【2011年11月】9歳の誕生日パーティー/大人が手本になるべき

春さんのひとりごと

<9歳の誕生日パーティー>

このベトナムで我が娘も9歳になり、その誕生パーティーをすることにしました。場所は四区にある、大衆的なベトナム料理屋さんです。

11 月に入って最初の日曜日に行いましたが、気掛かりなことが一つありました。大雨です。ベトナムでは、本来この 「11月から乾季」に入るのですが、 11 月の暦をめくったからといって、すぐに乾季に突入するわけではありません。雨季の時にはほぼ毎日降っていた雨が、少しずつ降る間隔が遠のいてゆき、気が付いたら ( ああー、もう乾季に入ったな~ ) という感じですね。

昨年の誕生パーティーも同じ時期に行いましたが、その時はちょうど開始時間の直前から道路が水没するほどの大雨が降り、みんなの到着が一時間ほど遅れたということがありました。サイゴン市内の道路は低い位置にあるのが多く、特に強い雨が降ると、到るところで道路が水没して身動きが取れないことがあります。

昨年はまさにその大雨にたたられ、当日出席予定の人たちから「すみませーん。大雨が止んだら行きますので、少し遅れまーす。」「家の前の道路が水に浸かり、バイクが出せませーん。」「家から出るに出れないので、今日は行けません!」という電話が次々と入って来ました。

そして今年パーティーをする日の二日前からも、夕方から強い雨が降り続きました。それで ( 今年の日曜日の夕方も、またおそらく雨になるかも・・・ ) と思い、 ( 何とかせんといかんな~ ) と思いました。しかし私には、雨を晴れに変える宗教家のような法力はありません。それで思い付いたのが、日本のあの 「てるてる坊主」 でした。

パーティーの前日に、その名前と作り方を娘に教えました。「テルテル・ボーズ、テル・ボーズ~」と言いながら、娘は嬉しそうに作っていました。それを寝る前に窓に掛けて、 ( 明日の夕方、どうか雨が降りませんように! ) と、娘と一緒に手を合わせてお祈りしました。

そして日曜日、この日は朝からドンヨリした曇り空が続いていました。昼間もずっと同じでした。晴れ間一つも見えません。 ( さあ~、夕方まで雨が降らずに持ちこたえてくれればいいが・・・ ) と思いましたが、後は「てるてる坊主」さんの力にすがるしかありません。

開始時間は6時からでしたが、4時・・5時になっても空は曇っているものの、雨はまだ一粒も降りません。 ( もしかしたら、開始時間まで持ちこたえてくれるかな? ) という期待が出て来ました。そして私一人だけが、先に準備確認のためにレストランに着きました。この時5時半過ぎくらいでした。

そして私が着いて十分くらいして、最初のお客さんが到着しました。指定した時間よりも誰より早く到着したのは日本人ではなく、一人のベトナム人の男性でした。彼の名前は Tri( チー ) さん。やはり彼は日本人との付き合いが長いので、「定刻の時間よりも早めに着く」という日本人の習慣を良く理解していました。

Tri さんのことは、今からちょうど 5 年前に ダチョウのフォーを食べる> という内容で触れましたが、その彼とは久しぶりの再会でした。今ダチョウのフォーの店は閉めて、投資会社で副社長として働いています。ただ、ダチョウの革製品のビジネスはまだ続けているということでした。

彼から頂いた名刺を見ますと、様々な事業内容が書いてあり、『フォー屋の店長』から『投資ビジネス』の副社長に変貌を遂げていたということでしょうか。しかし Tri さんとは約2年ぶりの再会でした。

その次に着いたのは、今年の三月に メコンデルタ の Cai Be( カイ ベー ) へ、 「元日本兵・古川さんの 36 回目の法要」 に参加した時に同行した、あの 『さすらいのイベント屋』 のNさんです。この時は、クチで日本仕様の瓦を製造している日本人・ SW さんと、その友人たちもご一緒でした。そして実は何と、Nさんと Tri さんとは旧知の仲だったようで、ここでひさしぶりに出会えたことに、お二人とも喜んでいました。

そして IT 会社の社長の KR さんと、その友人の若い女性が一人来られました。彼女は日本で印刷業の会社に勤めていて、自分から進んでベトナム行きを志望したというファイトのある女性です。またシステム開発の仕事をしているFさん。さらには、サイゴンで日本企業の進出支援の会社を最近起こした SZ さん。彼のベトナム語の能力の高さは見事なものです。彼とは一年ほど前に知り合いましたが、この日はベトナム人の奥さんと、男のお子さんと一緒でした。

また日本語教師のつながりで、この日の娘の誕生パーティーに参加して頂いた先生たちもおられました。 「人文社会科学大学」 で教えておられる TM 先生。 TM 先生とは 、「Saint Vinh Son小学校」の運営責任者のFさんの紹介で知り合いました。この日は奥さまも一緒でした。さらに 「Dong Du(ドン ユー)日本語学校」のI先生と、 「さくら日本語学校」の M 先生も来られました。このI先生と、 M 先生はベトナム滞在も長く、今やその学校の中では重鎮ともいうべき存在の先生です。

また 「マングローブ植林行動計画(ACTMANG)」の浅野さん も、家族四人で来て頂きました。そして、このベトナムに住んでいる人なら知らぬ人がいない、有名な WEBSITE の管理人でもある W さんも同じく家族四人で来られました。身内では私の女房の家族たちが、全部で十数人来ましたので、全部で 40 人近くになりました。

私も最初は、こんなに多くの人たちが当日参加して頂けるとは思っていませんでしたが、女房と二人で「あの人にぜひ来てもらいたい!」「あの人も呼ぼう。その友人にも来て欲しい・・・」と話しながら、参加予定の人たちの名前を書き出していましたら、合計ではそれだけの人数になっていました。

そして開始時間の6時になりましたが、まだ今日は雨は降りません。何という運の良さでしょう!やはり昨日娘が作った「てるてる坊主」の効果があったのでしょう。そしてベトナム人、日本人のおおかたの参加者が集合した6時半ころに、パーティーを開始しました。

最初に私から、娘が健康で病気もせずに、 9 歳の誕生日を迎えることが出来ましたことの報告と、みなさんに今日集まって来て頂いたことへのお礼を述べました。そして「私から、今日の娘の誕生パーティーで特にお礼を言いたい方々がここにおられます。」と言いました。

そして、この時持参して来た紙袋の中から写真を取り出しました。それは四年半前に亡くなった父の写真でした。その写真を手に持ち、今日の参加者全員の前で次のように話しました。

「親父はもうこの世にいませんが、今日の孫の誕生パーティーを天国でこころから喜んでいてくれるのではと思います。娘が生まれてから、娘は普段はベトナムにいて、親父は日本に住んでいましたので、親父が孫に会え、一緒に過ごせたのはその一生の中で、正味の期間では三ヶ月に満たなかったと思います。それだけに、天上から今日のパーティーをさぞ喜んでくれていることでしょう。」

今まで娘は、三回日本へ行きました。父の生前に二回。亡くなった後の一周忌の時に一回です。父が亡くなる二ヶ月ほど前に私は日本に一度帰りましたが、その病床に伏せていた時に、「今誰に一番会いたいですか?」と看護婦さんが、父の耳元に口を近づけて聞きました。

すると喉に穴を開けていて声が出せない父は、ホワイトボードに震える手で、判読が難しい字をゆっくりと、一字一字書いてゆきました。親父の文字の書き癖を知らない看護婦さんには読めないようでしたが、私には分りました。親父が書いたその文字は、娘のベトナム名の名前でした。

そして父が亡くなって、一周忌の時に娘は日本に来ました。その法事の席には父の写真が置いてありましたが、父の他界を直接見ていなかった娘は、日本に行ったら父が当然いつものように、目の前に現れて来るものと思い込んでいたようでした。

しかし、食事会が始まってもいっこうに“爺ちゃん”本人が現れて来ないのを不思議がり、「お爺ちゃん!今どこにいるのー?みんなと一緒にご飯を食べようよ。」と、写真に向ってベトナム語で話しかけていました。その意味を私から聞いた母親は、目にハンカチを当てていました。

そして、父がいない法事の席で、みんながお酒も入って盛り上がった頃、娘は舞台に出て親父の写真を背にして、日本の歌を歌いました。実はこの席で、私の弟が挨拶のためにマイクを手に持って話していたところ、それを見た娘は“カラオケを歌っている”と勘違いしたようで、弟の話が終わるやマイクを奪い取り、恥ずかしがることなく、甲高い声で歌い始めたのでした。

娘が歌った日本の歌は、 「春が来た」 です。その時はちょうど桜が満開のころでした。親族のみんなも大変喜んでくれました。

♪ 春が来た 春が来た どこに来た ♪

山に来た 里に来た 野にも来た

花が咲く 花が咲く どこに咲く

山に咲く 里に咲く 野にも咲く

娘が小学校に行き始めてからは、公立の学校を休むわけにもいかず、この四年間ほどは娘は日本に帰っていませんが、ベトナムにおいてある父の写真の前で、日々挨拶をしています。私は毎日線香を立てています。

そして、次にお礼を述べさせて頂いたのは、女房の両親とその家族たちです。異国から来た一人の日本人を家族の一員として受け入れてくれ、私の親父と女房の両親の血を引いた「孫」がここにいるのも、女房の両親の 『こころの広さと優しさ』 であるし、また 『ベトナムとの縁』 であると思うからです。

そして次に、浅野さんに対してのお礼を述べさせて頂きました。私がベトナムに来た当初に、浅野さんとの出会いが無ければ、果たして今ここにこうして、ベトナム人の女房と娘と一緒に立って 9 歳の誕生パーティーを迎えているだろうか・・・と、あらためて思いました。

偉大な先達の浅野さんがいたからこそ、ベトナムの空気にすんなりと馴染み、ベトナムの多くの人たちとの交流が広まり、ベトナムへの愛情が深まり、私自身があと半年ほどで 15 年目を迎えようとしているのだろうと思います。

私の挨拶が終わってからは、ベトナムのパーティー恒例のドンチャン騒ぎのパターンになりました。ちなみにベトナムではビールを飲む場合、日本のように相手に注いだり、注がれたりすることはなく、各自が飲むビールは自分で手酌で注ぎます。

ましてや、自分の席を離れてお客さんたちのテーブルを回って、「どうぞ!どうぞ!」と言って忙しくビールを注いで回る必要はありません。自分のペースで飲めますので、慣れるとこちらのほうがいいですね。ただし、焼酎を飲む場合などは杯交換があります。小さな猪口で相手に注いであげて、それを飲み干したらまた返杯します。

そしてベトナムでは、当日のパーティーの費用なども全て、その日に誕生日を迎えた人が払うのが普通の習慣です。これは、あまり大してお金がない大学生や、研修生たちでも例外がありません。誕生日祝いの本人が、いつも全額その場の飲食代を支払っています。

しかも誕生日のパーティーをするといえば、いくら何でも指差し食堂のような路上の屋台などでは普通しません。それなりに小綺麗なところでやるのですが、清算の段階では普通の大学生が二百万ドン ( 約 7,400 円 ) や三百万ドン ( 約 11,000 円 ) をすんなり払っているのを見ますと、 ( 大丈夫なのかなー・・・? ) と心配になって来ます。(参加者みんなで割ればいいのに)と思いますが、それはやりません。

そもそもベトナムでは、自分が食べた・飲んだぶんだけ払う、いわゆる 『割り勘』 はあまり普通ではなく、そのグループの中で誰か中心的な人間が、一人でまとめて払うことが多いですね。『割り勘』はベトナム語で 「Tra tien kieu My(アメリカ式払い方)」と言い、ベトナムの人たちには嫌われます。最初このベトナム語を聞いた時には、思わず笑いました。

この 『相手に払わせない』 というベトナムの習慣は、実にキッチリとしていますね。よくあるパターンは、 「自分から誘った場合は、自分が払う」 という習慣です。ですから『誘われた方も、後日いつかその人を誘い、おごり返すこと』が必要です。奢られっ放しでは、いつしか相手は遠ざかってゆきます。

さらに今月 11月20日には、恒例の 『先生の日』 がやって来ますが、生徒たちが先生を誘って食事やカラオケに連れて行くことが良くあります。その時も、先生にはビタ一文も出させませんし、先生が出そうとしても突っ返されます。先生に出させたら、『先生の面目』を潰すという考えのようです。しかし、いつもあの日だけは(生徒に出させて申し訳ないな~・・・)という気持ちになります。

さて宴会が始まって 40 分ほどした頃から、ついに雨が降り始めました。開始時間の 6 時を避けてくれたかのように、強い雨になって来ました。そしてちょうどこの時に、当日参加予定の最後のお客さんである、 B くんが来てくれました。この日も B くんは仕事が入っていたようで、息せき切って二階の階段を上がって来ました。

B くんのことは、ちょうど今から二年前に 日本とベトナムの架け橋になりたい!で彼との出会いを触れたことがありますが、席に着いて話してくれた最近の彼の仕事を聞いていますと、その目標に向けて着々とした歩みを始めていました。

彼は今、 JICA で働いているということでした。そこでどんな仕事に取り組んでいるのか聞きますと、 「ホーチミン市水環境改善事業」 の仕事に携わっているということでした。

それを聞いた私はすぐにピンと来ました。先日読んだベトナムのビジネス情報雑誌 『Access』 に、その事業についての説明が、写真付きで詳しく掲載されていたからです。

以下はその雑誌からの抜粋です。

「ホーチミン市はベトナム南部最大の商業都市であり、人口は 2009 年の統計では約 720 万人となっています。近年の急速な経済発展に伴い急速な都市化が進んでいますが、同市の排水施設は 1870 年代にフランスによって整備され、その後アメリカの援助により、拡張整備されてきましたが、対応規模は 150 万人規模にすぎず、さらに設備の老朽化も激しい為、処理能力が大幅に不足していました。

更にホーチミン市の下水道は、収集された汚水を未処理のまま運河、排水路へ垂れ流している状態であった為、運河・排水路の水質汚濁が激しく、都市環境が損なわれ、近隣住民の健康への影響も懸念される状態でした。

この為、ホーチミン市の下水・排水システムの整備による水質改善及び浸水被害の軽減は緊急の課題とされ、日本の ODA 援助 によるホーチミン市水環境改善事業が行われることになりました。

資料提供: JICA ベトナム事務所 」

そういえば、ここ最近四区にあるクリークの中のヘドロを浚渫して、それを運搬船に積み込んでいる光景を良く見かけますが、あれはそういう経緯があったのか・・・と、今思い至りました。 B くんがみんなの前に話してくれた内容は、その雑誌の内容と合致していました。

今サイゴン市内には次々と高層ビルやマンションが建っています。特に一区の対岸にある2区の開発ラッシュは目を見張るものがあります。 ( そんなに建てて大丈夫なのかか・・・? ) と思いますが、大丈夫ではないのでしょう。一区でも貸事務所用に建てた高層ビルは空き部屋が目立ちます。建設資金が回収できるはずがなく、銀行から借りた借金が返せずに、不動産バブルが弾けるのも時間の問題になって来ました。

そしてまた高層ビルが建っている、その足元の環境はといえば、大気汚染や河の汚さに関しては劣悪なものです。特に、サイゴン市内のクリークの汚染のひどさは物凄いもので、 ( 何とかならないのだろうか。いつ手を付けるのだろうか? ) と、あの橋を渡るたびに鼻を突く悪臭が漂う空気を吸いながら常々考えていました。

しかしこの時Bくんからその話を聞き、彼自身がそのプロジェクトに関わっていると知り、とても嬉しく思いました。彼は < 日本とベトナムの架け橋になる > べく、今まさに大きく飛翔しようとしています。十年後、二十年後の彼がどうなっているか、大変楽しみです。

さらにまた、その席にいた日本人の先生たち全員がBくんについて驚き、感心したことがありました。彼は今その JICA の仕事をしながらも、毎日夜は9時近くまで大学に通っています。その JICA に関連のある専門的な知識も今学んでいるということでした。

そして今年の [ 日本語能力試験の一級 (N1)] にも、すでに日本で二年前に一級に合格しているにもかかわらず、また挑戦するということを聞き、「人文社会科学大学」の TM 先生は不思議そうな顔をされ、「すでに合格しているのに、どうしてまた受けるのですか。」 と私に質問されました。

私が「試験という目標があれば、人間はやはり勉強します。しかし試験が無ければ、勉強しません。Bくんは私に以前からそういうことを言っていて、日本語の能力をさらに高めるために、今年だけではなくこれからもずっと [N1] に挑戦するということです。」と答えますと、感心したように ( う~~ん ) と首を横に振っておられました。

Bくんの場合は、ベトナム人が日本語の能力試験の最上級のレベルに挑むパターンの例ですが、英語であれ、フランス語であれ、中国語であれ、普通は一度その試験に合格すれば「最上級のレベルには合格したから、もう試験勉強は終わった!」と安心して、毎年さらに何度も挑戦する人物などあまりいないのではないでしょうか。

そういう意味では、目の前に座って私たちと談笑しているBくんの例は、大変珍しいケースではないかと思います。そのことを、私が今教えている研修生たちや、日本語クラブや、日本語教師の集まりなどで話しますと、みんな一様に驚き、感心しています。

幸運にも雨が降らずに6時から開始したパーテーィーは、参加者が来た時間から雨が降り始めて、宴会中も降り続いていましたが、何とパーティーが終わりみんなが帰り始めた頃にはピタリと止みました。これには私も驚きました。そしてさらにまた、それから 30 分くらいしてみんなが家路に着いた時間頃から、また雨が降り始めたのでした。その雨は翌日の朝まで降っていました。

やはりあの「てるてる坊主」さんの効果は多いにあったというべきでしょうか。来年も誕生パーティーの前の日から、また「てるてる坊主」さんを娘と作って、窓に下げておこうと思いました。

ベトナムBAOニュース

「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。
「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。

■ 大人が手本になるべき ■

SHIOMI MASATO(ニャチャンでボランティアの日本語の教師)

私は十年以上ベトナムに住んで仕事をしていて、ベトナムの若い人たちに接する機会がありますが、彼らは大変素直で、性格もいいと思います。しかし最近の新聞に載っていた、未成年者が起こしたいろいろな事件について、大変心配してもいます。

日本でも、かつて未成年者の犯罪はその率は少ないものの、確かにありました。しかし、最近は段々と減って来ています。私が思うには、未成年者の犯罪の率が高いか低いかは、子供の時からの家庭での躾と学校の教育にその原因はあるのです。

子供たちはいつも “親を手本” として見ていますが、公安警察の人が庶民からワイロを取ったりしている記事が、最近の新聞にはよく載っています。こういう問題は若い子供たちの性格に大きく影響し、道徳心とか、善悪の区別の正しさにも間違いなく影響することと思います。

日本では、子供が他の人に悪い事をしたり、迷惑を掛けたら、『いけないこと』『恥かしいこと』なのだと、両親や周りの人たちが教えています。子供時代から、周りの人に迷惑をかけないように生きてゆき、相手に失礼なことがあったら、 “ごめんなさい” と言いなさいということを教えています。

そしてさらに、 「大人は子供の手本」 として社会のルールを守ることの大切さを教えています。身近な例では、ガムを食べ終えてからそれを紙に包んでゴミ箱に捨てることなどです。もしガムの捨て方が間違っていたら、その場で親に注意されて、“良しと言うまで”やり直さなければいけません。

大人たちも子供の為に頑張って手本になるような行動をしています。母親が子どもと一緒に連れ立って赤信号を待っている時、赤信号であれば「誰でも渡ってはいけない」と、母親が教える“教育”を、横にいる子どもは重んじます。

ベトナムでは、 「道徳教育」 よりも塾で教える「 主要教科の教育」 のほうを重視しているように思います。大人は自分の子どもに<数学>とか<化学>とか<英語>とかの塾に行かせます。先生の自宅でも私設の塾を開いていますが、そこでは子供に「道徳」を教えてあげるのはすっかり忘れています。

最近の新聞に載っていることは、最近のベトナムの子どもたちは勉強しすぎるとか、習得すべきカリキュラムが多いとかですが、実際に現場で起こっている情報が少ないのではと思います。

一番の問題は、学校教育の中で主要教科の勉強内容についていけずに、生徒たちが自信を無くし、勉強を放棄して、社会に出て悪い友達と付き合い、悪事に走ったりすることです。

私はそのような悪事に走らないように、それを防止する方法を考えなければいけないと思います。初めに、学校と家庭は子供に「生徒であることの自覚」「他人に対する気配り」「社会活動に参加する」ことなどを勧めることです。

教育システムが改善し、主要教科のカリキュラムが軽減され、不要な教科を削れば、『道徳教育の時間』の比率が上がってゆくし、そもそも『道徳教育の時間』と『主要教科の時間』は同じぐらいの比率になるようにするべきです。

◆  解説 ◆

今の日本の“親子の関係”とベトナムの“親子の関係”を比べたとしたら、ベトナムの“親子の関係”のほうが、はるかに親の威厳が強いと思います。

私が住んでいるのはサイゴンの中でも下町なので、割と庶民の日常の姿が垣間見れるのですが、他人とは大きな声で罵り合いのケンカをしていても、子どもが両親に向って、口げんかをしている場面はまだ見たことがありません。

日本のお隣の韓国でも、子どもは親に対して口ごたえは許されず、絶対服従の文化がまだ強いと聞いたことがあります。ベトナムも韓国も、 『儒教文化圏』 の中の一つの国には違いありませんから、似たような文化が出来上がったのでしょう。日本はその点、ベトナムとは少し違う文化を作って来たような印象を最近感じています。

最近私は、ベトナムに来て改めて新渡戸稲造博士の 『武士道』 を読んでいて、今の日本人の根底には、昔からずっと変わることなく 『武士道の精神』 が脈々と流れているのではないかと感じています。

•  ウソをつかない

•  約束を守る

•  信用を重んじる

•  裏切らない

•  誇り、名誉を貴ぶ

•  他人に迷惑を掛けない

•  忍耐強い

これらの徳目の数々は、当時の日本の武士には共通の価値観だったことでしょうが、武士階級が消滅した今も、その中の幾つかを普通の庶民が日常生活の中で自然と身に付けているのを、私の郷里では見ることが多いからです。東日本大震災の中で東北地方の方々がとった行動にも、それが現れていたと思います。

ベトナムでは、「内」と「外」における人間関係の濃度の差は大きく、他人に対するいたわりや、気遣いや、こころ配りは、身内の人間と外の人間に対しては、「同じ人間がそういう行動をするか!」というくらい違います。

「約束を守る」という点に関して言えば、「明日 6 時に会いましょう。」と約束して、ベトナムでは時間通り来る人のほうが少ないです。 Tri さんのように定刻よりも早く来るような例外はもちろんありますが、ふつうは十人中九人は遅れてくるという確率でしょうか。「遅れて来ること」が美徳のような文化圏に住んでいるのかも・・・と、時に思うことがあります。事実、「相手の準備がまだ済んでいないであろうから、わざと遅れて行くのだ。」ということを聞いたことがあります。

街中でのバイクでの割り込みなども、その典型的な例ですね。交通渋滞の中では自分のバイクの周りにいる“他人”には遠慮も、気遣いも、譲り合いの精神もなく、 10 cmでも、 20 cmでも、スキあらばバイクで割り込んで来ます。「すみませ~ん」の一言もありません。

さらには、交通渋滞の時に道路の両側の『歩道』は歩行者の『歩道』ではなく、堂々とバイクの『車道』です。そしてバイクがバンバンと歩道を走ることに対して、公安も歩行者も誰も文句は言いません。言えばケンカになることが分かっているからです。

子どもの時から、両親がスーパーでは列を守らずに平気で割り込み、歩道をバンバンとバイクで走り、ボンボンと路上にゴミを捨てている親の光景を見ていたら、その子どもは自然と 「悪い大人の手本」 を見て育つことでしょう。しかし面白いことに、他人である「老人や弱者」に対しては、「外の世界」においても 「労わり 」や 「譲り合い」 の精神はまだまだ残っています。

私の小学四年の娘の学校のカリキュラムを見ますと、ベトナムの公立の学校でも 『道徳教育』 の時間が確かにあります。しかし一週間の中で一日だけ、それも 45 分ということでした。 SHIOMI さんが書かれたように、学校教育の指導の中で「道徳教育の指導」と、「主要教科の指導」とうまく配分を考えてゆけば、生徒たちもそれを素直に受け入れるこころは持っていると思います。

何故ならば、私が今まで教えてきたベトナムの生徒たちや、日本語クラブに集う青年たちを見ていますと、年長者や先生に対して非常に素直で、礼儀正しい若者が多いのですから。

Posted by aozaiVN