【2012年8月】不思議な人・・・『さすらいのイベント屋』 NM さん/ベトナム語を話すとき喜んで迎えてくれる

春さんのひとりごと

<不思議な人・・・『さすらいのイベント屋』 NM さん>

( そろそろサイゴンに来る足音が近付いて来たような・・・ )

ふとそのような予感がして、私が携帯からメッセージを NM さんにそのままの文句で送りますと、「ひぇーっ!何で分かったの?その通り、今ダナンにいるけど、明日サイゴンに入るよ!」と、すぐに返事が返って来ました。

そしてその言葉通り、翌日に私たちは会うことが出来ました。それは七月末のことでした。そこには、IT会社の社長・ KR さんもいました。 NM さんは、「何の連絡もしていないのに、なぜ私が来るのが前日に分かるのだろうね~。前も同じようなことがありましたねー。」と不思議がっていました。

確かに以前にも一度、「そろそろ NM さんがサイゴンに来るような予感がしますが・・・。」と、同じように携帯からメッセージを送りましたら、お互いに何の連絡もしていないのに、 NM さんはたまたまその翌日にサイゴン行きを予定していたらしく、その時も驚かれていました。まあ、たまたまと言えばたまたまなのですが・・・。

NM さんとの最初の出会いは、 1999 年の初めの頃だったような記憶があります。その当時、一区にある レー タン トン通り に、 <日越喫茶 ひろば> がオープンしていて、昼食後に浅野さんや私たちは暑さしのぎに、そこでコーヒーを飲んでしばしの時間を過ごしていました。その喫茶店には、いろいろな日本人やベトナム人が出入りしていました。

そこで初めて、私は NM さんと知り合いました。そして彼から、 「日本ベトナム友好協会愛知連合会」 の代表をされていたT先生も紹介して頂きました。 カンザー への マングローブ植林にも一緒に同行して、そのお手伝いをさせて頂いたこともありました。しかし、NMさんが一体何の仕事をしているのかについては全然知りませんでした。

その後 NM さんは ベトナムの中部・ホイアン で生活されることになりました。そこでの見聞を、ベトナムの日本人向けの雑誌に「ホイアン便り」 として記事を載せられていたことがあります。サイゴンにいる私も、月に一度雑誌に載るその記事を興味深く、懐かしく読んでいました。

そしてそのホイアンで、 2001 年 7 月に日本人スイマー男女二人による、【 18 kmの遠泳】を企画し、実現させます。そのスイマーの男性の H くんのほうは私も良く知っている若者でした。彼はまだ 20 代の若さでしたが、 JICA の 青年海外協力隊員 として、ホーチミン市内でベトナム人の水泳の指導に当たっていました。私は<喫茶 ひろば>で、彼と知り合いました。スポーツマンらしい、大変快活な青年でした。今でも彼に会いたいなーと思うことがあります。

NM さんも同じくそこで H くんに会い、彼の活動を聞いて興味を惹かれ、その後彼にホイアン沖の島からビーチまで遠泳の企画を持ちかけたら、「面白そうですね。いいですよ!」と、二つ返事で引き受けてくれたそうです。そしてその二人の日本人は、ホイアン沖の難しい流れを最後まで泳ぎ切りました。

このイベントの成功は、地元の新聞や全国紙にも載り、テレビでも放映されました。さらに続けて、翌年の 2002 年 4 月には、何と 11 名もの日本人スイマーがホイアン沖にある チャム島 から クアダイ・ビーチ までの 18 キロを泳ぐことに見事成功しました。

彼ら 11 名の人たちは、日本人初の <ドーバー海峡単独横断> を成し遂げた 「大貫映子さん」 が主宰する 海人(ウミンチュ)クラブ のメンバーで、ロングスイムのベテラン揃いだったそうです。しかし、そういう人たちまでを動かして、ベトナムのホイアンへ連れて来る力というのはすごいことだと思います。

その後 NM さんとは、ホイアンに彼が行ってからは会うこともなくなりました。風の便りに、ホイアンの後にハノイに行き、そこで <日越喫茶 ひろば>と同じように、 日本人向けの喫茶店を開かれたということは聞きました。しかしそれ以降の消息はぷっつりと絶えました。

それから約十年間が過ぎました。その NM さんとの『十年ぶりの再会 』 は、実に思いがけない形で訪れました。 2009 年の十月頃に、 IT 会社の社長・ KR さんから、

「ベトナム戦争当時にバナナを植えていたあの Y さんに、ベトナム戦争当時のことについていろいろ話を聞きたいという人が私に連絡して来られました。しかし、当の Y さんは今日本に帰国されていますので、 Y さんを良く知るあなたが来て頂けませんか。その人に会うのはベンタン市場の屋台村です。」

という依頼が私にありました。私は「いいですよ。」と答え、夕方頃にそこに行きました。すでに二人は先に着いていて、 KR さんが私の方を見て手招きされました。そこには、もう一人の中年の方が私に背中を向けて座っておられました。おそらくその方が、 KR さんに連絡された方だろうなーというのは分かりました。

私がその人の前に回って、お互いに顔を合わせようとして驚きました。その方は、あの NM さんなのでした。彼もすぐ私に気付きました。しかし約十年ぶりの再会でしたので、彼も口を開けてポカ~ンとしていました。 NM さんは椅子に座ったまま、すぐ眼の前に立っている私をしばし見つめていました。

そして、 KR さんに「まさかこの人が、ベトナム戦争当時を知っている人ではないでしょうね。」と聞いていました。 KR さんは「ええーっ!二人は知り合いだったのですか。」と驚いていました。私も KR さんがこの日に会う人が NM さんだとは全然知りませんでしたので、この時には私たち三人全員が驚いたのでした。

しかし久しぶりの再会を私たちは大いに喜び、それから話が弾みました。ハノイでやっていた活動についても、いろいろ話してくれましたが、今はまた活動の舞台を中部の、ダナンとホイアンに戻しているということでした。最近見たあるテレビ番組の中で、 NM さんは次のようなことを話されていました。

「やはりベトナムの中部が好き。ベトナムの中部を日本に紹介したいということで、今までもいろいろな活動をしてきました。これからもそれを続けて行きたい。」

「特にダナンは大きな都市でありながら、自然環境に恵まれていて、海があり、山があり、湾があり、そして川がある。これだけの大自然が大きな都市を囲んでいるというのは、世界の中でも少ないと思います。」

しかしそれにしても不思議だったのは、 KR さんと NM さんはこの日、この時が初対面だったことです。「どうして KR さんを知ったのですか。」と私が聞きますと、 NM さんがベトナム戦争当時に元日本兵の活躍を描いた本を探していた時に、 森村誠一 さんの 「青春の源流」 という本があるのを知りました。

それで何とかそれを読みたく思い、ベトナムでいろいろ探していた時に、 KR さんが持っていることを突き止め、それで直接 KR さんに連絡を取ったというのでした。そして、 KR さんがベトナム戦争当時のベトナムに滞在していた Y さんとも面識があることも知りました。 KR さんは見ず知らずの人から突然電話がかかって来て、その依頼を聞いた時に大変驚いたと言われていました。

私はそれを聞いて、「へえー、そうでしたか・・・。」と、「青春の源流」という一冊の本が結び付けたこの “縁” に、実に不思議な思いがしました。この本は KR さんがベトナムに行く前に、山岳仲間からプレゼントされたという本なのですが、最初に KR さんが読み、その後、 NM さん、 Y さん、 SB さん、そして最後に私まで回し読みされました。

後日談になりますが、 2011 年 2 月末に、 メコンデルタの島 ・ Cai Be( カイ ベー ) へ 、 元日本兵・古川さんの 三十六回忌 のために訪問しました。この時には全員で八人が参加しましたが、そのうちベトナムにいた五人がその本を読み終わり、その内容を共有していました。

ですから、一冊の本が取り持つ“縁”が、メコンデルタで生涯を終えた、古川さんの法要まで続いていたというべきでしょう。それで 2011 年 2 月に Cai Be を訪問した時のことを、 Y さんが多感な二十代の青春時代をそこで過ごしたことも重ね合わせて、 < メコンに流れる『青春の源流』 と表しました。

何事にも好奇心の強い NM さんですから、 その日の法要のことは、事前に彼に も知らせていました。その時には NM さんは仕事でハノイに滞在していましたが、「万難を排してでも参加したいと思います!」と言われていましたが、その言葉通りに当日の朝一番の飛行機に飛び乗ってサイゴンまで着き、ベンタン市場前で待っていた私たちに合流されました。

十年ぶりの再会を機にして以来、その後 NM さんがサイゴンに来る時には、必ず会うような交流が続いて、今に至っています。大体一ヶ月に一回くらいのペースで会っています。 NM さんは今年 63 歳になりますが、会うたびに、話をするたびに、別れるたびに、私が NM さんから受ける印象は、

(実に不思議な人だな~)

という感を強くしています。

いつの頃からかは知りませんが、 NM さんを評して、ベトナムにいる周りの人たちから『さすらいのイベント屋』というあだ名が付いたそうです。私は昨年そのあだ名のことを知りましたが、十年以上も前からNMさんを知る私には、実に言い得て妙という感じがします。

最近私が頂いた NM さんの名刺には、 「ダナン人民委員会・ダナン外務局 顧問」 という肩書きが記されていました。日本人にして、ビジネス関係や投資目的で人民委員会や外務局と繋がっている人は数多くいますが、 NM さんのように利害関係無しで、純粋なイベントを通してそこまでベトナムの政府側に入り込んでいる人は、あの フォト・ジャーナリストの村山さん 以外知りません。村山さんは、ホーチミン市の “名誉市民” の称号を貰っています。( Cai Be を訪問した時に、 NM さんと村山さん は初めて顔を合わせました。)

しかし NM さんの性格を考えると、(さもありなん)とも思えてきます。彼は初めて出会う日本人であれ、ベトナム人であれ、きさくに「やーやー、初めまして!」と、相手の懐に気軽に飛び込んでいける陽気な性格を備えています。実に素直に自分の気持ちを表に出して、初対面の人とも応対出来る能力がありますので、ベトナム人の中にも彼と好んで交友を結んでいる人たちが多いのでしょう。 NM さんには、

「いろんな人を結び付け、いろんな人を動かす能力があるな~。」

と最近つくづくと感じています。

そして 2004 年 5 月には、ハノイ市郊外の Thai Binh( タイビン ) 省 で , あの有名な 写真家・ロバート・キャパ氏 の 【没後 50 年の追悼式】 を、キャパが亡くなった現地まで実際に足を運んで行いました。その最初のきっかけは、ハノイで日本人の写真家とたまたま話をしていたことからでした。

二人で話していた時に、その写真家の方がキャパ氏の一生を追いかけている人で、キャパ氏が地雷を踏んで最期に亡くなった場所をほぼ特定されました。それが、 タイビン省キェン・スァン村 でした。写真家・キャパ氏が亡くなったのは、 1954 年 5 月 25 日のことでした。

そして、ちょうどその 50 年後の 2004 年 5 月 25 日に、 【没後 50 年の追悼式】を是非やろうということになり、 NM さんが呼びかけ人となって、いろんな人たちや、関係機関に 「声」 をかけてゆきました。今生きていれば、 90 歳になるキャパ氏を偲ぶためにです。以下がその「声」です。

◇  ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 

まもなくそれから 50 年後の 5 月 25 日がやって来る。

本当にロバート・キャパは死んだのだろうか?
それなのに、なぜいまだキャパが気になるのだろう。
それはまだ、キャパが鮮明に生きているからだ。
50 年前に死んだ一人の男に会いにゆくのではなく、まだ生きているキャパに会いに行こう。

1954 年 5 月 25 日(火曜日)ベトナム、ハノイ南東 70 キロ、紅河デルタの町ナムディンからタイビンに向かう途中の小川で 3 時、ロバート・キャパは地雷を踏んだ。

直前まで一カメラマンに徹した彼の姿を 90 歳のロバート・キャパを偲んで、 2004 年 5 月 25 日、ベトナム紅河デルタの町、タイビンに出かけよう。

キャパはまだ生きているのだから。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

その日の参加者は、日本・ベトナム合わせて約五十名が集まりました。そして、追悼式が始まって献花の時には何と二百名以上になったといいます。さらには公安警察まで飛んで来て交通整理にあたり、大変な賑わいを呈したそうです。天国のキャパ氏も、異国の人たちがそれだけの追悼式を営んでくれて、さぞ喜んでくれたことでしょう。

ホイアン、そしてタイビンでの行事だけでは終わらずに、さらに続いて、 NM さんはダナンの地で、驚くべき 「イベント」 を実現しました。ダナン市 郊外には、聖なる山として崇められている 「五行山」 があります。

その山の中には、天然の洞窟を利用して仏教寺院が作られました。その寺々では、17世紀に観音像を作るために寄付を募り、その当時ホイアンに住んでいた日本人もその寄付に賛同して、今でもその名前が石碑に刻まれてあるといいます。

ホイアンは 15 ~ 19 世紀にかけて交易の拠点として栄えた町で、 17 世紀頃には日本も朱印船貿易でホイアンに進出し、ここにいわゆる<日本人町>を作っていました。私も五回ほど訪れました。外国人観光客には、ベトナムの観光地の中ではハロン湾と、このホイアンが一番人気があります。

そして当時ホイアンで活躍していた日本人たちと、ホイアンに 築かれた日本人町の姿を絵巻物にして生き生きと描いたものがホイアンに現存していました。 NM さんは、ホイアンでその絵巻物の存在を初めて知りました。その絵のパネルが 「海シルクロード博物館」 に展示してあったのでした。

その絵巻物は、 日本の商人の <茶屋新六> が制作させたものでした。当時 茶屋家はベトナムと朱印船貿易をしていたそうです。 その絵巻物は、「茶屋新六 交趾国渡海図」と言います。『 交趾国(こうし)国 』 とは、今のベトナムの国のことです。

今見れば実に貴重な資料とも言うべき「茶屋新六 交趾国渡海図」が、ホイアンで展示されていました。その絵巻物の長さは五mにもなり、およそ四十日間にもおよぶ旅の様子が描かれているといいます。

その後 2000 年 3 月に、 たまたま NM さん が名古屋に仕事で赴きました。そして、 当時日本ベトナム友好協会愛知連合会の代表をされていた高校教師・T先生に連れられて、 名古屋市内のお寺 『情妙寺』 を訪問さ れました。そこで初めて、本物の 「茶屋新六 交趾国渡海図」の 絵図を自分の眼で見ました。

その原本自体は、名古屋 の「情妙寺」にあったのです。今は 、愛知県の県指定文化財になっているそうです。 そしてそこ 情妙寺 には、 「観世音菩薩画 」が 400 年間も絵図と一緒に大切に保管されてい – ました。

それは 400 年前の昔に、ベトナム中部の領主が、五行山の寺院から貴重な「観世音菩薩画」の仏画を受け取り、朱印船貿易でホイアンを訪れた日本人、<茶屋 新六>にその仏画を贈られたものでした。寺院から贈られた大切な「観世音菩薩画」を、ある一人の日本人、『茶屋 新六』に贈ったのですから、よほど気に入られたのでしょう。

それ以降、その仏画は今にいたるまで名古屋市の情妙寺に保管されているのでした。それを見た NM さんは、その「観世音菩薩画」をダナンのお寺に里帰りさせて、その菩薩画を奉納したいものだという夢を持ち続けました。

そして遂に、 2010 年 2 月 23 日に名古屋・情妙寺の住職と檀家の人たちがはるばる日本から来られて、五行山のお寺に「観世音菩薩画」を奉納されたのでした。五行山のお寺に登る時には階段を登らないといけませんが、 NM さん自らその「観世音菩薩画」を両手で恭しく持って、一段・一段と階段を踏みしめて登って行く様子がテレビで放映されました。

この「イベント」は、実に NM さんが歴史の中に埋もれていた事実を自ら掘り起こして、 400 年後になってその奉納式を実現させたと言っても過言ではありません。ベトナム側でも大変な感動を持って受け入れられたそうです。ベトナムのテレビにも、その当日の様子が放映されました。

次に『さすらいのイベント屋』 NM さんが考えている「イベント」は、 『ダナン マラソン』 の実現と、ダナン市の五行山の麓にある場所に、 『日越友好・歴史文化交流センター(博物館)』 を建設すること。そして、 1999 年にユネスコの世界遺産に登録された、 古代チャンパ王国 の遺跡 My Son( ミー ソン ) の遺跡 の近くで温泉を掘り当てて、温泉街を造ることなどです。

「ダナン ハーフ マラソン」 は、 2010 年 3 月に実施されましたが、次に NM さんは 「ダナン フル マラソン」 を企画しています。その時には、日本からも有名なマラソン選手を呼ぶ予定だと言われていました。

そのマラソン大会以上に大掛かりで、スケールが大きいのが、 『日越友好・歴史文化交流センター(博物館)』の建設です。「 ダナン フル マラソン」と、温泉街のことはただの“話”として私は聞いていました。彼の口ぶりでは、「ダナン フル マラソン」については、具体的に煮詰まって来てはいるような“話”でした。

しかし、 『日越友好・歴史文化交流センター(博物館)』については、すでに一年以上前から、 NM さんが自ら書いた企画書を 私自身が 頂いていました。その時は、どういうつもりで私にくれるのか良く分かりませんでしたが、いろんな人たちにそのプロジェクトの存在を知って欲しい、広めて欲しいということだったのだろうなあ~と思います。

A4 にして五ページになる、 NM さんから頂いたその企画書は、施設の名称、建設予定地、目的、支援機関、資金、博物館に展示する内容物、総合文化公園の建設・・・などなどが、詳しく書かれています。その着工は 2012 年末で、完成予定が 2014 年末になっています。

ダナン市のホーム・ページを見ますと、その NM さんが書いた企画書のままの博物館の名前と、建築物の内容が書かれていました。そしてこの NM さんの企画は、 2011 年 12 月 1 日に、正式にダナン市の人民委員会に承認を得られました。その概要は次のようになっています。

「建設面積は 5,000 平方メートル、総合文化公園には、日越友好・歴史文化交流センター(博物館)建設貢献者の碑、日本庭園、日本寺、茶道など日本の伝統文化を学ぶ和室、剣  道など日本の伝統武術を学ぶ武道館、日本映画上映、日本語学習、日本文化紹介などの交流活動用多目的ホール、両国の文化歴史経済に関する書籍を集めた図書館の建設を予定。」

7 月末に来られた NM さんに、「その博物館の実現の可能性はありますか?」と聞きましたら、「今着々とその準備を進めていますが、実現性の感触は高いものを得ています。」と答えられました。そしてわたしはある日、ダナン市のホーム・ページの中にある写真を見て思わず嬉しくなりました。

それは、先月末にサイゴンに来た時に、「ダナン空港を飛び立ってすぐに、上空から五行山が鮮明に見えたので、思わず窓越しにカメラで撮りました。」と、 NM さんが私に直接見せてくれた写真と同じなのでした。あの時私に見せてくれた写真を、おそらくダナン市に提供されたのでしょう。

上空を飛ぶ飛行機の中から眼下に見えた五行山の美しさを見て、その瞬間を逃さずに写真を撮ったと説明されました。そういう意味では、ダナン市のホーム・ページには NM さんの思いや、文章や、写真などが数多く採り入れられているなーという感を深くしました。もともとが、彼の熱い『燃ゆる思い』から飛び出て来た 【博物館構想】 ですから、それも当然かもしれません。

NM さんはベトナムの中部のホイアンと関わって以来、次のようなことを言われています。

「 これからは、人生最期はホイアンでと勝手に決めている。安寧に会う街、ホイアン ≪会安≫の街づくりと街を売り出す仕事・活動ができないかと考えている。それまでは、ベトナム及び近隣各国を仕事、ボランティア等で回って、果たして自分が人に対して何が出来るか、楽しく時に悶えながら自分を試し続けたい。」

不思議なことに、どうも最近毎月の末頃になりますと、 ( そろそろサイゴンに来るのでは・・・ ) と、 NM さんの足音が近付いて来るような響きが聞こえてきます。

ベトナムBAOニュース

「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。
「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。

■ ベトナム語を話す時、喜んで迎えてくれる ■

「その国に住んだら、その国の言葉を覚えたほうが良い」

私はいつもそう考えていたので、昨年私がホーチミン市に住むことになった時、最初 <外国人にとってのベトナム語> は大変 “勉強しにくい” と聞いていたけれど、私は「ベトナム語を勉強しよう!」と決心しました。

私は英語を話すことが出来、さらにフランス語も勉強してきました。ベトナム語は、私の母国語以外では、アジアで初めての外国語になりました。そして、ベトナムの土を踏んで二週間後に、私はベトナム語のクラスに入って勉強することになりました。

私の周りにいるベトナムの人たちの輪の中に入り込んで一緒に付き合ったり、生活を共にしたりする時には、ベトナム語を勉強しておいたほうがいいという、簡単な目的からでした。しかしながら、私のこころの中では、この難しい言葉を理解できて、何とか征服したいという秘かな夢もありました。

私のベトナム語のクラスには、いろんな国籍の人たちがいます。イギリス、フランス、日本、韓国などなど・・・。このように、ベトナム語を初めて習うクラスの中には様々な国の人たちがいるのですが、基本はベトナム語だけで授業を進めてゆきます。もしどうしてもベトナム語だけでは理解出来ない、難しい言葉が出て来た時には英語で説明してくれます。

私には、そのクラスの中で教えてくれる二人の先生以外にも、日常生活のベトナム語を教えてくれる、もう一人のベトナム人の“女の先生”がいます。それは“お手伝いさん”です。この“先生”は、私がベトナム語を習い始めたのを知ってからは、嬉しい顔をしてくれます。

毎日私がベトナム語のCDを聞いている時にも、お手伝いさんはニコニコして笑っています。さらに私が何回も同じ単語を一人でブツブツと発音している時、その単語の発音が間違っている時には、正しい発音を教えてくれたり、またある時には宿題の世話もしてくれます。

その人はベトナム人の友人でもあります。いつも熱心に言葉を説明してくれたり、食べ物の名前やその意味を説明してくれるので、料理がさらに美味しく感じられます。

ベトナム語を勉強している中で、いろんな言葉を学びましたが、ベトナム語の中で最も難しいのが、人に呼びかける時の『呼称』です。年齢が自分よりも上か下かによって、相手に呼びかける言葉が、“おじいさん”“おじさん”“お兄さん”“おばあさん”“おばさん”“お姉さん”“お姉ちゃん”・・・などなど、実に様々に変化するので、これを上手に使いこなすのは、外国人にとって至難の技です。しかし当然なのですが、ベトナムの人たちは毎日の生活の中で、これらの言葉を自然に使い分けているのです。

毎日ベトナム語を勉強すればするほど、いろんなことが容易に理解出来るようになります。ベトナム語で書いてある住所がはっきりと読めるようになると、バイク・タクシーの運転手さんは間違えることなく、そこへ連れて行ってくれるようになりました。

しかし、まだベトナム語を知らないでいた時には、大変時間がかかっていたものでした。喫茶店で私がウエイトレスに「お姉さん、アイス・ミルク・コーヒーを一杯頂戴!」とベトナム語で呼びかけると、ニコッとした笑顔をしてくれます。

最近私は ハノイ と サパ を旅行した時、ベトナム語を勉強していたおかげで大変助かりました。チケットを変更する方法や、列車が何時に出るかを聞き出すことが出来たり、駅を探すような時、学校で学んだベトナム語が大変役に立ちました。さらには、私がベトナム語で交渉などをしている時に、周りのベトナムの人たちがいろいろと世話を焼いてくれました。

最近サイゴン市内を歩いている時に、顔見知りになったベトナム人から、「キレイだね!」と声を掛けられるようになりました。ベトナム語の学習を通して、ベトナム人の学生や先生、さらに外国人同士の結び付きも強くなり、多くの仲間が増えてきました。

授業が終わった後に、女性の先生が生徒たちを招待してくれて、私たちに <バイン・セオ> を作ってくれたりします。また、授業がない時でも女性の先生がベトナム語でショート・メッセージやEメールを送ってくれることがあります。これは、ベトナム語の文法や単語をどれくらい覚えているかの確認のために、先生がそうしているのです。

時間が経つのは速いもので、もうすぐ私はベトナムを離れないといけません。私の最初の目的である「ベトナム語を征服する」までのレベルにはまだ到達出来ていませんが、私がベトナム語で話している時、みんながそれを理解してくれているのは大変嬉しいです。もし今後、別の外国語を勉強したとしても、ものに出来る自信が付いて来ました。

このままずっとベトナムにいれば、ベトナムのことわざにあるように、

“台風ですら、ベトナム語の難しさには敵わない。”

というほどの、 【ベトナム語の難しさ 】を征服してやろうと思いました。

EVELYNE KRISTANTI ( インドネシア )

◆ 解説 ◆

ベトナム人にとっての日本語、日本人にとってのベトナム語、それぞれがやはり【難しい】ものです。特に日本語の中の 『敬語』 の使い方の難しさは、ベトナム人に限らず、日本語を学ぶ外国人の多くの人を悩ませる最たるものでしょう。日本人にすら難しいのですから、それも当然といえますが・・・。

しかしまた、 EVELYNE さんが言われるように、ベトナム語の中の 『 ong 』『 bac 』『 chu 』『 co 』『 anh 』『 chi 』『 em 』『 con 』 などの『呼称』も、ベトナムに住む外国人にとって、これを正確に使いこなすのは至難の技です。

この記事のことが頭の中にあったので、先日「日本語会話クラブ」でこの 『呼称』 についてベトナム人の若者たちに聞いてみました。毎週ここには 20 代初期から 30 歳前くらいまでの年齢の人たちが集まります。

私の前に座った数人は、 20 代初期でした。「私があなたたちを呼ぶ時には、『 em 』と呼べばいいのですか。」と私が聞きますと、「いえ、『 chau 』です。」と、言下に答えたのでした。『 chau 』という言葉は、『孫』という感じなので、「ええっ!」と一瞬驚きました。(しかしまた、私の同級生の中には「孫が出来たぞ!」というのが何人もいるなー、と思い返しました。)

「では、あなたが私を呼ぶときには何と呼びますか。」と、私の目の前にいた、 20 歳の青年に聞きますと、「あなたは『 bac 』と呼ぶべきでしょう。」と答えたので、これまた「ええーーっ!」と驚きました。『 bac 』と言えば、 「 Bac Ho( ホー おじさん ) 」を連想しますので、

( 自分はホーおじさんと同じ年齢に見られているのだろうか・・・? ) と、複雑な気持ちになりました。

みんなにいろいろ聞きますと、 50 代の男性は 『 chu 』、 60 代では『 bac 』、 70 代を超えると『 ong 』というそうです。しかし、これはあくまでも大まかな目安で、他の人にも聞きますと、また違う呼び方をします。

「 Bac Ho( ホー おじさん ) 」は特別で、 10 歳の子が呼んでも、 20 歳の青年でも、 50 歳・ 60 歳のおじさんでも、 70 歳のおじいさんでも、誰が呼んでも、統一して「 Bac Ho 」となるそうですので、ホーおじさんと同じ年齢だから、 『 bac 』ではないということです。

ベトナム人女性で、年配の日本語の先生に聞きましたら、また違う説明をしてくれました。彼女によると、

「あなたの年齢を想像して、あなたが(自分の父よりも年上だな)と思えば、『 bac 』。あなたが(自分の父よりも年下だな)と思えば、『 chu 』と呼びます。」

と言うのです。これまた、何と複雑な使い方ではないかと思いました。

最初にいちいち年齢を聞いてから、『呼称』で呼びかけるわけではなく、あくまでも眼の前にいる人の年齢を(大体○○歳くらいだろう・・・。自分の父よりも上だな、下だな。)と想像して呼びかけているわけです。とすれば、人によって同じ人物にも当然違う呼び方が使われるということです。

こういう言葉は、子どもの時から空気を吸い込むように、自然に吸収してゆかないと、大人になった外国人がベトナムにやって来て、それからベトナム語を勉強しても、ベトナムの人と同じレベルまで使いこなすことはまず不可能でしょう。使っても、間違うことのほうが多いでしょう。

ベトナムにいることが十五年目を超えた私もやはり、 “台風ですら、ベトナム語の難しさには敵わない。”と、同じように感じています。

Posted by aozaiVN