【2011年6月】終業式と卒業式/一番心配なのは、いつもお酒を飲んでいること

春さんのひとりごと

<終業式と卒業式>

小学三年生を終えた我が娘の終業式と、Saint Vinh Son(セイント ビン ソン)小学校の卒業式に参加してきました。娘の終業式には二年生までは女房が出てくれていましたが、今年は私も一緒に参加しました。

娘の終業式は、5月27日(金)にありました。私の娘は、いまホーチミン市の三区にある、公立のL小学校に通っています。一年生までは、インターナショナルの小学校に通っていましたが、将来ベトナムでの大学進学を考えた時と、上の学年に進学するにつれて高くなる学費の問題があり、二年生からは公立小学校に替わりました。

この日は7時半過ぎに小学校にバイクで着き、女房と娘と私の3人でバイクごと校舎内に入りました。バイクは校舎内にある駐車場に預けて校内に入りましたが、もうほとんどの生徒たちが先に着いていました。

生徒さんたちは口の字形にタテ・ヨコに建てられた校舎内の敷地の空間部分に集合し、ベトナムの路上でよく見かけるプラスチックの低い椅子に座って、ワイワイ・ガヤガヤと賑やかに話していました。

ちなみにベトナムでは、街中の学校の建て方はほぼ共通してこういう口の字形の建て方の学校が多いですね。隣の建物や道路の境界ギリギリまで校舎を建てて、その中央部分の空いた空間を校庭として活用するというやり方です。

校舎とは別個に、独立した、広い敷地のある校庭を有している学校は、郊外にはありますが市内ではあまり見たことはありません。そしてその校庭も、ふだんはバイクの駐車場になっていることが多いのです。

私たちが中に入りますと、職員の方が来て「あなた方の生徒さんのクラスは、あそこにすでに着席していますので、自分のクラスのほうに行かせて下さい。保護者の方は二階席のテラスに椅子を置いていますので、そこからご覧下さい。」と、その時到着した生徒や親たちに呼びかけていました。この時はもう9割がたの生徒たちは来ていたような様子でしたので、「7時頃に集合」と学校側は伝えていたのではと思いました。でも、遅れて来ても全然厳しくは言われませんでした。

しかし、「今日は終業式」と聞いていたので、私は娘のクラスの中で「通知表」みたいなものをただ配って終わりなのかな・・・?と想像していましたが、違いました。日本で私たちが経験したような終業式とは、ベトナムでは少し違っていました。

確かに日本でいう「通知表」のようなものは、ベトナムにもありました。しかしそれは事前に、終業式の数日前には娘が持ち帰って来ていました。それを覗いて見ましたが、「大変優秀・優・良・普通・・・」というふうに五段階評価がしてありました。娘の通知表を見ましたら、クラスの中では上位にはありましたので、私も「良く頑張ったね!」と誉めてあげました。

今ベトナムの学校で、生徒たちがもらって帰る通知表の五段階評価について詳しく言えば、次のようになります。上から【Xuat Sac(スオット サック:大変優秀)、Gioi(ヨーイ:優秀)、Kha(カー:良い)、Trung Binh(チュン ビン:普通)、Yeu(ユー:弱い)という具合です。【Xuat Sac】は、日本語で「出色」という漢字になります。一学年全体から3~4人だけ選ばれるほどの優秀な生徒のことです。

さらに、【Yeu】の生徒は二種類に分けられているそうです。<成績面><素行面>で【Yeu】の二つです。<成績面>で【Yeu】の評価を学校からもらった生徒たちには、終業式後の夏休みの中で再試験があり、それに合格できたら進級できて、不合格であれば<落第>になります。<素行面>で【Yeu】の評価を下された生徒たちには再試験もなく、学校に行くこと自体の許可が下りません。

さてこの日の「終業式」では、校舎内の敷地が全部埋まるほどの生徒たちがクラスごとに固まって座っていました。私は、全学年を集めての「終業式」がこの日に行われているのだろうと想像しました。しかし生徒たちの顔をよくよく見ていますと、どうも年齢差があまりありません。それで女房に聞きました。すると女房は、「今日ここには、二年生と三年生だけの生徒たちが集まっているのよ。」と答えました。

それを聞いた私は大変驚きました。たった二学年の生徒たちだけで校庭の敷地内が満杯だったからです。一体一学年に何人いるのかが分らなくなりました。それでそれを女房に聞きました。すると、「小学三年生は一クラスに50名いて、全部で十クラスある。」というではありませんか。

「ええーっ、一クラスに50人もいるの!」と私も驚きました。確かに私の娘のカバンには、<Lop3-10>と書いてありました。3年10組ということです。しかもそれが十クラスもあるということは、ここの学校では小学三年生が五百人もいるということです。

つまり今日この日に校庭に集まって来ていたのは、小学二年生と三年生たちだけだということでした。小学二年生も同じように一クラス50名で、全部で十クラスあるということでしたので、この日は二学年合わせて一千名近くの生徒たちが校庭にいたということです。であれば、当然全学年を集めるのは、敷地の狭さからいっても無理でしょう。

しかし一クラスが50人というのは、やはりすごい多さですね。それで翌日私は年配のベトナム人の同僚にそのことを話しました。するとベトナム人である彼自身が、「ええ~っ、一クラスが50人ですか!それは多すぎますねー。普通の公立小学校では多くても一クラスは40人以下ですよ。」と答えたのでした。

さらに、「あなたの娘さんが通う三区のL小学校はサイゴンでも評判が良いほうの学校なので、おそらく別の小学校から転校して来る生徒たちが多いのだと思いますよ。たとえば、インターナショナル・スクールからとか。」と答えたのでした。

それを聞いた私は、(そう言えば、以前それに触れた記事があったな・・・)と、以前ベトナムの新聞の翻訳紹介で読んだ記事をおぼろげながら思い出しました。その場では確かめようが無かったので、その記事の検証が出来ませんでしたが、後で調べましたらやはりありました。次に紹介する内容がそれです。

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◆ 質劣るインター、公立校へ転校増加 ◆

ホーチミン市には現在、幼稚園から高校まで、インターナショナルスクールと名乗る学校が50校ほどある。多くの学校で、設立認可を得た後に大々的に宣伝し、少なくない保護者が、国際水準の教育を受けられると思って入学手続きをする。しかしながら通学させて間もなく、多くの保護者が公立校に転校させることを考えるようになる。

「あっちこっちの公立校を回ったがどこも断られた。知人に頼んでようやく3区の学校に入ることができた」そう話すのは1区に住むHさん。以前Hさんの子どもは1年生から2年生を終えるまで、Iインターナショナルスクールに通っていた。そこでは朝はベトナムのカリキュラムを学び、午後は英語を学んでいた。

しかしHさんによると、2年生になっても子どもは、英語をいくらも学べず、学校で得られたことといえば、やさしいカリキュラムで課外授業も宿題もないといったことだけだった。夏の補習授業に子どもを通わせたところ、我が子の文字の書き順がおかしく、算数もできないことに気づいた。

彼女はお金のことよりも、子どもの知識が大きく足りないことに愕然とした。あわてて公立校に転校させようとしたが、どこの学校もインターナショナルスクールの生徒と聞くだけで、首を横に振るばかり。

ツテを頼ってようやく公立校に転校させることはできたものの、英語の強化クラスには入れてもらえなかった。理由は、インターナショナルスクールと使っている教科書が違うからというものであった。

また公立のゴー トイ ニエム高校では今学年度、Cインターナショナルスクールからの転校という生徒の願書を受け取ったが、高校1年生からの成績表を見た上で、受け入れないことを決めた。

この生徒は高校1年生の時には公立校で学び、成績はほとんどが平均以下だったものの、高校2年生になり通ったインターナショナルスクールでは、全て良い成績になっていた。この成績の急伸に学校は不信感を抱いたのである。実際にはこの生徒の保護者も、子どもの成績に疑問があったため、転校することにしていた。

各区の公立校の一部学校長によると今年は、「質が広告と違う」といった理由で、インターナショナルスクールからの転校をする学生が相次いでいる。

(ベトナムガイド .com)

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私の娘の場合は、上記のような問題点からではなく、将来娘の大学受験のことを考えた場合に、もし海外の大学に留学する場合はインターでも構わないのですが、ベトナム国内で大学に進学しようと思う時には大学受験には対応出来ないのでは・・・という不安と、学費の高さの理由から、公立小学校に転校したのでした。

しかし上の記事を再度読み直しますと、さまざまな理由でインターから公立小に転校していた生徒さんたちがいるのだな、と再認識させられました。そして、おそらくHさんの子どもさんが転校した3区の学校とは、私の娘が今通っているL小学校とたぶん同じではなかろうか・・・、と想像しています。

それにしても、やはりサイゴンという都会の小学校では、まだまだ子どもたちの数が多いですね。先日日本の宮城県から来られた62歳の日本語教師の方と話しをしていましたら、その方が小学生の時には、一学年には54名の同級生がいたそうです。50年前の日本では、田舎でもそのように多くの子どもたちが一つの学年にいたのですね。

私の小学生の時も、同じ学年に40数名くらいはいた記憶があります。しかしその方が言われるには、今の宮城県の田舎では一学年が十名前後だそうです。今私の田舎でもやはり、一学年十名以下の学年が現れ始めて、数年のうちに『複式学級』に移行するのではと、地元の友人たちは話していました。

みんなが集合した校庭の奥には高い舞台が設営されていて(これはいつもそうです)、そこで2年と3年のクラスの代表者たちが歌や踊りを披露していました。この日の終業式では、司会進行の男性が式を執り行っていました。しかしその男性が話している間も、生徒たちのお喋りは止みません。ペチャクチャ・ペチャクチャと隣同士で喋っています。先生たちもそれに対して、「静かに聞きなさい!」とは注意しません。

そして2年生と3年生の生徒たちの中で、成績がGioi(優秀)な生徒たちが壇上に立ち、クラスの担当の先生から一人・一人に賞状と、五冊のノートをプレゼントされていました。担任の先生方は女性の先生たちが多く、みんなそれぞれ色とりどりの<アオザイ>を着ておられました。しかし一学年が十クラスもありますから、表彰状作成やノートの準備など、先生たちはさぞ大変だったろうと思います。

そしてそろそろ校庭での儀式も終わろうとする頃、(最後に、校長先生からの話はないのかな?)と女房に聞きますと、「ないわ。朝の終業式の開始時に、校長先生が話されたはずよ。この後は生徒たちが自分たちの教室に入って、そこで先生から夏休みの過ごし方と緒注意を受けて解散になるでしょう。」と答えたのでした。つまり、私たちが学校に着いた時には、校長先生の話はすでに終わっていたのでした。

壇上にはクラス全員が最後に上がり、そこで記念撮影をして、そのまま自分たちのクラスにそれぞれ戻って行きました。女房と私もそのクラスまで付いて行きました。この時初めて、私は娘が勉強している教室を覗くことが出来ました。普段は、バイクで送り届けて、そこで「さようなら」をしていますので、校内まで入ることはありませんでした。

しかし50人の生徒が学ぶ教室にしては、大変狭いなと思いました。おそらく、最初は35人から40人くらいの人数を予想して設計されたのだろうなと思いました。みんなが着席してから、外から事務員さんたちが、生徒たちに菓子パンと、フライドチキンと、コーラを持ち込んで、生徒さんたちに配り始めました。それを食べながら、飲みながら、隣同士で喋りながら、生徒たちは先生の話を聞いています。

私たちは教室の外の廊下からそれを見ていました。廊下には生徒たちの今年一年間の様々な活動や記録が、写真や文章にして掲示してありました。その中に私の目を惹いたものが二つありました。その一つは、日本の『東日本大震災』で津波の被害を受けた写真と、それに対してこの小学校で行った募金活動の写真です。

今回の日本の大震災では、ベトナム全土の学校や会社や公共団体から、また個人・個人からも募金を頂きました。私は震災後、ベトナムの新聞を読んでいまして、大学・高校・中学・小学校などからの寄付者の団体名や個人の名前が、日々掲載されているのを見ました。そして今日この日、廊下に貼り出されている写真を見て、(ああ~、娘が通うこの学校でも同じような活動をされていたのだな・・・)と分りました。

私の知人である、「Dong Du日本語学校」で日本語を教えておられるI先生は、先日次のような話を私にして頂きました。I先生の学校では自然発生的に『東日本大震災』の募金活動が始まりました。I先生が教えている、ある一人の女子生徒が「先生、これを日本の被災者の人たちに送って下さい。」と言って、何と80万ドン(約3,200円)をI先生に差し出したそうです。

工員さんの給与でも、一ヶ月2百万ドン(8千円)あるか、ないかというこのベトナムにおいて、日本語学校に通う学生さんがそのような金額を寄付してくれるというのは、大変思い切った厚意だというのは、ベトナム生活事情に詳しいI先生には良く分りました。

それで「いいよ、いいよ。あなたはまだ学生で大変なんだから、そんなにたくさん寄付して頂かなくても・・・。」と返そうとしたら、「いいんです。日本の人たちのために差し上げるのですから。」と、手でさえぎって受け取らなかったと言うことです。I先生は、踵を反して去って行くその女子生徒の背中を見ながら、(ジ~ン)としたそうです。その話を静かに聞いていた私も、思わず(ジ~ン)と感動して来ました。

そして今震災後約三ヶ月が経過しましたが、実はこの六月になっても、東日本大震災の被災者への方々へのベトナムの人たちからの寄付は、このベトナムではまだ已むことなく、ずっと続いているのです。日々の新聞で私は、今も寄付されている団体や、個人の名前を見ています。

今回の大震災は遠い異国で起きた災難でもあり、こういうことは時間の経過とともに薄らいでゆくのでしょうが、ベトナムの人たちのこころの中で<日本の人たちへの支援の気持ちと絆>は、まだ薄らいでいません。

そして二つ目は、ベトナムの生徒たちがノートに書いている「ベトナム語の美文字」でした。廊下に貼り出されていたのは、小学三年生の中でもベトナム語の文字を、特に見事に、美しく書いていたノートの写真が掲示されていました。我が娘も(まあまあ美しいベトナム語を書くほうかな。)と常々見ていましたが、ここに貼り出されていたのは、それは見事なベトナム語のアルファベットの文字でした。まだ8歳くらいの生徒が書いた文字だとは、とうてい信じられない見事な美しさでした。

「ベトナムの人たちは手先が器用」とはよく聞く話ですが、それは幼少期からのこのように文字を丁寧に、美しく書く訓練も大いに関係しているのかな、と思いました。昔中国から来た漢字を使用していた時代の影響が、アルファベットに代わっても続いているような気がします。街中の雑貨屋さんなどでは、墨を使ってベトナム語のアルファベットで書いた詩が、掛け軸などにして壁にかけてあります。

今私が教えている研修生たちでも、十人いたら八人は丁寧な、美しい文字で書いていますね。「文字をていねいに、美しく書くこと」が、ベトナムの生徒さんたちの共通したベトナムの文化の価値観にあるとすれば、私はそういう伝統は大変素晴らしいことではないか、と思います。

さてアオザイに身を包んだ、細身の女性の先生から様々な注意を受けて、明日から始まる長い夏休み(8月の中旬まで続きます)のことが思い浮かぶのか、生徒たちはみんな嬉嬉として喜んでいます。そして最後に、クラスの中に常時置いてある<私物>を持ち帰る準備を始めました。

その<私物>とは、昼寝用の枕でした。みんなが一人ずつ、昼食後昼寝をするために、自分専用の枕を家から学校に持参して来ていました。それを今日家に持って帰ります。可愛い犬や、子豚の形をした枕をみんな大事そうに抱えています。

そしてみんな一斉に立ち上がって、先生にお別れと感謝の挨拶をして、今日のL小学校の「終業式」は終わりました。この時朝9時半を過ぎていました。約二時間の終業式でした。この日の夜は、娘の大好物の「ハマグリの蒸し鍋」を食べに行きました。

この日は、二年生と三年生の終業式でしたが、翌日は四年生の「終業式」と五年生の「卒業式」が同時に行われるということでした。本来は、一年生から五年生までを一同に集めて同日にやりたいのでしょうが、このL小学校では校庭が狭いのでそれが出来ず、別の日に分けて五年生の「卒業式」を行ったということです。

そして翌週の5月30日の月曜日に、全学年一斉(小学一年生~四年生)の終業式と、小学五年生の卒業式に参加することが出来ました。その小学校とは、Saint Vinh Son(セイント ビン ソン)小学校です。

私がたまたまOanh先生の家を訪ねた時、数日後にSaint Vinh Son小学校の終業式と卒業式を控えていました。その終業式と卒業式のことについて、Oanh先生は次のように話されました。

「今まではSaint Vinh Son小学校の中だけで、Saint Vinh Son小学校の生徒たちだけで行っていました。この学校は、Le Van Tam(レー バン タム)小学校の分校なのですが、授業もそのような行事でもいつも別々なのでした。

しかし今年Le Van Tam小学校の校長先生が 、 Saint Vinh Son の生徒たちの成績の良さにいたく感動して、そのように特別な計らいをされました。それで今年の終業式と卒業式は何と、ベトナムの公立のLe Van Tam小学校に招待されて、そこの生徒さんたちと一緒に終業式を祝って頂けるようになりました。」と。

それを話されている時のOanh先生は、実に嬉しそうでした。そしてさらに続けてこう言われました。「そうだ、あなたも是非30日の日には、Le Van Tam小学校に来て下さいませんか。」と、私までも誘って頂いたのでした。「私のほかに、誰か外国人がその日に来ますか。」と聞きますと、「誰もいません。」との答えです。

(生徒さんたちの保護者でもないのに、一外国人がそのようなベトナムの公立小学校の「終業式」「卒業式」に参加しても良いのだろうか・・・?)と一瞬思いましたが、Oanh先生は、「私から向こうの校長先生には連絡をしておきますから、大丈夫ですよ。」と話されたのでした。(そこまで言われるのなら・・・)と思い、有り難くその厚意を受けることにしました。

そして当日は、朝の6時半にSaint Vinh Son小学校前に集合ということになりました。バイクで学校近くに到着しますと、小学校の前は道路の半分が『路上の朝市』でごった返していました。バイクで学校に近付くのも容易ではありません。魚や肉や野菜や果物や、いろんな種類の物を売っていました。まあ、しかしこれはいつものことです。      

私が教室に入りますと、みんなは朝食のパンを食べながら待っていましたが、全員がスクッと立ち上がって「先生!おはようございます。」と挨拶してくれました。ここからLe Van Tam小学校までは約一kmくらいしか離れていません。

私のバイクに道案内役の生徒を前に乗せ、年配の女性の先生が後ろに座り、三人乗りでLe Van Tam小学校までバイクで行きました。そこに着いた時は、ちょうど7時でした。そしてここでも、私の娘の時と同じように全員の生徒たちが校庭に集まり、低い椅子に座って、もうすぐ始まる式を待っていました。ここにも、L小学校の時と同じように、前に赤い布を広げた舞台が設営されていました。

ただL小学校の時と違うのは、この日のこの時間に、終業式を迎える小学一年生から小学四年生までと、卒業式を迎える小学五年生が一同に集まっていたことでした。司会の人が話していたのをじーっと聞いていましたら、Saint Vinh Son小学校の生徒さんたちも含めて、全部で約三百人弱くらいでした。

しかし良く考えて見ますと、娘の学校とこのLe Van Tam小学校は同じ公立の小学校でありながら、「終業式」「卒業式」の日が違います。そのことを後でベトナム人の同僚の先生に聞きましたら、「いつその式をやるかは各学校に任されています。学校の都合の良い日を選んでやればいいことになっています。ただ5月の末までにやることというふうに決められてはいます。」とのことでした。

つまりその学校の運営上、Le Van Tam小学校のように全学年を同日の同じ時間帯で集めることが出来れば一回転で行い、私の娘が通うL小学校のように、全学年を一回転で校庭内に集合させるのが難しい場合、別の日に分けて行っているように、その判断は各学校の自由に任されているということでした。日本のように、天候にも左右されない広い体育館のような設備を持たない学校であれば、それも致し方ありません。

このように「終業式」や「卒業式」の日にちなども全国一律ではなく、各学校の判断に任せるというのがベトナムの教育省の通達のようです。しかし、長い夏休みが終わって、「いつから学校にまた通うのかは、一応統一されています。」と、同僚の先生は言いました。今年は「8月15日(月)が登校日」になっていて、これで夏休みは一応終わり、生徒たちはこの日から学校に通い始めます。そして、正式には「9月5日(月)が新学年のスタート」だそうです。

新学年のスタートまでのこの二週間の期間で何をするのかと言いますと、新しいクラス編成の発表であり、それに応じて先生も生徒たちも代わりますから、新しい学期が始まるまでに慣れてもらおうという学校側の配慮があるのです。さらにまた、今までの制服が小さくなった生徒には、新しい制服合わせの準備もあります。ですから新学期のような変わり目には、いろいろ購入するものも増えるので、学校に払う費用は普通の月よりも少し高くなります。

そして実は授業料もまた、その費用の徴収をいくらにするかは、各学校に任されているということも聞きました。公立小学校では、国のほうでは最低生徒一人から四万ドン(約160円)を頂くようになっているそうで、それに各学校が水道・光熱費や施設維持費や人件費を加算して学費を決めてゆくというやり方です。

ちなみに私の娘が小学校一年生の時、一区のインターに通っていた時に払っていた費用は、給食費も入れて一ヶ月に三百万ドン(約一万二千円)でした。あのまま二年生まで通っていたとしたら、四百万ドン(約1万六千円)を払わなければいけなかったと、女房は言います。そして三年生では五百万ドン(約二万円)と、単純に言えば大体一学年で百万ドン(約四千円)ずつ増えてゆくのでした。

それが公立小学校に転校した時は、三年生の初期には給食費も入れて五十万ドン(約二千円)でした。三年生を終える頃には、少し値上がりして六十万ドン(約二千四百円)でしたが、インターと比較したら大変な違いです。そしてこれが給食が出ない学校(午前だけとか午後だけ授業を受ける場合)の場合は、十万ドン(四百円)をちょっと超えるくらいだと言いますから、インターと公立の学費の開きは歴然としています。

さて私たちがこの小学校に着いて最初に、Oanh先生はここの小学校の男性の校長先生のところまで連れて行ってくれて、私を紹介して頂きました。私は「今日のこの日の大事な式に、外国人である私をこころよく招待して頂き、本当に有難うございます。」と、お礼を述べました。

そして舞台に近いほうに、先生や来賓の人たちが座るためのテーブルや椅子があり、Oanh先生は私にその席のほうを指差して、「あそこにあなたのために席がありますので、どうぞお座り下さい。」と勧められました。私も(舞台に近いほうが生徒たちも良く見えるし、全体も見やすいのでいいな。)と思い、遠慮なくそこに座らせて頂きました。しかし確かに、この日は私以外に外国人の姿は一人もいませんでした。

ここでも同じように、最初に生徒さんたちの歌や踊りがありました。Saint Vinh Son小学校の生徒たちも舞台に上がって歌いました。面白かったのは、Le Van Tam小学校の一人の男子生徒が演じた芸でした。聞けば、四年生だということでした。彼は見事な芸や手品を見せてくれたのでした。

最初にカバンの中から、ナイフとステンレスの皿を取り出しました。その生徒はナイフを口にくわえて、くるくる回した皿をそのナイフの切っ先に乗せてそのままずっと回転させました。下には皿は落ちません。回転したままです。

次に財布の中から 5万ドン札を取り出して、ボールペンを手に持ち、お札の真ん中当たりを「エイヤッ!」と突き刺しました。当然お札の裏にボールペンは突き抜けています。そのお札の裏と表をみんなに見せます。

みんなに (確かにお札には穴が空いているはずだ)と確認させて、ボールペンを引き抜き、そのお札をクシャクシャにて、手の中で丸めた後、ゆっくり・ゆっくり広げますと、あら不思議。穴の空いていない、元の5万ドン札が現れました。みんな盛大な拍手をしていました。

さらに小さな黒板に、チョークで「 7+8= 」と書きました。それを前に着席している先生たちに確認させて、その上から別の板をかぶせてフタをしました。そして二・三回その黒板を上下に揺すりました。それから元の黒板を少しずつ開くと、「7+8=15」というふうに、黒板には最初書いてなかった答えが現れました。まだいくつかこのほかにも芸を披露してくれましたが、子どもながら実に上手かったですね。

それらの演舞がひととおり終わると、 L小学校の時と同じように小学一年生から四年生までの各学年ごとに、良く頑張った生徒たちへの表彰状とノートのプレゼントがありました。最初にLe Van Tam小学校の生徒さんたちの中で、成績優秀な生徒たちへの表彰がありました。それが終わると次に、Saint Vinh Son小学校の生徒さんたちへの表彰です。

いよいよ表彰状とノートを渡す時になった頃、 Oanh先生が私のほうに近づき、「Saint Vinh Son小学校の生徒たちの終業式で渡す表彰式の時には、是非あなたが表彰状とノートを生徒たちに渡していただけますか。」と、事前に依頼がありました。私は最初少しためらいました。

良く考えますと、直接校長である Oanh先生が渡すほうが本来なのでしょう。しかし、今日この日の式に招いた私のことに配慮してくれて、その役目をわざわざ私に譲られたのでしょう。私もOanh先生のその気持ちが良く分り、「はい、喜んでやらせて頂きます。」と返事しました。顔なじみの生徒たちが多いので、私もまた感慨ひとしおでした。

しかしSaint Vinh Son小学校の生徒さんたちが舞台に上がると、 Oanh先生の顔はまるで我が子が舞台に上がった時のように、ハラハラした表情であったり、嬉しさでニコニコした顔であったり、一通りの式が全部終わるとホッとした顔付きをされたり、まさしくOanh先生の夫であるFさんが私に常々言われているような、

<Saint Vinh Son小学校の生徒たちが、私たちの子どもなのです>

という言葉のままの、『お母さんの顔』をされているように私には映りました。

次にいよいよ、五年生を卒業するLe Van Tam小学校の生徒たちと、Saint Vinh Son小学校の生徒たちの「卒業式」です。最初に在校生を代表して、四年生の女子生徒からお別れの言葉が述べられました。

そしてLe Van Tam小学校の五年生の生徒たちの「卒業式」から始まりました。アメリカの大学の卒業式で良く見るような、頭に四角い帽子を被り、服は長い裾と袖が特徴的な<卒業式の服>を着て、舞台に上がりました。生徒たち一人・一人に、校長先生が卒業証書とノートを手渡してゆきます。

最後に、Saint Vinh Son小学校の生徒さんたちの「卒業式」の番になりました。Le Van Tam小学校の卒業生たちが、自分たちが来ていた服と帽子を手早く脱いで、Saint Vinh Son小学校の生徒たちに服を着せて上げたり、帽子を被せてあげたりしていました。そして彼ら一人・一人にも、Le Van Tam小学校の校長先生から卒業証書とノートが渡されました。今年のSaint Vinh Son小学校の卒業生は、17人いました。

今年のSaint Vinh Son小学校の卒業生たちは、Le Van Tam小学校の生徒たちとこのように合同で卒業式を行うことが出来て、さぞ感慨深いものがあったことだろうと思います。一人・一人が明るい表情と、しっかりした表情をして、校長先生と握手を交わしていました。そしてこの時全員が、次の中学校に向けての、さらなる目標を全員が持っていたことだろうと想像しています。

何故なら、今年もまたこの17人の卒業生全員の中学進学の奨学金を、日本で有名な家具屋さんが、昨年に続いてまた支援して頂けたからでした。そのことを、この日に私は初めてOanh先生から聞きました。

次の中学への進学が確実なものとして今日のこの卒業式を迎えるのと、中学に行けるかどうか分らない不安な状態で迎えるのとでは、子どもたちのこころの中で喜びと哀しみの差はどれほど深く、大きいことでしょう。

毎年当たり前のように、Saint Vinh Son小学校の卒業生たちに中学進学の支援の手を差し伸べて頂いている、そのような熱きこころざしを持ったその日本の家具屋さんには、FさんもOanh先生も、深い感謝の念を抱かれていました。

そして十時を過ぎた頃に、今日のLe Van Tam小学校とSaint Vinh Son小学校の「終業式」と「卒業式」は無事終わりました。終わりの頃には、門の外に迎えに来た保護者たちが山のようにいました。みんなバイクで迎えに来ていましたので、駐車場は満杯で、自分のバイクを出すまでが大変でした。

私たちは一旦また、Saint Vinh Son小学校に戻りました。そこでOanh先生は全員を集めて、学年最後の「終業式」と「卒業式」を行われるということでした。全員がまた集まるまでには時間が掛かりましたので、残念ながら、私はそこには参加出来ませんでした。

Oanh先生はこの日卒業式を迎えた五年生の生徒たちに、今まで【先生として生徒たちを指導し、お母さんとして子どもたちを育て】てこられました。学年の最後の日に、あの教室の中でこの日にお別れとなる、17人の卒業生たちに語りかけておられるOanh先生の顔には、その生徒たちとの別れが近づいた寂しさは、もちろん誰よりも強く・深くあったことでしょう。

しかし、いつもの明るい笑顔で、「さようなら。頑張ってね!」と、生徒たちに別れを告げておられるだろうと思いました。

ベトナムBAOニュース

「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。
「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。

■ 一番心配なのは、いつもお酒を飲んでいること ■

OKAMOTO HIROYUKI

私はベトナムに8ヶ月前に来ましたが、これからの生活と仕事を順調に進めるためにも、ここの国に長く住みたいと思っています。しかし私や、ほかの外国人たちが心配していることは、ここベトナムの人たちの“お酒を飲む文化”です。実際、ベトナム人はお酒を飲み過ぎます。

街中のレストランや、路上の屋台を通り過ぎると、夜はもちろんですが、朝も昼も関係なく、すでに多くの人たちが座って、「1・2・3、ヨーッ!」と、一気飲みをやっていますよね。でも、それにも最近は慣れて来ました。

将来の国の発展を支えるであろう、平均年齢の若い層が多いベトナムの人たちですが、寂しい時も、楽しい時も、または寂しくなくても、楽しくなくても、私の目にはいつもお酒を飲んでいるような感じですが、それで良いのでしょうか。

彼らはどうしてそんなにヒマな時間があるのだろうか・・・?と、私はそれが不思議です。それにまた、お酒を飲みすぎると、交通事故が増え、健康も害するし、家庭内暴力の原因になるとは思いませんか。

実は昔(今から20年前)の日本も、日本人はみんなお酒をたくさん飲んでいました。しかしそれが原因で交通事故が多くなりだしました。一番悲しいのは、多くの若い人たちが飲酒運転が原因で死亡することでした。

幸いにも、時の政府はいろいろな対策や方法を打ち出して、多くの方法で取り締まりを実施したりしましたので、事故の件数が減っていきました。「飲んだら、乗るな!乗るなら、飲むな!」などの看板やポスターを道路に立てたり、チラシを配ったりするなど、いろいろなことをして、飲酒運転がもたらす悲惨さについて知らせていったのです。その結果、徐々に飲酒運転による事故が減少して来たのです。

私はベトナムでも、手遅れにならないうちにこの問題について、早く手を打って欲しいと思うのです。今の日本では、お酒やビールをここまでしか飲んではいけないという規制はありませんが、お酒が買える年齢制限はあり、20歳になって初めてお酒やビールが買えます。そしてその時には、買う前に身分証明書を見せなければなりません。

もちろん、日本人でもお酒やビールなどを飲む人はたくさんいますが、普通は週末だけとか、それも家族や親しい友人たちや同僚たちなどとです。平日にたくさん飲むことはあまりありません。私は以前アメリカの会社で働いていましたが、アメリカ人の同僚も同じようなものでした。

もう一つは、日本ではたとえコップ一杯のビールしか飲んでいなくても、車を運転するのは絶対ダメです。この規則を破ったら、数千ドルの罰金を払わないといけません。お酒を飲んで酔った人は、電車やバスで帰るとか、ほかの人に迎えに来てもらうとかしないと、処罰されます。これら全ての行動は本人だけではなく、回りの人たちの安全のためでもあるのです。

ベトナムでも飲酒運転に違反した場合の罰則があるはずですが、交通警察の人たちは本気になって取り締まりをしないので、どんなに酔っ払った人でも、街中を自由に運転しています。以前私は、本当に悲惨な交通事故の現場を見たことがあります。大変衝撃を受けました。

私の仕事は営業ですので、どんな国に住んでも(ベトナムでも日本でも)、お客さんと一緒にお酒を飲まないといけないことがあります。そして今私は日本から離れて住んでいますから、時々寂しさを紛らわせるために少しお酒を飲むことがあります。

でも自分で決めているのは、毎週一・二回だけしかお酒を飲まないようにしていることです。少しだけ“自分に厳しくしよう”と考えて行動に移せば、それを実現するのにさほど困難ではありません。

◆ 解説 ◆
実はベトナムでも、「飲酒運転」に関しては2009年7月から車もバイクも「厳しく禁止」という「通達」がすでに出されてはいたのでした。

車の飲酒運転は、最高で何と600万ドン(約2万4千円)と90日間の免許停止。アルコール度数に応じて、その罰金の額と免停の期間は下がってゆきます。バイクの場合は、100万ドン(4千円)から300万ドン(1万2千円)、免停が60日間です。

しかし「ヘルメット着用」の通達が最初に出された時と同じで、交通警察が本腰を入れて取り締まらないので、郊外は知りませんが、少なくともサイゴン市内では誰も守ってはいない状況です。サイゴン市内で夜に飲酒運転の取り締まりに出会うことはありません。ヘルメット着用の場合は、二回目の通達からは交通警察が本腰を入れて取り締まりましたので、今やほぼ百%着用しています。

交通警察の人たちがこの通達を受けて、今からでも本気で取り締まろうと思い、結婚式場や夕方のベンタン市場の前で待ち構えておけば、数百人を一網打尽に出来るでしょう。ベトナムの結婚式場では、多い時には五百人くらいの参加者たちがビールをしこたま飲んで、酔っ払ってバイクで帰ります。

ベンタン市場前でも夕方から屋台の前にお客さんたちはバイクを横付けして、料理を食べたり、ビールを飲んだりして、最後はその自分が乗って来たバイクにまたがって帰るのですから。店側も、バイクで自分の店に来てくれた人がガンガンお酒を飲み、堂々とバイクで帰って行くのは周知のことです。「あなたはバイクで来たので、お酒は出しません。」という店など一軒もありません。

そもそも、お客さんたちが店でお酒を飲んだ後、バイクで帰ることを前提にして、結婚式場やこういう屋台には駐車場が備えてあります。こういう人たちを交通警察がすべて取り締まっていたら、警察官が何百人いても追い付かないでしょう。ですから、今のところ上記の「厳しい通達」は有名無実化しているわけです。

しかしそれも無理からぬ面があります。屋台やレストランに行こうとして、飲酒運転の禁止を遵守すべく、タクシーで家とレストランを往復出来るベトナムの人はそう多くないでしょう。いわんや、車だと近いけれど、歩くには遠いような小さな屋台に、タクシーなどで行く人などいるはずがありません。みんなバイクで行きます。

そしてもっと大きな問題は、お酒を飲んで(さあ~、帰ろうか!)としても、公共の交通機関がありません。バスは夜の7時少しを過ぎた頃にはもう最終が出てしまっています。市電はないし、山の手線のような電車も、地下鉄もありません。

日本では、車で来た人たちは「代行タクシー」で帰れば飲酒運転にはなりませんが、ベトナムでは、バイクで来た人たち用の「代行バイク・タクシー」などはありません。どこの誰かも分らない、路上にいるバイク・タクシーのお兄さんに自分のバイクと鍵を預けることそのものに不安がありますから、サイゴンのような都会でもそのようなビジネス自体が成り立たないでしょう。

警察のほうでも二年前に打ち出したこの通達を、厳格に実施することの困難さに気付いて、今のところは敢えて本腰を入れては取り締まりをしていません。今後も難しいだろうな・・・、と思います。

この記事が載ったOKAMOTOさんの新聞の翌日の紙面に、海外の<ベト僑>の人から、「ただお酒だけを飲むのがベトナムの文化ではない。」という反対意見が寄せられました。ベトナム人が路上などで、ワーワー騒ぎながらビールを飲んでいるのは、「仕事を円滑に進めたり、契約をスムーズに取ったり、相手先の人と親睦を図るためであり、ビールを飲むことだけが毎日の目的ではないのだ。」という意見でした。要は、「それなりに必要性があり、意味があることなのだ。」という意見です。

「お酒を飲んで契約を取った」経験は無い私ですが、「お酒を飲んで親睦を図る」交流は私も好きですので、この人の意見にも賛同致します。そして実際、一年中暑いサイゴンでは、仕事が終わった後に涼しい夜風に吹かれながら、家族や友人たちとビールを飲みながらコップを傾けるのは、格別の喜びがあり、楽しいひとときでもあります。特に昼間は暑く、夕方からぐっと涼しくなるテト(旧正月)の時期のサイゴンは、テト前の賑やかさと併せて毎日ビアガーデンが開いているようなものです。

しかしサイゴンで飲むビールは、瓶の表示には日本と同じく5%と書いてはありますが、実際は日本のビールよりも軽く、味もはるかに薄いですね。日本のビールのほうが、キツイような感じがします。日本では大瓶を二本も飲めば、少し酔ったような気分になりますが、ベトナムでは同じ量飲んでもそうはなりません。そしてベトナムではさらに、これに氷を入れてビールを注いで飲みますのでますます薄くなり、私(だけがそうではないと思いますが)は3・4本飲んでもあまり酔いません。

しかしOKAMOTOさんはすごい意志の強い人ですね。新聞に載った写真で見ますと、大変若い青年のような感じです。まだそのような若い年齢で、過度の飲酒の弊害を自分に厳しく戒めて、<毎週一・二回だけしかお酒を飲まないようにしている>とは。

この春私が日本に帰った時に、いつも健康診断を受けているお医者さんから忠告されました。「どぎゃんベトナムが暑かて言うたっちゃ、ビールの飲み過ぎはイカンばいた。その歳くらいになったら、飲むのは週三・四日くらいにして、休肝日を増やさんとイカンばいた。」と。その忠告を聞いて、これからは「週三・四日くらいにしておくか・・・。」と考えていたのでしたから。

Posted by aozaiVN