生徒にベトナム語で書かれた記事を読んでもらいます。 それで、この記事が出た日、翌日から授業に出るので、(よし、ちょうどいい。明日この記事を紹介してあげよう!)と思いました。

当日、その記事を持ってクラスに入りました。「Junko小学校のことを知っている人はいますか?」と訊いても、誰も手を挙げません。そこで、この記事をみんなに見せて、Junko小学校について簡単な紹介をしてあげました。みんなの顔つきを見ると、目を開いて聴いていました。

その新聞にはJunko小学校の中に飾られているJunkoさんの遺影も載っていましたので、みんなじーっと食い入るようにその写真を見つめていました。彼らはJunkoさんと年齢が近い生徒たちが多いので、Junkoさんという存在を身近に感じてくれるようです。

Junkoさんのお父さんは10年ぶりにその小学校を訪問されたのでしょう。お父さんの口から語られる「わが娘・Junkoさんの思い出」を読んでいて、胸が熱くなりました。ベトナムのQuang Namの地に、ベトナムの小学生たちがずっと通い続けてゆける「Junko小学校」を建てられたことに対して、Junko小学校の卒業生たちは長じてからも「感謝の念」をずっと持ち続けることだろうと思います。

Posted by aozaiVN