【2013年1月】バイクでカンボジアへの旅/旅行を宣伝する“指揮者”が必要
春さんのひとりごと
<バイクでカンボジアへの旅>
● サイゴン ⇒ プノンペンへ ●
2012年12月30日から、2013年1月1日まで 『カンボジア』 へ、私の友人一人とバイクで行きました。友人の通称は「コッシーくん」と言い、年齢は50歳半ばで、ベトナム在住13年くらいになります。
彼は今までバイクで、サイゴンからハノイまで縦断したことがあります。カンボジアにも、バイクで四回くらい行っています。その彼と、出発前日に打ち合わせをしました。旅慣れた彼に、事前の準備物を一つ・一つ確認してメモ帳に書き込みました。
私が全ての準備物を書き終えた頃、彼が「ところで、普段は何キロくらいのスピードで走っていますか。」と私に聞きましたので、「 40kmくらいですよ。」と言いますと、「それは遅いですねー。私は70km~80kmくらいのスピードで走っていますが・・・」と言うのでした。
それを聞いて驚きました。サイゴン市内ではとてもとても、そんなに速いスピードでは危なくて走れるものではありません。バイクや車が少ない田舎道を走る場合は別ですが。しかし、結果として、今回のカンボジアとサイゴンを往復した時、田舎道のところでは、私も彼の後を追いかけて、 70kmくらいのスピードを出して疾走しました。
12月30日の出発日。私たちが待ち合わせた場所は、 <ベンタン市場> 前。そこを、ちょうど11時に出発。バイクのメーターを見て、出発前の数字を記録しました。出発時の服装は、彼から受けた【バイクツーリング】のアドバイス通りに、長袖のシャツ、サングラス、手袋。マスクを着用。
走るルートは、サイゴンからプノンペンまでほぼ一直線のルートです。先ずは、ベトナムとカンボジアの国境にある町・ Moc Bai(モク バイ) のを目指して走ります。市内を抜けて、バイクや車や家々が少なくなって来た頃に、いつものウキウキとした昂揚感をバイクの上で感じて来ました。不思議にも、バイクでの旅の始まりには、いつもこのような感じを覚えてきます。
12時20分に、Moc Baiの手前でお昼ご飯。 「Tay Ninh(タイ ニン)省Trang Bang(チャーン バン)郡」 と看板に出ています。ここの名物の、 「Banh Canh Trang Bang (バイン カイン チャーン バン)」 を頂きました。何が名物かというと、添えられた野菜類の量がすごく、皿一杯に山盛りで出されることです。ここまでで、サイゴンから約 49km走っていました。
彼に話を聞きますと、カンボジアの Moc Baiの通関を出てからは、約115kmでフェリー乗り場に到着。そしてそこから60kmくらいで、プノンペン市内に着くとのことでした。「おそらく夕方6時過ぎくらいには着けるでしょう。」と、彼は話していました。
そしてお昼ご飯を食べ終えてすぐに、 Moc Baiの通関に到着。ここから先はコッシーくんの指示に従うだけです。バイクを停めて、通関のほうに行きました。手荷物の中身も調べられるからということなので、X線検査を通す機械の場所まで荷物を持って行きましたが、そこは無人・・・。係員は誰一人いない。結果としては、フリーパスでした。
そしてそこからバイクを手で押して(どういうわけか、バイクを走らせてはいけないようで)、カンボジア側の国境の町・ Bavet(バヴェット) の通関の建物まで行きました。 Moc Baiの通関から3分ほどで着きました。
Bavetの通関内に入り、VISAの申請手続きをしたいと思うものの、この時そこには係員は誰もいませんでした。「おお~~い!」と、大声を2・3回出していると、ようやく男性が一人現れて、無事に手続きが完了しました。入国手続きは実に簡単でした。そこでビザ代として22ドルを払い、無事にカンボジアに入りました。
しかし、 Bavetの通関の建物は同じ通関の建物とはいいながら、ベトナム側の建物と比べると、大変優美でした。こういう公共の建物にも、カンボジアの人の篤い宗教心が表れているなあ~と感じたことでした。
2時に通関を出ました。いよいよ今から一路プノンペンを目指して出発します。しかしこのカンボジア側の国境の町・Bavetは経済特区になっていて、ほんの数年前までは、続々とカジノとホテルが建設されていました。一時は多くのお客で賑わっていましたが、段々とカジノ目当てのお客が少なくなって来たようで、今回ここを通過した時に眼にしたものは・・・。
豪華な建物の前にあるのは片付けられていないゴミ。全く人の気配を感じないホテルが多かったですね。廃墟と化した・・というに近い雰囲気でした。(これで大丈夫だろうか?)と思いました。聞けば、この Bavetのカジノには、あの日本の有名なマジシャン・引田天功女史もオーナーになっているとか。
Bavetからバイクで十分も走ると、高床式の家が次々と現れてきました。ベトナムでも、山岳部に行くと、少数民族の人たちがこのようなスタイルの家に住んでいます。このような建物を建てる理由は、こういう地方に住む人たちにとって、まずは「洪水対策」。そして、風通しがいい。猛獣や蛇やネズミなどから護る。下を倉庫代わりに出来る。家畜も飼える・・・など、いろいろあるようです。
Bavetからプノンペン市内までは、ほぼ一直線の道が続いていて分かりやすかったです。もし次回来るとしても、おそらく道に迷うことはないだろうと思います。道の両側には、のどかな田園風景が広がっています。山一つ見えない平野が、水平線の向こうまでずーっと続いていました。
今が収穫の時期なのか、黄金色をした田んぼの中で、ちょうど刈り入れをしている人たちがいました。機械ではなく、手刈りでした。道路沿いの下にあるクリークの中では、水牛たちがのんびりと水浴びをしています。こういう光景は、実に魅力的ですね。
ベトナムであれ、カンボジアであれ、田舎の風景というのは、均一化された都会と違い、その国の風土や、その国の文化や、その国が大切に護っている習慣を感じさせます。田舎に行くと、古い歴史を有するお寺などがあります。日本でもそうですね。そういう場所に身をしばらく休めていると、気分が落ち着きます。
ここカンボジアの田舎にも、歴史を感じさせるお寺が、街道沿いにありました。その一つのお寺に立ち寄りました。ここのお寺も実に優美な造りでした。 お寺の中をお坊さんたちが裸足で歩いていました。そのお寺の中には、昨年の末に亡くなられた、 「シハヌーク前国王」 の写真が飾られていました。
この「シハヌーク前国王」の写真は、プノンペン市内に入っても、至るところに飾られていました。それだけ、亡くなられた国王に対しての尊敬心が篤いのだろうと思います。その遺影に向かって、至るところでお祈りしている人たちが数多くいました。
バイクで移動中には、一度雨にも遭いました。しかし、雨はすぐに通過して行きました。こういうところは、南国の雨は不思議だな~と思います。 50m先と50m手前では、雨が降った場所と、降っていない場所がはっきりと分かれています。道路上に、雨が降ったところと、降らないところで、その違い(濡れている、いない)が道路上に表れているのです。
そしてフェリー乗り場に 5時に到着。看板には 「NEAK LOEUNG FERRY」 という名前が書いてあります。眼を見張ったのは、フェリー乗り場の前で売っていた食べ物です。コオロギのから揚げがあり、タガメを油で炒めたものがあり、さらには亀さんの丸焼きまでがありました。
コオロギのから揚げとタガメの油炒めは、以前友人がここで買って来てくれて、サイゴンで食べました。コオロギさんはいけました。 これはカリカリとしていて、臭い風味がなく、 酒の ツマミにはオツな味です。 しかし、タガメはダメでした。羽の部分が硬くて、プラスチック片をかじっているような感じで、一匹全部は食べられませんでした。
亀さんはその硬い甲羅の裏表を焼かれていて、アメ色になった腹を上にしてお陀仏していました。その哀れな姿は、とてもとても食指が動くようなものではありません。(わざわざこんな生き物まで食べなくてもいいだろうに・・・)と思いましたが、人間はいろんな物に手を出したいのでしょう。
私は焼かれた亀さんを見た時には、(美味いだろうな~)とは思いませんでしたが、後でベトナム人の研修生たちに聞きましたら「大変美味しいですよ!」と言った生徒たちがいました。ということはベトナムでも食べている人たちがいるということです。しかし日本人もすっぽんを喜んで食べますので(私も大好きですが)、勇気を振り絞れば、次回は食べることが出来るかもしれません。
フェリーに乗ってから、十分もしないうちに対岸に着きました。そのフェリーの中でも、コオロギ売りさんがお客さんに売りつけています。若い女性がそれを買って、かっぱえびせんを食べるようにボリ・ボリ食べていましたね。ここら辺りでは、違和感のない光景なのでしょう。私のように、誰も興味深そうに見ている人はいません。
私もバスで来ていれば一袋くらいは買ったことでしょうが、バイクで来ていたので、それを食べ尽くす前にフェリーを降りてしまうのが分かっていたので、この時は買いませんでした。しかし良く考えると、あれだけ大量のコオロギをどこから仕入れて来るのだろうか・・と思いました。やはりどこかで養殖しているのでしょう。
フェリーを降りてから、いよいよプノンペン市内まで休み無く走ります。コッシーくんの話では、ここからプノンペン市内まで 60kmぐらいとのこと。やはり彼は70kmくらいのスピードで飛ばして行きました。私も同じように後を追いかけます。
しかし今回、私は彼と同じスピードで走りましたが、大型バスが前を走っている時には、バスの後ろから細かい砂粒が体にも、顔にも、手にも、とにかく体全体に痛いほど吹き付けて来ました。メガネやマスクをしていないと、とても走れるものではありませんでした。
そして夕方薄暗くなった頃に、ようやく私たちはプノンペン市内に入りました。この時 6時を少し過ぎた頃でした。市内に入ってすぐに、 『独立記念塔』 がライトに照らされて、大変美しかったです。そのままバイクを走らせ、コッシーくんがいつも泊まるホテルにバイクを入れました。この時の走行距離を見ると、メーターの数字はサイゴンから235kmかかったことを示していました。
着いてすぐに夕食に行くことにしました。そこへはコッシーくんのバイク一台に、二人乗りで行きました。バイクの後ろに乗りながら、街中の様子を見ていましたが、サイゴンとの大きな違いを一つ感じました。それは、私の友人の IT会社の社長のKRさんが、カンボジアに話が及ぶ時に、いつも話されていたことでもありました。
「サイゴンと違って、街中がうるさくない。」
仕事で頻繁にプノンペンを訪れる KRさんは、プノンペンの街の様子をそのように話してくれましたが、事実その通りでした。信号待ちしている車やバイクがクラクションを、サイゴンのように無闇に鳴らさないのです。そういう点では日本に似ています。
サイゴンでは信号が赤から青に切り替わる寸前から、後ろにいるバイクが「ピー・ピー」とクラクションを鳴らし始めます。鳴らさなくても大した時間差は無いのに、本能に染み付いたごとく、うるさく鳴らします。しかし、プノンペンの人たちは、信号が変わる前でも、変わっても、全然クラクションを鳴らしません。じーっとおとなしく待っていました。(ずいぶん違うなあ~)と感じました。
夕食はコッシーくんお気に入りの「焼肉屋」にしました。そこに着いてしばらくすると、アメがポツポツと降り始めました。私がバイクに掛けていたヘルメットを取りに行きました。するとそのバイクのすぐ横に、後から来たカンボジア人らしきお客さんがバイクを入れました。
私がバイクのハンドルの下に掛けてあるヘルメットに手を伸ばそうとすると、そのカンボジア人らしきお客さんは、私が手を伸ばしてヘルメットを取り易いようにと考えてくれたのでしょうか。たった今店の前に着けた自分のバイクを、外側に傾けてくれたのでした。こういう行動をベトナムの人が取ることは、サイゴンではめったに見ることはありません。
「カンボジアの人は、人に対する気配りが強くあるのでは・・・」
わずかなカンボジア滞在での印象ですので、間違っているかもしれませんが、直感的にそう感じました。「人に対する気配り」 というのは、その国の文化に深く根ざしていると思います。学校の中で学ぶ徳目ではなく、子どもの時から成長期にかけて、自分が住む地域共同体・集団生活・家族関係の中で、じっくりと時間を掛けて身に付けてゆくものでしょう。
ベトナムにも、「人に対する気配り」は一応あります。しかし、それは見ず知らずの他人には及んでゆかないような印象を、私は受けています。自分の家族関係、親戚、職場の同僚など、自分が所属するグループの範囲内には「気配り」はあります。それが他人の中に入ると、一気に薄まります。
自分が所属するグループから離れて、一歩外に出て、周りが誰も知らない他人ばかりになると、【そこどけ!そこどけ!】とばかりに、スーパーでのレジでの割り込み。切符売り場での押し合い・へし合い。信号待ちしている時に、「早く出ろ!」という合図代わりの、あのクラクションの「ピー・ピー」という現象が出現します。
やはり「所変われば、いろいろ変わるな~」と、焼肉を食べながら、ビールを飲みながら(と言っても彼は下戸ですので、飲んだのは私だけですが)、そんな話をしながら、プノンペンの第一日目が暮れてゆきました。食事を終えて、ホテルに向かうまでの市内の様子も、実に静かでした。
● プノンペンで会った日本人女性 ●
12月31日の大晦日になりました。実は今回のプノンペン訪問の大きな目的が、一人の日本人女性・ HK さんに会うことでした。彼女は今プノンペン市内に住んでいます。彼女を紹介して頂いたのは、かつて Saint Vinh Son小学校 を支援していた、あのAさんです。
Aさんは今日本の長野県に住んでいます。そして日本や外国で様々なマラソン大会に参加されています。日本では、 「西表島・やまねこマラソン」 や 「諏訪湖マラソン」 。外国では、 「ニャーチャーン・ハーフ・マラソン」 や 「ハワイ・ホノルル・マラソン」 などです。そして今回、 「アンコールワット・ハーフ・マラソン」 にも参加されて、見事に完走されました。ベトナム時代からAさんを知る私も、実に嬉しかったです。
今年の「アンコールワット・ハーフ・マラソン」は、 12月2日に行われ、1894名の参加者があったそうです。Aさんが完走した時間は、【2時間3分37秒】。順位は、610番だったといいますから、見事な成績というべきでしょう。しかもその【2時間3分37秒】は、2010年に参加した、『ニャーチャーン・ハーフ・マラソン』と分・秒に至るまで、全く同じタイムだったといいますから驚きます。
その「アンコールワット・ハーフ・マラソン」を終えてから、Aさんはサイゴンに入られました。一年ぶりの再会でした。そして席に着いてから「乾杯!」をして、すぐにある一冊の本を私に見せられました。その本の題名は 『殺戮 荒野からの生還~コン・ボーン著~』 となっていました。
その本の表紙には、著者のコン・ボーン氏の白黒の写真がありました。(どこかで見たような記憶が・・・)と思いましたが、思い出せませんでした。そしてAさんの話を聞いて大変驚きました。(そのようなすごい人生を歩んだ人が、今もカンボジアに住んでおられるのか!)と信じられない思いでした。
著者のコン・ボーンさんは、 1937年3月生まれで、もうすぐ76歳になられますが、何とあの 「ポル・ポトの大虐殺」 からまさに九死に一生を得て、奇跡的に生き延びられた人物だというのです。そして、 1981年にカンボジア難民第一号として日本に定住の許可を受けて、奥さんと共に日本に渡られました。
そこまでのあらましを、直接本を開きながら、Aさんは私に説明してくれました。そしてその本を十日ほど後に日本に帰国するので、それまで貸して上げますと言われるのでした。その日は有り難く頂いて持ち帰りました。しかし、全部で 324ページの厚さの本です。
しかも小説などの類を読むのとは違い、こういう本は飛ばし読みは出来ません。その内容はベトナムとも関わりがあり、複雑・多岐に亘っています。じっくり・じっくりと縦と横の時間軸と場を理解しながら読まないと、深くは分からないだろうな~と思いました。
そしてこの本は、日本では既に絶版になっているのでした。Aさんはそれをどこで手に入れたのかと言いますと、知人から紹介された、ある一人の日本女性から購入したと言われました。その女性に、プノンペンで直接会われていました。その方が HK さんでした。
思えば数奇な巡り合わせというべきでしょうが、今彼女はプノンペンに住んでおられて、カンボジアの人と結婚されています。そして、実は彼女のご主人が、コン・ボーンさんのお孫さんにあたる ブンティさん なのでした。本の巻末にある年表を見ますと、ブンティさんは今 41歳くらいになられています。
Aさんから預かったその本を、少しずつ読み始めました。読み進めていくうちに、<まえがき>に書いてある 【元共同通信のプノンペン支局長・村井孝至さん】 の文章に、大きな感銘を受けました。<まえがき>の一部を抜粋しますが、次のように書いてあります。
『著者は庶民の出で常にエリート層の勝手な振る舞いを苦々しく思っていた。また、日本にあっても、祖国のことを忘れることなく、日本での生活に馴染むことに苦労を重ね、決して生活も楽ではなかった。しかし、荒廃したカンボジアに残った大衆はそれ以上に苦難の道を歩んでいることを心に留めていた。』
『海外に出たカンボジア人と国に残った同胞の間に生じた亀裂を埋めるためには自分は何をすればよいのか。彼の脳裏から決して離れることはなかった。一九九二年に帰国したとき朽ち果てた学校の庭で椅子も机もなく勉強している子どもたちの姿に涙し、「学校を建てることだ」と思い立った。それから「カンボジア教育支援基金」を設立、資金集めに邁進した』
(たとえAさんの滞在中にこの本を読み切ったにしても、また何回も読みたい本だな~)と思いました。しかし、日本では売っていない。でも、カンボジアの HK さんに会えば、同じ本を手に入れて、その後も読むことが出来る。(どうすべきか・・・)と悩みました。時折カンボジアからサイゴンに来る知人に頼んで持って来てもらうことも可能ではありましたが、やはり直接彼女にお会いして、その場でこの本を受け取りたい気持ちが強くなって来ました。
そういう時に、最近コッシーくんから、「カンンボジアにバイクで行きませんか?」という誘いを受けていたのを思い出しました。それで、「そうだ、彼と一緒にバイクでカンボジアまで行こう!そしてプノンペンで HK さんに会い、そこで本を頂こう。」と決めました。それが今回のカンボジア行きの大きな動機でした。「 HK さんに会いたい!」という強い動機がなければ、観光だけでプノンペンまで行くことは無かったかもしれません。
そして 30日に無事プノンペンに着いて、翌日のお昼前に HK さんに電話をしました。彼女自身が出られて、お昼過ぎに会えることになりました。お昼ご飯は、昨年の末に新しくプノンペンに出来た 「SUSHI BAR」 で食べました。ランチ・セットを頼みましたが、美味しかったです。「 SUSHI BAR」は今サイゴンに6店舗あります。多くの地元の人たちで賑わっています。プノンペンの「SUSHI BAR」も、近いうちにそうなることでしょう。
お昼を済ませて、すぐにバイクで HK さんの家に向かいました。家の近くあたりの通りと番地を見つけた所でバイクを降りましたが、目指す家がなかなか見つかりません。 HK さんに電話をしますと、「後ろを見て下さい!後ろにいますよー」と、電話から声が聞こえましたので、後ろを振り向きますと、携帯電話を耳に当てた女性が立っておられました。それが彼女でした。
その家の前に着きました。その家は個人の住まいではなく、カンボジア家庭料理の店になっていました。名前は 「HAPPY DAY」 。何か、ご夫婦の希望が籠められている感じがしました。そして食堂の中にあるテーブルと椅子にお互い座り、挨拶と自己紹介をしました。Aさんから紹介して頂いた人にようやく会えました。大きな目的を果たすことが出来ました。
目の前に座られた HK さんは、ハキハキした答えをされて、大変明るい感じの女性でした。ご主人のブンティさんは仕事で外に出かけられているようで、この時不在でした。頂いた名刺には、ブンティさんと HK さんのお仕事は、お二人とも同じ仕事内容が書いてありましたので、ご夫婦共同でされているのだろうと想像しました。
30分くらい HK さんからいろいろ話を伺うことが出来ました。食堂の壁を見ますと、カンボジア料理の写真がいろいろ貼ってありました。小学校の写真などもありました。日本の人が書いた、日本紹介の絵葉書などもありました。
そして HK さんが奥に入って、コン・ボーンさんのあの本を手に持って来られました。念願の本を有り難く頂きました。 HK さんは別れ際、「今度カンボジアに来られる時には、私たちが建てた学校を是非見て下さい。ベトナム国境からさほど遠くない所にありますので。」と言われました。 HK さんに別れを告げ、バイクに乗ってから後ろの席で、落とさないようにしっかりその本を握っていました。
● 王宮 [ Royal Palace] 訪問 ●
12月31日の午後二時から、王宮訪問に行きました。外から見た王宮の壮麗さ・優美さに驚きました。二年前に見た中部・フエの帝廟の大きさ、美しさをはるかに超えています。この王宮は、トレン・サップ川とメコン川が合流する場所に位置して建てられています。
そして正門にあたる場所には、昨年亡くなられた『シハヌーク前国王』の大きな肖像画が掲げてありました。建物下の部分にも小さな肖像画が掲げてあり、それに向かってカンボジアの人たちが線香を手向けてお参りされていました。今でもカンボジア国民から敬愛されているようです。
入場料 (5ドルと少し)を払い、一人で中に入りました。黄金色を基調にした瓦屋根を被せた、壮麗な建物群が幾つもありました。 『シルバー・パゴダ』 と呼ばれる建物が一番壮麗でした。それらの建物の間に、灰色をした 卒塔婆 が点在していました。王宮内には、白人の人たちや、アジア系の人たちなど、多くの観光客がいました。ベトナム人の観光客の一団もいました。
ベトナム人のガイドさんが右手に旗を持ち、みんなを引率しながら、王宮についての説明をしていました。何か昔の、海外に出かけた日本の観光客のイメージと重なり、微笑ましかったですね。ベトナム人観光客の中には家族連れも多く、我が娘と同じくらいの年齢の子どもたちが何人もいました。(今のベトナムにも、家族連れで海外旅行出来る人たちが増えて来たのだな~)と感じました。
とにかく広すぎて、大きすぎて、暑くもあり、途中で休み・休み歩かないと、足が疲れてきます。しかし園内にある水槽の中に、キレイなハスの花が咲いていたのが印象的でした。多くの人たちがそれらの花の前で立ち止まり、じーっと眺めたり、写真を撮ったりしていました。
さらにパゴダを取り巻く周りの壁には、極彩色の壁画がありました。後で聞けば、その壁画は 「ラーマーヤナ物語」 を描いているとのことでした。しかし長い歳月と、南国の暑い気候のせいでしょうか、壁画の傷みが激しく、壁画そのものがゴソッと剥落しているところがありました。それを職人さんたちが修復作業をしている場面に出会いました。
しかしこの広い王宮も、実は全部を今公開しているわけではなく、工事中の部分があって、半分くらいしか見ることが出来ないのでした。全部をじっくりと見るとしたら、おそらく半日がかりですね。私は一時間半くらい王宮を見て外に出ました。
王宮の壁ぎわ沿いを歩いていますと、壁が切れている箇所があり、中の様子が見えました。何と観光客の人たちが、私がまだ足を伸ばしていない建物群のほうまで入って、そこを見物していました。よく考えると、工事中で閉められていた通路以外に、小さな抜け道があったらしく、そこを通って彼らは入って行ったようでした。
(あれで終わりではなく、まだ見る所があったのかぁ~・・・)と思いましたが、次の楽しみに取っておけばいいやと思い返しました。そして、時に途切れる王宮の壁ぎわを見ながら、続けて歩いていた時のことです。どこからか、私の名前を呼ぶ声が聞こえて来ました。
(このカンボジアで誰が私を呼ぶ・・・?)と不思議に思いながら前方を見ると、家族連れの人たちがいました。それを見て実に驚きました。私のサイゴンでの友人である SZ さんでした。彼は昨年、我が娘の 9 歳の誕生パーティにも、家族連れで来て頂きました。この時も家族連れでした。さらには、奥さんのご両親もおられました。手を握り合いました。
「最近はサイゴンでもなかなか会えないのに、このカンボジアで会えるとは本当に奇遇ですね~!」と、そのあまりの偶然にお互い驚きながら、嬉しくてたまりませんでした。約束も何も全くしていないのに、異国の地で友人同士がバッタリと会える確率は極めて低いでしょう。
そう言えば、ちょうど二年前に 『ベトナムの中部・フエ』 を旅した時にも、 「フエの帝廟」 を見物している時に、サイゴンでの旧知の女性に会ったのを思い出しました。(二度あることは三度目もあるのかな?)と思っています。
そして夕暮れ前に、小高い丘の上にあるお寺・ 『ワット プノン』 に行きました。このお寺は、 1372 年に建立したとのことでした。大きな花時計があり、その上に白い・高い卒塔婆がありました。ここを見終えた時ぐらいから、だんだんと夕陽が沈んで来ました。
そこを見終えて、 5 時にホテルに帰ってテレビを点けたら、ちょうど「紅白歌合戦」が始まったところでした。紅白は本当にひさしく見ていませんでした。しかし、この日の紅白は最初の出だしを少し見ただけで、すぐに夕食に行きました。
後で聞きましたら 『美輪明宏さん』 の 「ヨイトマケの唄」 が素晴らしかったそうで、見逃してしまいました。残念です。
● 幻の打ち上げ花火 ●
プノンペンでは、 12月31日の深夜0時に、毎年恒例の 「打ち上げ花火」が、王宮前のトレン・サップ川から打ち上げられるそうです。「よし、今年のカウント・ダウンはそこで迎えよう!」と思い、バイクは停められないので、コッシーくんと、カンボジアに住む私の友人三人で、 トゥクトゥク に乗って トレン・サップ川のほうに行くことに しました。
みんなもバイクで同じ方向に向かっています。よくよく見ると、ノーヘルが結構います。
その友人に聞くと、カンボジアでは前の運転手はヘルメットの着用が義務付けられているが、後ろに乗る人は不要とのこと。さらには、夜は警官がいないので、ヘルメットは暑苦しいので、運転手も被らないとのことです。笑ってしまいました。
深夜 0 時前にトレン・サップ川に着きましたが、川沿いにはずらりと喫茶店が並んでいて、この時もまだ営業していました。そして、川沿いのベンチには、花火見物の人たちが座って(今か・今か・・・)と、その瞬間を待っています。トレン・サップ川には観光船が遊泳していました。
さあ~、いよいよ 2013 年 0 時になりました。 喫茶店の至る所で「 Happy New Year!! 」という声が聞こえてきました。しかし・・・ 5 分経てど、 10 分経てど、川向こうから花火は上がらない。 20 分経っても上がらない。
周りのカンボジア人たちも(どうもおかしい・・・)という感じで、話し始めました。 私の友人が 、トゥクトゥクのお兄さんに聞くと、「昨年シハヌーク国王が亡くなられたので、どうも今年の花火は自粛するらしい。」ということでした。しかし、カンボジア人自身もこの時まで、そのことを全然知らないでいたということです。まあ、鷹揚というか、何というべきか・・・。みんなガッカリしたようで、暗闇の中を帰り始めました。
結局、カンボジアでの大晦日の「打ち上げ花火」は無しで終わりましたが、ともかくも 2013 年をこのカンボジアで迎えることが出来ました。 トレン・サップ川にせっかく来ているので、 「 Happy New Year!! 」 と川に向かい、声を上げました。
● プノンペン⇒サイゴンへ ●
日本では正月の 1 月 1 日に、カンボジアを離れました。カンボジアのお正月は 1 月 1 日ではなく、4月らしいです。日本では大晦日になる昨日の街中は、カンボジアではふだん通りで、生徒たちも学校に通っていました。休みではありませんでしたね。
この日、朝の 9 時半にホテルを出ました。この日もコッシーくんは、平均 70 km~ 80 kmのスピードで飛ばして行きます。私も同じスピードで付いてゆきました。そして、ちょうど 11 時に、あのフェリー乗り場「 NEAK LOEUNG FERRY 」に到着。この時も多くの車やバイクが並んでいました。フェリーの中には、またあのコオロギ売りさんがいました。果物や土産物も売っていました。
カンボジアの中ではもちろんカンボジア語の表記の看板がほとんどですが、カンボジアからべトナム国境に近付くと、カンボジア語とベトナム語の2つの表記がある看板を見かけるようになります。我々は、ベトナム側に入る前に軽く昼食を摂りました。
そして 12 時半にようやく Bavet の通関に到着。カンボジア側は問題なく通過しました。しかし、ベトナム側の Moc Bai に着いて唖然としました。大型バスが 5 台くらい並んでいるではないですか。「この調子だと、通過するまでに三時間くらい待たないといけないかも・・・」とコッシーくんがポツリと呟きます。
すると、何回も行き来している通関の中に、顔見知りのベトナム人を見付けたようで、こういうことに慣れたコッシーくんが素早く機転を利かせます。さっとそのベトナム人の近くにまで近寄って行き、いろいろ交渉し始めました。すると、そのベトナム人は我々の手を引っ張って行き、団体客の中をかき分け、かき分け、本当に通関の前まで連れて行ってくれました。
彼が言うには、「お前たちは団体客ではないので、俺が通関に話を付けてやる。団体客が終わるまで待っていたらいつになるか分からないからね。」ということらしいです。ここらへんの呼吸は、コッシーくんも、ベトナム人の男も見事なものでした。そして、我々のパスポートを預かり、通関の方に消えて行きました。そしてすぐに、それを手にして帰って来ました。
「ほら終わったよ!」と言って、私たちに返してくれました。私は見ていて、唖然としました。驚きました。とにかく、わずか五分足らずで、ベトナム側への入国手続きは終わりました。コッシーくんの交渉力は見事なものです。
今回は彼のおかげで、行きから帰りまで無事にバイクの旅を終えようとしています。今回のバイクの旅では、カンボジアの道に不慣れな私は、いろいろ彼に助けられました。このベトナム側に入る通関でも、彼が機転を利かして行動してくれなければ、サイゴンに着いたのは何時になったか分からないはずでした。
そし て、サイゴン市内に入り、途中で私はコッシーくんと別れて、 12 月 30 日に出発したベンタン市場の前に到着。バイクの走行距離を見ると、プノンペンからここまでは 237 kmでした。ベンタン市場の東西南北にある門の上には、いろいろな動物の絵がタイル張りで作ってあります。私が出発したのは南門です。ここには牛と魚の図柄がありました。
それを見上げて、今回サイゴンからカンボジア、カンボジアからサイゴンまで、無事に事故もなくバイクで旅が出来たことへの報告と感謝を述べました。
今回のカンボジア訪問の収穫は、バスではなくバイクでのツーリングでプノンペンまで到着出来たこと。これにより、途中の景色をじっくりと楽しむことが出来ました。そして日本人の女性・ HK さんにお会い出来て、コン・ボーンさんの本を頂いたこと。さらには、カンボジアの人たちの暮らしの一端に触れる機会を得たことです。
ベトナムBAOニュース
「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。
「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。
■ 旅行を宣伝する“指揮者”が必要 ■
私は 10 年以上に亘り、仕事も生活も、このベトナムの中で過ごしてきた。そして、ベトナムの中でもいろんなところを訪問して来た。多くの人たちが認めるように、ベトナムには至るところに美しい風景がたくさんある。
まだ観光地としては知られていないが、美しい所も多くある。白い砂浜や、碧い海。また、恥ずかしがりやで魅力的な、ベトナムの可愛い少女たち。それらが私を惹き付ける。
特にベトナムの中部には、多くの、美しいビーチがある。それらのビーチは、世界の美しいビーチを特集した雑誌の中にも、必ず名前が選ばれているほどである。ベトナムはアジアの国の中でも、その歴史や文化や自然において、実にユニークであり、観光業をする人たちにとって有利な点が数多くある。
海でマリンスポーツをしたい人も、山のほうを旅したい人も、スタディ・ツアーのような旅をしたい人も、ベトナムの国土はさほど広くはないので、バスや飛行機などを使えば数時間で行ける範囲内にある。
強調すべき興味深い点は、ベトナム人の優しさ、フレンドリーさだろう。ベトナムでは、特に私のような外国人に対しては、特別な敬意を払ってもらえることが多い。
私は韓国の旅行会社が企画した、 Nha Trang( ニャー チャーン ) 紹介の記事の切り抜きを持っている。今まで Nha Trang へは何度か訪れたことがあるが、このような記事を見ていると、また行きたくなるような気持ちがする。ベトナムの旅行会社は、何故このように、各地の美しい観光地を紹介した記事を作ってくれないのだろうか。
私の意見を述べさせてもらえば、旅行業界の人たちは楽しいビデオや、面白いウエブサイトや、いろんな宣伝媒体を上手く活用すれば、もっと多くの観光客を吸収出来るだろうにと思う。
実際に、ニャーチャーンの観光の宣伝の場合は、それを見た韓国人客を強く魅了しているのだ。しかし、まだヨーロッパの人たちに強い印象を与えてくれるような、ベトナムの観光業者が作成したビデオや、ウェブサイトなどの宣伝媒体はない。
実際に私が以前出張でヨーロッパに行った時、ある人と話したことがあった。私がベトナムにいることを話した時に、彼はこう聞いてきた。「ベトナムはどこにあるの?ベトナムはどんな国?何故あなたはそこにいるの?」明らかに彼は、国としてのベトナム、観光地としてのベトナムについては全く知らないのだった。
私は、ベトナムの旅行業界には、いろんな国の言語で多くの人たちが理解出来るように、ベトナムという国、ベトナムの産品の魅力をもっと上手く、積極的に、力強く宣伝する能力に長けた“指揮者”が必要だろう、と思う。
DESMOND LIN
[VietJet 格安航空社長 ]
◆ 解説 ◆
ベトナムという国の 「認知度」 は、日本でもまださほど高いものとは言えないでしょう。そもそも、私自身もベトナムに来る前は、ベトナムと言えば <ベトナム戦争> くらいしか連想しませんでした。
日本において、 「今ベトナムが人気!」 という波は、日本の女性たちの [ ベトナム雑貨 ] ブームから始まり、次は [ ベトナム株 ] になりましたが、それも潮が引くように消えてゆきました。[ ベトナム雑貨 ] を日本に輸入して、それを販売していた人たちは儲かっていたのでしょうか。
しかし、 [ ベトナム株 ] に手を出していた人たちは、損をした人たちが多かったようです。私の知り合いも、ベトナムの株に手を出しましたが、「痛い目に遭いました!」と後悔していました。一時は、日本からツアーを組んで飛行機に乗って、ベトナム株の購入にまで来た人たちがいたことを考えれば、まるでうたたかの夢のようです。
そして次は、 <チャイナ プラス ワン> としての、日本の企業の中国からベトナムへのシフトの切り替えの波です。私の友人の IT 会社の社長の KR さんによると、それらの日本企業のベトナム進出を支援する 「進出支援の会社」 が、今ホーチミン市には大小合わせて十社もありますよ、と言われていました。
しかし以前も日本からの企業進出ブームは一時ありましたが、ベトナム側の手続きの煩瑣さ、ワイロを公然と要求してくる事例などがあり、日本の企業も嫌気がさしてベトナムから撤退した例が少なからずありました。
ですから、日本からいくら熱いまなざしをベトナムに注いでも、 DESMOND さんが言われるように、旅行客や相手先企業のニーズを突き止め、至らない点は改善してゆかないと、 [ ○○ブーム ] があっという間に消えていったように、長くは続かないでしょう。
先日私の友人がベトナムに来ました。彼はベトナム以外にもカンボジアやタイにも行く予定だったので、 VISA の件で「どのような形の VISA が最適か。」を聞くために、日本にあるベトナム大使館に電話を掛けました。しかし、何回掛けても、日をおいてまた何度掛けても全然通じなかったというのでした。「一体、仕事をする気があるのか。いや、仕事をしているのだろうか?」と首を捻っていました。
さらにまたほんの数日前に、以下のような記事が載りました。一部を抜粋します。
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<探すのに苦労、観光客のトイレ事情>
観光でベトナムを訪れたアメリカ人夫婦とホーチミン市内を歩いて感じたのは、トイレを見つけるのが非常に難しいということだった。
1区のファングーラオ通りを出て、ベンタイン市場に向かう9月23日公園にはトイレが数カ所あるが、非常に狭く、身長190cmの私のようなアメリカ人にとっては、中に入るのも一苦労。結局トイレを諦めてしまった。
「もう少しでベンタイン市場ですから!」と夫婦を励ますが、広い市場に案内板はなく、店員に聞くと北側ゲートの角 2カ所にトイレがあるという。トイレ1回2,000ドン、紙は500ドン――こんな決まりを夫婦は笑う。
聖母マリア教会、中央郵便局付近では、郵便局そばのグエンヴァンビン通りの一角に小さなトイレがあるのみで、少なくとも 5~7人に尋ねなければ辿りつけない。
観光客にはホテルやレストランでトイレを尋ねる人もいるが、利用客でないため、公衆トイレは無いとの答えが返ってくる。
~トイレ開放義務化を!~
Lua Viet Toursのグエン・ヴァン・ミー社長は、ホテルやレストランは施設利用者以外の旅行者にも責任を持つべきと言う。
「タイではスーパーや店の近くには旅行者用のトイレがあり、買物しない人でも利用できる。タイ人はこういった細かいところで競争している。こうして自分で商売を妨げていることを頭に入れておくべきだ」とミー氏。
「ホテルやレストランは管理費捻出のために使用料を徴収しても良いが、徴収しないのが一番だろう。『海老で鯛を釣る』。ここで海老とは少額のお金で、鯛とはホテルやレストランばかりでなく観光地のイメージ向上で得られる様々なことを指す。ベトナムを訪れる観光客が増えれば、ホテルやレストランの利益となるのだから」とミー氏は話している。
べトナムガイド .com
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安倍首相がベトナム、タイ、インドネシアを1月16日から4日間の日程で訪問することになりました。最初の外遊先の中に、ベトナムを選んで頂いたのは嬉しい限りです。
隣同士の家というのは大体仲が悪いように、国も隣同士だとなかなかイサカイが絶えませんね。理想は「世界は一家、人類はみな兄弟!」ですが、なかなかそうはなりません。ベトナムとは遠過ぎもせず、近過ぎもせず、ちょうどほど良い距離にあるので、おそらく上手くゆくのではと思います。
私は毎年の夏に、 『ホーチミン市友好協会』 で日越双方の小・中学生たちが仲良く交流している姿を見ていまして、この子たちが大人になった時に、
【アジアの中でも一番仲がいい国】
になってくれていればいいな~と思っています。