【2008年9月】二つの挙式~ベトナムとの縁~/480人の日本の大学生がベトナムを訪問
春さんのひとりごと
<二つの挙式~ベトナムとの縁~>
この8月、私の知人であるベトナム人、日本人の二つの挙式がありました。一人は「日本語会話クラブ」のリーダーの、あのSさん。そしてもう一人は、フォトジャーナリストの村山さんです。
村山さんのほうは、私にはずいぶん前から、事前に知らされていましたが、Sさんのほうは挙式直前の十日ほど前に突然知らされました。
ある日の夕方、私があのベトちゃん・ドクちゃんを支援しているT女史と、ベンタイン市場前の屋台で食べていますと、そこにSさんがやって来ました。
ここの屋台は、ほんの数年前からベンタイン市場の前の路上で営業を始めていて、毎日夕方からその市場の前にテント形式で設営が始まり、夜12時くらいまで開いています。そしてその日の営業が終わると、すべての商売道具を片付けて持ち帰ります。これが毎日続きますので、さぞ大変な労力だろうと思います。
最近ここは、サイゴンの夜の観光スポットとして有名になり、いつもベトナム人や、アジア系・白人系の外国人など、多くのお客さんで賑わっています。
そこで3人でビールを飲みながら、料理を食べながら話していますと、T女史が村山さんの挙式が迫って来た話題から転じて、「Sさん、あなたも早くいい人を見つけて結婚しなさいよ!」と冗談を言いました。
すると、「そうですね~。分かりました。十日後くらいにそうしましょう。」と言って、「ハッ・ハッ・ハッ」とその大きな巨体を揺らして笑っていました。それからしばらくして、彼の姿が5分ほど見えなくなり、私たちは(トイレにでも行ったんだろう)くらいに考えて、気にせずに二人で続けて話していました。
するとしばらくして彼が帰って来ましたが、その手には赤い色の、二通の挙式パーティーの招待状が握られていました。そして私たち二人の名前が書いてある招待状を、彼は丁重に私たちに渡してくれたのでした。
私たちが(トイレにでも行ったんだろうか・・・)と思っていた時に、実は彼はその封筒を取りに行き、私たち二人の宛名書きをして帰って来たのでした。
それを見て、私たち二人は大いに驚きました。何故なら彼は今まで私たちに一言もそういう意中の人がいるということも話さなかったし、ましてや「実は、私はもうすぐ結婚します。」ということも聞いたことがなかったからです。
さっき話していた冗談が冗談でなくなったので、私とT女史はしばらくポカーンしていました。ようやくして私は、(今まで直前まで黙っていたのは、どうやら私たちを驚かせるつもりだったのかな・・・)と考えました。
それで彼は今日、私たちをびっくりさせるつもりで事前には何も言わずに、しかし招待状だけは抜かりなく用意して、今日のこの日に臨んで来てくれたのでしょう。
もっともベトナムでは、挙式の招待状を相手方に持参するのは、普通挙式の一週間から二週間前くらいですから、特に彼が遅いというわけではありません。
私がベトナムに来た当初、やはり挙式の一週間ほど前に持って来たベトナム人の知人がいましたので、「もう少し早く持ってこないと、予定が入って参加出来ないことがあるよ。どうして、ベトナムではもっと早めに持ってこないの。」と聞いたことがありました。すると彼の答えがふるっていました。「あまり早くに渡すと、相手が忘れるから。」と。
ちなみにこの招待状ですが、ベトナムでは結婚式の招待状を郵送するというやりかたはあまりしません。というか、普通ではありません。ではどうするのかといえば、サイゴン市内や郊外に住んでいる招待客などには、新郎・新婦が二人でバイクに乗って直接持参して行きます。
もしどうしても届けられないような遠方の場合は、最近では電話での連絡も一般的になっていますが、やはり招待状を郵便で送るというやり方は、まだ今のベトナムでは普通の方法ではないようです。
その理由として、結婚式の招待状を郵便で送るという渡し方は、相手に対して失礼という感覚があるようで、ベトナムではもし招待状を郵便で送ったりなどしたら、誰もパーティーには参加しないだろうと、(私の女房は)言います。
私が結婚した時を例に挙げますと、女房の両親の故郷はサイゴンから約900キロほど離れたベトナムの中部のQuang Ngai(クアン ガーイ)という所にあるんですが、そこまでたった一枚の招待状を親戚・縁者に届けるために、女房と両親がわざわざローカルバスに乗って、二昼夜ほど掛けて渡しに行ったといいます。列車だとサイゴンから18時間くらい掛かるようです。
さらに面白いのは、直接手渡した時でも相手に「当日来れますか、来れませんか?」という確認を、普通はしません。招待状を渡した人にはその場では敢えてそのことを聞かないで、そのまま帰って行きます。これもまた、その場でそういう質問をするのは失礼だからといいます。
ということは、当日何人の人たちが参加するかは新郎・新婦の側にも正確には分からないということです。ですから、その日のパーティーの幕が開いて初めて、当日の参加者が確定します。
従って、ある時には最後まで誰も席に座らないで、テーブルが余っている光景もよくあります。反対に、私の挙式の時には1テーブルの人数(10人)ぶんが足りませんでした。
いずれにしましても、招待状を相手に渡す時期や、その渡し方が国が違えばいろいろ違うというのもまた興味深いです。ですから、そのSさんの招待状も挙式までの日程からみれば、驚くほど突然ということではありません。しかしこの招待状を受け取ったタイミングが、♪あーる日、突然♪という感じでなのでした。
T女史もそれを受け取った時、「エエーッ!」という声を発して驚いていました。私もまた驚きました。まあしかし、何はともあれお目出度いことです。私たちはそこで乾杯をして、当日の挙式を楽しみにしました。彼の挙式の場所は、彼の田舎のBinh Duong(ビン ユーン)の自宅で行うということでした。
そしていよいよ挙式の当日の朝十時頃、私とT女史とさらにあと2人の日本人の計4人でレンタカーに乗り込んで、彼の自宅へと向かいました。サイゴン市内からちょうど一時間ほどかけて、彼の家の前にバスは到着しました。
すると彼の家の前の道路の半分の車線をふさぐ形で、約10テーブル(100人ぶん)ほどが道路の片側半分のスペースを長々と占拠して、テントがすでに設営されていました。
「こんなことをしていいの。公安が来ないの?」と私が心配してSさんに聞きますと、「公安には事前に話をしているからいいです。それに今日はこの場に、その公安の人自身が来ますから。」と、全然気にしていない答えでした。
やはりこういう点は、田舎はおおらかでいいですね。テーブルを置くスペースが自分の家の敷地だけで足りなければ、家の目の前の道路上にテントを張って設営するという、日本人から見たらその突飛な発想には笑いました。
そして私も今までベトナムの結婚式に参加してきて、自分の自宅で挙式パーティーをするという場面に出会ったのは、今回のSさんの挙式が初めてでした。
ベトナムの結婚式は、今はサイゴンではほとんどがレストランや、ホテルの中のパーティー会場の中です。自分の自宅で行なおうとしても、自宅そのものも狭いし、その料理の準備や会場の設営に手間ヒマを掛ける時間が大変ですので、今は普通はほとんどやりません。
Sさんのその日の参加人数は、道路上に10テーブル、さらには家の中庭にも30テーブルくらいがありましたので、この日だけでも300人以上は招待客が参加していたようでした。
さらに良く聞きますと、何とこのパーティーは前日にも一回あり、この日の夕方にもさらにまた続けて一回あるそうで、後で聞きましたら全部で約400名くらいの招待客が来たといいます。
私たちが参加した時のその招待客は、もちろんベトナムの人たちがほとんどでしたが、中には私たち以外にもSさんと、新婦のつながりのある日本人が招待されていました。奥さんは以前日本の会社に勤めていたことがあるそうで、日本人の方はその縁から今日ここに招待されて来たという話でした。
私たちは家の外の中庭に設営された丸いテーブルを囲みながら、時にSさんに一気飲みをみんなが勧め、3時過ぎころまで食事をし、ビールを飲み、大いに語らい合って、両親にも祝福の挨拶してそこを後にしました。
そして今度はそれから一週間も経たないうちに、村山さんの挙式パーティーです。彼のパーティーはサイゴン市内で行われました。今回の彼の挙式のことは、ベトナムの有名な新聞であるTuoi Tre(トゥイ チェー)にも、彼のベトナムでの活動を紹介する形で、挙式の前日に大きく掲載されました。
しかし彼の今回のベトナム訪問は、この挙式だけで終わるのではありませんでした。彼が主催する今年のスタディーツアーもあり、またそのツアーが終了した後は、彼はあの有名な米軍による虐殺があったソン ミー村を訪問し、あの事件の時かろうじて難を逃れた、二人の生き残りの人に今回取材するという、本来のジャーナリストとしての仕事もある、大変忙しいベトナム滞在でした。
そして私は事前にサイゴンで、新婦の方にもお会い出来ました。彼の奥さんとなられる方は、京都生まれの非常に清楚な感じの女性でした。
当日には浅野さんや、バナナを植えたあのYさんや、そしてT女史も参加しました。新婦のご両親と、私たちのこのグループは一つの同じテーブルに座るようになっていました。この日には、日本人は20人、ベトナム人は80人ほど参加する予定だと村山さんが言いました。
当日の参加者には、戦争証跡館の副館長さんや、あのドクちゃんとその奥さんも一緒に参加されていました。また英字新聞のVietnam Timesの記者も来ていました。もっともこの人は、彼の挙式の取材を兼ねていたようですが。
そしていかにも村山さんらしかったのは、この日招待されていたベトナム人側のお客さんたちの、そのバラエティーに富んだ職種でした。
この日に招待されていたのは、彼が常宿にしているミニホテルの女主人もいました。この女主人は村山さんが晴れの舞台に、スーツもブレザーも何も日本から持って来ていないと聞いて、自分の亭主のブレザーを貸してあげたそうです。当日見た時は、少しダブダブのような感じでしたが。
またそのホテルの近くの路上の小さな屋台で、スルメをあぶってお客さんに出す仕事をしているおじさん。ラーメンを調理しているおばあさん。さらには貝料理を作っているおばさん。そしてシクロのおじさんや、バイクタクシーのお兄さんなど。
なんとさらには、私とT女史がSさんが一緒に食事した、ベンタイン市場前のあの屋台の従業員までが招待されていました。
そしていつものベトナムの挙式パーティーのごとく、招待状の予定時間より約一時間ほど遅れてパーティーが始まりました。最初に新郎・新婦の挨拶から始まり、そして友人代表として私が挨拶させて頂きました。私は「ベトナムとの縁」というテーマで話しました。
彼が奥さんと知り合ったきっかけは、ベトナムから彼が連れて来た枯葉剤被災者の女の子の支援をした事から始まりました。
村山さんが熱心にその女の子を支援している姿を見て、「この人自身を私が支援しないと・・・」という気持ちを抱いたのが、今の奥さんなのでした。その時のことを聞いた時の私の率直な感想を話しました。
今このベトナムに住んでいる私たちは、ベトナムという国の中でいろんな縁に結ばれ、ベトナムの人たちの中でいろんな縁に助けられて生きているのだと思います。村山さん夫婦を結びつけたのも、やはりベトナムという国が運んで来た「縁」というべきでしょうか。
そういう意味ではSさんの挙式といい、村山さんのパーティ-といい、いろんな多くの人たちが結び付けた縁ではないかという気がします。
二人の未来に、こころより幸せあれ!
Xin chuc mung hanh phuc!
ベトナムBAOニュース
「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。
「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。
■ 今月のニュース <480人の日本の大学生がベトナムを訪問> ■
8月24日、兵庫県にある33の大学や短大生たち、480人を乗せたFujimaruがサイゴン港に寄港した。このベトナムに彼らは二日間滞在して、各グループに分かれて、違った活動に参加する予定である。
この洋上セミナーの引率責任者で、その代表でもあるHiroshi Tsujii氏は、このセミナーは1989年から毎年行なってきていて、今に至るまで15のコース過程を終了して来たということであった。
このプログラムは日本の政府も承認していて、このセミナーに参加した生徒たちは、大学での単位を取得したと認定される。
今回参加した大学生たちは、夏休みを利用してアジアや太平洋の国々を回り、それぞれの国の歴史や文化を研究し、地元の人たちと交流をしたりすることを目標にしたプログラムを組んでいる。
また海の上にいる時には、船上でアジアのそれぞれの国の歴史・文化・生活・国民などについての講義を受ける。さらに船が着いた所での課外活動も行っている。
このセミナーに参加したそれぞれの大学生たちは、大学の中での資格と単位を得ることが出来る。この洋上セミナーに掛かった総経費は2百50万ドルで、その半分を兵庫県が受け持ち、あとの残りを参加した学生の頭数で割って費用を払うというやり方だった。だから一人の負担ぶんは、約30万円弱になる。
さらには、この480名の日本の大学生の中には一緒にこの洋上セミナーに参加して、そのついでに故郷に帰省を夢見ていた約20名のベトナム人の留学生もいたのだった。
大学生を乗せたFujimaruは、今年はホーチミン市以外にもシンガポールや、中国の広州や、香港などに立ち寄る予定である。
ホーチミン市友好協会のQuoc(クオック)氏によると、今年の夏Fujimaruがアジアの中で最初の寄港地にホーチミン市を選んだのは、今年が日本とベトナムが友好関係を結んでから、ちょうど35年の記念すべき、歓迎すべき年だからということだった。
8月24日と25日の2日間で、べトナムの51家族が98人の日本の大学生をホームステイさせて受け入れたり、この2日間で家族が大学生たちを案内して市内観光に連れて行ったり、買い物にも付き合ってあげたりした。
さらには、ベトナムの風習をより良く理解してもらうために、ベトナムの結婚式にも連れて行ったのだった。
(解説)
このFujimaruの洋上セミナーは毎年行われていることで、特に目新しいことではありません。日本の兵庫県から、毎年多くの大学生たちがこのセミナーに参加しているのですが、実はこのプログラムの企画の発案者であるベトナム人のDさんにようやく、最近初めて会うことが出来ました。
「ようやく・・・」という意味は、実は2年前からこの方の名前は知っていたのですが、何せDさんは普段は日本とべとナムを頻繁に往復されている忙しい方なので、なかなかお互いが会える時間を設けることが出来ませんでした。それがこの夏にたまたまDさんに電話を掛けましたら、運良く電話が繋がって夕方頃に会うことが出来ました。
Dさんに最初に会ったのはサイゴン市内にあるホテルのロビーでした。今回もまた短いベトナム滞在のようで、最初に「お忙しいところ時間を割いて頂き、有難うございました。」と謝意を述べました。
Dさんは実は日本に住んで40年以上になります。ベトナム戦争が続いていた頃、彼がサイゴン市内の大学に在籍し ていた時に、日本政府から国費留学生として選ばれて1966年に来日されました。
それ以来彼は一橋大学や筑波大学で修士課程や博士課程まで終了し、1978年からは国際連合の研究員として在籍され、15年間そこに勤務された後、今は日本とベトナムを結びつけるITビジネスの会社を立ち上げて成功されています。
ここでは到底書き尽くせない、もの凄い波乱万丈の人生を送ってこられたのが、今私の目の前に座られているDさんなのでした。
ホテルでお会いした印象では、実業家というよりは、何か大学の先生のような大変知的な印象を受けました。事実、DさんはN新聞に掲載されていた「私の履歴書」という、本田宗一郎氏の自叙伝をベトナム語に翻訳して出版されたという、多彩な才能をお持ちでもありました。
本業の仕事の傍らに、この翻訳の作業は大変なものだったようで、毎日朝4時過ぎまでその作業に没頭していたと言われました。毎日普段の仕事を終えてからのあまりのハードな作業に、奥さんが心配して、「もう止めたら。」と何回も言われたようですが、忙しい仕事の合間を縫って完成させたそのベトナム語の翻訳を、ついに約2年前に本として出版されました。
私がDさんの名前を知るきっかけになったのも、ベトナム人の手による本田宗一郎氏の本が出版されたということを聞いたからでした。
Dさんとホテルでお会いしていろいろ話していた時に、Dさん自ら「今から私の会社兼自宅を見に来ませんか。」とのお誘いがあったので、喜んでその誘いを受けました。そこはタクシーだと市内からは30分以上は掛かる郊外にありましたが、そこに着いて車を降りてびっくりしました。
この時の時間はすでに夜の8時を過ぎていましたが、その工場兼自宅を兼ねた敷地は、何と約5千平方メートルはあるという広大なものでした。そしてその中にショールームを兼ねた、木造りの大きい建物が10軒ほど点在していました。
後で聞きますと、Dさん自身は建築が専門分野でもあり、建築には造詣が深い人物なのですが、(こういう建築物は早く保存しておかないといずれ無くなる)と考えて、ベトナムの全土から伝統的な民族建築を分解・解体してここに再建・移築したということでした。
こころ憎いのは、その敷地内を歩いていますと小鳥の鳴き声のような、耳に心地よい音が絶えず響いていることでした。その音の発生源を見せてもらいましたが、50個ほどの大きい水がめに、水が絶えず滴り落ちていて、そこからあの詩情を帯びた音が広い敷地内に流れている仕組みでした。日本庭園ではこういうのは時に目にすることはありますが、ベトナムでは初めて見ました。
ここにはサイゴンの人民委員会の代表と、その幹部の面々も来たそうですが、サイゴン市内とあまりに違うその自然環境の素晴らしさに、みんな感嘆しきりだったそうです。
さらにこの時お客さんを歓迎するために、その敷地の中には石畳に沿って庭園灯が点いていました。そしてしばらく歩いて腰を下ろしたテーブルの上には、周りには誰もいないのに熱いベトナム茶がすでに私たちのために前もって淹れられていました。
どこまでも周到な、その気配りのもの凄さに 驚きました。Dさんは、将来はここに日本の茶室も造って、ベトナムの人たちに日本の茶道を紹介したいとも話されました。
そしてお茶を飲みながら、彼が今まで手がけて来たビジネスと、今後考えている展望を熱く語ってくれたのでした。その中に今回のこのFujimaruのプログラムもありました。
Dさんが話す時のその語り口は落ち着いて、もの静かな印象ですが、日本とベトナムに架ける大きな橋を今も、そしてこれからも造り続けていこうという情熱が溢れていました。
事実Dさんは日本政府から日本・ベトナムの親善大使として表彰されています。日本人ではあの杉良太郎さんが、ベトナム側から親善大使として表彰されています。
実業家としては素晴らしい成功者でありながら、そのような匂いを全然感じさせなくて、ビジネスとして成功したその恩恵を、日本とベトナムの二つの祖国に、このように日本の若い大学生たちを交流させ、世界に対する視野を広めさせていこうとするDさんの志と情熱の素晴らしさに、(こういう人が、本当にいるのか!)と、私は帰りのタクシーの中でも感動の余韻が続いていました。