【2009年2月】ベトナムのテトに思う/名誉市民・Araishi Masahiroさんとの永別
春さんのひとりごと
<ベトナムのテトに思う>
ベトナムでのテト(旧正月)を前にしたある日の夜、ベトナムへ日本からの派遣で来ているNさんと、友人A氏も交えて食事をしながら話していました。
Nさんの会社はベトナム人の社員がほとんどで、日本人は所長である彼のほかは、数人だけです。今年のテトのすごし方について私たちが「どうして過ごしますか?」と話していました。
するとNさんは、「私の会社は日本の社長の指示で、一年の祝祭日は日本の休みに合わせるようにしていますので、ベトナムでみんなが祝うテト休みはありません。」と答えられました。
私はそれを聞いて「ええーっ!」と驚きましたが、A氏も「ベトナムも一昨年からWTOに加盟したことだし、これからのベトナムの新年も旧暦の正月ではなく、ゆくゆくは先進国と同じく一月一日でいくべきでしょう。」とそのやり方に賛意を示されました。
それを聞いた時に私は、ベトナムの人たちのテトの過ごし方について、外国から来た企業がこれからベトナムに投資して、現地のベトナムの人たちを採用していく時に、今までのような旧暦に基づいた休日の取り方が今後も続いていくのが良いのか、悪いのかについてしばらく考えざるを得ませんでした。
今アジアで旧暦と太陽暦を併用している主な国は、中国と韓国とそしてこのベトナムになるでしょうか。日本は1872年に太陽暦を採用して以来、すでに130年を超えました。
しかし漁業の仕事に従事している人たちの間では、潮汐の関係で今も太陰暦を重宝しているようなことが続いているようですが、普通の日本人の感覚においては、年中行事やふだんの日付の確認でも、もはや旧暦で考えている人はいないでしょう。
でもこの太陽暦の使い方が、日本人の日常生活の中に浸透するまでには、おそらく様々な葛藤があっただろうことは想像出来ます。
例えば旧暦の、星を愛ずる七夕なども、今の太陽暦の7月7日ですと、星など何も見えない毎日雨が続く梅雨の時期になってしまいますし、お盆なども以前は旧暦の 7 月 15 日に全国一律に行われていたのでしょうが、今は都会ではお盆を新暦の 7 月 15 日にし、田舎では月遅れの 8 月 15 日にしているのが一般的であるように、新暦を採用しても 日常生活では様々な不具合が出て来たのだろうなーと思います。
明治維新後まもなく、日本人が今まで使っていた旧暦を弊履の如く捨てて、太陽暦を公式に採用したことによる目に見えない部分での文化的な喪失は、さぞ大きいものがあっただろうなーと個人的に思います。
しかしベトナムでは普通の人たちの意識の中では、まだまだ旧暦の比重のほうが大きいですね。例えば私が電話でベトナムの人と話す時にも、向こうは日付を確認する時には、「では○月 ○日に会いましょう。西暦では○月○日だね。」と、わざわざ念押しして来ます。そういう場面では、「 ○月○日Tay(西)」という風に、日付の後ろに「Tay」という表現を付けて、誤解しないようにしています。
ベトナムは、公式には中国と同じように太陽暦を採用しながらも、テトの行事などでは今でもずっと旧暦に合わせて祭日を決めています。特にテト前にベトナム全土で展開されているであろう大掛かりな、街中の環境整備などの取り組みは、すべて旧暦の正月に向けて準備し、旧暦の正月に間に合うように行われています。
テト前に市内の至る所で開かれる花市や、街中のイルミネーションの飾り付けや、市内の目抜き通りに設営される豪華絢爛たる庭園や、大晦日の深夜12時に打ち上げられる花火などの様々な準備などは、太陽暦の一月一日の正月のためではありません。
全てはまさにその旧正月・テトに向けてのものなのです。サイゴン市内の橋や道路などの公共工事も、もうすぐやって来るテトに向けての完成を目指していました。そして市内4箇所ほどにある橋の工事は、歩調を合わせたように、ちょうどテト直前に完成しました。
実際太陽暦の一月一日の正月は、このベトナムでは一年の中でただの一日だけ休日があるというだけで、何の盛り上がりも、正月らしい雰囲気も、正月特有のウキウキした気分も全然ありません。
日本人からすれば、拍子抜けするほどサーッとあっという間に通り過ぎてしまいます。日本にいた時に迎えていた正月とのこの落差はあまりに大きいので、普段はベトナムにいる私は、今は正月と言えばベトナムで迎える旧正月・テトの盛り上がりや、賑やかな感覚に慣れてしまいました。
そして毎年テト前に公園などで開かれている、いろんな種類の花が咲き乱れている絢爛たる花市などを見ていますと、日本語で言う「新春」というのは、やはり旧暦の中で使いこんで来たような匂いがつくづくしてきます。
実際日本にいる時に一月一日に正月を迎えても、まだ外の風は寒いし、桜や梅の花も咲かないし、草木も枯れているし、土の中から青々とした芽も出ていないし、「新春というけれど、春はどこにあるの?」という感じで、新聞にも印刷されている「新春」という言葉の実感が全然湧きませんでした。
しかし、ベトナムでこのように様々な花が競うように咲いている花市を見ますと、まさに「新春」という言葉がぴったりします。そしてこの花市に向けて、業者の人たちは黄色い菊や、Hoa Mai(ホア マーイ)という黄色い花が咲く木を、ちょうどこの花市の時に満開になるように調整して、上手い具合に咲かせます。
このベトナムの花市を見ていますと、私の故郷・熊本で毎年開かれている「植木市」などは、花よりも植木のほうが多い、まさに「植木の市」というべきですね。ベトナムのは、植木よりも花のほうが多い「花の市」といえるでしょうか。
そしてまたテトが近づくにつれ、恒例の行事となっているのが、故郷へ帰る人たちの帰省ラッシュです。飛行機や列車やバスなどの切符は相当前の時期から満席状態になり、なかなか手に入りません。今は携帯電話からの申し込みも出来るようになりましたが、やはりそれでも切符を手に入れるのは難しいようです。
以前はテト前に切符を手に入れるために、大群衆が窓口に殺到していました。そしてみんな順番などは守らず、体力のある者が窓口に早くたどり着いて、わしづかみにしたお金を窓口に差し出して切符を手に入れるようなやり方でしたので、私たちのような外国人には到底太刀打ち出来るものではありませんでした。
実際毎年テトの前の時期には、ハノイやサイゴンのような都会から故郷に帰る人たちが、この時期の帰省ラッシュでいかに大変困難な目に遭っているかの記事が、いろんな新聞に載らない日がありません。
今年のテト一週間前の新聞には、「毎日約8万人が帰省。」と書いてありました。このような人たちの帰省ラッシュがテト直前までは毎日のように続き、そしてまたテトが終われば同じような人数の人たちがサイゴンに帰って来るわけです。
そして毎年のテトの帰省に伴って起こるのが、交通事故による死者の増加です。今年の旧正月の休暇期間中に交通事故で死亡した人の数は、わずか 5 日間で 250 人に達し、 1 日に平均すると50 人が交通事故で亡くなっています。
そして田舎に帰る前には、貯めた給料の中から彼等は両親や兄弟や親戚などにお土産をたくさん買って、田舎にそれを持って帰ります。両親や兄弟たちも、またそういう子どもたちの帰省を楽しみにしているのです。
そういうベトナムの人たちのテトの迎え方、過ごし方を毎年このベトナムで目の当たりにして見ていて、私は自分の子どもの頃の正月の過ごし方をまた思い起こしていました。
私の家は、父が七人兄弟の長男で実家の跡取りでしたので、正月二日には親戚一同が勢ぞろいし、そのまた子どもや孫たちも集まって来るので、総勢30人以上になり、それはそれは賑やかなものでした。そして、この時におじさんやおばさんから貰うお年玉が何よりの楽しみでした。
しかしこういう集まりも、私が中学生の頃にはその回数も少なくなって来て、その後は以前のように親戚一同が正月二日に集まるということは有りません。その理由は様々な要因が挙げられるでしょう。
それにしても、今にして思えば日本は正月行事に伴うこういう宝もののように大切な親戚一同の集まりも、気付かないうちに捨ててしまったような思いがします。
それが今のベトナムでは、まだ私が幼い頃の、昔の日本と似たような風習が続いているという感じがしますね。それはまた、家族や兄弟を大切にするという、ベトナムの人たちの「内意識の強さ」や「家族の絆の強さ」にも繋がっています。
さてNさんの会社は、従業員をテトの時期にも繋ぎ止めるために、このテトの時期に故郷に帰らない従業員に対しては、ふだんの給料の三倍(もちろん日割りで)は支払うという約束をしたそうです。
それでも大部分の社員は給料の3倍UPよりも、テトの時には故郷に帰る選択肢を選んだそうです。そして個人的に私は、そういう選択肢を採った若者たちの考えに、たまらなく嬉しい気持ちが湧いてきました。
そして今年のテト明け後に、私はベトナム人の若い生徒たちに以下の質問をしました。
(1) 給料が3倍になれば、田舎に帰らずサイゴンに残って働くか。
(2)給料が3倍になっても、テトにはやはり田舎に帰りたいか。
◎ あなただったらどちらを選ぶか?
上の(1)と(2)の質問に対して、40人ほどの生徒に聞いた結果は、何と38人が給料が3倍UPで貰えても、テトには田舎に帰りたいという(2)の答えを選び、テトに給料が3倍に上がれば、サイゴンでそのまま働きたいという答えはわずか2人だけでした。
Nさんの会社は、まだ今は規模の小さい会社ですが、べトナム人を採用し、ベトナムで企業活動を行う以上、ベトナムの風俗習慣を尊重することもまた大切なことでしょう。
しかし日本とベトナムの二つの国に存在する、太陽暦の正月と 旧正月の時期のズレをどう処理するか、連絡体系をどうするか、テトには故郷に帰りたがる従業員をどう説得するか、まだ旧暦の意識が根強いこのベトナムで、企業として生き延びていくためにはどうすればいいかを、今この段階でも試行錯誤しているようでした。
実際従業員を休ませる祭日だけで考えますと、ベトナムの祝祭日の取り方を採用したほうが、はるかに少ない祝祭日で済みます。ベトナムでは2日以上のまとまった連休が続くのは、このテトと4月30日の南部開放の日に続く、翌日の5月1日のメーデーだけです。
ちなみに一年の休日を数えても、ベトナムのカレンダーに国民の休日として赤く塗ってあるのは、公式には大晦日を除けばわずか8日だけです。今の日本は、おそらくこの2倍の休日があるでしょう。
そういう意味では、ベトナムの伝統や風俗を尊重しながらこのベトナムで会社を運営をするのか、そういうのには関係なく、テト休みなども一切無視して、日本の休日体系と同じスケジュールに基づいて年間計画を立てるのか、どちらにした方がこのベトナムで永い企業生命を維持出来るのかは、すぐには結論は出ないでしょう。
私は個人的にはNさんの会社の方針やA氏とは意見が違い、日系企業といえどもベトナムで企業活動を行っている以上は、ベトナムの人たちのテトの過ごし方などは、ベトナムの人たちの要望に合わせた風俗や習慣を尊重して、ベトナム流儀に任せたほうがいいのではと思います。
ちなみに今年の私のテトの過ごし方ですが、テト開始後の三日間は毎日女房の実家で朝・昼・晩と、同じメニューの食事をして過ごしました。テトの間はどこの家でも、ワンパターンの同じメニューの食事が続きます。しかし正直なところ、一日食べれば、もう飽きてきます。
そして正月三ヶ日のその後も、近隣の行楽地や、有名な観光地などはベトナムの人たちでひしめくような大勢の人たちが殺到しているのは充分に予想出来ましたので、サイゴンからは出ずに家でじっとしていました。
しかし5年後には私の娘も11歳になりますので、その時のテトはカンボジアの、永い間の憧れの、あのアンコールワットを女房と3人で訪問するのが、私の今からの夢です。
ベトナムBAOニュース
「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。
「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。
■ 今月のニュース <名誉市民・Araishi Masahiroさんとの永別> ■
「私が亡くなったら、私の遺体は火葬して欲しい。墓などは何もいらない。そのかわりに、火葬した後の骨を私の友人がいるベトナムの河に流して欲しい。」
「私の若い時の友人、貧しい女性の友達、障害者の人たち、環境問題に興味がある若い学生たちが住んでいる、このベトナムの大地に。」
これは今年の1月29日に、日本の病院でガンのために亡くなった、BAJ事務局長・Araishi Masahiroさんの遺言だった。
Araishi Masahiroさんは、1982年にホーチミン市から名誉市民の称号を受け、2008年にはフエ市からも名誉市民の称号を授けられた。
Araishiさんは、第二次大戦で日本が荒廃した直後の1945年10月に日本で生まれた。そして戦後の若い世代に共通しているように、彼も自分の国を荒廃させた戦争が嫌いで、国の再建のために、これから力を振り絞って頑張ろうという使命感に燃えたのだった。
彼は大変努力家でもあり、聡明だったので、日本で有名な東京大学に大きな苦労もなく入ることが出来た。そして東大での7年間彼は機械を研究して、そこを卒業した。
そして、この東大での7年間に、彼は東大に留学していたベトナム人の学生と交流を結んだのだった。そしてその当時の彼らベトナム人の大学生たちは、今のこのベトナムではいずれもが、有名な大学教授や、日本のベトナム大使や、大きい会社の社長になっているような人物ばかりだった。
彼は若い時に多くのベトナム人と知り合ったことにより、その当時続いていたベトナム戦争を激しく憎み、南北ベトナムが統一されるまで、日本に留学しているベトナムの大学生たちを守る会議のメンバーに積極的に参加した。
そしてベトナム戦争が終わり、南北が統一されて以来、彼はベトナムに深く関わるようになったのだった。
まず1982年には、ベトナム戦争の激戦地であったクチに生活支援用の発電機を寄贈した。そして1990年~1992年には、聾学校へ奨学金を上げたり、給食用の米などの支援をした。さらにダナン市内の子どもたちには、ミシンを寄贈した。
そして1992年から2002年には、 ハイフォン市・ハノイ市・ホーチミン市環境公社を訪問調査し、日本から中古ゴミ清掃車を送る活動を開始した。その後日本の各市から中古ゴミ収集車の寄贈を受け、ベトナムの各市に送った。
またハイフォン市の環境公社から代表団を日本に受入れ、日本のごみ処理問題の現場にツアーを組んで関連施設で研修したりした。1994年には、ホーチミン市貧困地区での調査を行い、ストリート・チルドレンたちのために職業訓練学校への支援を開始した。
1995年には、ハノイ医科大学・フエ環境局と共催で環境問題セミナーを開催し、その結果を『日本の公害経験』という題名でベトナム語に翻訳した。1996年から2003年には、ベトナムの北部のCao Bang(カオ バン)とHa Giang(ハー ザーン)の岩山に、森を作るために植林した。
1999年には、ホーチミン市で、視覚障害者の人たちがマッサージの技術を身に付けるための施設を作った。そして2002年から今に至るまで、ホーチミン市内の貧しい子どもたちのために、“環境教育”に専念していたのだった。
Hue(フエ)などでは、貧しい区域で困窮している青年たちや障害者の人たちが安定した仕事に就けるように、新しい仕事を作り出して与えていた。
以上述べたように、このベトナムで彼が成し遂げた仕事はいろいろある。しかしそれらのプロジェクトにはすべて共通した、彼の信念が反映されている。
彼は言う。「子どもには魚を与えるな。魚の釣り方を教えよ。」と。
そしてさらに彼は続けて言う。「我々が支援の場所に足を運ぶと、そこにいるみんなが(日本人はお金持ちだから、ここにもいっぱいお金を持って来てくれたんだろう)と考える。」
しかしいつも私がそこで皆んなに言うのは、「いくらお金がたくさんあっても、いつかは無くなってしまうんだ。」と。それで私が言うのは、「皆んなが持続・発展していくためのチャンスを与えることが大切なことなのだ。」と。
「だからこそ、視覚障害者のための施設を創ったり、貧しい子どもたちの将来のために、職業訓練学校を創って来たのだ」と。
そして彼が亡くなったという知らせがHueに届いた時、まだ子どもであるBia(ビア)さんとDien(ディエン)さんは、一日中さめざめと泣いていたのだった。
何故ならば、彼はその子どもたちの生活を変えたからだった。彼に会う前に、その二人の子どもたちは字を全く知らなかった。将来どうしていいかも分からなかった。しかし彼のおかげで彼らは学校に通えるようになり、今この二人の子どもたちは外で自信を持って働いているからである。
(解説)
Araishi Masahiroさん永別の記事は、こちらの新聞に一ページ全部を割いて書かれていました。このベトナムで、Araishiさんが古くからベトナムのためにいろいろな活動をされていたことを、この記事を読んで初めて知りました。
そしてこのベトナムで、Araishiさんの生前にお会い出来なかったことが残念で、残念で仕方ありません。余りに早すぎるAraishiさんのその逝去には、関係者の誰しもが痛恨の思いでおられることでしょう。
この記事にある「BAJ」は1993年に設立されたそうで、設立当時は、ベトナム・ホーチミン市の障害児への支援を中心に、戦後復興を進めるベトナムへの支援を行っていたということです。
1993年の団体設立以降は、ベトナムでの視覚障害児の教育に携わる教員や行政担当者を招聘し、日本での研修を行ってきました。ベトナムでは障害児や、女性を対象に裁縫技術訓練の指導をしたり、また、学校や公民館の建設、井戸の掘削などを支援しているということでした。
また1997年からは、視覚障害者の就業支援として「日本あんま・マッサージ」の技術をベトナムへ移転しようと、ベトナムでの「マッサージセミナー」を実施してきたとも書いてありました。
今のベトナムで、政府からの手厚い支援などは期待出来ない、障害者や貧しい地方などの団体施設に、永い間根気よく支援を続けられて来たAraishi Masahiroさんの活動に対して、この記事を書いた記者も、まだまだ書き足りないような感動と感謝と哀悼の気持ちが文章に滲み出ていました。
そしてこの記事の中には、三葉の写真が添えてありました。そのうちの一枚は、病室のベッドの上で家族の人に囲まれて、にこやかに微笑まれている写真でした。〔これがAraishiさんの最後の写真である。〕と、その写真の下に書かれていました。
Araishiさんが着ているシャツはホーチミン主席の顔がプリントされたTシャツでした。その写真の中のAraishiさんの顔はもうすぐ命が尽きる人とは思えないほど、明るく微笑まれていて、そしてその目元は穏やかな優しさに満ちていました。
私自身、この記事の最後の行を読んだ時に、Araishiさんがベトナムで支援してこられた子どもたちの悲しみを想像するにつけ、このベトナムでAraishiさんを知る多くの人たちが、故人を偲び、滂沱たる涙を流していることだろうと思いました。
このベトナムより、永年ベトナムのために尽力されて来たAraishi Masahiroさんに、謹んで哀悼の意を表します。