【2018年3月】教え子との再会、同僚の先生との別れ/古き良きテトの風物詩7選
春さんのひとりごと
<教え子との再会、同僚の先生との別れ>
三月・四月は日本では人の異動も多くなりますが、ベトナムにいる私自身にも、まさしくそれが実感された月になりました。三月初旬には日本から帰ったばかりの教え子との再会があり、三月中旬には同僚の先生との「お別れ会」がありました。
● 教え子との再会 ●
2015年3月に日本に行った男子の教え子から私に連絡がありました。「3日前にベトナムに帰って来ました。今はサイゴンの郊外にある姉の家にいます。もうすぐ田舎に帰りますので、その前に会いたいです。日本で買ってきたお土産もありますので」と。その連絡を受けた時、「早く田舎に帰って、両親と再会したいだろうに・・・」と、私は彼の厚意に涙が出る思いでした。
それで、3月4日の日曜日にSUSHI KOで会うことにしました。私が先にそこに着いた後、10分ぐらいして彼が一人でバイクに乗って来ました。彼の名前はVu(ブー)くん。彼が席に着いて、私と二人で「再会の乾杯!」をしました。
三年ぶりに見る彼は顔も精悍な感じで、身なりもスマートになり、学校の制服を着て過ごしていた当時の雰囲気よりも大人びて見えましたが、笑った時の笑顔は当時の生徒のままでした。年齢を聞くと「今年28歳になりました」と答えました。すると、彼は25歳で日本に行ったということです。
彼の田舎はサイゴンより南西にあるBen Tre(ベン チェー)省です。Ben Tre省は、私が毎年元日本兵・古川さんの法要に行く町Cai Be(カイ ベー)の東の方向にあるデルタ地帯です。私が教えている生徒たちの出身はこのBen Tre省から来た生徒が比率としては一番多くなっています。学校を経営しているベトナム人の社長の出身がBen Tre省だからです。
彼に「日本に行く前に学校で勉強していた時、Vuくんのクラス名は何クラスでしたか」と聞きますと、「309クラスでした」と答えました。今一番新しいクラスが390クラスですので、80クラスほども前になります。学校では新しいクラスが開講する毎に、一つずつ番号を増やして付けていきますので、クラスの番号を聞くと、先生や生徒たちも大体いつごろ勉強していたかが分かります。
Vuくんは「あの時のクラスには○○くん、○○くん、○○くんたちがいましたよ」と、当時同じクラスで勉強していた友人たちの名前を挙げてくれました。私にも懐かしい名前が出てきました。さらに「○○先生、○○先生たちはいますか」と数人の先生の名前を口に出してくれましたが、その中で今も残っている先生はあまりいませんでした。
彼は日本の大阪で、農業の技能実習生として三年間、NJ農園で働きました。その時は6人一緒に行ったそうです。NJ農園で栽培している野菜は、きゅうり、ナスビ、水菜などが中心で、朝6時から仕事が始まり、途中休憩も入れて、夕方5時には仕事が終わったと言います。一ヶ月の給料から健康保険、年金、寮費などを引かれ、残業代も含めて、平均して手取りで12万円の給料を貰っていたということです。
20年前から、このNJ農園では中国から技能実習生を採用していたそうですが、中国人の実習生たちは仲間同士で喧嘩をすることが多く、五年ほど前から中国からの実習生の採用を断り、今そこで実習しているのは全員がベトナム人になったと話してくれました。それを聞いて、思わず笑いました。
三年間日本で働いていた時、休みの時に各地を旅行したそうで「東京、名古屋、京都、奈良に旅行に行きました。北海道にも行きたかったのですが、遠かったので行けませんでした」と、残念そうに話しました。私の教え子には北海道に行った生徒もいますが、彼らも旅行するとしても北海道の中だけの旅行で終わり、本州の方まではあまり足を延ばせないと言いますので、Vuくんがそれだけ各地の場所に行けたというのは恵まれたほうでしょう。
そこまでいろいろ話しをしていた時、横の椅子に置いた荷物を取り、テーブル上に広げ、「はい、これが日本で買ったお土産です!」と言って、中身を取り出して見せてくれました。そこには、一本のネクタイと黄色い、可愛いニワトリのおもちゃがありました。ニワトリのおもちゃは「ドンキホーテで買いました」と話してくれました。
実は、彼がこのニワトリをわざわざ日本で買ってくれたのには理由があります。私がこのニワトリのおもちゃを授業でいつも使っていたからです。その初代のニワトリさんは、眼の前にあるのよりも少し大きく、今から三年前にタイへ社員旅行に行った時に土産物屋で買いました。姿・形も気に入りましたが、「ガー・ガー」と大きな声で叫ぶのが特に気に入りました。
タイでの社員旅行が終わり、タイの空港での手荷物検査の時、係員がそれを目ざとく見つけて、「これは何だ?」と聞きました。それで、ニワトリさんのお腹を押して「ガー・ガー」と啼かせますと、係員も苦笑していました。(こういうニワトリを土産に買うような人間なら不審な物は持ち込んでいないだろう・・・)と考えたのかどうかは分かりませんが、すぐに「通って良し!」という態度をジェスチャーで示しました。
それをベトナムに持ち帰り、日本語の初級の授業で「○○に ○○が いくつ あります/ います」の文型を教える時、基本的なその文型を教えた後、余興に「にわには 2わ にわとりが います」の例文を黒板に書いて見せます。そして、黒板に緑色のチョークで庭の絵をササッと描いた後、このニワトリさんをやおらカバンから取り出し、黒板下のチョークを置く溝に腰掛けさせて、この例文を説明します。みんな喜びます。その後、「ああー、あと一羽ニワトリさんがいれば、本当の2羽のニワトリになるのになー」と話していました。
日本帰国前、Vuくんはベトナムの家族たちのためにお土産を買いに行きました。百円ショップでは両親や親戚の人のために、たくさんの「老眼鏡」を買ったそうです。日本に行くと決まった生徒たちがクラスに出てくると、私が日本に帰国した時、百円ショップで買ったケース入りの「老眼鏡」を見せて話したことがありました。「これが日本では何と百円。ベトナムドンでも2万ドンぐらいなんだよ!」と言うとみんな関心を持って見ていました。
今年、Vuくんもベトナムへの帰国が近づいた時、「家族や親戚のためにお土産として何がいいか」をいろいろ考えた時、その一つに昔私が話していた「老眼鏡」を忘れないでいました。さらには、授業で私が話していたニワトリさんのことも覚えていてくれていました。
それで、ドンキホーテでたまたまそれを見つけた時、迷わず買ってくれたのでした。私自身は今まで日本に帰国した時、このようなニワトリさんを売っているところを見たことは無かっただけに、大変嬉しく思いました。このニワトリさんは作りが単純なだけに、壊れにくく、(あと数年は大丈夫だなー)と思いました。これからは、余興で書いた例文通りに「にわには 2わ にわとりが います」を、2羽のニワトリを見せながら教えることが出来ます。
Vuくんは日本にいる時に「日本語能力試験N3」を取得していました。日本に行った教え子たちは仕事を終えた後、日本語の勉強をまた続けている生徒たちがいますが、彼もその一人だったわけです。それを聞いて、大変嬉しく思いました。また、彼の口から次のような話を聴き、深く感動しました。
「いよいよ私たち6人がベトナムに戻る日、関西国際空港までNJ農園の社長さんや奥さん、社員の人たちがたくさん見送りに来て頂きました。そして、私たちがゲートに入る前、最後のお別れをした時、社長や奥さんや会社のみなさんたちが涙を流して、私たちを抱きしめてくれました。私たちも全員が涙を流していました。NJ農園の社長さんや奥さん、会社の人たちには本当に親切にしてもらいました。あそこで、三年間実習生として働くことが出来たことに、大変感謝しています」
続けてまた、「え、本当に!」と私が驚くようなことを話してくれました。「実は、NJ農園の社長さんから気に入られて、また続けて二年間同じところで働くことになりました。社長さんが私のことを評価して頂いて、“また日本に戻って来て、後輩の指導もしながら働いて欲しい”と言われました。それで、予定では、早ければ今年の7月にまた日本へ行くことになりました」
そういう例を今まで幾人か聞いたことはありますが、数少ないです。三年間の日本での実習が終わった生徒たちは、「ようやく予定の三年間の実習が終わった!」という区切りがついた安堵感から、そのまま地元に帰り、家の仕事を継ぎ、地元の会社に就職し、結婚するパターンがほとんどです。日本語が上達した生徒たちは、サイゴン市内の日系企業で働くこともあります。
そういう意味でも、ベトナムに戻るや、「すぐまた日本へ働きに来てくれ!」と社長から頼まれたという例はそう多くはありません。彼はその“数少ない例の実習生”として評価されたということです。もしまた日本に二年間行くことになれば、ベトナムに戻る時にはちょうど30歳になっています、私は感心しながら彼の話を聴いていました。
日本でのことや友人たちのこと、これからのことをいろいろ話しているうちにあっという間に三時間ほど経ち、彼はまたバイクで郊外に帰ってゆかないといけません。最後の別れ際、 彼はまた私を驚かせる話をしました。
「今日本人の女性とお付き合いしています。結婚を前提に考えています。また日本に行く二年間で進展すると思います。その時にはまた連絡します」と。彼はそのことを言うと、バイクに乗って一人で帰って行きました。この日のVuくんとの再会は、感動・感心で始まり、最後は驚きで終わりました。
今の学校からは毎年数百人単位の実習生や留学生たちが日本に行きます。私は最初のクラスに授業に入る時、いつも「私たちの目標」をカレンダーの裏を使った大きな紙で作成し、生徒たち一人・一人の目標を書いてもらいます。みんながいろんな目標を書いてくれます。
そして、みんなが目標を書き終わった後、一人・一人の目標を見ます。初めて日本語を勉強している生徒たちがほとんどですから、みんなベトナム語で書いています。それを全部見て、生徒たちに次のような話をします。
「みなさんたちが書いたこの目標が達成出来たかどうかは、三年間の日本での実習が終わった時に分かります。日本での最後のお別れの日に、日本で働いていた会社の社長さんや社員の方たちが別れを惜しんで、みんなに感謝の涙を流してくれたとしたら、日本に行く前に立てた目標は達成出来た、成功したと言えるでしょう。そういう気持ちで、日本で三年間頑張ってください」
Vuくんにも、同じように目標を書いてもらっていました。Vuくんの例は、まさしく私が話したことの“実話”として輝いています。そういう意味では、Vuくんは「目標を達成した、 成功した」と言えると思います。
今後、日本に行くベトナム人の教え子たちにも、日本人の社長や奥さんや社員の方たちが空港でVuくんたちと別れを惜しんで涙を流したことを話してゆきます。それは、ベトナムから故郷を離れて、遠い日本に行く教え子たちが、日本でVuくんと同じように「幸せ」と「成功」をつかんで故郷に帰って来て欲しいと願うからです。
● 同僚の先生とのお別れ ●
いよいよ、学校の同僚のS先生が三月いっぱいでベトナムを去られることになりました。
「いよいよ」とい言う意味は、二年ぐらい前からS先生が「ベトナムの次はイタリアに行くことにしています」と、私にも話されていたからです。
2017年11月号の「再訪・中部への旅」では次のように記しました。「実はこのダ ナンでこうして三人(S先生、「さすらいのイベント屋」のNMさん、私)が会えるのは最後になります。来年からS先生はイタリアに留学して、イタリア料理の習得に努めるからです」。
いろんな人が「イタリアへ留学?何のために?」と聞きますと、「イタリア料理を勉強して、 いずれみなさんに振舞いたいと思います」と答えられるのが常でした。S先生はいろんな料理を作るのが好きなのでした。実際に、今住んでいる寮の中でも、外から食材を買ってきて、いろんな料理を作り、同じ寮内に住んでいる日本人の先生たちに振舞っています。
2016年11月号の「ダ ナンでの“十一面観音菩薩像奉納の儀式”に参加」でも触れましたが、一緒にダ ナンに行くことになった時、私はS先生に次のように話しました。「よくよく考えれば、こうして私たち二人が同じ飛行機に乗り、同じ場所を訪ね、二泊も過ごすというのは最初にして最後でしょうね。今後もそう何回とは無いでしょう」と。その時、二年後ぐらいには、S先生がベトナムを去られることがすでに決まっていたからです。
学校の社員旅行では、タイ、カンボジア、ニャー チャン、ダ ラットなどに行きましたが、それ以外にも、S先生の興味を惹きそうなイベントがある時「今度こういうのがありますよ。興味があれば一緒に行きませんか」と誘いますと、忙しい仕事を調整して、積極的に参加されました。それが、「ダ ナンでの“十一面観音菩薩像奉納の儀式”」であり、さらにはカイ ベーで毎年行われている「元日本兵・古川さんの法要」などです。
S先生は今年69歳になられますが、七年前に「日本語の先生」として、今の学校に赴任されて来ました。最初の二年間は授業に入り、生徒たちに日本語を教えていました。しかし、総務の部署にいた日本語の達者なベトナム人の男性スタッフが海外の企業で働くことになり、辞めることになりました。
日本側の会社との対応や連絡などはそのベトナム人男性が行ってきたのですが、彼と同じレベルのベトナム人スタッフがいないので、日本側から来るいろんな要望や連絡に対応出来なくなる恐れが出てきました。それで、学校から依頼されて、日本人であるS先生がそちらを担当することになった次第です。それから以降の五年間は総務の仕事を務めてこられました。
S先生は今の学校に来る前は、ハワイで「航空専門学校」の指導教官の仕事に就かれていました。それで、自身が顧客対応を指導されていましたので、日本から企業の社長や幹部が学校を訪問・見学に来た時、帰る時の対応も大変スマートで慣れたものでした。横で見ていて(私にはとてもあのようには出来ないなぁ~)と感心していました。
S先生は仕事の合間に休みが取れた時やベトナムの休日が続く時にはいろんな国を旅行されていました。東南アジア、中東、ヨーロッパなどの各国を旅行されて、その「見聞記」を克明に書かれていました。それを限られた親しい友人・知人の十数名にメールで送っていました。
私はS先生から聞いてそのことを知り、「私にもその見聞記の幾つかを読ませてくださいますか」とお願いしましたら、「いいですよ!」とS先生が答えられて、数日後にそれを自分で印刷して頂きました。タイトルを見ますと「イスタンブール編 78号(2013年2月20日)」となっています。
数日してそれを読了した後、さらにまた今度は「ギリシャ編」「ベネチア編」「バンコク編」までも頂きました。それらをずっと読んでゆきながら、(何というすごい人だろうか!)と、感嘆しました。その文章の平明さもさることながら、その博識に対してです。
自分の身近に、しかも同じ学校にそのような方がおられるのですが、時々話す時の会話の中から、(よくぞいろんなことを知っておられるなー)とは感じていました。S先生はある国の旅が終わると、それを「旅の感想」として、文章に残されているのです。
自分が旅行で訪れた世界各地の地理と文化と歴史を深く理解されていて、眼前に現れる歴史上の旧跡や遺跡を、時に日本の歴史上の人物や出来事と関連付けて説明し、実に分かり易く書かれているのでした。その一例を挙げます。「101号 ギリシャ編」の中の「パトラからベネチアまでの船旅」に以下のような記述があります。
「1571年10月7日、日本では織田信長の時代、コリント湾からイオニア海へ出たパトラの沖合いは歴史上有名な[レパントの海戦]が繰り広げられた海域である。この海戦はベネチアとスペインを中心としたキリスト教艦隊とオスマン・トルコ艦隊が激突し、キリスト教艦隊の完勝に終わった。そして、これはガレー船同士の艦隊が戦った最大規模で、最後の海戦としてその名を留めている。
その規模は、塩野七生の〔レパントの海戦〕によると、ガレー船を中心に帆船・大型帆船など、キリスト教艦隊で210隻で戦闘員、漕ぎ手、船乗り合せて8万4500人、大砲1815門。対するトルコ艦隊は270隻。1隻のガレー船には漕ぎ手と戦闘員・船乗りを合せて300~500人が乗り組んでいた。
従って、この海戦に参加した戦闘員や漕ぎ手と船乗りなどの数は、両軍併せると20万人にも達する。この当時の海戦とは、戦闘員が相手の船に乗り移って剣や槍、小銃などで戦う白兵戦であった。大砲もあったが、戦闘開始の時だけで、命中率も極端に低かった。スペインの無敵艦隊とネルソンのイギリス艦隊が戦ったトラファルガーの海戦(1805年)のように、船に積んだ大砲で離れた所から撃ち合うのはまだ200年以上も後のことです」
そして、この中にある「塩野七生」さんの本が、実はS先生の愛読書でもありました。S先生が書かれているレポートの中にも「塩野七生の“海の都の物語”を持ってコーヒーショップに入る」という箇所がありますが、ヨーロッパ各地、特にイタリアとその周辺国を旅行される時には、いつも塩野さんの本を持参されていたようです。
さらには、今回S先生がベトナムに去られるに当たり、その愛読書・塩野七生さんの本「ローマ人の物語」の文庫本24巻を全部私に下さったのでした。本好きの人には分かると思いますが、長年愛読してきた本を手放すというのは寂しく、大変辛いものがあります。S先生も無理して持ち帰ろうと思えば、出来ないことは無かったのでしょうが、全て私にプレゼントして頂きました。
早速、今年のテトに入ってから私はその頂いた本を読み始めました。第一巻目の「ローマ人の物語1 ローマは一日にして成らず[上]」は一週間ほどかけて読みました。そして、二巻目の「ローマ人の物語2 ローマは一日にして成らず[下]」を読み始めました。読み始めて20ページ目ぐらいに次のような文章を塩野さんが書かれていました。深く感動しました。
「後世のわれわれが、憧れと尊敬の思いをこめて口にする[ギリシャ文化]とは、ペリクレスがアテネに与えた三十年の平和を頂点とした、二百年足らずの間の産物である。ペリクレス自身、同時代の歴史家ツキディデスの筆によれば、次のように言っている。
“われわれアテネ人は、どの国の政体をも羨望する必要のない政体を持っている。他国のものをまねしてつくった、政体ではない。他国のほうが手本にしたいと思う、政治体制である。少数の者によって支配されるのではなく、市民の多数が参加するわれらの政体は、民主政(デモクラツィア)と呼ばれる。
この政体下では、すべての市民は平等な権利を持つ。公的な生活によって与えられる名誉も、その人の努力と業績に応じて与えられるのであり、生まれや育ちによって与えられるのではない。貧しくとも、国家に利する行為をした者は、その貧しさによって名誉からはずされることはない。・・・・〔中略〕・・・・
結論を言えば、われわれのポリスであるアテネは、すべての面でギリシャの学校であるといえよう。そして、われわれの一人一人は、このアテネ市民であるという名誉と経験と資質の総合体であることによって、一個の完成された人格を持つことになるのだ。
これは、単なる言葉のつらなりではない。確たる事実である。われわれのこの考え方と生き方によって強大になった、現在のアテネがそれを実証している”
まことに格調の高い、異論など差しはさみようもない正論である。自由主義者のバイブルにしてもよいくらいだ。二千五百年を経て人類は進歩しているはずであるのに、このペリクレスのような、簡潔で明快で品位にあふれた演説ができる指導者を、二十世紀に生きるわれわれは、はたしてもっているであろうか」
今、私たちの隣国には民主主義国家とは程遠い、二千五百年前のこのアテネの政体にはるかに及ばない国がいくつかあります。このペリクレスが演説した時代からずいぶん時代が経つのに、今もそのレベルに追いついていないというのは、国の政体のありようは科学や技術の進歩とは違い、二千五百年前の国の政体よりも劣ることがあるのだという事実を示しています。
S先生の日本への本帰国が決まった後、S先生を知る友人たちに「S先生の送別会」を3月10日に「スシコ」で行うことを私から連絡しました。当日は全部で9人が集まりました。その中には、ラオスからこの日にサイゴンに着いたばかりの“さすらいのイベント屋・NMさん”もいました。
NMさんにも以前、S先生から頂いた旅の記録のレポートをコピーして渡していました。それを読んだNMさんは「すごい内容のレポートですねー」と、あらためてS先生の文才を誉められていました。NMさんも世界の各地を訪問されたことがあるだけに、そのレポートのレベルの高さは十分に理解しておられました。
この日集まった9人の中で3人が同僚で、6人がそれ以外の知人です。この「スシコ」でS先生に会うのはこれが最後の機会となりますので、みんな寂しい表情をしていました。私自身も万感胸に迫る思いがして、今まで一緒に行った旅の思い出をいろいろ話しました。
“さすらいのイベント屋のNMさん”と家具屋さんのABさんは「是非またイタリアでお会いしましょう!」と、本気か冗談かは分かりませんが、そういう話をしていました。S先生は3月末には日本に戻られます。そして、10月にイタリアに行かれる予定です。
ベトナムにいた七年間は総務の仕事が忙しくて、ベトナム語の勉強が出来ない状態でした。それで、S先生は次のように言われました。「7年間もいて、ついにベトナム語は話せず、いまさらながら後悔しています。今度イタリアへ行ったら同じ後悔はしません。イタリア語の勉強に励みます」。
そもそも「イタリアに行きたい!」とS先生が願った動機は、イタリアを直接訪問して感銘を受けたことと、「塩野七生」さんの「ローマ人の物語」の影響が大ですと話されていました。やはり、イタリアという国が好きなのでしょう。次の棲家イタリアでは、イタリア料理を習得しながら、イタリア語の勉強にも努めて欲しいと願っています。
ベトナムBAOニュース
「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。
古き良きテトの風物詩7選
ベトナムに古くから伝わり現代でもテト(旧正月)に欠かせない風物詩7選を紹介する。
1.「バインチュン(Banh chung=ちまき)」作り
テトが近づくと、老若男女問わず家族総出でバインチュンを作る。赤い炎を上げる薪に大きな鍋をかけバインチュンを茹でながら、この1年の話に花を咲かせる。家族が集結し共に作業をする年に一度の機会でもある。
2.新春の書
昔のテトと言えば、書道家らが道に店を広げて書を披露する光景が思い起こされる。ベトナムの民族の文化や歴史において貴重な伝統だ。書家は子供の学業成就や家業の商売繁盛など客の要望に応じて赤い紙に墨で心、福、徳などを意味する言葉を書く。
3.お年玉
お年玉の習慣は古くから伝わり、子供の幸福や幸運を願う意味合いがある。しかし、現在では祈願よりも金銭など物質的な要素に重きが置かれるようになりつつある。
4.お供物―果物の盛り合わせ
果物の盛り合わせはご先祖様を祀る祭壇になくてはならないテトのお供物だ。供えられる果物は地域によって異なるが、いずれも新年がより幸多き年になるよう、満ち足りた年になるよう願いが込められている。
5.のぼり旗
のぼり旗には昨年の邪気を払う意味合いがある。テトの元日の1週間前にあたる旧暦12月23日の「オンタオの日(Ngay ong Tao)」「オンコン・オンタオの日(Ngay ong Cong ong Tao)」などと呼ばれる「かまど(台所)の神様の日(吐君節)」に揚げられ、旧暦の1月7日に下げられる。のぼり旗はテトを表す慣用句「白い脂身に玉ねぎの塩漬け、のぼりの赤い掛け軸に爆竹、緑のバインチュン」でも触れられている。現在ではのぼり旗を揚げる習わしを続ける過程は非常に少なくなった。
6.書初め
書家や教師、学者などが行う習慣のひとつで、初詣の後に掛け軸や赤い紙に言葉や文字を書く。書初めは他人の言葉を借りるのではなく、自分で考えた言葉でなくてはならない。内容は氏名や住所だったり、家族友人や仕事や学業に対する思いや意気込みなど様々だ。
7.新芽摘み
新芽摘みは家庭に幸福を呼び込むための習慣。かつては丈夫な植物とされるフサナリイチジクやガジュマルなどの木の芽が摘まれていた。しかし近年では誤った摘み方により木が傷んでしまわないように、芽摘みの代わりに幸せをもたらす芽が多く付いた桃の枝やキンカンの鉢植えなどを選ぶようになっている。
<VIET JO>
◆ 解説 ◆
今年のベトナムの「テト休み」は各会社によってもいろいろ違いはありますが、私が今教えている学校では十日間続きました。毎年、テトの前には市内の人・物・金の移動が多くなり、物すごい交通渋滞が起きますが、今年もやはりそうでした。
そして、「テト休み」に入ると、故郷に帰る人たちがサイゴン市内からいなくなるので、街中は大変静かになり、交通量も少なくなります。さらには、市内の到るところの公園などでは「テトの花市」が開かれます。毎年私はこれを見るのが大好きです。
外国人の眼で「ベトナムのテト」を観察すると、今の日本以上に昔ながらの風習や伝統を維持しているなぁーという感じがします。それがこの記事の中に出てくる<テトの風物詩7選>です。
日本で私が子どもの時に行われていたお正月の頃の行事で無くなったものに、「ドンド焼き」と「もぐら打ち」があります。今それが無くなった理由としては、「火を使うので危ない」ということと「子どもの数が田舎には少なくなった」という理由からのようです。
テトが近づくと、一ヶ月前から街中には「テトがやって来た!」の音楽が流れ始めます。それを聴くと、ベトナムの人たちは身も心も「テト・モード」に入ってゆきます。外国人である私でも(あぁー、もうすぐしたらテトで学校も休みだな!)と、ウキウキしてきますので、ベトナムの人たちであればもっとそうでしょう。
いずれベトナムでも、かつての日本のように、ここに表してある<テトの風物詩7選>の中から幾つかは消えてゆくものが出てくるかもしれません。しかし、外国人の私としては、出来るだけ長く続いて欲しいなーと願っています。