【2009年11月】Oanh 先生の日本訪問/幸せが実を付けた!~ドクちゃんに双子誕生~
春さんのひとりごと
<Oanh 先生の日本訪問>
9月中旬から二週間ほどの間、 Saint Vinh Son (セイント ビン ソン )小学校の校長・ Oanh (オアン )先生が日本を訪問されました。 Oanh 先生にとっては二度目の日本訪問でした。
今回の日本訪問の目的は、この施設運営責任者であるFさんと Oanh 先生が今計画している「 Saint Vinh Son 小学校を正式に、全日制の小学校として再建するため。」に、日本側の支援団体との打ち合わせと、この学校の子どもたちが自分たちの学費を稼ぐために、自分たちで作成したビーズ製品を日本で販売してくれている方々へのお礼の挨拶のためでした。
Fさんと Oanh 先生が運営している Saint Vinh Son 小学校は今、近くにあるL公立小学校の分校としての状態にあります。その敷地は約 70 平方メートルほどで、教室数も3部屋だけです。
それで小学生 5 学年のすべての学年を同時に授業は出来ないので、いま午前・午後と学年を入れ替えて授業を行っています。ですからどうしても、一日に生徒たちが授業を受ける時間数も限られたものになります。
例えば今この学校では英語を教えてはいませんが、サイゴン市内の小学校では日本と同じように英語の授業をしています。ただし英語のスタートは小学3年生からです。この Saint Vinh Son 小学校を「全日制の学校」にした場合には、その英語の授業が可能となります。
また以前私が子どもたちの卒業式に出た時がそうであったように、今の教室だと同じ時間帯に全員の生徒たちを一同に集められないので、運営的にもその労苦が倍加します。全学年を同時に集めるには部屋数が足りないので、今百名を超えている生徒たちには午前・午後の二回に分けて教室に来てもらうしかないのです。
つまり今、 Saint Vinh Son 小学校は「定時制の学校」としての扱いであり、それを将来「全日制の学校」にしたいというのがFさんと Oanh 先生の悲願です。そしてその話は、私自身も数年前から直接Fさんから聞いていました。
さらには、正式に全日制の小学校としてベトナム政府から認可を受ければ、いろいろな面で子どもたちの将来にも有利な点が出て来るのです。ベトナムでは最低でも小学校と中学校の教育を受けているかどうかは、子どもたちが将来まともな仕事に就けるかどうかの条件であり、子どもたち自身の“ 将来の自立 ”にとっても大変意味のあることです。
しかし今のベトナムでは、その初等教育である小学校にも行けず、夜の街中で遅くまでガムや宝クジを売ったりしている子どもたちが、まだまだ数多くいるのも事実です。中にはどう見ても、十歳以下だろうとしか思えない子どもたちもいます。
私が時々会う、頭を“大五郎刈り”にした少年は、大体夜9時くらいに街に出没しますが、年齢は 1 2歳だということで、聞けば彼もやはり学校には通っていませんでした。彼は一人で宝クジを売り歩いています。一日約 50 枚ほど売れると言っていました。
Q :何故ベトナムでは、貧しい家庭の子どもたちは学校に行けないのか?
⇒日本では公立の小・中学校では授業料と教科書代は無償であり、有償なのは、 給食がある学校での給食費くらいです。しかしこのベトナムでは、小学校の教育は“ 義務教育 ”と謳ってはいますが、無償ではありません。各家庭が教科書も自分たちですべて購入し、毎月の学費を納めなければなりません。そしてその金額は、貧しい家庭には大きい負担です。
実際に今普通のベトナムの小学校に通っている2年生の我が娘の例では、学費として毎月最低 50 万ドン (約 2,500 円) を払っています。この内 30 万ドン ( 約 1,500 円 ) が給食費です。ですから、 20 万ドン ( 約千円 ) がそれ以外 ( 保険料や絵画の教材費 ) の費用になります。これにいろいろな行事があると、 3 ヶ月に一度くらいさらにまた 50 万ドンほどの出費として重なり、一ヶ月で合計百万ドン (約五千円) くらいにはなります。
さらにこれだけでは終わりません。私の娘は日本でいう「国語」に当たるベトナム語の「聞き取り・書き取り」と「算数」を勉強するために、学校の授業が終わった後に週三回塾に通います。ベトナムでは約 8 割くらいの小・中学生たちが、こうした塾通いをしているといいます。
「聞き取り・書き取り」といっても、漢字を覚える必要がない、アルファベットだけで書き表すベトナム語は、表記自体は簡単です。この「聞き取り・書き取り」では、先生が発音した声調記号の正確な表記と、ベトナム語の語彙を覚えたり、さらにベトナムの生徒が普通に身に付けている“美文字”の練習をします。
ベトナムの小学生・中学生たちが書いているノートを見せてもらいますと、みんな驚くような美しい文字でノートに書いています。特に最初の出だしの大文字は、花文字のような、感心するような美しい文字で書いています。誕生日や先生の日に生徒たちから貰うカードなどにも、それは見事な、ほれぼれするような手書きの美しい文字が躍っています。
これはベトナム語の授業の中で“美文字”の伝統があるからです。そしてこの“美文字”は普通は正規の学校の授業で教えているのではなく、このような塾の中で教えています。そのような所で“美文字”の練習をした生徒たちは、実に美しい文字を書きます。実際我が娘のノートを見ても、すでにその“美文字”でノートを書いています。そしてその塾の先生はといいますと、何と娘の担任の女の先生なのです。
ベトナムでは、学校の先生のこのような形でのアルバイトは禁止されている訳ではないので、決して珍しいことではありません。何故ならそうでもしてアルバイトをしないと、学校から貰う給与だけでは、安すぎて生活出来ないからです。
さらにまた定期試験前になると、「今度の試験の範囲は家で教えるから、学校が終わった後で先生の家に来なさいね。」と言って、自分のクラスの生徒たちに声を掛ける先生まで出てくるといいます。私の娘は、いま同じクラスの生徒たち 10 数人と一緒に、その先生に教えてもらっています。
そして今私の娘が習っている先生に払っている月謝は、これまた 50 万ドンです。 10 数人生徒がいるといいますから、先生にとっては相当に大きい収入でしょう。学校でもらう給料の数倍はあります。ですから我が娘を例に挙げれば、毎月多いときには 150 万ドン (約 7,500 円 )、最低でも百万ドン (約 5 千円) を払っているということになります。
この百万ドンという金額は、貧しい家庭にとって、いかに大きな負担であるかは明らかでしょう。ですから貧しい家庭の子どもたちが、その経済的負担が大きいが故に、現実問題として学校に行けない、親も行かせられないということになるのです。
“まず最初に、学校に行けない子どもたちに小学校教育を受けさせること”
これが、Fさんと Oanh 先生が Saint Vinh Son 小学校を設立した最初の動機でしたが、さらに子どもたちに充実した教育内容を与えるためと、子どもたちの将来の自立のために、「 Saint Vinh Son 小学校を正式に全日制の小学校として立ち上げたい。」というのが、今のお二人の悲願なのです。
そしてベトナム政府から正式な全日制の小学校として認可されるには、ハード面では次の二つが条件が必要だということです。
(1) 教室数が最低5部屋はあること。
(2) 学校内に、生徒たちが集合出来る校庭があること。
この (1)(2) の条件を満たすには、今の学校では手狭なので、どこか他の場所を探さないといけません。そしてそのためには当然資金も必要になります。
そしてこの悲願の実現に向けて、協力を申し出て頂いたのが、 6 月号で紹介した、あの「 16 人の卒業生」たちが中学に進学する際、全員の卒業生に奨学金を提供して頂いた、Fさんの同級生が勤めておられる日本の家具の会社なのでした。
そしてFさんも9月のこの時期には日本に帰られていて、いつもの如く東京の工事現場で仕事をされています。 Oanh 先生はその会社の本部がある東京に、今回の日本訪問の主たる目的としてFさんと一緒に赴き、今後の計画と展望、そしてそれを実現するために必要な資金などについて説明されたのでした。
しかしこの事業計画は今すぐに出来るような簡単なものではないので、後日そこの会社から担当の人がベトナムに現地視察に来てから、具体的な詰めを行い、さらにその計画を進行させていくことになりました。しかしこれで F さんと Oanh 先生の今までの“ 悲願 ”であった夢が、その実現に向けて今第一歩を踏み出したわけでした。
そして Oanh 先生は日本到着後に直接、ビーズ製品を日本で販売してくれている方々へのお礼の挨拶のために、最初の訪問予定地である長野県に向かいました。ここでは、二人の長野県人が待っていました。 Saint Vinh Son の支援者である、 A さんと R さんでした。ふだんはベトナムにいることが多い A さんも、この時は日本に帰っていました。
Oanh 先生はお二人と、特にRさんとは久しぶりの再会を果たされました。今回 Oanh 先生にとっては長野県は初めての訪問でしたが、自分を喜んで迎えてくれる旧知の人がいるということで、全く不安はありませんでした。
この日の Oanh 先生を囲んでの夕食会には、 Saint Vinh Son の生徒たちが作成したビーズ販売を支援して頂いている、 A さんと R さんの友人たちも来られていて、その方々たちと楽しいひと時を過ごされたようでした。
そしてこの日の夕食には、Rさんが友人から頂いたという特大マツタケを使った“マツタケご飯”と“マツタケのお吸い物”が振る舞われたのでした。山に囲まれた信州・長野はまた、「キノコの宝庫」ともいえるところのようです。さらには、馬刺しもテーブルの上に置いてありました。
“マツタケ”も“馬刺し”も、 Oanh 先生は生まれて初めて食べる日本料理のメニューでしたが、「 Oanh 先生はあまりハシが進まなかったですねー。」とは、笑いながら話してくれた A さんの弁です。 A さんの話では、 Oanh 先生がこの日の夕食会で一番好んで食べていたのは、信州の“ソバ”だったそうです。
私も“ソバ”が信州・長野の名物だというのは知っていましたが、“馬刺し”も長野県の名物の一つだとは、以前 A さんから聞いて初めて知りました。私の故郷・熊本県も“馬刺し”は有名ですが、 A さんの話では、(長野県でも馬刺しは有名なんですよー。)ということです。
さらには同じ“馬刺し”でも、熊本では霜降りの入った馬刺しが“上馬刺し” “高級馬刺し”となり、値段も高くなりますが、長野では赤身の馬刺しが好まれるということです。ベトナムで、私自身はもちろん馬刺しを食べることは有りません(日本料理屋に行けば食べられますが、このベトナムでは大変高いです。)。食べるのは日本に帰った時だけです。
そして翌日から Oanh 先生は支援者の方々への挨拶回りに行きました。遠いベトナムからわざわざ長野まで挨拶に来てくれた、 Oanh 先生の真摯な気持ちにみなさん感激されたということでした。
さらには長野県内にある A 小学校と B 高校を訪問されました。 A 小学校の生徒さんたちは、以前から Saint Vinh Son の生徒たちと手紙や絵画を郵便で送ったりして交流を続けています。ここの小学生たちは、ベトナムからやって来た Oanh 先生の話を食い入るように聞いていました。
この時 Oanh 先生は生徒たちには英語で話しました。今日本の小学校には ALT (外国語指導助手)の外国人の先生たちが配属されていますので、ここでもその外国人の先生が、 Oanh 先生が話したことを日本語に通訳してくれました。
そして話を終えて Oanh 先生が小学校を去ろうとした時、生徒たちは Oanh 先生の袖を捕まえてなかなか帰してくれなかったのでした。 Oanh 先生も目を赤くして、なかなかそこを去りがたかったようでした。
このように今回いくつかの日本の学校を訪問して Oanh 先生が一番驚いたのは、日本のすべての学校にはプールがあるという事実でした。ベトナムではプールのある学校はほとんどないだけに、自分が訪問した学校のすべてにプールが備わっていることに大きな驚きを受けたと、後で A さんと R さんに話されたのでした。
サイゴン市内にある学校でも、プールのある学校がないことはないのです。昨年日本語能力試験を担当した時に、会場として使っていた学校の敷地の中に、私自身がプールがあるのを見ました。
でもやはり全体的には、プールのある学校は少ないですね。プールどころか、ベトナムの学校は校庭自体も小さくて、その校庭も大体はバイクの駐車場になっているのがほとんどです。
ですから、日本では当たり前の、放課後のクラブ活動なども全然ありません。学校で授業を受けたら、それが終わり次第家に帰るだけです。 Oanh 先生は日本のその恵まれた教育環境を直接自分の目で見て、(本当に羨ましいですねー。)と嘆息されたということでした。
そして長野県でお世話になっている方々へ一通りの挨拶が終わった後、 A さんと R さんは Oanh 先生を車で長野県の案内をしてあげました。ベトナムの自然の風景とはまた違う、深い山々に囲まれた初秋の長野の穏やかな・美しい風景に、 Oanh 先生もサイゴンでの忙しい日々を離れて、こころ安らぐ気持ちになられたことでしょう。
私が時々サイゴンで Oanh 先生の家を訪問した時に、私は Oanh 先生がゆっくりと寛いでおられる姿を見ることはあまりありません。いつも絶えず忙しそうに、何らかの作業を Oanh 先生はされています。私が、頂いたお茶を飲んでいる時にも、 Oanh 先生はその手を休めずに私にいろいろ話されます。
その作業はといいますと、子どもたちが Saint Vinh Son 小学校で作成するビーズの事前の準備や、子どもたちが作成したビーズ作品の最終チェックと、それを丁寧に一個ずつ小さいビニール袋に入れる作業です。さらにはその作品を日本に持ち込んでもらう人のために、一人でビーズ製品の包装や梱包作業をされているのでした。
日本の人たちに買ってもらう以上、子どもたちが作成したものといえども、いい加減な作品は渡せないという気持ちで、 Oanh 先生は「傷がないか。」「しっかりした作りになっているか。」「左右対称になっているか。」などについて、一個ずつ厳しくチェックしているのです。この作業は子どもたちに任せることは出来ません。 Oanh 先生がやらないといけません。家で一人でいる時にも、それを黙々とされているのでしょう。
普通の平日は毎日学校で授業があります。土曜日と日曜日に学校はお休みになります。しかしこのサイゴンにいる時には、 Oanh 先生はおそらく授業のない土曜・日曜日であっても、私は(休日をゆっくりと過ごされるということはないのでは・・・)と想像するのです。
実際今、私の携帯電話には生徒たちが作成し、生徒たちから頂いたそのビーズのストラップが 20 個ほど付いていますが、二年以上も経つのにまだ一つも壊れていません。そしてこれを見るたびに、私が知っている子どもたちのことを思い出し、たまらなくいとおしくなります。
これを日本で持っている人たちも、おそらくは同じ思いでおられることでしょう。日本では、あの有名な経営コンサルタントのF井さんも、昨年それを手に入れられました。そのF井さんが書かれた中に、次のような言葉がありました。
「子どもたちの作ったビーズ細工は、とっても可愛くて、作った子どもたちの顔が見えるようです。子どもたちが幸せに安定した生活ができ、勉強も思う存分出来たらいいなあと思いました。子どもたちの作ったビーズ細工を買って、私はとても幸せな気持ちになりました。不思議です。子どもたちに会ったような気すらしました。きっと作品に子どもたちのオーラが付いているのでしょうね。」
ようやく秋に入った、信州の澄んだ空を額縁のように彩る、美しい山の峰々が色づき始めたころに、 Oanh 先生は親しい日本の友人・ A さんと R さんと一緒に、三泊四日ほどの短い滞在でしたが、つかの間の信州の旅をこころから楽しまれたのでした。
Oanh 先生が見上げた信州の青い空には、Fさんと語り合って来た将来の Saint Vinh Son 小学校の姿が映っていたことでしょう。
ベトナムBAOニュース
「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。
「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。
■ 今月のニュース <幸せが実を付けた!~ドクちゃんに双子誕生~ > ■
10月25日、午前6時5分、 Nguyen Duc( グエン ドック ) 君 [ ベトちゃん・ドクちゃんの双子の弟 ] の妻、 Nguyen Thi Thanh Tuyen( グエン ティー タン トゥィン ) さんに双子の男・女が生まれた時、 Tu Du (トゥー ズー) 病院のスタッフ全員が幸せの喜びに浸っていたのでした。
この嬉しい報せは、瞬く間に二人をよく知る人たちに次から次に伝わっていった。 Duc 君 が“お祖母さん”と呼ぶ、 Ta Thi Chung ( ター ティー チュ ン先生 = 平和村の副責任者)さんは、すぐに Duc 君の“育てのお母さん”でもある Nguyen Thi Ngoc Phuong( グエン ティー ゴック フーン 先生 = Tu Du 病院の元責任者、現在 Ha Giang [ハー ザーン ]省に転勤 ) に報告をした。
その報せを聞いた Phuong 先生は跳び上がるほど喜んで「嬉しくて嬉しくて、今日中にホーチミン市へ孫の顔を見に行くよ!」と言いました。
☆ 今から21年前の不思議なこと ☆
21 年前の1998年の同じ10月のある日、ホーチミン市内の医学界の優れた先生たち70人が Phu San( フー サン ) 病院(現 Tu Du 病院)に、手術のために集りました。
その手術に立ち会った先生方は、ベトナムの医学界のみならず、世界的にも優れた先生たちばかりでした。そしてこの手術の様子は、ホーチミン市民だけではなく、ベトナムの全土の人たち、さらには二人に関心を寄せる世界中の人たちが、15時間の手術の間中、一緒にずっと手術室のほうにこころを向けていて、双子のベトちゃん・ドクちゃん心拍の鼓動を、緊張と不安で見守っていました。
この手術について、 Tran Van Giau ( チャン バン ヤウ ) 教授が「この手術は、ベトちゃん・ドクちゃんが死神と戦った手術だった。」と言いました。まさしく、この 15 時間の手術中、ベテランの先生方はその豊富な経験と知識を極限まで駆使し、ベトちゃん・ドクちゃんが一時生死の境をさ迷った時もありましたが、先生方のその強い愛情で死神と戦っている二人を支え続け、危機を乗り越えたのでした。
神のご加護のおかげで、手術は成功してベトちゃん・ドクちゃんは生命をつないだのでした。ところが、手術後ベトちゃんは脳性小児麻痺で健康状態が悪化し、植物人間のように寝たきりの生活が続いていました。そしてついにベトちゃんは 2007年10月6日に命が尽き、この世界から去っていったのでした。
それからドクちゃんは、 Tu Du 病院のお医者さんや看護婦さんや、先生方の世話で健康状態は良くなり、今は普通の人と変わらないように生きているのです。彼は現在、 Tu Du 病院内の「平和の村」に就職しています。
2006年12月16日、彼の手術に立ち会った先生たち、ベトナムの人たち、各種の団体の人たちが招かれて祝福される中で、新郎 Duc 君と花嫁 Tuyen さんはホーチミン市内で結婚式を挙げました。二人の結婚パーティーに参加した皆さんが、こころから二人の結婚を祝福しました。 Duc 君の結婚は、世界中の身体が不自由な人たちに、こころ温まる、自信を与えられるニュースとして送られ、届いていったのでした。
☆ ドク君の幸福 ☆
ベトちゃん・ドクちゃんの術後20年目にして、ベトちゃん・ドクちゃんの手術後の記念出版 “ベトちゃん・ドクちゃん、20年後の人間の心 (1988―2008) ”を文化通信出版社が出版したその本の中に、 Duc 君が“お祖父さん”と慕う、 Duong Quang Trung ( ユーン クワーン チュン ) 教授が書いています。
「現在の Duc 君のその後の生活は、その歴史的な手術に参加した先生達に贈る最高のプレゼントであり、 Duc 君から小さな幸せを貰ったら、皆んなの幸せはその数倍になるようです。」と。
だから、 Duc 君から妻の妊娠と言う知らせがあって以来、皆んなは、 Duc 君の子供の誕生を今か、今かと待ち焦がれて、楽しみにしていたのでした。
☆ ドク君からの情報 ☆
10月24日の夕方、妻がお腹が痛いというので、慌てて Tu Du 病院に運びました。先生の診断では、すぐに入院の手続きをして、妻を入院させないといけなくなりませした。そして私は夜、家に帰っても心配で、心配で、なかなか寝られなくて、午前5時半(10月25日)に、 Tu Du 病院から「奥さんがまもなく出産するよー!」との連絡をもらって、すぐ家を出ました。
そして Tu Du 病院に着いた時には、すでに子供が生まれていました。先生からすぐ、双子が生まれたと知らされました。「 Tuyen がそんなに早く出産するとは思いもしなかった。病院からの連絡をもらって、すぐ家を飛び出して行ったのに、子どもが生まれる瞬間には間に合わなかった。でも今は、本当に幸せだよ。」と言いました。
Duc 君はこの時から“ お父さん ”になったのですが、私たちを連れて小児科の ICU 室に双子の顔を見に行きました。小児科に向かう途中、皆んなは Duc 君に「おめでとう!」と言ってあげました。 ICU 室の外から、 Duc 君は双子の顔をずっと見ていました。「今双子の名前を考えています。すぐには決められないので、ちゃんと妻と相談して決めたいと思います。」と言いました。
双子の健康については、 Ngo Minh Xuan ( ゴー ミン スアン ) 博士(乳幼児科課長)は、「 Tuyen さんの双子は妊娠してから、32週間目で生まれた双子(男1.6kg、女1.1kg)で、今 ICU 治療室で ICU 呼吸器を使って呼吸を維持しています。」と話してくれた。
現在病院はこの双子について、色んな検査をしていますが、まだ結果が出ていません。しかし双子の健康状態はだんだん良くなってきつつあります。 Duc 君の奥さんの健康状態も、「全く異常はありません。」と言いました。
あの手術から21年後の今、 Tu Du 病院に再び奇跡が起こりました。それは Duc 君だけの幸せではなく、また皆んなの先生たちの幸せでもあります。今回の二人の子供の出産は、世界中で Duc 君と同じような状態にいる戦争の障害の方々にも、明るい希望、明るい光を贈っていくことだろうと思います。
(解説)
2009年が後二ヶ月ほどで終わろうとする時に、「ドクちゃんに双子誕生!」のニュースが駆け巡りました。そしてこの報せは、ドクちゃんと直接・間接に関係がある人たちや、ドクちゃんという人物に関心を抱いて来た人たちには、大変な喜びとして迎えられたことと思います。
私は個人的にはドクちゃんとさほど親しくはありませんが、彼には二度ほど直接会いましたので、奥さんに赤ちゃんが出来たというニュースを聞いてからは、 私もその赤ちゃんの誕生を期待していました。予定では12月に出産だったようですが、何と二ヶ月近くも早く生まれたわけです。
しかし私自身がこの嬉しいニュースを知ったのは、ベトナムのニュースではなく、日本の10月25日付けのA新聞の WEB 版からでした。それでベトナムの翌日の新聞には、おそらくその記事が大きく一面トップに掲載されているだろうと思い、26日に発行されたベトナムでは有名な新聞、 Tuoi Tre ( トゥイ チェー:青春時代 ) と Thanh Nien ( タン ニエン:青年 ) の二紙を、朝起きてすぐに買いに行きました。そしてまずすぐに Tuoi Tre の一面を見ました。
(ない!記事がない・・・。)
全くそのような記事は一行も、一言も書かれていませんでした。中を開き、最後のページまでも隅々まで目を通しました。しかしやはり有りませんでした。
(おかしいな~、何故・・・?)
と思い、次にまた Thanh Nien を開きました。これも一面の記事から最後のほうまで全部読みましたが、これまた全くドクちゃんに関した記事はありませんでした。しかし日本ではすでに複数の新聞社が報道しているのです。
(有名な二大紙ともに、これだけ有名な出来事に関した記事が全然無いということはどういうことなのか?)と奇妙な思いがしました。一昨年の Viet( ベト ) ちゃんが逝去した時には、 Tuoi Tre に「 Viet 君 逝く!」と一面に大きく載っていましたので、今回はみんなが待ちに待ったドクちゃんの慶事であるだけに、同じように大きく載っているだろうと想像していたからです。
(この二大紙に載っていないということは、ベトナムの人たちも知らない人たちが多いのではないのか?)と思い、回りのベトナム人の知人にも聞きました。すると、「えーっ、もう産まれたのですか!」と驚いたようで、やはり知らない人たちがほとんどでした。後ほど、あのバナナを植えた Y さんから、「 Cong An ( 公安 ) 新聞には出ていましたよ。」ということを聞きました。
それでドクちゃんと長年親しい、フォト・ジャーナリストの村山さんにそのような状況を連絡し、「二大紙ともに、今回のドクちゃんの記事を掲載していないというのが分かりません。」と彼に尋ねました。彼も今回のドクちゃんの子ども誕生の報せには、当然大きな関心を寄せているだろうと思いましたから。
実は彼は今回の Tuyen さんの出産予定の12月に、サイゴンに来てその取材をする予定でした。それが二ヶ月も早まったので、彼もおおいに慌てました。しかし何せ目出度いことなので、その取材のために渡航準備に取り掛かろうとしました。しかしある「事情」により、結局断念せざるを得ませんでした。村山さんも実に残念がっておられました。
そして私が「二大紙ともに、何故掲載していないのでしょうか。」と抱いた疑問にも、(ああ~、そういう事情があったのですか・・・。)と、村山さんは私に分かるようにその「事情」を説明してくれました。その「事情」については、私は敢えてここでは触れません。
1981年に“ 結合双生児 ”としてこの地上に生を享けた二人、「ベトちゃん・ドクちゃん」が様々な困難を乗り越えて今に至り、一昨年兄のベトちゃんが亡くなった後に、天がドクちゃんにまた“ 双生児 ”を授けてくれたという、この不思議な廻り合わせに多くの人たちが深く感動し、喜びに浸ったことでしょう。その感動の輪の中に、私たちも参加出来れば良いと思うからです。
そしてドクちゃんは二人の子どもの名前として、男の子に「フジ」、女の子には「サクラ」という名前を付けたということを後で聞きました。多くの日本の方々に今まで支援されて来たその厚い・深い恩義を彼は忘れず、我が子二人に日本の名前を付けるということで返してくれました。日本人として、何と嬉しいことでしょうか。
さらに実は私の側にも、別な嬉しい「事情」が出来ていたのを、ドクちゃんの双子誕生の後で知りました。私の女房の妹は、実はこの Tu Du 病院で女医さんをしているのですが、今回彼女がその ICU 治療室の責任者として、双子の世話を任されたというのでした。ドクちゃんの双子誕生に繋がるこの縁には、私もそれを聞いた時驚きましたし、嬉しくなりました。
彼女の話では、「双子さんが生まれて以来、毎日報道関係の人たちでごった返して大変だわー!」と、話していました。その騒ぎはおそらく、二人の赤ちゃんが元気になって退院するまで続くでしょう。
生まれた時から幾多の試練を経て来たドクちゃんですが、今回ドクちゃんの「赤ちゃん誕生!」のニュースほど、多くの人たちを感動させ、喜ばせてくれたものはあまりないことでしょう。
そして私も子どもを持つ親の一人として、二人の双子さん、「フジ」ちゃんと「サクラ」ちゃんの健やかな成長を願わずにはおれません。