【2013年7月】世界一周をする青年落語家/帰ってきたOshin

春さんのひとりごと

<世界一周をする青年落語家>

6月末の日曜日、いつものように 『日本語会話クラブ』 に参加するために、 「青年文化会館」 に行き、みんなが集っている二階への階段を昇りました。すると階段を上がったところに、一人の青年が座っていました。

ちらっと眼が合いましたが、彼は別の人と話していたので、その時言葉は交わさずにお互いに会釈だけをしました。彼は見たところまだ若く、黒縁のメガネをかけていて、体格は中肉・中背くらいでした。

私が初めて 見る顔でしたが、日本人のようではありました。 (ようではありました・・・) というのは、この時彼が穿いていたのはズボンではなく、ミャンマーの人たちが穿く 【ロンジー】 に似た、巻きスカートのようなものだったからです。(日本人なのだろうか?)と一瞬迷いました。

そして、この日は新しく参加した数人のベトナム人の若者と、四人の日本人の方がいましたので、私がその人たちに「自己紹介」をお願いして、列の中央付近に進み出てもらい、一人ずつみんなの前で自分の紹介をしてもらいました。

そのスカートのようなものを穿いた青年には、普通の雰囲気とは違うものが漂っていましたので、(アッサリとした紹介では終わらないだろうな・・・)と想像し、最後にしてもらおうと思いました。

この日の「新人紹介」の中には、何とあの歌手の 「松山千春」 の友人だという年配の方もいました。いや~、驚きました。彼はみんなの前で、「松山千春」の 「恋」 という歌を披露してくれました。

♪ 愛することに 疲れたみたい ♪

嫌いになった わけじゃない

部屋の灯はつけて ゆくわ

鍵はいつもの ゲタ箱の中

・・・・

男はいつも 待たせるだけで

女はいつも 待ちくたびれて

それでもいいと なぐさめていた

それでも 恋は恋・・・・

私はひさしぶりに「松山千春」さんの歌を聞きましたが、あらためて、素晴らしい歌だと思いました。そして、「松山千春」さんの友人がここに今参加しているのかと思うと、何とも嬉しくなりました。 この日は、その人も含めて、いろんな日本人の方に歌も交えて「自己紹介」をしてもらいました。

そして最後に、巻きスカートを穿いた彼の番になりました。私が日本語で「さあーどうぞ、自己紹介をお願いします!」と勧めますと、彼は開口一番「みなさん、こんにちは!」と大きな声で挨拶しました。やはり、日本人でした。

「みなさん、こんにちは!」

「 は ぃ・・・。」

「元気が無いですねー。もう一度、みなさん大きな声でこんにちは!!」

「はーーーい、こんにちは!!」

そこまでの話し方を聞いただけで、(ずいぶん話慣れているなあ~)と思いました。今まで初めての参加者に「自己紹介」をしてもらった時には、ほとんどの人がモジモジして、上がったり、照れたりしているのが普通ですが、彼は全く違いました。堂々としていました。ずっと以前からこの『日本語会話クラブ』に参加しているかのような落ち着いた雰囲気でした。

彼の名前は 「ユウキ」 くんと言い、今年 25歳とのことでした。そして、最初に彼と挨拶した時に、彼は椅子に腰掛けていたのでスカートの下の履物が見えなかったのですが、足元を見ると何とゲタを履いていました。【スカート穿きにゲタ】・・・(何という組み合わせか?)と不思議に思い彼に質問しました。

「そのスカートは、ミャンマーの人たちが穿いている【ロンジー】ですか。」と私が聞きますと、彼は「いいえ、これは <浴衣> です。」と言って<浴衣>の胴体の部分を出して、それに袖を通して上から羽織り、私たちに見せてくれました。

確かに<浴衣>でした。つまり、最初に彼に会った時には浴衣の上体の部分はシャツに隠れていたので、<浴衣>の下の部分しか見えなくて、私はてっきり「スカート」だと思い込んでいたのでした。

(しかし、何でまたベトナムに来て<浴衣>を着て、「ゲタ」を履いているのだろうか・・・) と不思議に思い彼に聞きました。そして、彼の返事を聞いて驚きました。彼は次のように話しました。

「世界一周をしながら、<落語>を世界に広めたいのです!」

その目的があって、わざわざ<浴衣>を着ているのだというのです。タイでは彼が着ているその<浴衣>を是非一万円で売って欲しいというタイ人まで現れたそうです。彼が着ている<浴衣>は、日本人が見れば普通の<浴衣>なのですが、タイ人から見てよっぽど魅力的な衣装に見えたのでしょう。

そして、彼は4月1日に日本を出て、このサイゴンに着く前に韓国⇒中国⇒ハノイ⇒ラオス⇒タイ⇒カンボジアという行程を経て来ました。そして、その全ての国々でも浴衣を着てゲタを履いていたといいます。

ベトナムへは最初にハノイに入り、そこからラオスへ抜けてタイ⇒カンボジアを回ってサイゴンに着きました。ベトナムは6カ国目であり、サイゴンはこの日が6日目の滞在でした。

「日本語会話クラブ」での「新人紹介」の時には、みんなにいつも「歌を一曲披露」してもらうのですが、彼は歌の代わりに「落語」を披露しますと言って、日本の古典落語 【ねずみ】 を日本人、ベトナム人の前で披露してくれました。私にとってサイゴンで落語の実演を見るのは、今から 7年前に「立川談志」師匠の落語を見て以来のことです。

彼がその【ねずみ】を披露している間、私は横でずっと見ていましたが、その話し方、間の取りかた、顔の表情、演技力・・・どう見てもプロの域でした。(どこでこういう芸を見につけたのだろうか・・・)と不思議に思いました。

彼がそこで披露してくれた「落語」は、左甚五郎が登場する有名な落語の【ねずみ】ではなく、捕まえたネズミが大きいか小さいかを二人で言い争っていたら、手の中にいたネズミが「チュー」と鳴くという落ちの話ですが、日本人には大受けでした。

しかし、ベトナム人たちにはネズミの鳴き声の「チュー」と「中」のシャレが分からないのでキョトンとしていましたが、クラブの責任者の Tan君が説明してからその後みんなで笑っていました。彼の紹介が終わった時には、日本人・ベトナム人のみんなから大絶賛の拍手を貰いました。

私もこのような面白い青年は初めて見ました。そもそも異国の人の前で、日本の「落語」を堂々と演じ切れる若者はあまりいないでしょう。ベトナムという異国でその「落語」を演じた彼を見て、本当に感動しました。こういう若者が海外に出て行っていること自体、私は大変嬉しく思いました。

そしてお昼過ぎになり、私たちはいつものように「青年文化会館」内にある喫茶店へ食事に行くことにして、彼もそこに誘いました。私のすぐ隣に彼が座りましたので、お昼ご飯を食べながら、彼から直接いろいろな話を聞くことが出来ました。短い時間の中でしたが、彼が話してくれたことは実に面白いものでした。

彼は青山学院大学時代に、 『落語研究会』 に入り、 落語を三年間修行しました。学業以上に落語に没頭したといいます。大学生時代には、ヒッチハイクで日本縦断をしたそうです。

そして、 関東 の大学の 落語研究会 を集めた <関東落研 連合> の 五代目総長を務めていたそうです。道理で上手いはずです。「落語家としての芸名は持っているの?」と聞きますと、 「○○亭しみじみ 」という名前があるそうです。

私がサイゴンで出会った「世界一周をする青年」は、今まで二人います。約4年前に出会った「大介」くんと、半年前に出会った「リョウスケ」くんです。「大介」くんとサイゴンで出会った時、彼は 28歳。「リョウスケ」くんは 27 歳でした。

あの「大介」くんが、世界一周の夢を描いたのは小学生の時でした。「リョウスケ」くんが、世界一周をしたいと考えたのは、彼が中学生の時に 【沢木耕太郎さん】  【深夜特急】 を読んで、大いに興味を惹かれてからだと話していました。「ユウキ」くんは、大学卒業後ボランティア活動をしていたといいます。その時まで、「世界一周」したいとは考えつかなかったそうです。

それで「ユウキ」くんに、「いつから世界一周をしたいと考えるようになったの?」と聞きました。すると、彼が言うには「世界一周」の夢は最近ふと思いついたそうです。そして、彼はそれを実現しようと考えた時に、あるひとつの 『目標』 を持ちました。その『目標』が、 「世界一周をしながら日本の落語を広めてゆこう!!」 というものでした。

ただ世界一周するだけではなく、行く先々で、日本の落語を披露し、現地の人に見てもらい、次に日本の落語を現地の言葉に翻訳してもらい、それを現地の人に実際に演じてもらうということまでしていました。

実際に韓国人に落語を演じてもらっている動画も見せてもらいました。そして同じようなパターンで、これから行く先々の国で現地の若者たちに落語を演じてもらおうと考えているというのです。

彼はこの時面白いことを言いました。 「落語というのは、普通は一時間掛かるものを、一分間で話すことも可能な芸術なのです。」 と。彼が言ったその言葉は、実に深い意味があると思います。であればこそ、短い時間の中で現地の人たちに落語を実演してもらえるだろうという確信があったのでしょう。

そしてこの日も、隣に座ったベトナム人の若い男女に、ベトナム語での落語を指導していました。その場でベトナム人に、5分ほどの落語を日本語で教えていました。その題材はベトナムの昔話から採ったものでした。彼はすでにそういうものも研究していたのです。それをベトナム語で演じてもらいたいと考えているのでした。

一人の日本人の若者が、ここまで意欲的に外国人の若者たちと交流している姿を見ていて、胸が熱くなりました。日本の落語を外国人に演じてもらう意図について、彼は私たちにこう話しました。

「僕は世界を回りながら、世界中の言葉で落語を集めたいのです。 日本で 300年育ってきた<落語>という形を、世界で落としこんだらどういうものが出来上がるのか?それを見たい。」

何というスゴイ発想でしょうか。そしてそれを見たいがために『世界一周』の挙に出るとは、何と驚くべき行動力でしょうか。『世界一周』をするということだけでも、誰にでも出来ることではないはずですが、彼はさらにそれだけに止まらず、 <「日本の落語」を世界に広めてやろう!> という目標を持っているというのです。

私は「ユウキ」くんを見ていて大いに感心すると同時に、ふと彼の両親がどう思っているかに興味が湧き、「お父さんたちは世界一周について賛成しましたか。」と聞きましたら、「行って来い!」と言われたそうです。

そしていろいろ話を聞きますと、何と彼のお父さんは 「日本紙飛行機協会」 の会長でもあり、日本の紙飛行機の世界ではその名を知られた有名な人物でもあるそうです。さらには、紙飛行機の滞空時間では 世界記録を樹立し、 <ギネスブック> にも載っているというのです。

彼からそのような話を聞きましたので、この日にパソコンを持ち込んで来たベトナム人の若者が、早速 Youtube で探してみると、確かにその動画がありました。彼のお父さんが紙飛行機を体育館らしき室内で飛ばしている動画があったのです。

そしてその紙飛行機は、館内をゆっくりと回りながらふわりと着地しました。その滞空 時間は 27.9秒。その前の世界記録は27.6秒でしたので、「ユウキ」くんのお父さんの紙飛行機のほうが、それより0.3秒長く飛んだわけです。

しかし、紙で作った飛行機が 30秒近くも飛ぶというのはすごいことだと思います。しかも、館内で飛ばすとなると、壁に当たったらそこで落ちて終わりでしょう。そのことを聞きますと、館内の壁に当たらないように、館内を旋回して飛ぶように、紙の折り方に工夫を凝らしてあるというのです。

そして、一枚の紙をカバンから取り出して、私たちの前でその折り方を実演してくれました。その折り方は素早いものでした。あっという間に折り上げてくれました。形も実に美しいものでした。お父さんが折っているのと同じ形だということでした。ツバサの部分の折り方に工夫があるらしいようです。

そこの喫茶店の中では飛ばすことは出来ませんでしたが、後から外で飛ばしましょうという話になりました。私もどんなふうに飛ぶのか、一度見てみたいものだと思いました。

そこでは2時間ほど話したでしょうか。外が大雨の様相を呈して来ましたので、私たちはお開きにしました。彼は私たちと一緒にはそこを出ずに、落語を教えていたベトナム人の若者との練習があるのか、そのままずっと残っていました。

そして彼と別れる前に、私が「今夜7時頃、夕食を一緒にしましょうか!」と誘いますと、彼も「是非お願いします。」と喜んでいました。そこで彼とは別れましたので、落語の練習のその後はどうなったかは分かりませんでした。

そして夕食の時間になった頃に、私が彼の泊まっているホテル近くまでバイクで迎えに行きました。この日夕食に行く場所は、最近出来た 「路上屋台の日本食屋・ SUSHI ○○」 です。私が住んでいる下町の、超ローカルの場所にある「日本食屋」さんです。

彼をバイクの後ろに乗せながら、「今から行く場所もまた<落語>のようなところですよ。下町でベトナムの庶民がスシやサシミをバンバン食べているのですから。」と言いますと、彼も「そうですか!」と興味津々という感じでした。

そしてバイクに乗って 10分ほどでそこに着きましたが、すでに十人ほどのベトナム人のお客さんが先に座って食べていました。やはり彼にもこういう光景は大変興味深く見えたようで、ニコニコしながら見ていました。この席には友人のKRさんも同席して、彼の話を興味深く聴いていました。

「日本文化の普及」 にこれから努めようとしている彼には、こういうローカルな場所でベトナムの人たちがスシやサシミを食べている光景は、おそらく大変面白く感じたことは間違いないでしょう。私自身もいつも新しい発見がありますから。すぐ隣のテーブルでは、日本酒を熱燗で飲んでいるベトナム人の若者グループもいました。

この日は、これから「世界一周」をする彼もしばらくは日本料理を食べることもないだろうと思い、また彼に栄養もつけてもらいたく、最初にスシのトロの握りと、鉄火巻きや巻き寿司を注文しました。

ここのスシのトロは二貫で、何と 25,000ドン(約120円)でした。もちろん 上トロ ほどの味はしませんが、一応 「トロはトロ」 の味はしました。「路上屋台の日本食屋」で、これだけのトロが味わえれば上出来です。そしてその値段設定は、普通の赤身のマグロやエビと同じ値段なのでした。

日本でのトロの値段の高さを知らないからなのでしょうが、我々日本人には嬉しい値段設定なのでした。敢えて、「その値段はおかしいよ。安すぎるよ。」と言う必要はありません。彼に「言った通りでしょう。ここの日本食屋は、非常に落語的な世界なのですよ。」と言いますと、彼も大笑いしていました。

そのトロと鉄火巻きや巻き寿司をツマミにビールを飲みながら、彼と「青年文化会館」からの続きの話をしました。「そう言えば、あの紙飛行機はどうなったの?」と聞きますと、彼が知らないうちに無くなったというのでした。残念ながら、あの紙飛行機が空を旋回する姿はついに見ることが出来ませんでした。

そして、彼はあの喫茶店でベトナム人の若者に落語を練習させた後、次は「青年文化会館」内にある部屋を借りて、そのベトナム人の動画を撮影しようと思い、受付に 15分間ほど個室の部屋を貸して欲しいと交渉したのでした。

するとそこにいた責任者の男性が少し考えて、「それくらいの時間だったら使用料は要らないから、自由に使っていいよ。」と好意で言ってくれたそうです。その男性の言葉にお礼を言って、それからたった二人だけで「落語」の練習を何回かして、ついに一応人さまに披露出来るレベルまで達したところで、彼はベトナム人自身が演じる「落語」を動画に記録しました。

それを私に「日本食屋」で見せてくれました。ベトナム人に「落語」を演じてもらった時の、その 『動画』 を観て唸りました。私も良く知る若いベトナム人の男の子が、キチンと正座して堂々とベトナム語で「落語」を演じていたからです。彼のベトナム訪問の中でも、記念に残る『動画』だと思います。

そして彼はこの日、自分が「世界一周」しながら落語を広めることに掛ける情熱と思いを、私達の前で語ってくれました。彼はこれから一年半かけて、80カ国を回る『目標』を持っています。

私が 「世界の中で一番行きたいところはどこ?」 と聞きますと、 「アルゼンチン」  「ニューヨーク」 だと答えました。「アルゼンチン」に行きたいというのは、ハノイからラオスに行く時に同行したのが「アルゼンチン」から来た女性二人だったそうで、「必ずアルゼンチンに行くからね。」と約束したからだそうです。

「ニューヨーク」はショーの本場ですから、彼はあの「ニューヨーク」でも<落語>を披露したいという、大きな夢を描いているようです。もしそれが実現したら、どんなに素晴らしいことだろうかと思いました。彼は言いました。

「ニューヨークに着いた時には、大きなつぼみになっていたい!」

「大きな花」ではなくて、 「大きなつぼみ」 という彼の言葉を聞いた時、ジーンと感動しました。普通の人の口から簡単に出て来る言葉ではないでしょう。

これから「世界一周」に向かう < 関東落研 連合> の 五代目総長からそういう言葉を聞いた時、(何と素直な青年だろうか・・・)と思いました。彼が世界一周に旅立つ時に抱いた目標は、実に 『あっぱれな目標だ!』 と思います。

「ユウキ」くんとはこのサイゴンでわずか一日だけ、時間にして五時間足らずの短い出会いでしたが、強烈な印象を私たちに残して、彼は翌日また次の国へ旅立ってゆきました。

ベトナムBAOニュース

「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。
「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。

■ 帰ってきたOshin ■

1994年にベトナムで放映された時、爆発的な人気となった日本のドラマ 『Oshin』 が6月10日からHTV3で再放送されている。毎週月曜日から金曜日まで、朝6時15分からと夜10時30分に再放送される。

全部で 297話から成るこのドラマ 『Oshin』 は、明治時代の末から1980年代までを生き抜いた、一人の日本人女性の人生の感動の物語である。貧しい少女時代に七歳で奉公に出た時から始まり、実業界で成功するまでの長い道のりを描いた、一人の女性の人生を描いたものである。

この名作ドラマ 『 Oshin』は世界68ヶ国で放送され、特に少女時代の『Oshin』が様々な困難な壁に突き当たり、幾多の困難を乗り越えて最後に成功してゆく姿は、戦後の日本の復興の姿と重なり、多くの国で多くの人たちの感動を呼んだ。

ドラマの中で日本の少女が演じる『 Oshin』の姿は、日本人女性の 「忍耐強さ」 と 「慎み深さ」 の象徴として、このベトナムでも伝説になるほど有名になったのである。

◆ 解説 ◆

『Oshin』 ・・・と言えば、もちろん 『おしん』 のことです。日本では 1983年4月から放送されました。しかし、私は日本にいた時には、一度としてその番組を観たことがありませんでした。その当時の私の仕事は夜が遅く、『Oshin』が放映されている朝の時間は寝ていたからです。

しかしこのベトナムに来て、ベトナムの人たちの間では日本の番組『 Oshin』が大変有名だったことを知りました。さらには、 今 『 Oshin』という単語は、 ベトナム人なら誰もが知っている日本語の一つで、 『家政婦』 という意味で使われているのです。ベトナムの新聞の記事の中にも、普通に出て来ています。

ベトナムでは、記事の中にあるように 1994年に放映されました。私の女房も毎日観たことがあるそうで、女房の話では、少女時代を演じた小林綾子さんが20歳を越えてベトナムに来た時、彼女を一目見ようとして、多くの人たちが空港まで押しかけたそうです。

今回のこの 『Oshin』の放送は、 < 日越国交樹立 40周年> を記念して再放送が決まったようです。 そしてその再放送が始まった 6月10日の夜10時30分、このベトナムで私は初めて『おしん』を観ました。小林綾子さんが演じる少女期の 『Oshin』 が登場しました。それから約一ヶ月近く少女期の 『Oshin』 を観ることが出来ました。

私はふだんベトナムのテレビ番組を観ていないので、今回この番組を観ていて(ずいぶん変わったなぁ~・・・)と思うことがありました。私がベトナムに来た 16年前には、外国の番組の中で登場人物が話している言葉は、登場人物が何人いても、男性の声でも女性の声でも、すべて一人の人が吹き替えていましたが、この 『Oshin』では登場人物ごとにそれぞれ別の人が話していたからです。

しかし、『 Oshin』の 少女期を演じた小林綾子さんの演技は、あらためて <名演技> だなーと思いました。今回で2回目の放送を観た女房も、初めて 『 Oshin』を 観た娘も涙を流していたからです。

私自身も山形の雪深い中で、様々な苦労を重ねながら、幼い少女が健気にも明るく生き抜いていく一話一話に、深い感動をおぼえていました。そして7月になってから、物語は小林綾子さんの少女時代が終わり、田中裕子さんが演じる 『Oshin』に代わりました。

今回の 『Oshin』の放映に関して、別の新聞記事には次のような内容が掲載されました。

今でも日本女性のイメージとして、『Oshin』のように忍耐強く慎み深い女性を思い浮かべるベトナム人は多く、このドラマはベトナム人男性の日本人女性崇拝に拍車をかける結果となった。

因みにベトナムには「 An com Tau , o nha Tay , lay vo Nhat」という言葉がある。意味は[中華料理を食べ、西洋の家に住み、日本人の嫁を貰うのが理想]というものだ。『Oshin』ブームが再びベトナムに訪れるかもしれない。

日本のテレビ番組『おしん』が『Oshin』としてベトナムで放映された時、ベトナムでの 「日本および日本人」 に対してのいいイメージを大きく高めることに貢献したことは間違いないでしょう。

Posted by aozaiVN