【2010年4月】ベトナム人の眼で見た、『日本の歴史』の完成/村の人になろうと学ぶ日本の女性

春さんのひとりごと

<ベトナム人の眼で見た、『日本の歴史』の完成>

以前、“ベトナム人の眼で見た日本の歴史”を綴っている人・T先生のことを書きましたが、三月末にひさしぶりにそのT先生にまたお会いすることが出来ました。最初に私がこのサイゴンで、T先生にお会いしたのは2007年9月でしたから、今からちょうど二年半前になります。

あの時T先生は日本語能力試験の統括責任者をされていて、2007年12月に行われた日本語能力試験の試験監督員(日本人・ベトナム人両方)の手配の協力を私に頼まれました。私も知りうる限りの日本語学校や知人を紹介し、その後T先生は直接そこに足を運ばれて、そこの学校などに試験監督員の依頼をされました。そしてその翌年からは、FAXやメールでの依頼方法に変わって来ましたので、直接私がT先生と顔を合わせる機会は少なくなりました。

ただテトの時に私が、「Chuc Mung Nam Moi(新年おめでとうございます。)」というショート・メッセージを送りますと、T先生から「ありがとうございます。」と返信が来ました。昨年12月の日本語能力試験には、私は用事があってT先生には会えませんでしたので、約二年ぶりの再会でした。

今回私がT先生に会った目的は、私のベトナム人の知人Uさんから「日本語教育に詳しい方を誰か紹介して欲しいのですが・・・。」という依頼を受けたからです。そしてUさんは私と偶然同年齢で、Uさんはハノイの大学で最初に日本語を勉強し始めて今に至っていますから、Uさんも実に30年を超える日本語歴がありました。

そのT先生は26歳から日本語を習い始められ、1973年に東京の市谷の自衛隊近くにある「東京インター・ナショナル・センター」という所で日本語を勉強するために、一年間留学されました。この時30歳でした。ですから、今まで約40年を超える日本語歴があります。私がベトナム人のT先生と話している時には、まるで日本人と会話しているのと全く同じような感じです。

ベトナム戦争が終結したのが1975年ですから、その当時日本に留学していたベトナム人などほとんどいなかったようでした。T先生と、あと一人ハノイの人が一緒に留学していたそうです。T先生はその日本留学当時を振り返りながら、「日本で出会った多くの方々が、私がベトナム人だと知るとすぐ“ベトナム戦争”を連想されるのか、こころから同情的な眼をされ、大変親切にして頂きました。」と懐かしい様子で話されました。

そして1974年にベトナムに帰国後は、歴史の先生としていろんな学校で世界の歴史や、ベトナムの歴史、そして時には日本の歴史なども教えて来られました。そして1989年から今の人文社会科学大学で日本語を教えられ、定年になって一度は退職されましたが、また大学から請われ、続けて教えられています。

Uさんが私に依頼してきた内容は、「新しいビジネス・モデル」としての日本語教育を展開したいということだったので、そのビジネスの可能性・将来性があるか、ないかのアドバイスも含めて、誰か知識・経験が豊富な人を紹介して欲しいということなのでした。それで私の知りうる限りでは、このベトナムでご自身が長年日本語の先生として教鞭を取っておられるT先生が先ず最初に思い浮かびましたので、お互いの都合の良い日時を決めて紹介してあげたのでした。

そしてT先生に会う約束の日の当日、私は二年半前のことをふっと思い出しました。あの時は約束時間の直前に大雨が降って予定よりも少し遅れ、私が着いた時にはすでにT先生は先に来ておられました。それで今回は前回の徹を踏まないように、(あの時は約束した時間を少し過ぎて到着し、T先生を待たせたから、今度は15分くらい前には先に着いておくようにしよう。)と思って、家を出たのでした。

このベトナムで15分前に先に到着するという感覚は、(ずいぶん早く着いたなー)という感じなのです。ふつうは時間通りに来るベトナムの人のほうが少なく、大体いつも遅れて来ますね。そして今回の待ち合わせ場所は、人文社会科学大学の中の喫茶店にしました。

さて私がその喫茶店に約束時間の15分前に着いた時、大いに驚きました。何とすでにもう先にT先生は着いておられて、喫茶店の入口前にある石の上で、新聞を広げて読みながら待たれていたではありませんか。私は慌ててバイクから降りて、またまた遅参のお詫びをすることになりました。同じ人に二回も遅れてしまい、「これはイカン!」と思い、(次にT先生に会う時には、30分前に着いていないとまずいなー。)と思ったことでした。でもT先生は私と顔を合わせると、ニコッとした笑顔をされました。

Uさんもすぐその後に来られましたので、二人を知る私がそれぞれを紹介しました。しかし私も今までいろんなベトナムの人と知り合いましたが、目の前にこれだけ長く日本語に関わっているベトナムの人を同時に二人も見るのは、今日のこの時が初めてのことでした。ベトナム人であるお二人は、日本語を最初に習い始めてから今に至るまで、ずっと継続して学習し、そしてT先生は日本語を教えることを半生の職業として、大学などで指導されて来ました。

お二人の挨拶が終わり、私からUさんが今考えているビジネスについても、簡単に説明しました。そこから先は私は口を挟まずに横で話をずーっと聞いていましたが、この時お二人は双方が質問に対して答えながら、Uさんが想定するいろんな事案に対しては、T先生がご自分の経験から的確なアドバイスを幾つか与えていました。

Uさんが考えている日本語教育の「新しいビジネス・モデル」については、今のところまだ数人しか知らないビジネス事業でもあり、今ここで紹介することは出来ませんが、私は二人が話しているのを横でお茶を飲みながら静かに眺めていて、何とも言えない実に奇妙な気がして来ました。何か私は、テレビ・ドラマを観ている観客のような感じになりました。

何故かと言えば、最初に二人が会って自己紹介から始まり、二人ともベトナム人でありながら、そのままずーっとベトナム語は一切使わずに、日本語だけで話を続けているからでした。私から「日本語で話して下さいね。」と頼んだわけでもないのです。しかも込み入った仕事上の話などは(ベトナム語でお互い会話したほうがいいだろうに・・・)と私は思いましたが、T先生もUさんもとうとう最後まで日本語で話していました。

日本人である私がすぐ横にいるから気を遣っていたのでしょうが、後で思い出すとおかしくもあり、不思議でもありました。(そしてこのことについて言えば、二人ともベトナム人でありながら、最初から最後までずっと二人の日本語だけでの会話は続き、最後のお別れの時になってようやく、お二人はベトナム語で一言、「Tam Biet(さようなら)」と別れの挨拶をされただけなのでした。)

二人の仕事の話がひと通り終わり、この日私がT先生に一番聞きたかったことを質問しました。「二年半前に先生が話されていた『日本の歴史』の本の執筆の状況は、その後どうなっていますか。」と。

あの二年半前、私がT先生に初めてお会いした時に、T先生は「今日本の歴史の本を書いています。今までベトナム語で書かれた日本の歴史の本は、すべて欧米の文献からの引用や説明をそのまま借用しています。でも私は日本語で書かれた歴史の本を直接読んで研究して、『ベトナム人の眼で見た日本の歴史』を書きたいのです。」と、眼を輝かせて私に話されたのでした。

それをT先生から聞いて以来、(あの本はいつ頃出来上がるのだろうか?)というのが、その後の私のずっと関心事でした。二年半前には、T先生は「5年後くらいの完成を予定しています。」と話されていました。あの時はその本の執筆を開始されて、まだ半年くらいの時期ではなかったかと思います。T先生はあの当時から今まで、この人文社会科学大学の中にある、「外国語センター」でずっと日本語を教えておられます。ですからおそらく、丸々一日を著述の時間には割けないだろうなーと、私は思っていました。それで私は、「半分くらいはもう書き終わりましたか。」と、T先生に聞いたのでした。

するとT先生はニコーッと笑って、「実はその原稿がほんの数日前に完成しました。今日あなたに会うので、是非それを見てもらいたいと思い、プリントアウトして持って来たんですよ。」と嬉しそうに話されるではありませんか。私はそれを聞いて、「えーっ、もう出来たんですか!」と驚きました。そしてT先生は、「今バイクの中に入れてますから、取って来ますのでちょっと待ってて下さいね。」と言って、Uさんと私を残してバイクの駐車場に行き、すぐ帰って来られました。

そしてT先生のその手には、確かに今刷り上ったような鮮明な字で印刷された紙の束が握られていました。T先生は、最初のページを上にして、その紙の束をテーブルの上に置かれました。その一ページ目の表紙には、「Lich Su Nhat Ban Nhap Mon」と書かれてありました。Lich Su(リキ スー)は歴史、Nhat Ban(ニャット バーン)は日本、Nhap Mon(ニャップ モン)は入門です。漢越語とそのまま対比していますので、漢字を使用している日本人には分かり易いタイトルでした。簡単に訳せば、『日本の歴史入門』です。

あの時T先生は「今“ベトナム人の眼で見た日本の歴史”の本を書いています。完成は約五年後を予定しています。」と話されていたのでしたが、今テーブル上にはまだ製本にはなっていないものの、一応完成した原稿が確かに置いてあるのでした。「書き終えるまでに何年かかりましたか。」と聞きますと、「三年かかりました。」と答えられました。そしてさらに、「製本にしたら何ページくらいになりますか。」と聞きましたら、「80ページくらいにはなると思います。」という返事でした。

T先生が書かれたこの原稿は、全てがベトナム語で書かれていましたので、日本人である私にはザーッと通読することは出来ませんでした。しかしわずか三年でこのような本を書き上げられたT先生の精力的な文筆力に、私自身は本当に敬服しました。その原稿の内容は縄文時代から始まり、2002年までで筆をおいたと話されました。パラパラとめくって見ますと、写真や図や表が入り、日本史の入門編としては、実に読み易く、見やすい構成になっているなーと感じました。

そしてT先生は、「今からこれをコピー屋さんに持って行って、あなたの分もコピーして来ます。」と言われたので恐縮し、出来上がったばかりの原稿をそこまでして頂くのもこころ苦しく、それは丁重にお断りしました。しかし私自身は今日この日にT先生の『日本の歴史入門』の完成を聞き、本当に嬉しくて、嬉しくてたまりませんでした。そしてT先生が書き上げた原稿を眼の前にしながら、「一人の人が一冊の本を著す。」ということはどういうことなのか、あらためて考えさせられました。

私がこのベトナムで最近読んだ、そして暇があれば今も繰り返し読んでいる本は、開高 健さんの『ベトナム戦記』、近藤紘一さんの『戦火と混迷の日々』、そして森村誠一さんの『青春の源流』などです。これらの本はすべて、「ベトナム戦争」という戦場世界の中で産まれて、生きて、恋して、戦って、そして死んでゆく多くの人たちのドラマともいえる本ですが、おそらく同じ本を日本にいて読んでも味わえないような、迫真にせまって来るその臨場感は、今私がベトナムにいるからこそ、ひしひしとこころに訴えかけて来るのだろうと思います。

そしてこの中で、森村さんの『青春の源流』という本は、小説形式でありながら、文庫本で最後の四巻目までを読んだ時、言葉では言い尽くせないほどの深い感動を何度も味わいました。この本は「登山」と「ベトナム戦争」を交互に絡めながら、「ベトナム戦争」当時にベトナムで過ごしたある日本人が、戦場で青春時代を燃焼し尽した、もの凄い生き様が描かれています。(誰か実際のモデルがいるのではないか?)と思うくらい現実味があり、その小説の構想は大きく、舞台も広く、文章に迫力と力強さがあり、実に臨場感に溢れた生き生きとした筆致でした。

この本は一年前にこのベトナムに来て、今このサイゴンでIT関係の会社を興し、さらにまたご自身も若い時にエベレストに挑戦した知人のKさんが、同じ山仲間の友人から手に入れ、その後あのベトナム戦争当時にバナナを植えていたYさんが続けて読まれ、さらにその後に私のほうに回って来たのですが、この本に登場する人物と、Yさんの若き日の旧友である、Cai Be(カイ ベー)のお墓に今眠っておられる元日本兵・Fさんの思い出をYさんは重ね合わせられたのでしょうか。「出来ればいつか、森村さんをあそこにご招待したいですねー。」と、Yさんは元日本兵・Fさんをしみじみと偲ぶような顔で話されたのでした。

そして私が頂いたこの本には、戦争のむなしさと、戦争によって若い青春を奪われ、命を捨てていった多くの人々が希求したであろう平和へのこころからの悲痛な叫び声が刻まれていて、最後の巻を閉じた時、言いようのない深い・深い悲しみと寂しさを覚えました。

しかしこのような本を書き著わすまでの作者のこころの中には、その国(ベトナム)に対して、その国の人に対して、その国の歴史や文化すべてに対して、【深い愛情】があるからこそ、そのような作品を書けたのではないだろうかと思いました。

そして事実T先生も、日本という国、そして日本人に対して【深い愛情】を抱いておられるからこそ、このような本を著されたのだなーというのが、T先生と話していると良く分かりました。それは日本人である私には、T先生が話される一つ一つの言葉が、強くこころに響き、そして深くこころに沁みるものでした。

私は穏やかな笑顔を浮かべて話されているT先生に、“ベトナム人の眼で見た日本の歴史”を書いておられるということで、前々から一番聞きたかったことをここで質問しました。「今回『日本の歴史入門』を著されて、日本史全体に特徴的な、日本の精神史を貫くものは何だと考えられますか。」と。

するとT先生は暫くじーっと考えられてから、「私が考える日本の歴史の特徴、日本人の精神に見る特色とは、

『自立』

ということではないでしょうか。それが長い日本の歴史を貫く特徴であり、精神だと思います。」と、ゆっくりと答えられました。

「聖徳太子の時代から第二次大戦が終了するまで、日本は一貫として世界の中でも、アジアの中でも、大陸と地続きでなく海を隔てていたという要因も大きいのでしょうが、文化的にも精神的にも『自立』していました。あの聖徳太子の時代に隣国の超大国であった隋王朝にも、対等の関係を要求して『自立』し、その後の遣唐使の時にも、自分たちに必要なものだけを摂り入れました。」

「江戸時代の【鎖国】も、私には世界からの『孤立』のように見えながら、実は世界からの『自立』だと考えます。アジアのほとんどの国々が植民地にされながら、その鎖国のおかげで、日本は【自主・独立】を貫けたのだと思うのです。そしてそれが、私があなたに以前お話した、今の日本まで続く、実に“ユニークな日本文化”を形作ったと思うのです。」

「そして明治維新の前に幕府と薩長が争っていた時、幕府側にはフランスが、薩長側にはイギリスが背後から支援しようとして、お互いがその後の果実の分け前に預かろうと貪欲な目を光らせていました。幕府や薩長の指導者たちが賢明だったのは、アジアで多くの国が西洋の列強の植民地にされた経緯を良く研究していて、それらの支援をはね付けたことでしょうね。お互いが敵に別れて戦った幕府や薩長の指導者にも、日本人としての【自主・自立】の精神の強さを感じました。」

「しかし残念ながら過去のベトナムは、その『自立』の精神が弱かったがために、いろんな外国に頼ろうして、支援があれば喜んで受け入れ、その結果として様々な外国勢力を引き入れることになりました。そしてそれがベトナム人同士が血を流す悲惨な戦いになり、あれだけの長期に亘る戦争になりました。当時のベトナムの指導者に、幕末当時の日本のような『自立』という考え方や精神があれば、もっともっと戦争は早く終結出来たはずです。」

この時T先生が語られた『自立』という二文字の言葉を、私は後でじっくりと反芻しました。そして今まで私が読んで来た日本の歴史の本には、このような視点で日本史に光を当てたのは無かったのではと思いました。であればこそ、『自立』という言葉で端的に日本史を説明されたT先生の日本史への深い洞察力と慧眼に、日本人である私自身が(うーん)と唸らされました。しかしまたこのような視点は、ベトナム人であるT先生のような外国人だからこそ持ち得るのかもしれないなーと思ったことでした。

そしてさらにいろいろ聞いてゆきますと、「あなたは闘鶏を知っていますよね。」と、私が「ベトナム戦争は世界の戦争史の中でも複雑すぎて、非常に分り難いですねー。」と質問した時に、その例えを引き合いに出されました。

「いま二匹のニワトリが戦っています。一匹のニワトリが北ベトナムで、もう一匹が南ベトナムです。その二匹のニワトリの陰で手綱を引いているのが、ロシアであり、中国であり、アメリカです。そのニワトリたちにエサを与え、水を与え、介抱して上げているのもまた、ロシア、中国、アメリカです。しかし戦って、傷つき、血を流し、力尽き、そして最後に倒れていくのはニ匹のニワトリ同士なのです・・・。」とそのように、ベトナム人であるT先生の口から語られた「ベトナム戦争観」も、また実に興味深いものでした。

そして私が何げなく、「先生は司馬遼太郎さんの本は読まれましたか。」と聞きますと、「ええ、読みました。私が読んだ司馬さんの本の中では、『人斬り以蔵』が実に面白かったですよ。」と答えられました。『人斬り以蔵』という本の名前が、このベトナムでベトナムの人の口から出て来て、私も意外な感じがして大いに嬉しくもあり、そして大変懐かしい気がしました。

司馬さんのあの本は、歴史上有名な人物が主人公ではなく、歴史の脇役を描いた短編小説なのですが、歴史の主役に絶えず翻弄されて一生を終え、哀しい人生を歩んだ一人の侍・岡田以蔵を主人公にした小説で、以蔵に同情を覚える、隠れたファンが多い作品の一つのようです。しかしベトナム人であるT先生が、司馬さんのそのような短編小説までも読まれているのを知り、司馬さんファンの一人である私は大いに嬉しくもあり、あらためてT先生の日本の歴史への愛情と知識の深さを感じました。

そして今目の前に座られているT先生と、日本の歴史や日本の文化全般についていろんな話をしていますと、ベトナムにおいて会話しているような気がせず、どこか日本の大学の中の喫茶店にいるような錯覚を覚えました。そして今私の目の前に座っておられる、ベトナム人であるT先生こそは、今のこのベトナムにおいて、まさしく「日本学の泰斗」であられると確信しました。そもそもここまでの話を、日本人である私と、すべて日本語だけで通すということだけでも、驚くべきことではないでしょうか。T先生に会えば、会うほど、私はその日本および日本の歴史への並々ならぬ造詣の深さに感服させられるのです。

私たちはT先生が、この日の夕方から授業を控えている時間ギリギリまで話しました。そして気が付いたら二時間近く経っていました。しかしこの日は、非常に面白い話をT先生から聞くことが出来ました。Uさんは、私とT先生の歴史談義にはあまり参加されませんでしたが、彼もまた興味深く聴いていました。

話を変えて私が、「ところで普段は何時まで授業をされているのですか。」と聞きましたら、「火・木・土に夜9時まで教えています。しかし私も今年68歳になりましたので、やはり夜遅くまでの授業は辛いです。それであと2年くらいしたら、授業をするのは辞めようと考えています。」と話されました。

「その後はどうされるのですか。」と聞きますと、「実は私はこのサイゴンから3時間ほどのところにあるBinh Phuoc(ビン フック)省に、10年前に二ヘクタール半の農地を買いました。そして最初は果樹園にして、マンゴーやドリアンを植えましたが、手が掛かりすぎるのでそれは止めて、2年半前にゴム園を開きました。ゴムの木は植えて約5年で、ゴムの樹液が採れるようになります。それで、ちょうど私が70歳で今の大学を辞めた後ころに、そのゴムの木がお金を産んでくれるようになるのです。」とこれからの人生設計までも、私に話して頂きました。「ほー、そうですか・・・。」と、ここからは私はただ聞き役に回りました。さらにT先生は面白い話を続けられました。

「10年前に私がそこの土地を買った時には、一ヘクタールで何と300万ドン(1万5千円)の安さでしたよ。今は10倍以上に値上がりしています。果樹園を止めた後には、その土地に1500本のゴムの木を植えました。5年後にゴムの樹液が採れるとした時、約10本の木から一日おきに1kgのゴムの樹液が得られます。1500本ありますから、一日おきに150kgのゴムの樹液が得られますが、ゴムの樹液の値段は、1kgが約1ドルです。」

「ですから、150kgのゴムの樹液は150ドルになります。一日に均すと75ドルになり、一ヶ月で平均すれば約2300ドルになります。そこから肥料代や農薬代や人件費などの経費を差し引いても、毎月千ドルは充分残ります。今の大学の給料よりもはるかにいいんですよ。いつかあなたも、私のゴム園に遊びに来て下さいね。ところで、あなたも将来ゴム園をやってみませんか。私が今から農地を探しておいてあげますよ。」と冗談なのか、本気なのか、笑いながら言われました。

私が「日本に帰ったら私は、朝から夕方まで野良仕事が待っていますから、この暑いベトナムに来てまで、さらに野良仕事はしたくないですよ。まあ今はまだいいですが、将来その気になったらまたお願い致します。」と、その場では丁重にお断りしました。

しかし私も今までクチ トンネルに行く途中で、広大なプランテーションのゴム園を何回も見ました。背の高いゴムの木が葉を茂らせて立ち並び、全てが一直線に真っ直ぐに植えられ、森の奥の方に見えなくなるまでゴムの木が続いています。そのゴムの木の鬱蒼とした森の中は陽が射さないので、下草も丈低く、風通しもよく、この中でハンモックを吊って昼寝をしたら、さぞ気持ちいいだろうなーといつも思います。

そしてその木の太い幹にらせん状に深く切れ目が入れられて、その溝に沿って白いゴムの樹液がポタリ・ポタリと長い時間をかけて流れ落ちて行き、その樹液は下においてある小皿の中に溜まるようにしてあります。

こういう光景もまた、ベトナムの自然の恵みの豊かさのひとつですね。ジーッとゴムの樹液が落ちるのを待っていれば、それが最後にはお金に変わるのです。そしてある程度溜まると、その溜まったゴムの樹液を買い取りに、トラックにドラム缶を積んだ業者がやって来ます。

あの光景を見るたびに、(一体ゴムの樹液というのは、どれくらいの値段がするものだろうか?)と前々から疑問でした。しかしそのことをバスから降りて聞こうにも、バスがゴム園の前を通過する時、バスの運転手は外国人がそんな事に関心があるだろうとは考えてもいないので、全くスピードを落とすことなく、もの凄いスピードで走って行きます。それで前からずーっと抱きながらも、スピードを上げて走るバスとともに流れ去って行った今までの疑問が、T先生の話を聞いていて、今この時ようやく氷解したのでした。

そしてさらに続けて、「大学での授業を辞めた後、ゴム園に仕事を代えるのは体力的な問題もあるのですが、私は残された時間を【日本語を教えること】ではなく、【日本語を使って研究すること】に費やしたいのです。具体的には、『越日辞典』の完成です。今書店にある『越日辞典』は大変古いものだし、内容にも誤植が多くあります。」

「ですからこの『日本の歴史入門』の次の目標は、『越日辞典』の完成だと考えています。ただその『越日辞典』の作成時には、ベトナム語から日本語への訳が正しいかどうかを、必ず日本人の方にチェックして頂かないといけません。その時にはあなたにも宜しくお願いします。」と、今から日本人スタッフの確保にまで手を回し、T先生は周到な計画を練られていました。そして私はそのようにたゆまぬ学究のこころを、ずっと持ち続けておられるT先生に堪らぬ魅力を感じるのです。

この日にT先生から見せて頂いた『日本の歴史入門』は、まだこれから最終的な校正を行いますので、完成した本になって書店に並ぶのはもう少し先になります。書店に並ぶ時には、本の題名は『Lich Su Nhat Ban Gian Luoc(簡略日本の歴史)』にしようと考えています、とT先生は言われました。

いずれにしましても、2年半前にT先生が私に言われた、“ベトナム人の眼で見た日本の歴史”が完成したのです。日本に関心を持つベトナムの人たちが、ベトナム語で書かれたT先生の本をもうすぐ読むことが出来るわけです。

そして出来れば、日本に今いる、またこれから行くベトナム人の留学生たちや研修生たちにも、日本という国の今に至るまでの長い歴史をより良く理解して頂くために、是非読んで欲しいと思います。

ベトナムBAOニュース

「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。
「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。

■ 今月のニュース <村の人になろうと学ぶ日本の女性> ■

Haraguchi Yukoさんはベトナムの中でも遠い田舎のある村へ、村人たちの生活レベルの質を向上させるために日本からやって来た。彼女はGia Lai(ザー ライ)省のMang Yang(マン ヤン)郡において、JICA(国際協力機構)から派遣されて来た、生活改善のメンバーの一人である。

早春の朝、役所の幹部の人たちとJICAの生活改善のメンバーたちが、Po Nang(ポー ナン)村へ向っているので、村全体がいつもより賑やかになっていた。その人たちが村人から情報を収集して、村人たちのニーズを探り、何か困難ことがないか調査して、その後に村人たちにより良い生活上の技能を指導してあげるのである。

●・・温かいベトナム・・●

村の人たちは見知らぬ人たちが来て恥ずかしがっていたが、メンバーの中の一人Haraguchi Yukoさんは唯一の女性で、明るくて、可愛くて、すぐ皆んなに溶け込んでゆき、多くの人たちと仲良く打ち解けて話していた。

「“もう慣れましたよ。”毎回村に来るたびに、村の人たちは自分の家族や親戚のようで、この村は自分の生まれ故郷のように感じるのです。」とYuko さんは言った。髪を短く切り、少数民族Bana(バナ)族の衣装を着て、いつも頭にNon La(ノン ラー:ベトナムで女性が頭に被るすげ笠)をかぶっているこの女性が、遠い日本から来たとは誰もが信じられなかった。

1998年に高校卒業してから、Yukoさんはアメリカへ渡って留学することにした。お父さんは「大学の卒業資格を取るまでは帰るな!」と言い渡した。「お父さん譲りの負けん気の強い性格と、父には“困難に挫けないことの大切”さを教えてもらったおかげで、4年後には国際関係とフランス語の大学卒業資格(アメリカのカリフォニア大)を持って日本に帰国しました。」とYukoさんは言った。

Yukoさんは2年以上自分の国で仕事をして、その後でJICAのボランティアのメンバーの選抜試験を受けた。Yukoさんが選んだボランティアの仕事は困難なことが多く、しばしば遠い所へ行く上に、危険な場所もあった。

「ベトナムを選んだ時には、何も考えないで決めました。」とYukoさんは言った。そしてYukoさんは後に彼女が“第二の故郷”と呼ぶことになる国へ行くことになった。その時、Yukoさんにとってベトナムという国についての知識はゼロで、Yukoさんの想像では「ベトナムは日本からずっと遠くて、大変貧しい国だ。」ということだけだった。

YukoさんはBac Giang(バック ザーン)省へ行って仕事をすることになった。その期間の中で、ベトナム人のしぐさをすばやく習った。現地の人たちと仲良く付き合うために、Yukoさんは少数民族の人たちが着ているのと同じ伝統的な衣装を着て、三ヶ月の間毎晩のようにノートを持って、ベトナム語のクラスに参加した。「Bac Giang省にあるDinh Ke(ズィン ケー)村の人たちと別れた日には、村人たちみんなが総出で見送ってくれて、お土産をもらって、皆んなと手と手をしっかり握り合って本当に別れが辛かった。今まで生きて来た中で初めて、ここでこれ以上はないと思うほどの、“温かいベトナム”を感じた。」とYukoさんは言った。

●・・ 村の人になろうとする ・・●

約百人ほどの村人が集まって役所の幹部の人たちに質問していた。彼らは「どうやったら小麦が速く育つのか。」、「どうやったら最も高い値段で、豚や鶏を売ることが出来るのか。」を聞いていたのだった。

ところがそこにいた人たちは、皆んな全員男性だった。Yukoさんは村長を説得して「もっと、もっと女性を呼んで来て!」と言った。Yukoさんは、やって来たそのおばあさん・奥さんたちを部屋の隅へ連れて行き、黒板に絵を描いて、「どうやって水源をきれいにするか。」、「どうやったら芋がたくさん収穫出来るのか。」、「どうやったらおいしいご飯が炊けるのか。」などについて教えた。Yukoさんが開くこの会合では、時々みんなの笑い声で賑やかになり、みんなが楽しく拍手をしたりするのだった。

Yukoさんはよくズボン姿で、サツマイモが植えてある畑にやって来た。そして貧しい村人たちと一緒に、背中にリュックサックを背負って畑に出かけてゆくのだった。そしてYukoさんにとって、「絶対忘れられない出来事」を笑いながら話してくれた。

「ある時、村に入ったところ熱中しすぎて、ついうっかり関係者以外は入ってはいけない“丸太小屋”に無断で入ってしまいました。」と話した。それは Yuko さんに とっていい記念にもなったが、最大の試練にもなった。その結果 Yuko さんは 罰を受け、 Ruou Can ( ルー カン:少数民族の地酒 ) をいっぱい飲まされて、すっかり酔っ払ってしまった。

二年近くの間Gia Lai省のいろんな場所に行き、今やその可愛い日本人の女性・Yukoさんは、すっかり村の一員になった。YukoさんはいつもBana族の民族衣装を着て、頭にはNon Laをかぶって皆んなの前に現れた。

Yukoさんはこの高原の村にもっと長くいるために、またこの地方の特色のある文化をもっと知るために、いろんな本を読んだり、また今Bana族の言葉を勉強しているのだった。

(解説)
ベトナムにいる少数民族さんたちは、北部や中部の高原や山岳地帯にその多くが住んでいます。そして私はベトナムに来た当初、北部を旅していた時に、Haraguchi Yukoさんと同じような「絶対忘れられない出来事」を体験しました。

少数民族の人たちが固まって多く住んでいる村の中の、舗装もされていない田舎道を歩いていますと、ある家に多くの人たちが集まっていて、中から大変賑やかな声がしてきました。それは少数民族の人たちの結婚式なのでした。

少数民族さんの結婚式には私も初めて出会いましたので、大いに興味が湧き、垣根の外から眺めていますと、そこに参加していた村人が手招きして、笑顔を浮かべて「こっちに来い。」というしぐさをしました。私が外国人だというのは見たら分かるのでしょうが、他の人も手を引いて家の中に招じ入れて、空いている席に座らせてくれました。

その家の中は大きな木材が柱にも壁板にも使用してあり、部屋の中も大変な広さでした。家の中には既に百人は超える人たちが座って食事をしていたり、酒盛りが始まっていました。少数民族の綺麗な衣装を身に着けた一人のおばさんがニコニコして私に近づき、すぐ茶碗とハシを渡してくれて、「お前も食べろ!」というしぐさをします。

この結婚式には全然関係がない、招待状もない異国の旅人を、このような目出度い席に突然参加させてくれて、(本当に食べていいのだろうか?)と一瞬迷いましたが、(まあ、お目出度い祝いの日だから、この人たちも嬉しいのだろう。)と勝手に解釈して、遠慮なく目の前の料理を頂くことにしました。隣の人たちがいろいろ話しかけてきますが、この頃はベトナム語自体も分らないので、何を言っているのかさっぱり分りません。

「美味しいか?」と聞いているのだろうくらいは分りましたので、指を立てて、頭を縦に振り、「美味しい!」というジェスチャーしますと、みんなが笑い出しました。しかし今でもあの時は何を食べたのかが、どうしても思い出せません。

そして宴たけなわの頃、Yukoさんも味わったあのRuou Can(ルー カン)が登場しました。この酒は宴会には付き物の酒のようでした。大きな壷の中に、傘の柄のような形状をした細長い竹の管が挿してあり、男の人たちがそのストローのような形をした竹の管を口にくわえて、中の酒を吸い上げています。

「お前も飲め!」というような手つきを近くの人がしましたので、もちろん遠慮なく頂きました。それは不思議な味でした。強いて言えば、日本の甘酒のような感じでした。しかしそれよりもはるかに美味しく、コクのある味でした。度数もあまり高くなく(おそらく2度くらいではと思います)、いくらでも飲めるような酒でした。

そして驚くべきことには、中の酒が少なくなって来ると、その壷の中に上から水を注ぎこんでいるではありませんか。(これでまた酒が出来るの?)と思いましたが、「30分くらい待て。」というようなことを言います。そして30分後、確かにまた同じような酒が出来上がって来ました。これは実に不思議でしたねー。

この酒には大いに興味が湧いて、後でサイゴンに帰った時、サイゴン市内にも同じのが売っていましたので、早速それを買い求めて、中を調べてみました。すると、買った時点では上から密封してあり、それを剥がして中を開けますと、モミガラと麹が入れてありました。このモミガラと麹が、インスタント地酒製造の秘密でした。そして実際に水を注ぎ込んで、待つこと一時間余り。見事にあの時北部で飲んだ酒の味がよみがえりました。しかしこれも1・2回水を注ぎ足した後では、酒の味が薄くなってきます。

しかしあの日、全然見知らぬ異国の旅人を結婚式に招いてくれた少数民族さんたちの「温かい好意」を思い出すたびに、その「こころ優しさ」に強く感動しました。まだ私がベトナムに来て間もないころでもあり、あの日の夜は民族さんの「こころ優しさ」に感じ入って、なかなか寝付けませんでした。

“強者は威張り、弱者は慈しむ。”という言葉があります。キン族優位の今のベトナムにおいて、彼らは“少数”民族であるだけに、他者に対する「優しさ」や「こころの痛み」をより強く持ち合わせているような気がします。ベトナムの大多数を占めるキン族の人たちも、田舎に行けばそういうことがありますが、「こころ優しさ」の度合いは、少数民族さんの方がはるかに強いのではと、私は個人的に思います。

この記事を読みますと、そのような「温かい、こころ優しい」民族の人たちの中で、Yukoさんは今も一緒に生活されているのでしょうが、厳しい生活環境の中で、このように民族の人たちと打ち解けて暮らし、現地の言葉や文化を学び、そして生活改善方法を指導されているというのは、何とすごい女性だろうかと思いました。この記事を読む限りでは、まだ30歳を超えておられないでしょう。

しかしそれにつけても思うのは、以前同じように少数民族の村に入って学術研究をされている日本人女性・Masakoさんのことを紹介しましたが、最近の日本人は女性のほうが活力や積極性があるのでしょうか。

そのMasakoさんのことを紹介した時に私は、いつかバイクで少数民族さんの村々を訪ねる夢について書きました。そして実は私は、いや私たちは、数年後にそれを実現すべく、大まかな計画やその行程ルートなどを今練っています。その計画とは、昔の山岳地帯に造られていたホーチミン・ルート沿いに、バイクで南から北まで上って行こうというプランです。

バイクでの旅ですから、どこにでも、好きな場所で停められるというのが、この「南北縦断バイク・ツアー・プラン」の魅力です。参加メンバーはみんな若くないので、体力が衰え過ぎてからでは、このプランは実現不可能になります。

予定では、その準備期間も考えると、2~3年後くらいになるだろうなと予想しています。そして南から北に一気に上がるのではなく、途中・途中で立ち寄りながら行きますので、南北縦断バイク・ツアーの終了が何ヶ月かかるか分りませんが、面白い珍道中になるのではと、参加メンバーのみんなが今からワクワクしています。

その参加メンバーとは、ベトナム戦争当時にバナナを植えていたYさん。Yさんの友人で、東京・浅草のお好み焼き屋「染太郎」で再会したSさん。Saint Vinh Son小学校の支援者Aさん。そしてこちらのBinh Duong(ビン ズーン)省で、若きベトナム人建築士と共同でGio va Nuoc(ゾー バー ヌック:風と水)という喫茶店を開かれたSBさん。そして私の5人です。

その若きベトナム人建築士は、何と東京大学を首席で卒業し、もうすぐやって来る上海万博のベトナム館の設計を任されたといいます。そして今東京にいるSさんは、「これからバイクを買い求め、着々とバイクに体を慣らしていきますよ。」と話されていました。

このホーチミン・ルートのコースには多くの少数民族さんたちが住んでいるはずですが、Yukoさんと同じように、私たちも積極的にいい交流をしたいと思います。Yukoさんの任期がいつまでかは分りませんが、Yukoさんが今活躍されているその村にも、ぜひ足を、いやバイクを伸ばしたいと思います。

Posted by aozaiVN