【2007年1月】戦争証跡館に見る、3人の日本人の世界/ヒロミお母さん!
春さんのひとりごと
<戦争証跡館に見る、3人の日本人の世界>
2007年が明けました。新年おめでとうございます。本年も宜しくお願い致します。今年の正月、私もこちらのお寺に初詣に行って来ました。そしてその後、戦争証跡館にも出掛けて来ました。ここは行くたびに、毎年いろんな展示物が増えていたり、建物も改築されていたりしています。
そしてホーチミン市にある戦争証跡博物館で、今3人の日本人の作品が展示されています。実はここにはずいぶん以前(1998年)から、あの有名な日本人写真家・石川文洋さんの写真が、独立した部屋に100点以上の作品が常設展示されています。そして石川さんは最近も日本縦断の旅に挑戦されるなど、今も元気に活躍されています。
私がベトナムに来た学生たちをここに案内するたびに、「ここは日本人の写真家が撮った写真のコーナーなんですよー」と説明すると、生徒たちも「ええー、そうなんですか!」と驚きます。
(何で日本人の撮った写真が、この博物館で常時展示されているの~?)という率直な驚きのようです。石川さんの作品は、この博物館で外国人としては初めて常設して展示されるようになりました。
そして2人目は、フォトジャーナリストの中村梧郎さん。3人目は童話画家の「いわさきちひろ」さんです。「いわさきちひろ」さんの展示は12月10日から2月10日までの期間だけですが、中村梧郎さんの写真展は2006年の後半から常設展示されています。
さらにまた、中村さんの写真展はこの前にニューヨークでも開催されました。
実は恥ずかしいことに、私自身はベトナムに来て初めて石川文洋さんを詳しく知り、そしてまた最近も中村梧郎さんを知った次第です。「いわさきちひろ」さんもそうでした。いわさきさんの名前だけは以前に聞いた記憶があるくらいで、彼女の活動はこのベトナムでいわさきさんの経歴紹介と、ここに展示してある多くの作品を見て初めて、(こういうことをしていた人だったのかー)と知った次第です。
今回いわさきさんの作品は、この博物館に80点が展示されていますが、子供と自然をその独特の感性から流麗に、味わい深く描いた全作品をまとめて見て(ああー、この絵を描いていた人だったのかあ~)と、以前日本でその絵を見た時の記憶が甦りました。
いわさきさんもまたベトナム戦争については深い関心を持ち、戦場となった村で母の帰りを待ち続ける一人の少女の姿を描いたベトナムの小説「母さんはおるす」を元に、それを淡白な中にも深い味のある、日本語訳の付いた絵本にしていました。彼女はこういう絵本を通して、「ベトナム戦争反対!」の姿勢をしっかりとアピールしていたようです。
しかしここ戦争証跡館に来ると、改めていかに多くの外国からのカメラマンや記者たちがベトナム戦争当時に入り込んで取材活動を続け、命がけで数々の記録写真を撮っていたかが良く分かります。
ここには、このベトナム戦争で亡くなった61名のジャーナリストの写真が展示されています。
石川文洋さんもベトナム戦争の真っ只中に現地に入り、最前線まで出掛けて写真の撮影をされていたようです。当事石川さんと同じ宿に住んでいた私の知人(ベトナム戦争当時にバナナを植えていたあのYさん)によりますと、石川さんが深夜に宿に帰ると「今日もまた一日命があったなー」としみじみと述懐されていたそうです。そしてまた翌日も朝早くから出かけて、知人が起きた時には寝床にいつも彼の姿はなかったといいます。
さらに今戦争証跡館に展示されている、カメラマン・一ノ瀬泰造さんの、銃弾によって穴が空いたカメラの写真を最初見た時には、私は鳥肌が立ちました。この時(戦争を撮影する記者たちも命がけだったんだなー)と思わずにはいられませんでした。
今のイラクでも多くのジャーナリストが命を落としていることでしょうが、このベトナム戦争当時にも、最前線に近い現場写真を撮るのが仕事である彼らカメラマンの多くの人たちが命を落としたのでした。例えばベトナム戦争の報道カメラマンだった沢田教一さんがそうでした。わずか34歳で命を落とした彼の一生の、短くもギッシリと中身の詰まった人生には、深い感慨を覚えずにはいられません。
しかしどうして彼らは命がけで、銃弾の飛び交う戦場に出かけられるのでしょうか。金銭的な見返りなどほとんど期待も出来ないような、明日の命運も分からない状況の中で・・・。
私は今同時に3人の日本人の絵や写真が展示してあるのを歩きながらずっと見ていて、彼ら3人の作品があのベトナム戦争を通して重なり合い、3人の作品世界のそれぞれの線を延長していけば、最後は一つの点で交わるような印象を持ちました。
彼ら3人が描き、撮った対象はもちろん「ベトナム戦争」や「戦争直後の傷跡の生々しいベトナム」なのですが、彼ら3人の視点はいずれこの戦争が終った後にやって来る「平和なベトナム」を希求しているように強く感じてなりませんでした。
そしてまた博物館に展示してある中村さんが撮った写真の中には、あのべトちゃん・ドクちゃんが分離手術を受ける前の10ヶ月の時と、2歳くらいの時の写真が2葉ありました。背中がくっついていながらも、無邪気にカメラに向かって微笑んでいるその写真を見ていると、誰しも平静にはおれないでしょう。
そして折りしも、25歳になったドクちゃんはこの年の12月16日にサイゴンで目出度く結婚式を挙げたのでした。式には500人くらいの人数が参加した盛大なものだったようです。そしてこの結婚式のパーテイーには、中村梧郎さんも招待されていました。
今平和が訪れたベトナムで、あの写真を撮った時に10ヶ月だったドクちゃんが、自分の目の前で幸せな結婚式を挙げているのを見ていて、中村さんはこの時どういう感慨を抱かれたでしょうか。
ベトナムBAOニュース
「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。
「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。
■ 今月のニュース <ヒロミお母さん!> ■
Katahashi Hiromiさんは日本から助産婦のボランティアとして、Nghe An(ゲ アン)省にあるNghi Loc(ギー ロック)産科病院にやって来た。
細い体をベトナム風の服に身を包んでいて、一見するとベトナム人のようである。そして今そこの母親や子供たちのこころに、彼女は大変親しみやすい印象を残している。Nghi Locの農村の人たちは、親愛の気持ちを込めて彼女を“ヒロミお母さん!”と呼ぶ。
沖縄にある医学部の助産科を卒業した後に、カタハシ ヒロミさんは東京にある病院で働いた。そして2005年8月に、桜の国・日本からの幾人かのボランティアの一人としてベトナムにやって来た。
こんなに長い間家を離れるのは初めてなので、彼女は両親を思い出して数日間泣いていた。「もしボランティアで仕事をするのなら、いい仕事をして来なさい。父はそう言ってベトナムに行くことが決まった時送り出してくれました。今もそれを思い出します」。
「ですからその父の期待に応えたいと、ベトナムで頑張ろうと思いました。それからはあらゆることが普通のことになり、ベトナムの人たちにもいろいろ助けられて上手くいくようになりました」。ヒロミさんはこう話してくれた。
Nghi Lockから3km離れた医療センターに住んでいるフーンさんは、今から9ヶ月前に子供を生んだ時に、ヒロミさんがその手助けをした。彼女はヒロミさんについて話す時、感動を抑えきれない様子で口を極めて誉めていた。
フーンさんは、その時のことをこう話してくれた。「私が子供を生む時に、ヒロミは夜中じゅう寝ずに起きていてくれて、痛い私の体をさすってマッサージをしてくれたのです。その時彼女はまだベトナムに来たばかりの頃で、ベトナム語も全然話せませんでした」と。
さらにまた数日後、その産科で彼女が働いている仕事ぶりを目の当たりに見てさらに感動したのだった。妊婦が寝起きしている部屋の清掃や雑巾がけをしたり、産後に汚れた妊婦の体を拭いてあげたり、赤ちゃんに湯浴みさせたりすることに至るまで、全然そのことを嫌がりもせず黙々と注意深く毎日やっていて、ヒロミさんは実に素晴らしい働きぶりだったという。
さらにまたお金持ちだろうが、貧乏な人だろうが、党の幹部の人だろうが、普通の庶民だろうが、ヒロミさんはすべて平等に親切に対応してあげて、すべての人たちに力の限り努力していたのだった。
Nghi Locから数十キロ離れた村に住むおばあちゃんのタオさんも、ヒロミさんのことを思い出しては感動して「ヒロミお母さん!」と呼ぶ。約今から一ヶ月前に彼女の娘のリエムさんが出産する時、ヒロミさんが手伝ってくれた。
最初彼女を見た時、彼女は自転車を漕いで家までやって来た。孫たちと嫁の健康調査のためにやって来たのだった。その時は村中の人たちが手を引いて、彼女を見るために集まって来た。今までこんな山奥の地方には、彼女のような外国人が来たことなどなかったからだという。
今では彼女が村を訪ねてくれるたびに、みんな楽しくはしゃいだりして喜んでいる。ヒロミさんは、ここでは子供たちの健康管理の仕方や注意などを指導しているのだった。
Nghi Locにある産科長のトウーさんは、この当時の毎週のミーテイングでいつも「実習生のみなさん、そして職員のみなさん、ヒロミさんを見習いましょう!」と話すのが常だった。そしてそれ以上は何も言わず、2枚の絵をみんなに配るのだった。
その絵は妊婦の産後の健康管理と、赤ちゃんの衛生管理についての注意点を、ヒロミさんがみんなに分かりやすく絵にしてあり、さらに解説も付けてあるオリジナルな指導書のようなものだった。
「これは大変分かりやすく説明してある独創的ないいものなので、病院を出た後でも、妊婦や赤ちゃんがこの指導書の通りに生活環境に注意していけるようにと、ヒロミさんが望んだように全員に印刷して配っているのです」と、トウーさんは話してくれた。
またある日同じ仕事仲間の人たちと、村にいる妊婦や赤ちゃんを訪ねた時、手足が欠損している子供たちに出会った。その時彼女はその彼らの境遇にこころを痛め、涙を流したのだった。そして土曜と日曜日のすべての時間を使って、彼らが何をしたいのかを知り、自分が助けてあげれることは何があるのかを調べるために、何回も村を訪ねて行くのだった。
毎週ヒロミさんは手足が欠損した、特に困窮しているそういう子供たちを訪問しては、彼らに歌を教えて子供たちのこころを癒してくれるのだった。そして彼女は日本にいる友人に頼んで、足が不自由な子供のために車椅子を購入し、日本から送ってもらい、それを子供たちにプレゼントしたのだった。今までにヒロミさんはNghe Anにいる手足が欠損し歩行が不自由な子供たちのために、七台の車椅子を贈ったという。
「なぜそのように仕事が好きで、一生懸命やれるのですか?」という記者の質問に対して、彼女は恥ずかしそうな表情で答えてくれた。
「私はここではまだ少しだけ働き始めたばかりですし、まだそんなに努力はしていません」と。
(解説)
この記事にあるNghe Anという場所は故ホーチミン主席の故郷ですが、実はまたベトナム全土の中でも大変貧しいところだと言われています。
彼女はそういうところで働いているわけですが、さぞ大変な環境の中で仕事をし、生活しているのだろうと想像します。しかしそういう状況の中で、この記事にあるように精一杯努力されている姿勢には感動しました。そして地元の人たちからも、こころから尊敬を受けている様子が良く分かります。
いつまでの任期なのかは分かりませんが、これからも異国のベトナムで貴重な体験を積んでいかれることだろうと思います。