【2010年7月】ホーチミンはふつうの人/W 杯・・・ 日本人の無念。しかしアジアの人たちも残念だ!

春さんのひとりごと

<ホーチミンはふつうの人>

六月中旬の午後、空が曇りだして来て、(そろそろ雨が降るかな・・・?)という時間ころに、「ホーチミン市友好協会」【The Ho Chi Minh City Union Of Friendship Organizations】 を訪問しました。

ここを訪問した目的は、わが社・ティエラが毎年実施している「ベトナムマングローブ子ども親善大使」が今年十周年を迎えるのを記念し、この夏に日本から生徒たちがここを表敬訪問をするお願いのためでした。ここを紹介して頂いたのは、私の知人であるDungさんでした。

Dungさんとの出会いは、約一年前に遡ります。あのベトナム戦争当時に毎日新聞の記者だった北畠先生がベトコン・ゲリラに捕まり、厳しい訊問を受けて解放されたということがありました。それから40年の歳月が経った後に、北畠先生はあの時自分を捕まえたゲリラに是非再会したいと強く望まれました。

しかし40年前の手がかりなどはみんながまず無理だろうと思っていた時に、ホーチミン市の外務局に勤めているDungさんが北畠先生の相談の窓口になり、八方に手を尽くして、実に40年後の再会が2007年に実現したのでした。そして北畠先生はその時の体験から筆を起こして、二年後に一冊の本を出されました。それが「ベトナム戦場再訪」という本です。

それをベトナムにいる私にも送って頂きましたが、それからしばらくして、40年後に再会したゲリラ・Hai(ハーイ)さんに宛てた一通の手紙を私に託されました。それを届けに行く時に同行して頂いたのがDungさんでした。それ以来のお付き合いです。そして今回「ホーチミン市友好協会」をこの日に訪問するに当たっても、彼が先方に事前に連絡をしてくれて、当日は一緒に来てくれました。

彼は今も外務局に勤めていますが、7月初旬にはアメリカのミズーリ州に行き、2年間の留学をする予定です。「何を勉強するの?」と聞きますと、「政策について勉強します。」と答えましたが、向こうでの滞在費用は全てアメリカ側が負担してくれると話していました。

その留学直前の忙しい時に、私の依頼を引き受けて頂き、この日は一緒に付き合ってくれたのでした。そしてこの時には、今年の「ベトナムマングローブ子ども親善大使」に参加する生徒たちのお世話をしてくれる予定の大学生も一緒に来てくれました。

実はこの「ホーチミン市友好協会」を訪ねたのは、今回で二回目でした。昨年の夏にも、私の知人であるフォト・ジャーナリストの村山さんの写真展が「戦争証跡館」と、ここで開かれていたのでした。この時にはベトナムの新聞社が数社、村山さんにインタビューしていました。そして今年6月には、村山さんのベトナムでの12年間に亘る写真活動の集大成ともいうべき【村山康文写真展】「1000枚で伝えるベトナム」が京都でも開かれました。

そして私たちは二階に上がり、ここの友好協会の会長であるQさんに会うことになりました。<会長室>と書いてある部屋には、先にDungさんがすーっと入ってQさんに挨拶をして、その後に私たちが入りました。Qさんはこの時部屋に一人でおられました。私たちは部屋の入り口にあるソファーに座って話しました。

Qさんに会った私は、今年の夏に「ベトナムマングローブ子ども親善大使」がここを訪問する目的について、ベトナム語で書いた書類を渡しました。それにしばらくじーっと目を通されたQさんは、顔を上げるなり「分りました。大歓迎致します!生徒さんたちにもそのようにお伝え下さい。」と笑顔で答えられました。Qさんに快諾頂いた私は大いに嬉しくなり、今日ここを訪問した目的は一通り達成出来ましたので、Qさんとしばらく雑談をしました。

今年の四月三十日の「サイゴン解放35周年記念」に、村山元首相石川文洋さんたちがベトナム政府から招待されて訪越されましたが、Qさんは「日本・ベトナム平和友好連絡会議」の会長を務めている村山元首相とは旧知の仲のようでした。ほんの最近も日本に行って、村山元首相に会って来たと言ってました。さらに村山元首相の支援で、Le Quy Don学校の中に「村山日本語学校」が出来ましたが、そこの校長のLuan先生とも知り合いなのでした。

初対面の私にも、Qさんは非常にオープンな感じで話されました。そして私が「田舎はどちらのほうですか?」と聞きますと、「北部のほうです。」と答えられました。このような政府関係の要職に就いているのは北部の人たちが多いとは聞いていましたが、Qさんもやはりそうでした。

国立大学で働いている先生たちも北部の人が多く、以前私がベトナム語を習っていた総合大学では、ほとんどが北部の出身で占められていました。銀行でいえば国立のVietcom Bankなども、以前そこに就職出来るのは北部の人たちが優先されると聞いたことがあります。もちろんある程度の能力が無ければそういう場所に就くことは出来ないでしょうが、南北に分かれて戦ったベトナムでは、政治的な地位と、それに加えて地縁・血縁関係にも左右されていたということです。しかし最近は、少しずつ緩和されて来てはいるようです。

私がQさんを初めて見た印象では、非常に穏やかな感じで、ハキハキとした言い方をされる人でした。親善大使表敬訪問の快諾を頂いた後に、私が「おいくつですか。」と聞きましたら、「あなたから見て何歳くらいに見えますか。」と逆に質問されました。

ちなみにベトナムでは初対面でも相手に年齢を聞くのは失礼ではなく、男でも女でもみんな平気で聞きます。これは実はベトナム特有の事情があるのです。ベトナムでは相手が自分よりも年上か、年下かによって、男女とも相手に呼びかける呼称が違って来るからです。

ですから最初にまず相手の年齢を知り、その後で自分の年齢差との相関関係を素早く考えて、それから相手に呼びかける呼称が自然と口を突いて出て来るわけです。

日本語でも私たちが相手を呼ぶ時には、相手のおよその年齢を推定して、「おじいさん」「おばあさん」「おじさん」「おばさん」「にいさん」「おねえさん」「君」のように変わりますが、ベトナム語はもっと複雑に変化します。相手が自分の年齢よりも上か下かにより様々な呼び方があるので、外国人にとってこれを瞬時に使い分けるのは至難の技です。

さらにベトナムの人たちは早く親密感を作るためなのか、年齢だけでなく、日本人から見たら面白いくらい、突っ込んだ妙な質問をしてきます。以前よりは豊かになって来たせいなのか最近は少なくなりましたが、私がベトナムに来た当初、初対面でもある外国人の私に対して、「おまえの給料はいくらだ。」と平気で聞いて来ました。(それを聞いてどうするんだ?)と、素朴に思いましたが・・・。

さてQさんの逆の質問を受けた私が「55歳くらいですか。」と答えましたら、「もっと上です。」と笑いながら言われたので、「では60歳ですか。」と再度答えますと、「もうちょっと上ですよ。今年64歳です。」と話されたのでした。そして良く聞きましたら、この友好協会では4年前から働いていて、その前はDungさんと同じ外務局におられたのでした。言わばQさんはDungさんのかつての上司なのでした。それでDungさんが気軽に部屋に入って行った理由が分りました。

私はQさんが答えられた、「北部出身である。」「今年64歳。」ということから、(もしかしてQさんは生前の「ホーチミン主席」に会ったことがあるのでは・・・?)と想像しました。それで「あのホーチミン主席に会われたことがありますか。」と、直截に質問しました。

するとその質問を聞いたQさんは眼鏡の奥の目を輝かせて、「ありますよ!」と実に嬉しそうに話されました。私自身今ベトナムに13年住んでいて、「ホーチミン主席に会ったことがある。」という人に直接出会ったのは、このQさんが初めてでした。

(やはりそうだったか!)と自分の推理が当たった嬉しさよりも、窓ガラス越しの逆光を背にして私の目の前に座っておられるQさんの姿を見ていますと、ホーチミンに直接会った人が今目の前のソファーに座っていることに、時空を超えた不思議な感じがしてきました。

そして私はホーチミンに直接会った人には、前々から質問したいと思っていた次の質問をQさんにもしました。「ホーチミンさんに直接会った時、どんな感じの人だと思いましたか。」と。私は今まで本の中では、ホーチミンのことについていろいろ書いてあるのを読みましたが、ホーチミンにじかに会った人には、まだ出会ったことがなかったのでした。

するとQさんは、「私がまだ幼い小学生の時に、北部の空港でホーチミン主席に会いました。その時の印象は、

ホーチミンはふつうの人

という感じでした。本当に<ふつうのおじさん>と言う感じでしたよ。」と、「ふつう【Binh Thuong(ビン トゥーン】」という単語を二回繰り返されたのでした。そしてさらに続けて、「でも聡明な人でした。」と語られました。

Qさんは私にホーチミンの印象を、二つの言葉「ふつうの人」と「聡明な人」というふうに要約して語られましたが、さらに「もっといろいろ聞いて下さい。」と笑いながら話されました。私も本当はもっといろいろお聞きしたかったのですが、Qさんもこの日は次の予定が入っているらしく、私たちは30分ほど話して、次の8月にまたの再会を約してそこを辞することにしました。

そしてもうすぐしたらアメリカに行き、しばらく会えないDungさんには、友好協会の出口の門のところで、「いろいろ有難うございました。おかげでQさんにも会うことが出来て安心しました。またアメリカから帰った二年後に会いましょうね。それまでアメリカでも日本語を続けて下さい。」と激励して別れました。

私はQさんと別れた後、Qさんが話して頂いた二つの言葉、「ふつうの人」、「聡明な人」という言葉を繰り返し思い出しながら、考えていました。そして私の「ホーチミンさんの印象は?」という質問に対して、時間をおかず、まず先に二回も「ふつうの人」という言葉を繰り返されたのが大変印象に残りました。Qさんはあの時には、同時系列で「ふつうの人」と「聡明な人」という印象を抱いたような話し方をされたのでした。

しかし私は、Qさんが小学生の時に空港でホーチミンに会った時に最初に抱いた印象は、おそらく「ふつうの人」という印象だけで、「聡明な人」というのは後で、Qさんがホーチミンに関した書物やテレビなどを通して蓄積されたことから膨らんだイメージなのではないかと想像しました。

そもそもまだ小学生時代のQさんにとって、ホーチミンは雲の上のような人だったことでしょう。ですからその時にホーチミンに出会って、当時小学生だったQさんが「この人は聡明だな。」などと思うはずがないでしょうから。

しかしまだ小学生くらいの年齢の感受性のアンテナでも、「ふつうの人」というイメージは受信出来るだろうと思います。いやむしろ小学生時代こそ、人生の中でも最も感受性豊かなアンテナを持っているのではと思います。子ども時代のQさんから当時のホーチミン主席を見て、“近寄り難い、偉い人”というイメージではなかったということでしょう。

そしてこの<ふつうの人>という言葉を、私は(ずいぶん以前昔にどこかで聞いた、読んだことがあるな~・・・)と、懐かしい記憶とともに思い出しました。私が青年時代に愛読した、吉川英治さんの『三国志』の巻末の、「諸葛孔明」を評した中にこの言葉が確か出て来たのでは・・・という記憶がよみがえりました。今手元にはその本はないのですが。

蜀が滅んで晋の覇王として入蜀した人物が、生前の諸葛孔明を知っていた土地の古老に尋ねます。「孔明はどんな人だったか。」と。蜀を滅ぼした敵方の晋の王が、そういう質問を孔明を知る古老にしたというのが面白いと思います。ということは、すでにもうこの時代くらいから孔明伝説が広まっていたということでしょう。

するとその古老は、「私が知る丞相はどこにでもいる、ふつうの人でしたよ。」と答えたというエピソードです。青春時代に読んだ『三国志』のこの場面は、私には特に強く印象に残っています。史実であれ、フィクションであれ(私は事実だろうと思いますが)、日本ではまだ卑弥呼が生きていた時代ころの、今から約1700年以上も前の昔に、そういうエピソードがきちんと記録されているところが、歴史の宝庫ともいえる中国史のもの凄いところです。

諸葛孔明とホーチミンは、もちろん生きていた時代も、活躍した舞台も、その思想も、行動した足跡も全く違いますが、私からその二人の姿に思いを馳せると、共通している『匂い』を感じるのです。

そして吉川英治さんも、孔明といえば後に「神算鬼謀の人物」として有名になった孔明よりも、「ふつうの人」としての古老の孔明評のほうが、孔明という人物の本質に近いのではないかと書いておられたような記憶があります。

諸葛孔明とホーチミンに私が感じる同じ『匂い』とは、後世の多くの人たちから愛され、尊敬され、慕われてきたという点でしょうか。政治家というのは、その死後には必ず後世の厳しい評価に曝されるのが常ですが、この二人にはその人物・人格をこころから愛する人たちの声がほとんどです。

さらには二人ともその身辺が生涯を通じて清廉であり、自分の命が尽きる最後に至るまで、国のために尽くし、すがすがしい生き方をしたという点も共通しています。それが後世の人たちを惹き付けて已みません。

諸葛孔明ほど、中国文明の光が届いた国々の中で、自国の為政者を抜きん出て、上から下に至るまでの多くの人たちから慕われた人物はいないでしょう。後世において、孔明という人物に感動し、感化され、涙を絞る人たちが多く出ても、孔明の悪評を言う人たちが殆んどいないというのはすごいことだと思います。近代の中国の政治家と比較しても、やはり諸葛孔明という人は傑出していたというべきでしょう。

さらには、今も 1700 年の時空を飛び越えて、少年たちが遊ぶパソコン・ゲームの中にまで諸葛孔明が登場しています。このことは、私も諸葛孔明を愛する一人として、孔明という一人の人物が放つ光芒が、今も眩しく輝いていることに感嘆の念しかありません。

そして 1700 年以上もの昔にそういう人物を生み出した中国で、それを万人に読み易いように後に記述した中国史家の気力と筆力には畏敬すら覚えます。それが当時残されていたからこそ、はるか後世の 20 世紀の日本で、吉川英治さんが『三国志』を著されたのですから。

孔明の名声が広まった江戸時代から近代に至るまで、日本でも多くの孔明の心酔者が生まれましたが、近代ではあの詩人の土井晩翠もそうでした。彼は「天地有情」という詩集の中で、諸葛孔明への鎮魂歌ともいうべき文語調の長編の詩を著しました。「星落秋風五丈原」がそれです。私も大学生の頃、それを繰り返し読みました。最初は次の詩から始まります。

祁山悲秋の風更けて 陣雲暗し 五丈原
零露の文は繁くして 草枯れ馬は肥ゆれども
蜀軍の旗光無く 鼓角の音も今しづか
丞相 病篤かりき

これは土井晩翠が書いた詩の中でも、特に思い入れが強い詩だと思います。何故なら大変な長さだからです。文語体で書かれたこの名調子の詩を、私も一時暗誦しようと努めましたが、全部はなかなか覚えられませんでした。しかし今でも、お気に入りの段落のいくつかは覚えています。特にその長い詩の、途中の詩と最後の部分が一番好きです。

嗚呼南陽の 旧草廬(きゅうそうろ)
二十餘年の いにしえの
夢はたいかに 安かりし、
光を包み 香をかくし
隴畝(ろうほ)に民と 交われば
王佐(おうさ)の才に 富める身も
たゞ一曲の 梁父吟(りょうほぎん)
閑雲(かんうん) 野鶴(やかく) 空濶(そらひろ)く
風に嘯(うそぶ)く 身はひとり、
月を湖上に 碎(くだ)きては
ゆくへ波間の 舟ひと葉、
ゆふべ暮鐘(ぼしょう)に 誘はれて
訪ふは山寺(さんじ)の 松の影

草廬にありて 龍と臥し
四海に出でて 龍と飛ぶ
千載の末 今も尚
名は芳しき 諸葛亮

歴史上の一人の人物に、かくも多くの量の詩を尽くして書いたというのは、いかに晩翠が諸葛孔明に傾倒していたかが想像出来ます。

そして近代になってから、ベトナムではホーチミンが歴史世界に登場します。ホーチミンという人は実に謎の多い、不思議な人物です。特にベトナムを1911年に出てから、1941年に帰国するまでの30年間が謎に包まれているので、<ホーチミン別人説>まで現れました。

しかし、それはどうでもいいことです。「ホーチミン」はやはり、「ホーチミン」でしょうから。しかし諸葛孔明からホーチミンに至るまでの間には、二人に並ぶような人物をすぐには思い出しませんが、いかにこの二人が稀有な存在かということでしょう。

私は数日前に、このベトナムでITの会社を立ち上げたKRさんと話していました。私が「ホーチミンは、ベトナムではみんなから本当に愛されていますねー。近代では珍しい政治家というべきでしょうが、ほかの国にはいますか。」と聞きました。彼は大学生時代に、インドのデリーに留学しました。彼は大変な博識であり、驚くべき人間通でもあります。

すると彼は、「ガンジーがそうですね。インドではいまだに神のごとく尊敬されていますよ。」と話されました。ということは民衆からも広く、深く愛された政治家というのは、三国志の時代に孔明が一人、そして近代ではホーチミンとガンジーの二人だけということでしょうか。

私は以前ある人の著作を読んでいて、ホーチミンという人物のたぐい稀な人格と素晴らしさ、政治家という以上に一人の人間としての愛情溢れる優しさ、そして何故今に至るまでこのベトナムでホーチミンが多くの民衆から敬愛され、慕われているのか、その理由の一端が分かったような気がしました。

私が読んだ、坪井善明さんの本『ヴェトナム【豊かさへ】への夜明け』に次のような場面が出て来ます。

『・・・何よりも、彼(ホーチミン)のまなざしは常に人びとの視線と同じ地平に置いて語られた。一例を挙げよう。一九四五年秋、「独立宣言」を発して「ヴェトナム民主共和国」が誕生し、初代の政府主席になった後で発表された最初の文章は、子どもたちに宛てたものだった。ホーチミン、五四歳の時の文章である。

わたしの可愛い子どもたち。今日は仲秋のお祭りです。・・・あなたたちは楽しく遊んでいます。そしてあなたたちのホーおじさんもいっしょに楽しんでいます。どうしてだかわかりますか。何よりもまず私は、あなたたちが大好きだからです。それから次に、去年の仲秋のお祭りときには、私たちの国はおさえつけられていて、あなたたちはまだ奴隷でした。しかし去年ヴェトナムは自由を取り戻し、あなたたちは独立した国の若い主人になったのです。

今日は好きなだけ遊びなさい。でも明日は、一生懸命勉強してください。あなたがたはアルファベットをみんな知っていますか。知らない人はおぼえてください。来年の仲秋のお祭りには、子どもとお年寄りがいっしょに楽しめる行事をすることにしましょう。・・・』

過去から現在に至るまでの日本の政治家で、このように自国の子どもたちに、ここでホーチミンが語ったような愛情を抱いて、優しく語りかけるような言葉を駆使して伝えようとした人たちが、果たして何人いたでしょうか。

そして今私たちが、ホーチミンが生きていた時の写真や映像を見ますと、教室で子どもたちに詩を朗読したり、屋外で子どもたちと一緒に手をつないで遊んでいたり、多くの子どもたちに囲まれて喜んでいるような光景の場面が非常に多いことに気付かされます。

兵士たちを激励している写真ももちろんありますが、平和が訪れた今のベトナムでは、孫のような子どもたちに囲まれて喜んでいる姿が“真のホーチミン”らしく、こころ打たれます。特にホーチミンは一生結婚することなくその生涯を終えられただけに、それを思うとしばらく写真から目が離せません。

それらの写真に写っている「ホーおじさん」は、おじいさんが自分の孫たちの成長を喜んでいるような嬉しそうな顔であり、優しい目付きなのです。それも演出しているような感じではなく、実に自然体で撮ったような印象を受けます。しかもそれらはすべて戦時下の時代のことなのです。

そしてホーチミンにも諸葛孔明と同じように、後世の人たちからの悪評が全然聞こえてこないという点でも共通しています。そこが、私が二人に同じ『匂い』を感じる所以です。

例えば同じ社会主義国のかつての指導者「スターリン、毛沢東、金日成」と言えば、その人物の評価は今や地面よりもはるか下の奈落に堕ちてしまいましたが、ベトナムではホーチミンの名声は、今でもまだまだ皓々と天空に輝いています。

今ベトナム全土で、小学生以上の年齢の子どもたちであれば、誰しもが次の「ホーおじさん」の歌をみんなと一緒に歌うことが出来ます。公立の小学校に進むと、先生たちが自然とこの歌を生徒たちに教えてゆきます。

そして私が今教えている研修生の中には、小学生の年齢どころか、何と三歳から(おそらくは幼稚園か、両親からでしょう)聴いたというものもいました。次の歌です。 Youtube のアドレスは以下の通りです。

http://www.youtube.com/watch?v=OIaJLZIfRbo&feature=related

【 Nhu co Bac Ho trong ngay vui dai thang 】
(大勝利の喜びの日に ホーおじさんが いるようだ)

♪ Nhu co Bac Ho trong ngay vui dai thang ♪
oi Bac nay da thanh chien thang huy hoang.
Ba muoi nam dau tranh gianh toan ven nong song.
Ba muoi nam dan chu cong hoa khang chien da thanh cong,
Viet Nam Ho Chi Minh . Viet Nam Ho Chi Minh.
Viet Nam Ho Chi Minh . Viet Nam Ho Chi Minh.

♪ 大勝利の喜びの日に ホーおじさんが いるようだ ♪

ホーおじさんが話した言葉のように 輝かしい戦勝を治めた
30年以上 ベトナム全土の山河で戦って来た
30年以上続いた 民主共和国の抗戦が いま成功したのだ
ベトナム ホーチミン ベトナム ホーチミン
ベトナム ホーチミン ベトナム ホーチミン

これはホーチミンが夢見た祖国の統一を、ホーチミンの死後それを達成し、その日を迎えた人たちが、(今この日にホーおじさんが生きていてくれたら、どんなに喜んでくれただろうか・・・。)と、遂に祖国統一の日を見ることなく果てた、ホーチミン主席を涙とともに偲んだ歌なのです。

そして今この歌を知らないベトナムの小学生、中学生、高校生、大学生はいません。何かの会合があって、誰か一人が歌いだすと、そこに参加している全員のベトナム人が歌い始めます。いわば国歌以上に、「国民歌」ともいうべき歌といえるでしょうか。

さらには、ベトナム全土の公立の学校では、教室の中の生徒たちから見える黒板の上の位置に、額にいれられた「ホーおじさん」の写真が必ず掛かっています。学校に行けば毎日今でも「ホーおじさん」に会い、そして時にまた「ホーおじさん」の歌を唄うのです。

もっとも南の側で戦っていた年配の人たちは、あまりすすんで歌おうとはしないようです。しかしその彼らも、ホーチミンという人物の偉大さは認めているようで、私自身もこのサイゴンでまだホーチミンのことを悪く言う人に出会ったことはありません。

私は以前訪れた、ハノイの「ホーチミン廟」に横たわっている「ホーおじさん」を思い返しています。私は一度だけ「ホーおじさん」に会いましたが、あそこはじっと立ち止まってゆっくり「ホーおじさん」に会うことが許されない雰囲気の場所であり、中にいる守衛が観光客を足早に歩かせるように急がせていました。私がその瞬間に見た「ホーおじさん」の顔は、まるで生きているかのごとくのような表情でした。

しかし社会主義の国というのは国を引き締めるためなのか、人が亡くなった後もその遺体を神のごとく祀り上げて、それを国民に見物させるようにしている国がまだいくつかあります。ベトナム人自身はそのことについてどう考えているのか聞きたいのですが、微妙な問題なのでまだ聞けずじまいです。でも、私自身は今ハノイの廟に横たわっている「ホーおじさん」は果たして、それを望んでいるだろうか・・・と考えます。

「ホーおじさん」は生涯遂に結婚することなく、祖国の統一前に一生を終えられたわけですが、それだけに両親や家族の人たちがいま眠っている故郷のゲ アン省に早く帰してあげて、体もこころもふるさとの地で安らかな、深い眠りにつかせて欲しいものだと私は思うのです。

そしてそれは今の日本人以上に祖先を敬い、家族を大切に思う、ベトナムの人たちの<ふつうの気持ち>ではないのでしょうか。

ベトナムBAOニュース

「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。
「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。

■ W杯・・・日本人の無念。しかしアジアの人たちも残念だ! ■

日本人はもともと、サッカーをスポーツの王様とは見なしていないが、今回自国が開催国ではないけれど、World CupでBEST8入りするチャンスがめぐって来たということで、ホーチミン市に住む日本人たちはみんなで誘い合ってテレビのあるレストランに行き、選手たちに声援を送った。

(日本人が多く住む場所として有名な)レ タン トン通りにあるいろんな日本料理店では、いたる所に日本人のグループが集まっていた。中でも一番多かったのは、Caravelleホテル横のレストラン・Lionで、ここには百人ほどの日本人が集まっていた。

同じくレ タン トン通りにあるThien Ha(ティエン ハー)ホテルの中のレストランでテレビ観戦していたKoseiさんは、「日本からの報道によると、日本国民の半分くらいが今日はテレビの前に座って、Paraguayとの試合を見るだろうと言っています。2002年には自国で開催されたのにもかかわらず、日本のチームは準々決勝にも入らなかったが、今回2010年のWorld Cupでは他国で開催したのに、ここまで勝ち進んで来たその意義は大変大きいのです。」と話してくれた。

そこに集まって観戦していた日本の人たちに、私(記者)が質問した。「みなさんは、日本のチームが準々決勝に入る可能性があると思いますか。それとも2002年のWorld Cupと同じような結果になるだろうと考えますか。」と。するとそこにいたToshiさんは自信を持った表情で笑いながら“当然勝ちますよ。”と。「その理由は?」と質問すると、“僕は日本人なんだから!”と答えました。

また別のグループにいたMidoriさんはサッカーについては何も知らないというが、同郷の人々と一緒にここに来て、ワクワクしながら期待して、幸せな瞬間がやって来るのを待っていたのだった。「ベトナム人の同僚は本当に可愛いいんですよ。『今日は特別な日なんだから、早く帰って日本のチームの試合を応援して上げて下さい。』と言ってせかしてくれたんです。みんなが『今日神様は、きっと日本のチームを勝たせてくれるわよ!』と言ってくれたんですよ。」

「私たちは一つ屋根の下に住む家族のようなものなので、彼らもその日の私の気持ちが分かってくれたのでしょう。あのベトナム戦争当時も、ベトナム人が外国の侵略に勝利すれば私たちも喜んだのと同じように、この日に日本のチームが勝てば、ベトナムの人たちももきっと喜んでくれることでしょう。なぜなら、私たちは同じアジアの中で一つの家族のようなものだから」。

Lionレストランで観戦していたTakadaさんはサッカーに関して大変精通している様子で、120分の試合が引き分けで終わった時、「次のPK戦でもしも負けたとしたらもちろん悲しいけれど、今こころから嬉しいのは、南米のチームよりも今回の日本のチームのほうが落ち着いていて、冷静だし、技術もしっかりしているということです。」と話してくれた。もし十年前にそんなことを言ったら、サッカーの専門家からは(何をトボケタことを言うか。)と笑われたことだろう。

しかし120分の戦いを終えてPK戦となり、あと少しで試合が終わるだろうと誰しもが思った頃、日本のチームがゴール前に歩み寄って行った時、Takadaさんは喉が痛くなるくらい大声を出して叫んで、声援を送った。

そしてKomano選手が蹴ったボールがポールの上に当たって失敗した時、誰もが言葉を失い、一瞬の沈黙が流れた。南アフリカのスタジアム全体に日本人の涙がこぼれ落ちた。そしてこのベトナムにいる日本人たちも同じように涙を流したのだった。日本でテレビの前に座ってこの試合を観ていた6千万人の日本人も、遠い日本で涙を流したことだろう。

今回の日本のチームに、幸運の女神が微笑んでくれなかったことをこころから惜しむ。そして私たちベトナムの人たちもまた、今回の日本の敗戦を日本の人たちとおなじように惜しんでいるのだ。

◆ 解説 ◆
この日の日本ーパラグアイ戦の試合が始まった時間ころは、私は近所のいつものローカルの屋台でご飯を食べていました。そこにもテレビが置いてあり、こちらの時間で夜9時から、日本―パラグアイの試合を放送していました。そしてこの試合を観ようとして集まった多くのベトナムの人たちが店の中で食べながら、ビールを飲みながら、テレビに映るこの試合に夢中になって「オオォ―ッ!」と叫んでいました。

ベトナムでは、サッカーが「スポーツの王様」です。ASEANで行われるサッカーの試合でも、自分の国が一勝しただけで、ベトナム全土で若者たちやいい年をしたおじさんたちが、バイクに跨って、竹ざおに結んだベトナムの国旗をバイクの上から振り回し、ラッパを大音響で鳴らし、街中に繰り出して行きます。みんなと喜びを共有したいがためでしょう。サッカーに関心のない人たちや、外国人にはいい迷惑ですが・・・。

これが準決勝や決勝などにまで勝ち進んだら、狂喜乱舞の状態になり、もうお手上げです。その試合の終了が帰宅時間ころにぶつかったら、まず家にはしばらく帰ることが出来ません。道路という道路は、喜びを爆発させたバイクの群れが街中に繰り出して、身動きが取れないくらいの交通渋滞になります。当然交通事故も起きます。

今までもちろんベトナムはWorld Cupには出ていませんが、彼らがテレビでWorld Cupの試合を見ている時の興奮の仕方は、どの国が一点をゴールに入れても、ものすごい声援を送ります。(自分の国の試合でもないのに、何でそんなに夢中になるの・・・?)と不思議でしたが、いろいろベトナムの人たちに聞きますと、もともとのサッカー好きに加えて、「サッカーで賭けをしている人たちがいるから。」という声も聞きました。

私自身はふだんサッカーやプロ野球には全然関心がないのですが、この日ベトナムの人たちがテレビを観ている横から一緒にビールを飲みながら観ていますと、一時間ほど過ぎた頃から選手たちがサッカーコートを必死に走り、球を追い、蹴り、防ぎ、そしてジャンプしているひたむきな姿を見ているうちに、体の中からジ~ンとした波が打ち寄せて来ました。それは何かちょうど、すばらしい映画を観た時に味わうのと同じような感じでした。

そして引き分けで一旦試合が終わってみんなが帰りだしましたので、私もそこを出ようとすると、店のおやじさんが「この後、日本が勝てばいいねー。」と言ってくれました。「ありがとう。」と答えて、しばらくして家で眠い目をこすりながら、また続けて観ていました。

そして最後に、あの駒野選手がボールをはずした場面を観ました。涙を流す駒野選手を他の選手たちが慰めている場面も含めて、「深夜名画劇場」を観たような感じで、この日は心地よい眠りにつくことが出来ました。

このベトナムの新聞に掲載された記事は、あの日の「深夜名画劇場」ともいうべき日本ーパラグアイ戦を、ベトナムに住んでいる日本の人たちや、ベトナムの人たちがどう見ていたのか、感じたのかを、サッカーに関心のある日本の人たちにも知って頂きたく、ここに載せました。

Posted by aozaiVN