【2009年3月】カンザーの海で子どもたちと遊ぶ/節約か、浪費か
春さんのひとりごと
<カンザーの海で子どもたちと遊ぶ>
毎年の夏に、日本からベトナムにやって来る「マングローブ親善大使」の生徒たちと交流させてもらっている、Saint Vinh Son(セイント ビン ソン)小学校の生徒さん達と一緒に、今回カンザーに遊びに行ってきました。
普段のSaint Vinh Sonの小学校の子どもたちは、月曜日から金曜日まで毎日、午前か午後のどちらかのクラスに参加して授業を受けています。
そしてこの学校の生徒たちは、こうしたレクレーションに参加する機会がそう多くあるわけではありません。この学校は、原則として授業料無料で運営していますので、そういう活動が出来るだけの資金がないことが多いからです。
ですから、彼らがそういう行事に参加出来る機会といえば、毎年夏の「マングローブ親善大使」の日本の生徒たちと一緒に、サイゴン市内にあるプール付きの公園に行ったりする時や、学校の資金に少し余裕が出た時に、2~3年に一度くらいブンタウというサイゴンから近い海水浴場にバスで出かけたりするくらいしか、皆で遠出することはありませんでした。
それが今回、日本からSaint Vinh Son小学校を支援されているTさんご夫婦が来られました。Tさん夫妻が日本から来られた時には、ご自分たちの荷物よりも、Saint Vinh Sonの子どもたちのために、日本の有志の方々から託された古着や、子どもたちへのお菓子などのプレゼントを、制限重量オーバーぎりぎりまでトランクに積み込んで、それをサイゴンに持ち込まれました。
Tさんご夫妻は、今日本の長野県で雑貨屋さんを営まれています。そして同じ長野県人で、こちらの現地でSaint Vinh Son小学校を支援されているAさんを知り、彼からその小学校のことを知りました。それ以来今まで約2年間ずっと支援を続けられています。
そのAさん自身はベトナム滞在が約3年になりますが、2年前にFさんのこの学校を初めて訪問し、それまでベトナムでの人生の目標が漠然としていた時に、この学校での子どもたちとの出会いが、それ以降の彼の人生の大きな転機になりました。
ここの生徒たちと出会って以来、「この子たちと一緒に歩んで行こう!」と決意され、それからSaint Vinh Son小学校を積極的に支援する活動に入りました。Aさんがその活動を始めて以来、同士の方々の支援の輪が着実に広がっていきました。
Aさんが私によく話す言葉があります。「ボランティアというのは、して上げるものではなく、させていただくもの。」「ここの子どもたちと一緒にいるだけで、感動があり、また今までの自分が大きく変化し、充実感があるんです。」彼はこれからもずっとベトナムに住み、ここの子どもたちを支援する決意です。
そして今、Aさんはここの小学生たちに、一年前から週2回日本語を教えています。もちろん、ボランティアで。Aさんの言い方を借りますと、「日本語を教えさせてもらっている。」というふうな表現になるのでしょう。
私も時々飛び入りで、日本の歌をここの生徒さんたちに教えたことがあります。その時には、私が歌う後に続けて、みんなが大きな声で歌ってくれました。さらに一回では物足りなかったのか、「先生、もう一回お願いします。」と、さらに催促されました。本当にすがすがしいくらいの元気の良さでした。
Tさん夫妻もAさんと出会い、その後実際にこの学校を訪問して、ここの生徒たちの置かれている境遇を知り、またそういう状況の中でも、ここの子どもたちの明るく、キラキラとした目の輝きに感動を受けて、自分たちも遠い日本からこの子どもたちの支援をしようと決意されたのでした。
そして今日本で、このSaint Vinh Son小学校の生徒さんたちが作成した携帯電話のビーズのストラップを、地元の人たちに販売するなどの活動をされています。今までに約1万5千個のビーズを販売されたそうです。さらにはこうしたTさん夫妻の活動にもより、長野県のある市からは、市が公募したマスコットのビーズ作成の依頼がSaint Vinh Son小学校に来たそうです。
私がAさんの紹介でTさん夫妻と出会ったのは、今から約1年半前になります。お二人とも、非常に穏やかな、落ち着いた話し方をされる方々で、それ以来お二人がベトナムに来られる度に、Aさんも交えて一緒に食事させて頂いています。
今ではこのサイゴンで出会いますと、お互いの最初の挨拶が、「いや~、お久しぶりですね!元気ですか。」というくらい、大変親しい関係になりました。Tさん夫妻は、平均すると半年に一回くらいのペースで来越されています。
今回のTさんご夫妻のベトナム滞在は、一週間に満たない期間でしたが、その短いベトナム滞在の間に、「日曜日に子ども達と遊んだりできないですか?」というTさん夫婦の希望を、施設運営者のFさんとOanh(オアン)さんに申し出たところ、「それはいいですね。ぜひ子どもたちのためにやりましょう。」となり、今回のカンザー訪問が実現したのでした。
しかし全員は連れて行けないので、カンザーにまだ行ったことのない生徒たちを中心に参加者を絞り込んで、最終的に26人の生徒たちと、子どもたちのヘルプとしてここの卒業生が2人、大人が8人参加してのカンザー行きとなりました。
当日はSaint Vinh Son小学校前に7時集合ということで、私はその10分ほど前にバイクで到着しました。すると、もうほとんどの生徒たちがすでに来ていました。
バスは7時出発というのは生徒たちも事前に聞かされていたそうですが、大部分の子どもたちが5時くらいにはすでに集まっていたそうで、最も早い生徒など何と夜中の3時にはここに来ていたそうです。夜中の3時といえば、当然辺りは真っ暗でしょう。
如何に今日のこの日を、みんなが待ち焦がれていたかが分かります。それを後で聞いた時に、私は何とも言いようがない感慨が込み上げて来ました。
私が小学生の時なども、当時は子どもにとって娯楽らしい娯楽などはほとんどなかったので、年に一回ある学校の遠足の行事が、嬉しくて嬉しくてたまりませんでした。遠足のある前の日の晩などは、心臓が締め付けられるくらい、こころウキウキした感じになり、なかなか寝付けなかったのを、遠い記憶の中で今でも思い出すことが出来ます。
さて私たちが乗り込んだバスは、恐ろしく古い年代物のバスで、クーラーなどはもちろん無く、乗降口のドアも本来は自動で開閉するのですが、その装置が壊れていて開け閉めが出来ないので、バスの助手が自分の手でやっていました。運転席の隣の助手席の窓ガラスの取っ手もこれまた壊れていて、開け閉めが出来ませんでした。それで、一日中ずっと全開した状態でした。
しかし子どもたちはそんなオンボロバスのことなど全然気にせずに、もうバスに乗り込んだ瞬間から、Oanh先生が購入して準備していたスナック類のお菓子を、朝ごはん代わりに食べながら、今日これから始まる楽しい一日をバスの中でみんな嬉々として喜んでいて、歓声を上げながら、途中では歌も歌いながらはしゃいで、それはそれは賑やかなものでした。
こういうふうにベトナムの小学生たちと、私が良く通るカンザーへの道を走っていますと、毎年日本の生徒たちを連れて来るのとは、また違った風景が見えて来ます。そしてカンザーの道を、子どもたちのにぎやかなお喋りや、大きい歌声に満ち満ちたバスで走っていますと、ふっと日本の歌を思い出しました。
♪ 田舎のバスは おんぼろ車 ♪
タイヤはつぎだらけ 窓は閉まらない
それでもお客さん 我慢をしているよ
・
・
・
田舎のバスは おんぼろ車
デコボコ道を ガタゴト走る
なんか、まさしくこの歌の通りの情景でしたね。
私はバスに乗り込んで行く前には、今回の参加者は低学年の女の子が多かったので、ベトナム人の女性に多い「車酔い」を心配していましたが、全員の気分が高揚モードに入っていたためか、誰一人として車酔いした子はいませんでした。
そして私たちは、まず最初にカンザーのサル園に行きました。みんなが初めて(Oanhさんも含めて)の子どもたちが多いので、私が全員に向けての注意事項を説明しました。
①サルは人間が手に何か持っていると、エサと勘違いして奪い取ろうとするので、手にはビニール袋類などの小物を一切持たないこと。②万が一サルに襲われても、暴れたり、騒がないで、じっとしていること。サルに向かって抵抗しないこと③サルは小さい女の子を狙って来るので、小さい女の子の周りを大人が囲むようにして移動して下さい。・・・などなど。
そして先にカンザー博物館を訪問。この博物館の前には樹齢百年を超えたマングローブの木の根が庭にデーンと据えてあるのですが、その前で私がここのカンザーの歴史について簡単に説明しました。
以前はこの一帯に、このような大きいマングローブの木が鬱蒼と茂っていたこと。そしてそれがアメリカ軍の枯葉剤作戦によって、すべて枯れてしまったこと。そしてベトナム戦争が終結して3年後の1978年から、ベトナムの人たちの手によってマングローブの植林が始まり、今に至っていること。生徒たちは初めてこのような話を聞いたらしく、興味深い顔をしていました。
そしてしばらく歩いていると、園内のマイクで何かを放送していました。良く聴いていますと、サルと犬とワニのショーをもうすぐしたら始めるので、希望者は集まって下さいという内容でした。そこにみんなで行くことにしました。
そこは円形の小さいドームで、中央にショーの舞台があり、その周りを観客が囲むようにして椅子が設営されていました。以前にもこの施設はありましたが、さらに改築されて新しくなっていました。
しかし5分くらい経っても始まる様子がないので、私が「何時に始まるの?」と質問しますと、「人数が多く集まったら始めるよ。」との返事でした。それからしばらくしてほぼ席も埋まり、サルと犬とワニのショーが始まりました。
最初におサルさんのショーです。長さ3メートルくらいはある細い棒の上を、両手に棒を持ってバランスを取りながらスイスイと渡ったり、さらにまた次には同じことを目隠しして渡って見せてくれました。シクロを漕ぐのもありました。日光猿軍団ほどの高度な芸はありませんが、それにしてもあの凶暴なカンザーの猿を良くここまで仕込んだなーと感心しました。
犬のショーでは、犬が大きい鞠の上に乗ったり、輪をくぐったりしていました。ワニのショーもありましたが、ワニ自体は手足もお猿さんほどは自由が利かず、高度な芸を身に付けているわけではありません。ただコンクリートの地面の上にうつ伏せに寝ているだけです。
最初はワニ使いのお兄さんが、ワニの口に棒を当てて、ワニさんの口を開けたり、閉めたりしていました。そのたびに、入れ歯をはめたおじいさんが口を閉じたりする時と同じような、「パカッ・パカッ」という大きい音がしました。
その次にワニさんは何をするかというと、ただ口を開けているだけです。以前は口を大きく開けているワニさんの口の中に、係員が自分の頭を筒込んで入れる芸を披露していました。しかし今回はそういうショーはありませんでした。
そして次にワニさんが大きく口を開けている時に、お客さんが小石に包んだ紙幣を輪ゴムで止めて、それを放り投げて口の中に入れるようなことをゲーム感覚でやっていました。どれくらいの金額をワニさんの口に目掛けて放り投げているか見ていましたら、5000ドン札か1万ドン札が多かったですね。
しかし、ワニさんより芸達者なお猿さんやワンちゃんたちには、こういう臨時収入はありませんでした。でも観客のみなさんたちは、お猿さんやワンちゃんたちの演技も含めて、ワニさんの口に入れる金額を決めていると考えたらいいでしょう。
そういう意味では今までただ園内で一日中寝たり、食べたりして暮らしていたお猿さんやワニさんたちも、今ではカンザー公園の売り上げに貢献するような活躍をしていたのでした。そして無事みんな猿に襲われることもなく、次に今回の最大の子どもたちのお楽しみである、カンザーの海岸に向かいました。
この日は日曜日だったので、やはり多くの人たちがここに来ていました。私たちは、海岸沿いにある涼しい風が吹く木陰に荷物を降ろしました。それから生徒さんたちは、ゆっくりと海水浴の準備をしていました。
みんながいよいよ今から海に入るわけですが、子どもたちは日本でいう水着などは持って来ていません。上着を脱いだらその下からは、色とりどりの普段着が現れて、その普段着のままの服装で海に入って行きます。
カンザーだけでなく、他の行楽地の海で遊んでいる子どもたちも見ましたが、普通はわざわざ水着などには着替えず(そもそも水着など、持っていない子がほとんどだからですが)、こういう普段着のままで泳いでいます。
そしてこれから海に入る前に、「さあー、今から準備運動をしましょう!」と、頭にタオルでねじり鉢巻をしたAさんがみんなに声を掛けて、日本式の体操の手本を見せながら、生徒たちに指導していました。
「イチ・ニー・サン・シ!」と大きな声でAさんが号令を掛けると、生徒たちもそれを真似て「イチ・ニー・サン・シ」と日本語で声を発しながら、ねじり鉢巻をしたAさんがしたのと同じような動作を続けていきます。
周りにいる多くのベトナム人の観光客は、そのような日本式の体操などはおそらく初めて見ますので、「何だろう・・・?」と、興味深そうに、不思議な顔をして見ていました。
さー、準備運動が終わったら、みんな走るように海に駆けて行きました。今日のカンザーの海は遠浅で、少し先のほうまで行かないと胸までくらいの深さにはなりません。海に入る前に、余り遠くに行かないこと、一人だけ離れて泳がないことなどの注意をして、私たち大人も海の方に入って行きました。
大人たちは監視役も兼ねて、子どもたちのグループの周りにいましたが、子どもたちの表情を見ていますと、海で学校の仲間たちと泳げることの楽しさ、嬉しさをみんながこころから味わっているような顔・顔・顔がそこにありました。
そして12時には一旦海から出て、みんなで楽しい昼食タイムです。
Oanhさんは全員の生徒のために、フランスパンやハムや野菜などを事前に購入していて、今からこの場でパンに具を挟んで、それを一人ずつに手渡ししていました。
やはり彼女の世話の焼き方は傍から見ていても尋常ではなく、今日参加したすべての生徒たちに、わが子を愛するがごとくのような感じで面倒を見て、親身になって接していました。そして昼食はこれだけではなく、子どもたちにはさらに鍋料理を頼みました。私たち大人も鍋料理です。海辺の風に吹かれながら食べる鍋料理も、またおつなものでした。
私たちが鍋料理を食べ終わると、生徒たちが「先生!これ食べて下さい。」と言って、果物を持って来てくれて、今日参加した大人たちにも勧めてくれます。今日のグループの中では、彼らにとっての本来の「先生」というのはAさんしかいないのですが、生徒たち全員が、今日初めて会った人にも全員に対して「先生」という言い方をしていました。
そして昼食後も昼寝などはせずに、またすぐに海に入って行きました。みんなで海の水を掛け合ったり、ビーチボールで遊んだりしていました。一番遠いところで生徒たちと遊んでいたAさんは、海から上がった時には、さすがにヘロヘロになっていましたね。しかし生徒たちみんなは、まだまだ泳ぎ足りないような感じでしたが、私たちは3時過ぎにカンザーを出ました。
そしてサイゴン市内に入る前のNha Be(ニャー ベー)フェリーに乗り込んだ時に、フェリーが対岸に着く15分くらいの間に、またまた生徒たちは盛り上がりました。この乗り合いフェリーの中で、生徒たちと今回参加した大人による歌合戦が大きな声で始まったからです。
実は私は今回のSaint Vinh Son小学校の生徒たちのカンザー行きを聞いた時に、どこかで日本の歌をみんなで一緒に歌おうと思い、いくつかの歌詞を人数分コピーして、いつでも歌えるようにとその準備をしていたのですが、行きのバスの中ではみんなが賑やかに騒いでいてその出番はなく、海に着いたらみんな海に入ることにこころ昂ぶっているし、帰りのバスの中では泳ぎ疲れていたせいで、生徒たちも大人たちもグッスリと寝ていました。
それで(今日は歌の出番は無かったな・・・)と思い、また次回に回そうと考えて、歌詞カードを一旦はバッグに仕舞い込んでいました。朝から昼過ぎまでの生徒たちの姿を見ていて、それぞれの場面で盛り上がっていたので、(敢えて歌うほどのことは今回は無いかな。)と思っていました。
しかしこのフェリーに乗り込んだ時に、たまたま私たちのグループが一番乗りで、フェリーの2階席の一番奥の席にみんなが座ることが出来ました。みんながバラバラにならずに、フェリーの2階席の椅子に固まって座ることが出来たのでした。
それを見た時に(ここだ!皆んなで歌を歌うのは今のここしかない!)と思い、持参した日本語の歌詞のコピーをみんなに配りました。この時にもフェリーの中には、下のフロアーにバイクや車やバスがドンドン入って来ていました。その騒音に負けないように、まず私が大声を出して歌いました。その後に子どもたちが続けて唱和してくれました。
最初に歌ったのは「春が来た」です。そして次に「四季の歌」を歌いました。みんなが全員大きい声を出して歌うので、2階席にいたベトナムの人たちは(何が始まったんだろうか?)と、興味深々という顔付きでこちらを見ていました。
そして最後に「幸せなら手をたたこう」を歌う頃になると、手を叩いたり、足を踏み鳴らしたりしているので、上にいる乗客はもちろん、下にいたバイクに乗っている人たちや、車の中にいる人たちまでが、みんな2階席で大声で歌っている私たちの方に顔を向けて、あっけにとられて見ていました。
ついでにサービスで、ベトナムの歌までも3曲ほどさらに歌いました。この日参加してくれていたベトナム人の社会人の若い女性が、積極的に子どもたちをリードして、自ら音頭を取って最初に歌いだして、子どもたちを上手く乗せて行きました。みんなもこの頃になると、フェリーの2階席で独演の合唱会のような大いに盛り上がった雰囲気になってきました。
Tさん夫妻が後で、「みんなであんな大きい声を張り上げて歌っていて、よく係員の人が飛んで来て、止めて下さいと言わなかったですね。日本だったらすぐそうなるでしょうね。やはりベトナムの人たちはおおようなんですね。」と笑っていました。
そう言われれば確かにそうなんですが、この日の歌合戦はベトナムのフェリー係員や乗客の人たちの、日本のようにうるさいことなど言わない大らかさに包まれて、生徒たちも大人もみんなが思い切り歌うことが出来たということでしょうか。生徒たちも本当に喜んでいました。学校に着くまでの帰りのバスの中でも、まだその余韻が続いていました。
この日のカンザーへの日帰り旅行は、私が40数年以上前の遠足前日のウキウキした高揚感を今でも思い出すのと同じように、かつて自分が小学生の時に、同じ学校の仲間の生徒たちや、日本人のおじさん・おばさんたちと一緒に楽しく過ごしたこの日のことは、彼らのこころの中に忘れ難い思い出として、いつかよみがえることがあるのではと思います。
ベトナムBAOニュース
「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。
「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。
■ 今月のニュース <節約か浪費か> ■
今のような特別な経済の状況では、特別な解決方法が必要である。日本人は最近の経済不況に対処するために、自分なりの方法を持っているようだ。
=過度なくらいに節約する日本人=
1990年代の不況の時、日本人は会社においても、家庭においても、経費・支出を出来るだけ抑える習慣を身に付けたといえる。
それ以来、今に至るまでまだ依然として世界第二位の経済大国の位置にある。
バブルが弾けて以来、深刻な経済の衰退を経験した影響で、会社では経費節減に努め、家庭では家族一同が無駄使いをせず、節約する術を身に付けたと言えよう。
東京中野区にあるTakigasakiさんの家では、家族みんなが「節約第一」ということをこころ掛けている。たとえ銀行に預金がたくさん有っても、浪費はしないし、財布のヒモは主婦であるHirokoさんが固く握っている。
そしてさらに、普段毎日食べる野菜なども、自分の家の庭で栽培したりもしている。もしある週に予想外の支出があるとしたら、外での食事は控えて、家族みんなが家の中で食べるようにしている。
また家の中に有る庭で、キャベツやジャガイモなどが獲れるので、それでいろんな料理を作るという。
今49歳になるHirokoさんは、今身体障害者の施設で働いている。彼女は家族の食事代を節約する秘訣をポツリ・ポツリと洩らしてくれた。夫は今Fujitsu会社の幹部として働いている。しかしいつ大量のリストラに遭うか分からないという。
「だから私たちは将来のことも考えて、今から出来るだけ節約していかないといけないのです。」とHirokoさんは話してくれた。
日本経済はここ数年間、アメリカや中国の好況に支えられて、経済が回復して来たばかりだった。しかしその経済が回復してからも、以前として日本人は節約に徹していったのだった。2001年から2007年にかけて、日本国内の消費者物価は0.2%上がっただけだった。
しかし今外国への輸出は13年ぶりに大きく落ち込み、製品が全く売れなくなってしまった。それで日本の経済も今下降しているが、大きな理由は日本国内消費者の買い控えにあるのではなく、輸出の不振が原因だといえる。
2008年の終わりの3ヶ月間だけでも、日本経済は1970年以来最大の12.7%も落ち込んだ。日本人の給料もここ数年ほとんど上昇しない。それで現在の不況も長引くだろうと予想して、みんなが節約をこころ掛けている。
トヨタやSONYは安い人件費を求めて、外国での生産を増やしていったが、それが今や裏目に出て、工場の閉鎖や、従業員のカットが相次いでいる。
今日本では定額給付金の支給が始まったが、これが日本経済回復にどれだけ寄与するかは不透明である。何故なら、無駄を抑えて節約を尊ぶのは、今や日本人の美徳であり、習慣になっているからである。
(解説)
今世界を覆っている世界同時不況の影響は、もちろんベトナムにも及んでいます。
ホーチミン市7区にある外国系企業の多い工場でも、従業員のカット、工場の休業がこの旧正月前から起きています。すでにベトナムから撤退を始めている外資系企業も数多くあります。
その中でも多いのが韓国系企業です。ベトナムにはもともと、日本人よりははるかに多い韓国人が在住しています。その数は5万5千人以上と言われています。しかし本国の不況の影響で、多くの韓国系の企業が引き揚げているようです。
そして引き揚げる前に、きちっと後処理をして帰るのなら問題はないのですが、中には従業員の給与や、社会保険料を支払わないまま夜逃げした韓国人経営者がなんと4人もいたそうです。
さらには、韓国へ派遣されている労働者も、昨年末当たりから続々と帰って来ていました。2008年度末には、海外で働いているベトナム人労働者や研修生たちのうち、約1万人が職を失って途中帰国するだろうという記事が出ていました。
もちろん日本に行っている研修生たちも例外ではありません。現在日本で働いているベトナム人研修生の数は、約2万人に上っているそうです。彼ら研修生の中には、本来3年間の契約で日本に派遣されたはずなのが、契約期限前に帰国を余儀なくされている者もいます。
事実私が教えた生徒たちの中にも、一年で帰ったり、最も早い生徒はわずか3ヶ月で帰った生徒もいました。最も強く影響を受けている分野は、自動車・電機・機械で、愛知県ではこの記事にもあるトヨタ関連の下請け会社が多かったです。
失意のうちに帰った生徒たちには、何とも慰めようがありませんでした。せっかく日本語を半年ほど掛けて覚えて、期待と希望を抱いて日本に旅立って行ったのでしたが、彼らの夢は無残にも打ち砕かれてしまいました。
さらには日本に行く以前に、電話で直接日本から社長が本人に電話を掛けて来て、「研修生として受け入れることが出来なくなりました。キャンセルにして欲しい。」という旨の連絡がありました。
電話を終えて、「先生、日本行きがキャンセルになりました・・・。」
と、涙を流しながら話してくれた、その時の彼の顔を忘れることが出来ません。