【2012年7月】熊本に行ったベトナム人の女性/率直に言うベトナムの人

春さんのひとりごと

<熊本に行ったベトナム人の女性>

ちょうど一年ほど前に、 「青年文化会館」 で毎週日曜日に開かれている <日本語会話クラブ> で知り合った、若いベトナム人女性がいます。彼女の名前は、 Ngoc( ゴック ) さん。

最初に交わした日本語での挨拶の流暢さと、彼女の容姿や雰囲気から、思わず「日本人ですか。」と聞きましたら、「いいえー!ベトナム人ですよ。」と、笑いながら彼女は答えたのでした。彼女はこの時 25 歳でした。私もベトナム滞在は短くないだけに、「ベトナム人か」「日本人か」を見間違うことはあまりないのですが、彼女の場合は間違えました。

この日にみんなと一緒に日本語クラブで話していた時、彼女はクラブが終わるまでの間、見事な日本語でずーっとベトナム人、日本人たちと話していました。そしてクラブ終了後に、彼女を含めた数人で「青年文化会館」内にある喫茶店に行きました。

そこでいろいろ彼女から、どのようにしてそこまでの見事な日本語を身に付けたのかも聞きました。それを聞いていましたら、 ( ああ~、やはりそうだったのか・・・ ) と私も大いに頷けました。

彼女は メコンデルタ の西の端にある Kien Giang( キエン ザーン ) 省 で生まれ、そこで高校までを過ごし、大学はホーチミン市内の 『 HUFLIT 大学』 に進みました。その大学で本格的に日本語を勉強しましたが、彼女が最初に日本人と出会ったのは、 15 歳の時にハノイにおいてでした。

実は彼女のお父さんの実家がハノイにあり、彼女は中学四年生の時に、ハノイの親戚の家で夏休みを過ごしていました。その親戚の家はハノイの中心部にあり、観光客相手の、主に衣類が中心のお土産屋さんを営んでいました。

そこにその年の夏、一人の若い日本人の女性がお客さんとして現れました。その日本人の女性はその店に置いてあった衣類が気に入ったらしく、ハノイ滞在中に足繁くその Ngoc さんの親戚の 店に通って来ました。

そしてハノイでの滞在が終わろうとした頃、またその店にやって来て、お目当ての品物を買い終えて店員さんたちと話していたところ、その店の中で突然バタッと倒れてしまったそうです。店の人たちも大いに驚き、どうしていいか分からず、一時呆然としていました。実は Ngoc さん もその時、その場にいたのでした。

「とにかく病院に連れて行こう!」となり、意識不明の彼女をタクシーに乗せて近くの病院まで乗せて行ったのでした。彼女の病状を診察したお医者さんは、「重い病気というのではなく、旅慣れない異国での疲労と、日射病のせいだろう。しかし、すぐ退院するにはまだ不安だし、一人でこの病院で過ごすのも寂しいだろうから、家族の誰かを日本から呼んだほうがいいだろう。」と言うのでした。

それで、彼女が意識を取り戻し、体調が少し回復した時に、彼女にそのことを話し、日本に電話してもらうようにしました。彼女のお母さんはその知らせを聞いて、びっくりして日本から飛んで来られました。

お母さんは本人と会ってから、無事であることを確認して大変安心されました。そして異国で病気になった自分の娘を、親切にも病院まで運んで入院させ、お母さんが到着するまで面倒を見てくれた、 Ngoc さんの親戚の人たちの厚意に深い感謝を示されました。事前に娘さんからもそのことを聞き、日本からたくさんのお土産も持参されていました。

その時 15 歳であった Ngoc さんは、お母さんが親戚の人たちに言葉は通じないながらも、全身で感謝の気持ちを伝えようとされているその表情や態度を見ていて、

( 日本の人は何と礼儀正しく、感謝の気持ちが豊かなのだろう・・・ )

と思ったといいます。この時初めて見た日本人である、娘さんや、お母さんの表情や態度から、 Ngoc さんは素直にそう感じました。そして将来は、

( 日本語を勉強しよう!日本に関係ある仕事に就こう! )

と決意しました。その若い女性は無事病院を退院し、お母さんと一緒に日本に帰ってゆきました。 Ngoc さんは今でも、あの時の女性に会いたいという気持ちを抱いているそうですが、その当時はインターネットの使い方も知らず、彼女の連絡先も知らないままで別れました。

その後、 Ngoc さんは 、 2004 年にホーチミン市内にある『 HUFLIT 大学』に合格し、その中にある <日本学科> に籍をおきました。そこからが、彼女が本格的に「日本語」の勉強をスタートした出発点でした。

そして彼女は 2009 年 4 月に、京都にある 『佛教大学』 に留学することになりました。「なぜ佛教大学に?」と私が聞きましたら、『 HUFLIT 大学』と 『佛教大学』は姉妹校として提携しているからということでした。彼女は、京都市内にある下宿でその留学生活をスタートしました。

彼女に京都滞在中の印象を聞きましたら、「もうー、素晴らしかったですよ。京都のお寺や庭が、特に大好きになりました。冬の寒さは大変堪えましたけれども・・・。」と言うのでした。「刺身はどうでした?」と尋ねますと、「刺身だけはとうとう好きになれませんでした。」と笑いながら答えました。

彼女はこの日本留学中に、その日本語の能力にさらに磨きをかけてゆき、 2010 年の 12 月に行われた 『日本語能力試験』 で、見事一級 ( 今の N 1 ) に合格しました。日本滞在中に合格したので、日本にいる友人・知人たち、そして故郷のベトナムにいる両親たちは、大変喜んでくれたそうです。

それからちょうど 2 年間の日本留学を終えて、 Ngoc さんは 2011 年の 4 月にベトナムに帰って来ました。そしてベトナムに帰ってからまもなく、 Ngoc さんは<日本語会話クラブ>に参加しました。そこで私たちは初めて会ったのでした。彼女はこの時に、 夕方から日本語学校で日本語の先生をしているということを話していました。

『日本語能力試験一級に合格!』 ということを彼女から聞き、すぐに私はあの < 日本とベトナムの架け橋になりたい!> と言っていたBくんを思い出し、いつか彼と引き合わせたいなーと考えていました。Bくんは今、日本の JICA( 国際協力機構 ) で働いています。最近もBくんに会いました。 JICA での給料も聞きましたが、ベトナムの一般的な給与水準から比較すれば、大変恵まれた給料をもらっています。

Bくんは、三年前に私に話してくれた < 日本とベトナムの架け橋になりたい!>という夢を、その得意な日本語能力を生かしながら、着々と実現させています。そして Ngoc さんもBくんも、同じ『日本語能力試験一級』という共通の目標に向けて努力して来ましたから、 ( 共感する部分が多いのでは・・・ ) と思いました。

そして、その機会はわりと早くやって来ました。Bくんは今も夕方から夜まで大学に通っています。 Ngoc さんも夜までは授業をしています。それで双方の授業と仕事が終わる頃に、路上の屋台に集まることにしました。

やはり二人とも年齢が近いし、日本語一級合格を目指して勉強し、見事に取得した共通点があるだけに、話が良く合うようで、大いに会話が弾んでいました。そして私が、「Bくんは一級に合格した後でも、今も毎年続けて『日本語能力試験』を受けているのですよ。」と Ngoc さんに話しますと、彼女も大いに感心していました。ちなみにBくんは、今年の7月にサイゴンで行われた『日本語能力試験』は受けなかったそうですが、 12 月の試験は毎年これからも受けるといいます。

その後何回か、 Ngoc さんとは<日本語会話クラブ>でみんなと一緒に日本語での会話を楽しんでいましたが、私は彼女にいろいろな質問をしながら、先に述べた日本人との出会いから含めて、彼女からベトナムのことについて興味深いことを教えてもらいました。

彼女は Kien Gian g 省で生まれたのですが、実はお父さんの故郷はハノイなのでした。軍人として北の政府側で戦っていたお父さんは、ベトナム戦争終結後の 1975 年に北の政府から命令されて、田舎の小学校の教師として赴任するように辞令を受けました。

南の政府側に立って戦い、活動していたベトナム人たちは、軍人であれ、公務員であれ、サイゴン陥落後に身の危険を感じて、今までの地位や身分を捨てて逃げ出しました。小学校や中学校の現場の先生たちもそうだったといいます。そうなると、田舎の学校で生徒たちに教えるべき先生の数が不足してきました。このような事例は、ベトナム南部の至るところで起こったことだろうと想像できます。

それで、 Ngoc さんのお父さんは銃を捨て、カバン一つを抱えて、単身で政府から赴任先として命じられたベトナム南部に行きました。そこが、メコンデルタの西の端にある Kien Gian g 省でした。まだ若い二十代の時でした。

そして数年後、そこでお父さんは一人の女性と出会い、結婚されました。それが Ngoc さんの、今のお母さんなのでした。そしてそこで三人の子どもさんをもうけられました。彼女は長女でした。そして今お父さんは 60 歳になり、もうすぐしたら小学校の先生を定年で辞められるそうですが、興味深いエピソードを聞きました。

お父さんは定年で小学校を辞めても、これからもまた続けて自分の家で『塾』を開こうと考えておられると、 Ngoc さんは話してくれました。しかも 【授業料は無料】 で・・・。学校の『教師』としての仕事は、お父さんは定年が来たら終わりになりますが、『先生』としての仕事は今後も自宅で続けられるというのです。

若い時には軍人としての仕事に就いていた Ngoc さんのお父さんは、小学校の先生としての仕事に就いて以来、それが <自分の天職> だという、 「生き甲斐」 を感じて来たといいます。そして、メコンデルタの田舎に住んでいるだけに、田舎の人たちの貧しさは身に染みて理解しています。

( 貧しい家庭の子どもたちから、授業料を取ることは出来ない )

と覚悟を決め、 『授業料は不要の塾』 を自宅で開かれるというのです。それを実際にやろうと決めている人が、今目の前で話している Ngoc さんのお父さんであるということに、胸がジーンとしてきました。

その後、しばらくの間は Ngoc さんも忙しい状態が続き、<日本語会話クラブ>にも顔を出せなくなりました。「日本語教師」以外の、彼女が得意とする日本語を活かした、いろいろな仕事を探しているようでした。

そうしたある日、熊本にいる私の知り合いが、今年から熊本で 『外語専門学校』 を開くことになり、そこに募集する予定の国の候補の中からベトナムを選んで、ベトナムからの留学生を新規に募集することになりました。

<現地のベトナムで、留学生の募集活動に動いてくれるベトナム人を求む!>

そういう依頼が私のほうにまで届きましたが、最初私はあまり乗り気ではありませんでした。何故なら日本で留学しているベトナム人大学生の、そのほとんどは 「勉学とアルバイト」 の二つをやり繰りしながら、苦学の状態を続けているのを見聞きしているからです。私の知人のベトナム人は今徳山の大学に留学していますが、その人も深夜は毎日コンビニで働いていると言います。

そういう時に、たまたま最近こちらの新聞に載った記事で、まさしくその点について触れたものがありました。それを読んで、<日本に留学生を送ること>について、しばらく考えました。

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<日本で働き、学ぶベトナム人留学生>

海外留学と聞けば、誰もが大金が必要と考えるだろう。しかし日本で学ぶベトナム人には、貧しい家庭出身の人も多い。教育水準は高いが物価も高い、そんな国で学生達は、学びながら働き、生活している。

■ 朝も夕も新聞を配って ■

朝2時、東京の赤門会日本語学校で学ぶBui Thi Luong Duyenは、自転車を漕いで、家から2kmほど離れた新聞販売店に向かった。東京の空は、まだ寒かった。

ベトナム人女子留学生で、新聞配達をする人は少ない。体力的に、かなりキツイからだ。この東京で、新聞配達をするベトナム人女子留学生はDuyenとあとひとり。ほか20人はみな男子学生だ。


2時30分、Duyenは軽やかにトラックから新聞を降ろすと、広告を新聞にはさみ、自転車の籠に高く積み上げて行く。

3時ちょうど、Duyenは配達にでかける。街の道という道、路地という路地を駆け回り、300部配る。配達ルートはもうお馴染み、どの家にどの新聞を配るかも、しっかり頭に入っている。「『あれ?』なんて、始めてすぐの頃のようなことは、なくなりました」。

東京では紙の新聞を読む人が多く、主に各家庭への配達で届けられている。バイクのクラクションでうるさいサイゴンやハノイと違い、早朝の東京には、新聞を配るバイクと自転車しかいない。

雨や雪の時は、作業はもっと大変だ。週末や祝日には広告がどっさり増え、仕事のプレッシャーは大きくなる。時間通りに配らなければ、お客さんからクレームが入り、給料を差し引かれることになりかねない。

約10kmの道のりで朝300部の新聞を配るDuyenは、夕方も200部を配っている。1日の仕事は5時間、学費と家賃を差し引いて、月10万円程度の稼ぎになる。貧しい家庭環境の彼女にとって、自立して生活し、来るべき大学受験に備え貯蓄するには十分だ。

■ クタクタで寝たくても、勉強は忘れず ■

岡山大学に通うPhan Nguyen Minhは、かなり裕福な家庭の出で、お金を稼がなくてもよいのだが、アルバイトをしている。

ベトナムにいる頃は勉強しかしていなかったが、留学してから意志が強くなり、この4年間彼女はずっと、夕方から夜中まで飲食店で働いている。配膳に食器洗い、調理の手伝い、そして店の清掃まで、何でもやる。

週末には、労働輸出で日本に来ているベトナム人に日本語も教えている。「仕事は忙しくて、夜帰宅すればぐったり、もう寝たいと思うこともありますが、サボらず勉強しています。勉強をすることが、最大の目的ですから」Minhは言う。

滋賀大学に通うVu Thi Ngoanはスーパーで働いている。福岡県の西日本工業大学で学ぶNguyen Tien Tungはレストランでウェイターをしている。何百という留学生が、同様に働いている。

何十年とベトナム人学生を日本に送り出してきたホーチミン市Phu Nhuan区Dong Du日本語学校のNguyen Duc Hoe校長によると、日本に留学する学生の100%がアルバイトをする。学費を自分で稼ぐこと以外に、これが社会に出る前の経験と鍛錬の場になる。勤勉で 元気な留学生には、食費や学費を払って、毎月1,000万ドン(約500ドル)程度残る人もいるそうだ。

== HOTNAM News ==

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私はこの記事の中にある、 Dong Du日本語学校 の Hoe校長先生 が語られた、 『社会に出る前の経験と鍛錬の場になる。』 という言葉に感銘を受けました。 Hoe校長先生はさすがに、確固たる信念を持って、日本に留学生を送り出しておられるのだなーと思いました。私も「そうだ!日本に行っていろんなことを学び、大きく成長してベトナムに帰ってくればいいのだ。」と思い直しました。

私自身が、Bくんや Ngoc さんのように、日本に研修で行き、留学で行きながら、立派に『日本語能力試験一級』の資格を取って母国に帰って来たベトナム人を現に知っていますので、 Hoe校長先生の言葉はこころに沁みました。

それで、「熊本にベトナム人留学生を募集したい気持ち」の思いの深さはどのくらいのものなのかを私からいろいろメールで質問して、担当者の方とやり取りしているうちに、その『外語専門学校』の本気度が私にも伝わって来ました。

「熊本で留学生活を送りながら、日本での生活費や学費をご両親に過大な負担をかけずに、本人が自分でやっていけるように、勉学の支障がないようなアルバイト先を確保したいと考えています。将来大学に進学する場合には、進路指導も面倒を見てゆきます。」ということを言われました。そして、「誰かこころ当たりの人を紹介して欲しいのですが・・・。」という依頼があった時に、真っ先に私が思い浮かべたのは、あの Ngoc さんでした。

それで Ngoc さんの経歴や能力や人柄などを紹介しました。担当者の方は大いに関心を持ち、「是非本人さんから履歴書を送ってもらうようにして下さい。」と依頼されましたので、後で Ngoc さんにもその旨を伝えました。この時に彼女はまだ夕方からの日本語の授業の仕事は続けていましたが、正社員としての仕事には就いていなかったので、彼女も乗り気になった様子でした。

その後は双方に任せることして、私は特に何もしませんでした。その後、私は日本に一時帰国することになり、熊本の担当者にそのことを事前に連絡しますと、私が故郷に滞在している間にわざわざ熊本市内から車で会いに来られました。その熱意と丁重さには私も感心しました。

私に会うや、「前に紹介して頂いた Ngoc さんを採用することにしましたので、そのご報告も兼ねて、こちらまで来ました。」と、言われたのでした。私も驚きましたが、ベトナムにいる Ngoc さんが喜んでいる顔を想像して、嬉しくもありました。

日本とベトナムと距離は離れていますが、今は Skype というものがありますので、面接はそれを使ってやったそうです。 Ngoc さんのほかに、あと一人、 Ha( ハー ) さんというベトナム人女性を採用したといいます。 Ha さんは日本に研修生として三年間滞在した経験があります。

そして採用後に分かったことなのですが、その Ha さんという女性はずいぶんおっとりしている性格のようでした。実は、採用後には日本で二週間研修してもらうために、二人の確認を取って滞在日程を決め、本人と両親の了解も取り、最後に切符の手配をしようとしました。

日本へ行く切符の手配のために、パスポートの番号について確認をしたら、何と Ha さんから、「今日パスポートを見たら、期限が切れていました~」という連絡が来て、熊本の担当者は ( はあ~・・・? ) と、驚き呆れたそうです。彼女たち二人が、この時熊本に来ていればおそらく私も会えたはずでしたが、残念ながらそうはなりませんでした。

結局その手違いのせいで、日本での二週間の研修は五月下旬からになりましたが、私はこの時ベトナムに戻りましたので、熊本では二人には会えませんでした。それで日本へ研修に行く日が決まった後、彼女たち二人が日本に行く直前にサイゴンで簡単な「壮行会」をしてあげました。そしてこの時に、私は Ha さんに初めて会いました。聞けば彼女は二児の母でした。 Ngoc さんよりも二歳年長でした。

しかしこの日にもまた、 Ha さんのおっとりとした性格が現れた出来事がありました。 Ngoc さんが言うには、彼女たち二人は明日の深夜便でホーチミンを発ち、その翌日の早朝には福岡空港に到着する予定なのでした。それで、 Ngoc さんが私に「いよいよ明日の深夜にはホーチミンを発ちますが、先方にはどんなお土産が良いでしょうか。」と私に聞いてきました。

するとそれを横で聞いていた Ha さんが、「ええっ!ベトナムを発つのは、明後日の深夜便ではないの?」と驚いて Ngoc さんに聞き直しました。 Ngoc さんは、「何を言っているのー。私たちが乗る飛行機は明日の深夜でしょう!」と答えた時に、 Ha さんの勘違いが分かりました。 Ha さんが思い込んでいた日本へ行く出発日は、 Ngoc さんが予定していた日の一日後なのでした。

しかし Ha さんの勘違いも分からないではありません。確かに、ベトナムの深夜便で予約をする時に、発券をしてもらった切符を見ると、時に間違いがあります。前夜の深夜 11 時 50 分とか、翌日の 0 時 30 分とか、日付が変わる間近の時間帯で飛行機が発つ便の切符には特に要注意です。

以前私の知り合いのベトナム人が、同じように深夜便の出発日を勘違いしていたそうで、自分が思い込んでいた日の深夜便に乗ろうとしたら、ベトナム航空の係員から、

「あなたが予約しているこの切符の便は、昨日既に出たよ。これは昨日の切符だよ。」

と言われました。彼は両手に荷物を抱えて、その場に突っ立ったまま、しばし呆然としていたといいます。

ですからそれを聞いて以来、私は <ベトナムを何日の何時に発つかだけではなく、日本に何日の何時頃に着くか> を、前もってベトナム語で書いて、切符を発券する人に手渡しするようにしました。< 日本に何日の何時頃に着くか>の部分には、その行の下に赤線でラインを引いて念押しさせます。 深夜便の時間帯は、 0 時を境にして日付が変わりますので、細かく確認しないとミスが出ることが多いからです。

しかしやはりそれでも、航空会社側が発券したのを見ると、時に出発の日を間違えていることがありました。それ以降は航空会社側がくれた切符に関しては、いつも 『到着日が間違っていないかどうか』 を、目を皿のようにしてチェックしています。

ですから、この日に Ha さんが日本へ発つ日を間違えていたというのも、十分に肯けました。しかし彼ら二人が日本へ旅立つ前日に、それが分ったということはラッキーでした。もしこの日に Ha さんの勘違いが分からないままでいたら、日本へは Ngoc さんが一人で旅立つところでした。後でそのことを熊本の知人に知らせましたら、 「冷や汗をかきましたー!」 と言う連絡が届きました。

もうすぐ熊本に行く二人を前にして、 ( そうだ!まだもし二人が食べていないのなら、 <馬刺し> に挑戦してもらおう。 ) と、私は思いました。それで、二人に<馬刺し>を食べたことがあるかを聞きましたら、 Ha さんは日本で研修生として過ごしていた時、「刺身」が大好物になったそうで、<馬刺し>もすでに食べていました。

Ngoc さんは、日本でも「刺身」自体が食べられなかったと言いましたので、私が「では、熊本では名物の<馬刺し> に挑戦して見て下さい。実に美味しいですよー。」と言いますと、「ええ~、日本の人は馬も刺身で食べるんですかー!」と、眉をしかめて驚いていました。 Ngoc さんは京都に留学していた時も、魚の刺身類自体をあまり食べなかったようなので、 <馬刺し>をまだ食べていないのは当たり前でした。

私がその Ngoc さんの質問に、「そうですよ。ただ日本全国どこででも、普通に食べているわけではなく、熊本や長野や東北地方では好んで食べられていますよ。そして熊本は特に有名ですよ。実は、私も大好物なんです。」と言いますと、「怖いですー!」と肩を震わせていました。 Ha さんは以前に食べたことがあったそうで、「そう、あのお刺身は大変美味しいわよー。」と肯いていました。

そして無事二人はベトナムを発ち、熊本に着いたという連絡が来ました。その熊本滞在中の休日には、 『熊本城』 を案内して もらったり、 『阿蘇山』 まで連れて行ってもらったりしたそうです。特に『阿蘇山』は、あのような地形は日本全国でも少ないだけに、二人はバスの窓ガラス越しに写る光景や、今も青い湖底から噴煙を上げている活火山の阿蘇の姿を、目を皿のようにして見つめていたといいます。

二週間の日本滞在でしたが、帰国後に二人に感想を聞きましたら、「大変親切にして頂きました。楽しかったです。」という返事でした。そして Ngoc さんはまた<日本語会話クラブ>に参加して来ましたので、熊本での様子をいろいろ聞きました。彼女の話では、 Ha さんは熊本に着いてすぐホームシックにかかったそうです。

まだ幼い、二歳の子どもさんをベトナムに残して来たからでしょう。朝・昼・晩と、一日三回ベトナムに電話を掛けていたといいます。深夜には一人泣いていたそうです。 Ha さんは研修生で日本に行った時にはまだ独身でしたが、この時には二人の子どもさんを育てていましたから、彼女の心情は良く理解出来ました。

幼い子どもさんが気がかりで、時には公衆電話に走って行き、そこからもかけていたそうです。 ( そうでしたか・・ ) と、わたしはただ聞いているしかありませんでした。まだミルクを飲ませてあげないといけない時期ですから、母親として Ha さんはさぞ辛かったことでしょう。

Ngoc さんとの別れ際に、「そう言えば、例の<馬刺し>は食べましたか。」と聞きましたら、ニコッと笑って、「ええ、食べましたよ。初めて食べましたが、大変美味しかったです!」と答えました。

これから、 Ngoc さんと Ha さんはいろいろな日本語学校や、留学生を送り出してくれる関係機関に足を運んで、熊本にベトナム人留学生を送る活動を始めてゆきます。二人とも非常に性格が明るく、活発で、やる気に燃えていますので、学校側の期待に十分応えてくれるのではと、私も期待しています。

二年後、三年後に、二人が送り出したベトナム人の学生たちが熊本で留学生活を送ることになれば、私も彼らに ( 熊本で会う機会が訪れるかもしれないな ) と思いますと、大変嬉しい気持ちがしてきます。

ベトナムBAOニュース

「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。
「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。

■ 率直に言うベトナムの人 ■

今から2年前に、私がベトナムに来たばかりの頃、私は自分の誕生日パーティーが終わった後、一人で泣いていた。

誕生日パーティーが楽しくなかったからではない。ベトナム人の友人の女性が、「前よりもずいぶん太ったように見えるわ。きっと楽しい旅行だったんでしょうね~。」と私に言ったからだ。私の外国人の友達が彼女に「そんなことを言うもんじゃない!」と注意しようとしたが、間に合わなかった。

旅行の期間が長引いて、二週間ほど旅に出ていたので、旅先ではさぞ美味しいものをたくさん食べて来たのだろうと彼女は思い、私にひさしぶりに会った時に、遠慮なくそういう言葉をもらしたのだった。

私がベトナムに来たばかりの頃、ベトナム人の同僚が私に向かって、「鼻が高いわねー。大きいわねー。」とあけすけに言うのを聞いて、ずいぶん腹が立ったものだった。

もともと私の肌の色は白いのだが、ベトナムの人達がよくするように、顔や腕を覆うマスクや布のカバーをしないで外出していたので、陽に焼けてすぐ肌が黒くなった。それを見てまた、「わー、黒くなったわねー」と言う。

( ベトナムの人たちは思ったこと、感じたことを率直に言うのだな )

ということがだんだんと分かって来て以来、私はベトナム人の同僚がいる前とか、ベトナムの人が近くいる場所で、体重計に乗ることはしない。見たらすぐに、「わー、重いわねー!」と叫ぶのは目に見えているからだ。

ベトナムに私が来た当初は、ベトナム語が分からなかったので、事務所の中でベトナム人の同僚たちが何を話しているのかが分からなかった。しかし、今は段々と聞き取れるようになって来たが、私から見ると理解に苦しむことが多い。

お腹が出ている中年の男性に対して、「今何ヶ月目なの?」とか、「お腹に双子さんでもいるの?」と平気で話しているのだ。被害者は私だけではなかったのだ。しかし私との違いは、言われた男性はただ笑っていることだった。

またベトナムでは、同じ名前の人が仕事場やクラスの中にいることは珍しくないが、そういう時には、「太った○○さん」とか、「痩せた○○さん」「チビの○○さん」とか呼んでいることがある。同じ名前を持っている人同士がお互いに分かり易いように、あだ名を付けて呼び合っているのだ。

私がそれに対して、「そういう言い方は本人に対して失礼よ。外国ではそういう言い方はしない。」と言うと、「太った○○さんという言い方をすると、その人は痩せようと努力するからいいでしょう。」と、ケロリとした言い方で反論するのだった。

東南アジアの中にあるベトナムと、私たちが育って来た国は、文化やマナーが勿論違うが、こういうところはずいぶん違うなーと思った。私はイギリスで生まれ、アメリカで育ち、仕事をしてきた。

私が育ってきた国では、他人に対して‐‐‐

「喜ぶような言葉」「失礼のない言葉」「褒めるような言葉」「いい言葉」

などの言葉を、選んで話すようにこころ掛けて来た。もし他人から、「あなたは最近太ったわねー」「色が黒いわねー」などと言われたら、誰しも嬉しくないだろうし、悲しむことを知っているからだ。

例えば友人が新しい服を着てきた時、「この服きれい?」と聞かれたら、たとえそう思わなくても、「ええ、きれいよ!」と答えるだろう。さらには、体の一部分(目・鼻・口・肌の色・腕や足)だけを取り上げて、「大きい」「高い」「黒い」「太い」などというようなことは言わない。

私たちは、たとえ目の前にいる人がキレイではなくても、太っていても、「あなたは美しくない。」とか、「太っているわね。」とは、口に出して言うことはまずない。

しかしこのベトナムでは、よくよく観察していると、そういうことを言われたからといって、怒ったり、言い争ったりしている場面などなく、言われたほうがただ苦笑しているだけである。私たちの国で、もしそういうことを言われたら、言われた方は「侮辱された!」と思って、ケンカになるだろう。

ベトナムの人はそう言われた時、それに腹を立てるどころか、それをサラリと受け流し、 反対に自分の欠点を敢えて強調して、相手に反論している場面がある。「私の肌の色が黒いのは、健康な証拠よ。」「鼻が低くて横に大きいのは、息がしやすいからよ。」とか。

最近では私もだんだんとベトナムの文化や習慣が分かって来たので、以前よりも怒ることが少なくなって来たように感じる。特筆すべきは、アメリカにいた時のように、毎日鏡を見ることが少なくなったことである。

自分で毎日鏡を見なくても、

「 ALICE !今日の化粧はきれいよ。」「その口紅の色はあまり美しくないわ。」「そのヘアー・スタイルはステキよ!」「もっとアイラインを薄くしたら?」

などと、ベトナムの人たちは見た感じをそのままを正確に、鏡の代わりに率直に言ってくれるからである。

ALICE CARNEY ( イギリス人 )

◆ 解説 ◆

ALICE さんが言われた最後の文章には、思わず笑いました。 「ベトナムでは鏡を見ることが少なくなった。ベトナムの人が鏡の代わりをしてくれるから。」 という箇所です。

私は男性なので、 ALICE さんが述べられたようなことには今まで鈍感でしたが、「美しくあること」をいつも気にする女性の立場からしたら、 ALICE さんのような気持ちになるのかなーと、思いました。

確かにベトナムの人を見ていますと、男性も女性も思ったことをズバズバ言う人たちがいます。相手の感情などあまり気にしないで、感じたことをそのまま発言しているような印象を持ちます。相手がそれを聞いてどう受け止めるかなどという意識はなく、ただ思ったことをそのまま口にしているという感じです。

例えば、私が新しいズボンを穿いて目の前に現れたり、キレイな色のシャツを着て出勤したとします。すると、私本人は全然昨日と変わっていないのに、「わー!今日はキレイなシャツですねー!ハンサムですねー。」という声が教員室や、教室の中から上がって来ることがあります。

何のことはない、本人は昨日と同じそのままで、ただ昨日とは違う新しいズボンを穿き、普段とは違う色のシャツを着て行っただけなのですが、同僚の先生たちや、生徒たちまでがそういう反応を示すのです。

反対に、ベトナム人の趣味や好みに合わない色のズボンやシャツを着て行くと、露骨に「 sau qua( サウ クワー )! 」と言います。「良くない」という意味ですが、特に女性がよくそういう言い方をします。

そういう意味では、私も「ベトナムの人たちは、思ったこと、感じたことをそのままストレートに言う。」ことが、ベトナムの文化様式なのだというのがだんだんと理解出来て来ました。 ALICE さんも、そのような体験は母国にいる時にはして来なかったことでしょう。

『物の好き嫌い』 『人の好き嫌い』 も、ベトナムの人はハッキリといいます。日本人によくある <まあまあな言い方> はあまりしません。たまにベトナムの人を日本料理屋さんに連れて行って、何種類かの料理を食べさせたとします。すると、値段の高い・安いに関係なく、「これは美味しい!」「これはまずい!」とハッキリ言います。

日本人である私としては、「まああま美味しいです。」という答えよりも、ハッキリとそう言ってくれたほうがいいのです。その後また日本料理屋さんに行く時には、その人の味の好みが分かっているので、前回食べて「これはまずい!」と言った料理を頼む必要はなく、無駄な出費をしなくて済むというものです。

Posted by aozaiVN