【2011年8月】石川 文洋さんのこと/日本の精神・アジアの精神

春さんのひとりごと

<石川 文洋さんのこと>

ベトナム戦争当時の 20 代初期に、メコンデルタでバナナを植えていたあの Y さんが、7月下旬サイゴンに戻って来られました。今回は約三ヶ月間の日本滞在でした。

私が先に日本に帰った後の4月下旬に、 Y さんは日本に帰られましたので、お互いの日本滞在は数週間ほど重なってはいました。しかし、 Y さんは東京にずっとおられ、私の田舎は熊本にあり、私たちは会うことは出来ませんでした。

そして Y さんが日本に帰って来られて数日後の夕方、先にベトナムから日本に帰られていた、あの Gio va Nuoc( ゾー バー ヌック:風と水 ) という名前の喫茶店経営に関わっておられた SB さんから、たまたま家にいた私に電話がありました。

「何やっているの~・・・?みんなもう集まって待っているよ。早く来ないと、お好み焼きが焦げてくるよー。」

SB さんは、東京の浅草にある有名なお好み焼き屋さんの、あの 『染太郎』 から、熊本にいる私まで電話して来られたのでした。 SB さんには、愛すべき、そういう茶目っ気があります。

そしてこの時『染太郎』には、二月下旬に メコンデルタ の Cai Be( カイ ベー )にある元日本兵・古川さんの 36 回忌の法要に参加していた八人の中、四人が集まっていました。 SB さん、 Y さん、そして『染太郎』の元総支配人 S さん、 「さすらいのイベント屋」 の N さんの四人です。

電話口の向こうで、四人が楽しく談笑している声が聞こえて来ました。私は約二年前に訪れた『染太郎』の店構えの、何ともいえない歴史を感じさせる風情や、店の中の国際色豊かな雰囲気を懐かしく思い出しました。私が『染太郎』を訪問した時には、白人の団体さんもいましたが、おそらく英語版のガイド・ブックに『染太郎』が掲載されているのだろうな・・・と考えています。

そして SB さんと話した後、一人・一人と電話を代わり、ひさしぶりに冗談を飛ばしながら、近況なども報告しました。 Y さんによりますと、「 SB さんはベトナムにいた時のように時間的に余裕ある生活は無くなり、もう完全な日本のサラリーマンに変身していますよ~。」と話されていました。

ベトナムにいた時には暑さしのぎで、角刈りにしていたヘアースタイルも長髪にし、半袖シャツ一枚で外に出ていた生活も、今日本ではスーツを着て、ネクタイを締めて仕事場に出かける毎日だそうです。

そして SB さん自身が電話口で私に話されたのですが、今は片道二時間掛けて会社に電車で通っているそうです。「バイクでサイゴン市内を快晴の日に風を切り、雨の中を合羽を着て疾走していたあの頃が、懐かしいーー!」とも。

私自身も SB さんや Y さんと Dong Nai( ドン ナーイ ) 省までヘビを捕まえに行くために、バイクで国道一号線を三人で走った時の光景や、ベンタン市場前の夜の屋台村でみんなで集まって、ビールを飲みながら楽しく過ごしていた思い出が蘇って来ました。

そして Y さんと話していた時に、「次はいつベトナムに戻られる予定なのですか。」と聞きましたら「実は・・・」と少し間をおいて、「病院で精密検査を受けてから戻ろうと思っているのですが、その結果次第でベトナムに戻るのが予定通りになるか、遅れたりするかも知れません。」と話されました。私は「大丈夫でしょう! Y さんのような壮健な体には、病気も住むのを嫌がって逃げ出すでしょうから。」と言いますと、電話口の向こうで明るく笑っておられました。

そして日本からようやくベトナムに戻られたのが、七月下旬でした。 Y さんが戻られると、やはり場がより賑やかになります。席に着かれてすぐに、「精密検査の結果は如何でしたか。」と私が聞きますと、「ありがとう。ポリープを採ったのだけれど、検査に出してもらい、結果は“良性”だったので安心しました。」と、嬉しそうに答えられました。

そして大きな封筒をテーブルの上に出されて、「これは 『朝日新聞』 の夕刊に連載されていた、『石川 文洋』 さんの記事のコピーです。」と言って、私に渡されました。その場で中身を出しました。 A3 サイズの大きいコピー用紙が 8 枚、ホッチキスで綴じてありました。

タイトルは 【 ジャーナリズム列伝 】と銘打たれ、右の隅に手書きで 2011.4.1( 金 ) と書いてありました。この日が、石川さんの記事が夕刊に掲載された最初なのでした。記事はちょうど新聞小説のような横長の紙面構成で、 A3 のコピー用紙一枚には、 4 回ぶんの記事が掲載されていました。全部で 30 話あり、石川さんが口述されたのを、記者が文章に起こしたものでした。

この記事には、石川さんご自身の少年時代から今に至るまでの、実に興味深く、貴重な話が、 8 枚の紙の中にびっしりと詰まっていました。最後の日付は 2011.5.16( 月 ) と書いてありました。ですから、ちょうど一ヶ月半ほど連載されていたわけです。

「このコピーは誰が作られたのですか。」と私が Y さんに聞きますと、「石川さん自身が自分でされました。」と言われました。 Y さん自身も、石川さんの記事が四月から朝日新聞に連載されるのはご存知だったのですが、石川さんに「その時はまだベトナムにいて、石川さんのその記事を読みたいけど読めないですよ。」と言いますと、石川さんが自分で新聞から記事を切り抜き、四話を一枚のコピー用紙に切って貼り、日本で Y さんに会った時に進呈されました。

そのコピーを私が Y さんから頂いたのでした。ですから手書きで書いてあった日付は、石川さん自身の文字なのでした。私は(テーブルの上も濡れているし、どうせここでは全部を読むことは出来ないし、汚れてもいけない)と思い、 Y さんから有り難く頂いて、封筒にまた入れ直してそれを持ち帰りました。

振り返れば、私が『石川文洋』さんの名前を初めて目にしたのは、サイゴンにある <戦争証跡博物館> においてでした。この館内には、 1998 年から石川さんの写真の常設室が作られています。しかしその時まだ石川さんの名前は、私にとっては遠い存在の人でした。

しかしその後、フォトジャーナリストの 『村山康文』 さんに、ふとしたきっかけで私は会いました。その村山さんから、今も続けているフォトジャーナリストの道に足を踏み入れたのが、石川さんとの出会いだったと聞きました。

1998 年に石川さんがベトナムへ行く時に同行して、石川さんを身近に見て、大きな影響を受けて、フォトジャーナリストの道を歩き始めました。このベトナム行きの時には、 「写ルンです」 のカメラ を 2 台だけ持参したそうですが、それが彼の本格的なカメラとの関わりのスタートでもありました。それ以来村山さんは私に会うたびに

「石川 文洋さんは、自分にとって【人生の師】です。」

と話されるのでした。そして、彼が直接知る石川さんのことをいろいろ私にも話してくれました。

そしてさらに数年後、今度はその石川さんをベトナム戦争当時から知る Y さんと出会ったことで、『石川 文洋』さんの輪郭が鮮明になって来ました。ベンタン屋台村で、村山さんも Y さんから石川さんについて聞く話に、大いに興味を抱いていました。村山さん自身も、ベトナム戦争当時の石川さんのことは知らないわけですから、それも当然といえます。

その石川さんは、昨年 2010 年の四月末にサイゴンに来られました。 「サイゴン解放35周年記念」 に、 ベトナム 政府から招待されたのでした。私も Saint Vinh Son 小学校 の支援者の A さんも、そのことは事前に Y さんから聞いて知ってはいました。 しかし残念ながら、私も A さんもこの時サイゴンで石川さんにお会いすることは出来ませんでした。

後で聞いたのですが、親友である Y さんが「今回の滞在中に、石川さんに是非とも会いたいと思っている友人たちがこのサイゴンには沢山いて、ベンタン屋台村に集合するように話していますので、何とか日程を調整してくれませんか。」と話しますと、本来予定が入っていたその日を何とかやり繰りされ、 Y さんの要望を容れて、ベンタン屋台村に登場されたそうです。みんなの喜びようは大変なものでした。 A さんと私は後でそれを聞き、大いに羨ましく思いました。

しかし、この日に石川さんに会えずじまいだった A さんには幸運が来ました。それから石川さんが日本に帰国され、 Y さんもその少し後に東京に戻られました。そしてしばらくして、 Y さんと「染太郎」の S さんの二人で、長野県に住んでおられる石川さんのところに遊びに行こうという話になりました。

それを聞いた A さんは、「それでは私の車で、石川さんの家まで送って行きますよ。」と申し出られました。 A さんも同じく長野県に住んでいます。そして駅に着いた二人を車に乗せて、石川さんの家まで行きました。それから四人で温泉に浸かりに行ったそうです。

石川さんは A さんとの別れ際に、一冊の写真集を A さんにプレゼントされました。その本には、石川さんの直筆のサインが入っていました。 A さんの感激は言うまでもありません。「あの時頂いた写真集は、私の宝ですよ。」と、後にサイゴンで再会した時に嬉しそうに話してくれました。

Y さんから頂いた、『朝日新聞』の記事をその後じっくりと読ませて頂きました。今まで<戦争証跡博物館>に展示してある写真と、 Y さんや村山さんからの話で聞いて、私が想像していた『石川 文洋』さんのイメージが、より深く・広く・鮮明に描けて来ました。

特にこの記事には、石川さんがジャーナリストになる前の頃(生い立ちや家族や少年時代)のことと、その世界に入った頃(新聞社に最初に入った時)のきっかけが詳しく書いてありましたので、今に繋がっている石川さんの人生の軌跡が良く分りました。

この記事によりますと、石川さんが初めてベトナムに来られたのは、1964年8月8日となっています。 Y さんがベトナムに初めて足を踏み入れられたのは、 1963年10月26日ですから、 Y さんが少し先に来ていたわけです。その時石川さんは 26 歳で、 Y さんは 20 歳でした。 Y さんの話は面白く、次のような話をされました。

「着いたその日に社長に“お前、明日からメコンへ行け”と言われて、それから 4 年間バナナ島で一人暮らしですよ。」

そして1965年の1月過ぎに、石川さんはサイゴンで 『開高健』 さんに会われました。それ以来お二人は会う回数を重ねてゆかれます。そして 1968年8月にサイゴンを再訪した開高さんに、 Y さんのバナナ島を紹介したのが、石川さんなのでした。 Y さんは 25 歳の時に、開高さんに会っていたわけです。石川さんはその時のことを次のように書かれています。(以下、 滝田誠一郎さん の 『開高健が見たベトナムを旅する』 より。原文のまま)

「バナナ島へはわたしは以前からよく行っていました。戦時中ではあっても、あそこへ行くとのんびりできましたので。メコン河で泳いだり、ハンモックをつって寝たり。

そんな話をしていたら、開高さんが行きたいといったんです。有名なメコン河で釣ってみたいと思ったんでしょうね。あんな大きな河ですから、何かすごい魚が釣れると期待したんじゃないでしょうか」

そして以前 <メコンに流れる『青春の源流』> で紹介した、開高さん の 『私の “ 釣魚大全 ” 最終回』にも、 石川さんと Y さんのことが次のように出て来ます。(原文のまま)

「某日、ゲンちゃん( Y さんのあだ名)、ブンヨー(石川さんのこと)、私の三人がサイゴンからバスにのりこんで南へ、南へと街道を降りていく。目的地はカイベ。そこから小船でメコンをくだり、バナナ島へ上陸する。」

「ゲンちゃんとブンヨーのことをごく一部だけ略記しておきたい。ゲンちゃんは東京都出身で二五歳である。ヴェトナムは通算五年だというから、はじめてきたのは二〇歳のときである。ヴェトナム語はヴェトナム人かと怪しまれるくらいたくみに話せる。」

「ブンヨーはどうであるか。彼の本名は石川文洋と、まことに気宇壮大なのだが、みんなは彼を愛してブンヨー、ブンヨーと呼ぶので、そしてそれを不快がっているようには見えないので、私もそう呼ぶことにしよう。」

この頃から、石川さん、開高さん、 Y さん、そして Sさんの交友が始まったのでした。すでに開高さんは 1989年  58歳 で亡くなられていますが、 2010年1月31日に Y さんと Sさんは 茅ヶ崎 にある 『開高健記念館』 に特別ゲストとして招待されました。

この日は開高健作品の朗読会が行われる予定で、その作品として『私の釣魚大全』が朗読されました。そして、この作品中に登場する人物が Y さんと Sさんなので、それが縁で招待されたのでした。ここでお二人は、ベトナムで出会い、交流を重ねた開高さんの思い出を語られました。

開高さんも石川さんも、同じように戦場に入って、記事を書き、写真を撮られましたが、「戦争の現場に入って行くというのはこわくないですか」という質問をした雑誌社のインタビューに、開高さんは次のように答えています。

「ものすごくこわいですよ。夜中に考えていたら、僕はもう体が凍えてしまってね。」

そしてお守り代わりにベトナム語で、 「私ワ日本ノ記者デス」「ドウゾ助ケテ頂戴」 と書かれた日の丸の旗を持参することにしたことも、インタビュー記事の中で明かしたと書いてあります。

石川さんは 「ジャーナリズム列伝」の中で、「何が自分を戦場に駆り立てたのか」について、次のように述べられています。

「戦場の真実を伝えるといった使命感はむしろありませんでした。戦場で何が起きているか、自分の目で見てみたいという気持ちの方が強かったと思います」

そして同じ日付の記事の中で、石川さんと同時期にベトナムで取材していた韓国出身のカメラマンが、石川さんの印象をこう話しています。

「(雨の最前線で野営している時)われわれの隣には日本の青年が一人、口笛を吹いていました。こんな泣きたくなる時に口笛を吹いているのです。」

過酷な戦場で、精神の平衡と安定を保つために、多くの記者たちが、いろんな方法で自分自身を落ち着かせようとしていたのでしょう。砲弾が飛び交い、地雷が埋めてあり、至るところにワナが仕掛けてある戦場を走り回る時、平気な人はまずいないでしょうから。

私は以前 Y さんから、ある時石川さんが銃弾が飛び交う戦場に遭遇してしまい、七時間もの長い時間、頭を上げられずに突っ伏したままの状態で過ごしたこともあるということを聞いたこともあります。頭を上げた瞬間に終わりですから、身動きが出来ず、当然トイレにも行けません。

Y さんが石川さんのことを話されている時、 「おっとりしている人」 という言い方をされます。 Y さんがサイゴンで同宿していた時のことですが、 Y さんが起きた時には ほとんどいつも、石川さんが寝ていたベッドはすでに空になっていたそうです。

しかしある日たまたま今から出かけようとする石川さんがいて、 Y さんに次のように話して、部屋を出て行かれたそうです。

「ゲンちゃん、今から行って来るよー。」

まるで近所の喫茶店に行くような、のんびりした、落ち着いた感じで、「今から戦場に出かけて行くような感じでは全然なかったですよ。」と Y さんは首を横に振りながら言われるのでした。そしてさらに続けて、長年交友を続けて来た石川さんのことを、

「石川さんは、無類のこころやさしい人なんです。」

とも言われます。「友人たちに対してもそうだし、戦場で出会うベトナムの農民たちにも、同じようにやさしい人なんです」と。さらには、「今まで長く付き合って来たけど、石川さんが人のことを誉めはされても、悪く言われる場面を見たことが無い。」と。

実は私から見て、石川さんのことをそのように言われる Y さん自身もまた 「こころやさしい人」 なのです。メコンデルタで見た、元日本兵・古川さんの家族の人たちに接する時の言葉かけ、気遣い。 Y さん特有の、ユーモアを含んだ明るい冗談の数々。

「多くの日本人が一遍に押し寄せて、申し訳ない!」と、参加者全員の気持ちを代表するような表情と、家族との言葉のやりとり、そして衣類などのプレゼント・・・。それらを横で見ていて、(何というやさしい人なのだろうか。)と、その時あらためて感じました。

さらに最近私はこれに加えて、 Y さんについて大変 「几帳面な人」 という印象を持つようになりました。今まで開高さんや、竹山道雄さんや、いろんな人たちの本を Y さんから借りました。最初はあまり注意を払わなかったのですが、五冊・十冊と借りていた時、その本を良く見ると、(単行本であれ、文庫本であれ、何とすべての本という本に、丁寧にもキレイな紙でカバーがしてある。)ことに気付きました。

さらにまた本のタイトルもペンや細字のマジックで書き、背文字にはセロテープで貼って補強してある本もありました。実に細かい作業というべきです。本のタイトル名も、一字・一字が丁寧に書いてあります。その字は、確かに私が知る Y さんの字体です。一冊・一冊をこのようにするというのは、大変根気の要る作業ではないかと思いました。

それで本を返す時に、「借りた本はこのようにカバーがキレイにしてありますが、もしかして Y さんの家にある本はすべてカバーがしてあるのでしょうか。」と聞きますと、「ええ、そうです。スーパーから色のキレイな紙を買って来てカバーをしています。借りる人に、キレイな本の状態で貸して上げたいですからね。」と言われたのでした。

しかし、いくら本好きでも、買った本すべての本にカバーをするなど、誰にでも出来ることではないでしょう。私も本屋さんで買った時に、店でカバーをしてくれた時の本だけはカバーがありますが、ほかの本は全然していません。 Y さんが言われるには、若い時からずっとそのようにしているということです。いつか一度、 Y さんの本棚を見てみたいものだと思いました。

この 「 ジャーナリズム列伝」 の 記事の終わりのほうには、ベトナム人の眼で見た石川さんの印象として、「在日ベトナム大使館の1等書記官、グエン・ファン・ホンさんは、長年の石川さんとの交流を振り返ってこう語る。」と書いてあります。

「石川さんは、人の苦しみや悲しみが分かる方です。ベトナムでは農民たちと、いつも笑顔で話しています。」

記事の数箇所には、「石川さんは解放戦線を【敵】とは全く思わなかった。むしろ米軍の軍事力に抗する解放戦線に共感を寄せていた。」とも書いてあります。そして前線で石川さんはしばしば銃を携帯するように勧められます。いざという時、身を守れないと。しかし次のように言って断られたということです。

「自分はベトナムに戦争をしに来たのではない、米兵と同じ服装をしているのだから、間違って打たれても仕方ない。そう思っていました。」

さらには銃どころか、重いからと言って、ヘルメットも防弾チョッキも着用しなかったそうです。先の韓国出身のカメラマンが見た石川さんは、戦場で銃も持たず、ヘルメットも被らず、防弾チョッキも着ずに、みんなが辛く泣きたくなるような場面で、場を明るくするために一人口笛を吹いていた青年だったのでしょうか。

そして石川さんの 「無類のこころやさしさ」 は、すでにもうベトナムに来た時からそうであり、胸を打つような話がこの記事には載っています。

28歳の石川さんは他の日本人記者たちと、取材のためにカンボジア国境に近い米軍の野砲陣地を訪れます。そして夕食後に、そこの米軍中尉がこう言います。「大砲の引き金を引いてみないか」と。ある日本人がそれを引こうとした時、石川さんがこう言って、制止します。

「○○さん、引いてはいけません。引くべきではない。あなたに、この向こうにいるかも知れない人間たちを殺す理由は何もない筈です。」

そしてこの時すぐに、ちょうど砲撃中止の命令が出たので、結果的には大砲の引き金を引くことは無かったそうです。しかしこの石川さんの言葉は、戦場でのジャーナリストとして、一人の人間として、そして世界のどこにいても、どういう場面に出会っても、

【人間の精神を気高く保つことの大切さ】

の実話として、鮮烈に輝いています。今後も輝き続けることでしょう。

Y さん の話では、今年の 11月にツアーの団体を率いてカンボジアに行く計画があるそうで、その時にベトナムにまた立ち寄られるそうです。もしかしたらその時に、在越の日本人たちと一緒に石川さんにお会い出来るのではと期待しています。

ベトナムBAOニュース

「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。
「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。

■ 日本の精神、アジアの精神 ■

7 月 17 日の夜、ドイツのテレビでは日本の女性サッカーチームが優勝カップを上げている場面の映像を何回も放送していた。日本の女性サッカーチームの優勝は、有り得ない “非常な戦績”と呼ばれている。もしアメリカの女性サッカーチームが勝っていたら、“非常な戦績”と言う言葉を使っては呼ばれなかっただろう。

“非常な戦績”を勝ち取る前の日本の状態はと言えば、 3 月 11 日の 「東日本大震災」 後、日本国が受けた災難は深刻で、その影響はすべての活動(政治、経済、文化)に及んだ。もちろん、スポーツ界もそうだったし、サッカーもそうである。

日本の男性サッカーチームは、アルゼンチンでの Copa America2011との試合をキャンセルした。男子のサッカーチーム・ J-リーグ の試合も延期された。日本の女性サッカーチームの L-リーグ の場合は、その影響はもっと深刻で、ほとんどの女性選手たちはプロではなくアマチュアの選手であり、サッカーをしながら仕事とか学校へ通っているのである。 World Cup2011の準備をしている時、日本の女性サッカーチームの選手たちは経済的にも大変困窮していて、精神的にも気が滅入ることもあった。

しかしそのような幾多の困難下でも、日本の女性サッカーチームを打ち負かすことは出来なかった。彼女たちはそれらの苦難を乗り越えて、強くまた立ち上がって来たのだった。ドイツとの準々決勝の試合と、スゥェーデンにも勝った準決勝の試合と、今まで二回も優勝したアメリカのチームとの決勝戦での試合にも、見事に勝利を奪い取ったのだった。それはどんな困難にも立ち向かい、諦めない、まさに “日本の精神” として不屈の戦績を、日本の国内はもちろん、世界中の人たちの前に表してくれたのだった。

世界中のみんなが、 World Cup2011 で優勝した今回の日本の女性サッカーチームーを祝福して喜んだのだった。勝った日本チームに対して、負けたほうのアメリカチームはいつまでも悲しんでいなかった。アメリカのある選手は、「素晴らしいチームに、私たちは負けたのだ。」という言葉を贈った。

民族のプライドが高いドイツ人たちでも、自分たちは負けたのに、勝った日本チームに「おめでとうございます!」と誉め称えた。決勝戦の試合の後には、何千人というドイツ人たちが Frankfurt 市内 (決勝戦の試合が行われていた場所)の至るところで、日本人のサポーターと一緒に喜びを分かち合ったのだった。

もし 3 月 11 日のあの大震災という悲劇がなかったなら、日本人とドイツ人とアメリカ人たちが一緒に “手に手を取り合って” 喜ぶ姿は見られなかったことだろう。日本を襲った大震災は、結果として皮膚の色が違う人たちを“手に手を取り合う”感動を生み、違う国の人たち同士が強い連帯感で結び付くことになったのである。

私は日本人ではないのだが、決勝戦の試合を見終わってから、、私の心の中にはいろいろな感動的な気持ちが湧き起こって来た。私だけでなくベトナム人の誰でもが、意気揚々として物事にチャレンジし、どんな困難でも不屈の精神で乗り越えようとする “日本の精神” 、そして “アジアの精神” をそこに見た。

◆ 解説 ◆

<なでしこジャパン> のあの優勝シーンは、本当に感動的な試合内容でしたね。私自身は、このベトナムのテレビではどのチャンネルで放送しているかも分らないので、実況中継では観ることは出来ませんでした。

そして朝 Yahoo で読んで見て、「優勝したのだ!」ということを知りました。こちらのインターネットは速度が遅いので、 Yahooの画面が現れるまでは、ハラハラ・ドキドキしていました。 「優勝!」 の二文字を見た時には、思わず“やったあ!”と思い、ジーンとしてきました。

その日の夕方に、友人である IT会社のKRさんが、ローカルの屋台の飲み屋さんに Apple社 製のノートパソコンを持ち込まれました。 KRさん自身は、得意のインターネット技術を駆使して、深夜に実況放送で観ていたそうです。それをパソコンにダウンロードして来られたのでした。

この場には、 KRさんの友人も二人来ていました。四人でこの「日本―アメリカ戦」をビールのツマミにしながらパソコンでずっと観ましたが、四人ともが最初から最後まで本当に感動しました。ローカルな屋台ですので、外国人はといえば、私たちだけであり、周りはベトナム人のお客さんだけです。

その彼らが、私たちがパソコンを観ながら声を上げている姿に不思議そうな顔をしていました。昨年の男子の試合の時には、ベトナムの人たちも大いに関心を寄せて、一緒に興奮していましたが、今回の日本の女子サッカーの場合は、ベトナムでは昨年ほどの関心は感じませんでした。

ひと通り観終わった後に、ハイライトシーンをまた観ましたが、何回観ても全員が興奮していましたね。もともと私自身はサッカーとかには今まで全然関心が無かったのですが、昨年・今年と国際試合の面白さがようやく分かるようになりました。

なでしこジャパンとアメリカ戦の優勝試合の内容は、 KRさんがDVDに焼き直して、全員にプレゼントしてくれるということなので、これからも時々観て、あの感動の余韻をまた味わいたいと思います。

Posted by aozaiVN