【2013年12月】三年ぶりに帰ってきた教え子たち/ダラットで“奇跡の村”設立の土地探し

春さんのひとりごと

<三年ぶりに帰ってきた教え子たち>

12 月初旬、 22 人の実習生たちがベトナムに帰って来ました。三年ぶりのベトナムへの帰国です。実は、その全員が私の教え子たちでもあります。三年前のホーチミン市と今は大きく変化していますが、彼ら自身も三年前とはずいぶん変わっているだろうな~と想像しました。

私は今まで実習生たちがベトナムに帰って来た時に、彼らを空港に迎えに行くことはありませんでした。何故なら、彼らが何月何日に日本を発ち、何時に空港に着くのか自体が分かりませんでしたから。さらに、時間的に学校での授業と重なっていれば無理でした。

毎年平均すると、 200 名近くの実習生たちが今の学校から日本に行くのですが、そのことは毎年 200 名近くの実習生たちがベトナムに帰って来るということでもあります。その全てを迎えに行くことなど不可能に近く、私は最初から諦めていました。

さらにはベトナムに帰国した後、彼らが優先して会うべき最初の人たちは先ずは両親であり、家族であり、親しい友人たちでしょうから、私自身が敢えて行くこともないと考えていました。しかし、今回は事情が少し違いました。

今年の春日本に帰国した時、私は三重県の 『伊勢神宮』 に参拝しましたが、今回帰国するメンバーの中に、その時三重県の市内から『伊勢神宮』まで会いに来てくれた実習生たちがいました。彼らと『伊勢神宮』で再会するまでには、現場で彼らを指導されていた日本人の上司のIJさんが間に入って日程や時間を調整して下さいました。

その日が、日本では初めて私が実習生たちに再会出来た思い出の日になりました。私の友人に車で『伊勢神宮』まで送ってもらいましたが、彼らに会う前から、彼らが日本で過ごしている日々を車の中で思い描いていました。IJさんご夫妻が、彼らを車に乗せて連れて来て下さいました。そして彼らに再会出来た時、嬉しさを通り越して、思わず涙が出て来ました。

それだけに、 (彼らがベトナムに帰国する日が迫って来ているなぁー) というのは心の片隅にありました。そして、その時のメンバーが帰国する日程を、今回IJさんから連絡頂きました。しかしその日は平日でもあり、 ( 授業があるので、残念ながら空港に迎えに行くことは出来ません・・・ ) と、一旦はそのように連絡していました。

そして彼らの帰国日が迫った二日前、 ( 彼らが帰国するのは平日だが、時間は何時なのだろう? ) とふと思い、IJさんに携帯電話からショート・メッセージを日本に送りました。果たして日本に携帯から届くかどうか不安でしたが、ちゃんとベトナムからのメッセージは届いていました。

その時、IJさんもすぐには正確な時間が分からないようでしたので、「翌日総務に聞いてまた連絡します。」という連絡があり、翌日その到着時間を教えて頂きました。ショート・メッセージで届いた彼らの到着時間を見ると、私の平日の授業が終了して 30 分後くらいの時間でした。

(飛行機が到着しても、ゲートを出るまでにはさらに少し時間が掛かるだろうから、もしかしたら空港に行っても間に合うかもしれないな)と想像し、IJさんには「その日は何とかして空港に行きます!しかし、彼らが先ず会うのはご両親たちと彼らの家族ですから、実習生たちには言わないで内緒にしておいて下さい。」と連絡しました。

IJさんも「分かりました。ドッキリ大作戦でいきましょう!」と返事されました。「但し、今回帰るメンバーの中に、リーダー格の Huong( フーン ) さんに手渡した書類があります。それを空港で受け取って欲しいので、彼女一人だけには知らせておきます。」と答えられました。私も「了解しました。」と返事を出しました。

そして彼らが帰国する日、授業を終えるや否や、バイクを飛ばして空港まで行きました。バイクを走らせながら (22 名の実習生たち全員には会えないかもしれないけれど、数人には会えるかもしれない ) と期待していました。特に、『伊勢神宮』で出会えた彼らにはまた会えればいいな・・・と思いました。

国際線のターミナルに行きましたら、相変わらずの人の多さです。空港の出口の上のパネルに掲示してある到着便を見てみると、彼らが乗った便は台北経由からでしたが、「 Arrived 」と表示してありました。今到着したばかりのようでした。彼らはもうすぐゲートから出て来るのでしょう。

( 彼らが出て来るまでしばらく待つか・・・ ) と思い、空港の中にある椅子に腰掛けて周りを見回しますと、私のほうを見て「ニコッ」とした笑顔で、頭を下げて挨拶した若い女性がいます。(誰だろう・・・?)と思い、しばしその顔をじーっと見ていますと、何とそれは私の昔の教え子でした。

彼女も今日ベトナムに帰る友人を待っているとのことでした。私が迎えに来た同じメンバーの中に、その友人がいるというのです。彼女はその友人を迎えるために、両手に花束を抱えていました。

さらにまた少し離れた場所に、また私の知り合いの男女がいました。彼ら二人もまた同じく私の教え子でした。聞けば二人はもうすぐ結婚する予定だということでした。 22 名の教え子たちがベトナムに着く前に、三人の教え子たちともひさしぶりの再会を果たすことが出来ました。この日に限らず、おそらく多くの教え子たちが、自分の友人たちがベトナムに帰る時には、こうして迎えに来ているのだろうな~と思いました。

そして、待つことしばし・・・、ガラス張りの大きなドアの向こうから、果たして私の知った顔・顔・顔が次々と現れて来ました。私は少し離れた群集の中にいましたから、彼らからはおそらく見えなかったでしょう。数個のスーツケースと大きなダンボールをカートに乗せて、彼らがゲートから出て来ました。

彼らはゲートを出るや否や周りを見回し、目ざとく見つけた家族の人たちに笑顔を一杯浮かべて、手を振りながら駆け寄って行きました。そして、両親や家族の人たちと抱擁を繰り返していました。三年ぶりの再会です。どんなに嬉しかったことでしょう。

不思議だったのは、涙を顔に出して泣いている場面は誰も見ませんでした。本人たちも両親も家族も、喜びを満面に浮かべていました。まあしかし、それが当然と言えば当然なのですが・・・。感激の涙以上に、感激の喜びのほうがより大きいのでしょうから。

しかし、私自身は彼らが両親や家族の人たちと再会している場面をじーっと見ながら、熱いものが込み上げて来ていました。本人はもちろん、両親や家族のみんなはこの日の再会をどれだけ待ち焦がれていたことだろうか・・・と思いました。そしてしばしの時間を置いた後、彼らが空港から去る前に会わないといけないなと思い、一人・一人に近付いて行きました。

この日、この時間に私が空港に来ることは、 Huong さん以外の実習生たちは知らなかっただけに、私の顔を見た最初は(キョトン?)とした表情をしていました。しかし、すぐに私だと気付いた後、大きな眼を見開いた後、(わぁー!!)と喜んでくれました。そして笑顔で駆け寄ってくれました。

その中に、今年の春『伊勢神宮』で会った教え子たちもいました。嬉しい限りでした。そして Huong さんのご両親と家族にも会いました。最初に両親や家族に挨拶した後に、 Huong さんといろいろ話しました。

そして、 Huong さんが「これは日本でIJさんから預かって来ました。」と言って、茶封筒を私にくれました。「有難う!」と言って、それを受け取りました。それから Huong さんは両親に「ちょっと待っていてね。」と言って、私の手を引っぱって、この日帰国した実習生たちの所まで連れて行ってくれました。

Huong さんは一人の実習生との再会を終えると、周りを見回して「あ、あそこにもいますよ!」と言って私の手を取り、急いでそこまで向い、またそこでも私にみんなを会わせてくれました。私はかつての教え子たちに、次々と三年ぶりの再会を果たすことが出来ました。

最終的には、この日は 10 名の教え子たちに再会することが出来ました。残りの 12 名の教え子たちは、両親に会い、家族との再会を果たした後は、そのまま車やタクシーで家に帰ったのでしょう。故郷が遠い教え子たちはホーチミン市内に泊まるために空港を離れたようです。しかし、私は空港で 10 名の教え子たちに再会出来ただけでも十分満足でした。

それが終わり、 Huong さんはまた両親の元に戻りました。私もそこに行きました。私は Huong さんの両親に「三年間が終わりましたね・・・」と別れの挨拶をしました。それ以上は言葉が出ませんでした。それに、(早く家族みんなでゆっくりと食事をし、話し合いたいだろうな~)と思い、「それでは Huong さん、さようなら。また会いましょうね!」と言って、そこで別れました。

そして、私はまたバイクで家まで帰りました。帰ってから、 Huong さんからもらった封筒を開きました。事前にIJさんからは

「封筒の中には、 Huong さんが会社で実習している時の様子の写真や、私たちとの日本での繋がりを Huong さん自身が日本語で書いた作文が入れてあります。」

と聞いてはいました。封筒の中には、A4にして全部で 13 枚の資料が入っていました。彼女が日本で取得した資格としての 『技能検定基礎2級の合格証書』 。三年間の実習が終わり、国際研修協力機構から授与された 『技能実習終了証書』 。 Huong さんが提案して会社にその提案が採用されて、会社から金一封を頂いた 『改善提案評価票』 ・・・などがありました。

彼女が三年間日本で頑張った活動内容が想像出来ました。そして、良く見てゆくとその中にはさらに、 『日本語能力試験N2の合格証明書』 がありました。その試験日を見ると「 2012年 12 月 2 日」となっていました。ちょうど一年前に、彼女は <N2> の試験を受けていたのでした。それは彼女が日本で実習を始めて、二年目くらいの時期になります。

(日本にいる間に<N2>を受けて、合格していたのか~~!!)

私はそれを見て初めて知りました。彼女が日本でそこまで日本語の勉強も頑張ってくれていたのかと。IJさんは私が空港に行くこの日、メールでは連絡が取れないので、私の携帯に事前にショート・メッセージで Huong さんのことを次のように連絡されてきました。

「彼女はスゴイ子ですよ。三年間誰ともつるまず、遊びにも行かず、独りきりで頑張り抜きました。本当に強い子です。」

私が頂いた資料を見ていますと、IJさんが言われたその通りでした。そして彼女は、日本を去る前にIJさんとの思い出を9ページもの原稿用紙に書き綴ったのを、その封筒に入れていました。彼女が書いていた日本語も素晴らしいものでした。それを読んでゆくうちに、涙を抑えることが出来ませんでした。その一部分だけを抜粋します。(以下彼女の原稿の内容のまま)

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<私の恩人>

「初めてIJさんに会った時のことは、今でもよく覚えています。それは、入寮して二週間ほどの頃で、その日は主任に職場を案内してもらう日でした。IJさんはその職場で働いていました。

真面目な彼は、休憩時間を待って私たちに話しかけました。彼は、「みなさん初めまして、IJです。よろしくね」と笑顔で自己紹介をしました。私たちは、その日からIJさんと同じ職場で、成形の仕事を始めました。・・・

私は日本語がとても好きです。私にベトナムで日本語を教えてくださった先生はよく、「みなさんは日本へ行ったら、たくさん職場の人と話をして、日本語を勉強して、三年間がんばって、日本語能力試験に合格して帰ってください」と言われました。

だから私は休憩時間も積極的に職場の人と話していましたが、会話の中ではよく分からない言葉が出て来て困りました。そんな時、分からない言葉の説明をしてくれたのがIJさんでした。

私はN4の試験を受けたかったのですが、資料を持っていなかったので、IJさんに相談すると、驚いたことに二日後には、いろんな資料と問題集を持って来てくれました。私はとても嬉しくて、仕事が終わり、用事を済ませたら、直ぐに勉強を始めました。やればやるほど日本語が好きになりました。

こうしてIJさんに助けられながら、日本語の勉強をしたのは昨年N2の試験を受ける時までです。試験の日は、私と友達を試験会場まで送迎してくれて、私が試験を受ける時に気を付けるべきことを助言してくれました。

合格の知らせを聞いた時は、言葉が出ないぐらい嬉しくて、泣きそうになりました。私は「IJさんのおかげで合格できました」と言いながら、彼と握手をしました。私も嬉しかったけれど、私以上にIJさんは嬉しかったようで、その嬉しさは笑顔に表れていました。」

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彼女の原稿はまだまだ続きます。IJさんが自分の「ふるさとを案内したい」と言って、奥さんと一緒に Huong さんを連れて故郷に案内して頂いたこと。春の花見、夏の花火、秋の紅葉など、日本の四季折々の風景を見に連れて行ってくれたこと。

そして今年の夏、彼女の人生の中で 「一番困ったこと」 が起こりました。スーパーで彼女が買い物していた時、耐え切れないお腹の痛みで立っていられなくなりました。IJさんに電話すると、すぐ奥さんと一緒に車で迎えに来て頂きました。病院に車で連れて行ってもらうと、直ぐに手術となりました。盲腸炎でした。 Huong さんにとって、異国で初めての入院体験です。彼女はその時の心境を次のように綴っています。

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「ベトナムでは、病気の時など困ったことがあれば、いつでも両親が傍に居てくれます。しかし、日本では自分一人で生活しなければなりません。入院した時は、とても不安になりました。そんな私の所へ、IJさんと奥さんが見舞いに来てくれました。

手術して直ぐで、心細かった私の目の前には、二人が居ました。その日から奥さんは、午前中の仕事が終わると、家事を済ませてから、私の入院している病院まで、電車で通ってくれました。

IJさんは仕事が終わると、病院に奥さんを迎えに来て、いつも面会時間いっぱいまで病院に居てくれました。私達は病院の面会時間が終わるまで、いつも楽しい時間を過ごしました。

これまでもIJさんと奥さんは、私にとって良い友達でしたが、この入院がきっかけとなり、私はIJさんと奥さんのいろんなことが分かり、愛情が深まったように思います。いつも私を助けてくれる二人を、二番目のお父さんとお母さんのように思いました。・・・」

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Huong さんが日本という異国で病気になって入院していた時、彼女の傍にIJさんご夫妻がいてくれたのでした。ベトナムの田舎から日本に来て病気になった彼女にとって、何と大きな支えになって頂いたことでしょう。彼女の病気のことを知っても、遠いベトナムにいて日本に行きたくても行けないご両親にとって、どれほど有り難かったことでしょうか。その感激は想像するに余りあります。

この日ベトナムに帰国し、空港で再会出来た教え子たちに私が聞きました。「日本での生活はどうだった?」。全員が口を揃えて言うには、「もう、本当に楽しかったですよ!」と。日本という異国で暮らしたこの三年間、苦しいこと、辛いことが無かったはずがないと思います。

しかし、彼ら全員の口からそのような言葉が聞けたというのは、彼ら自身の努力もさることながら、日本でIJさんご夫妻のように彼らを支えて頂き、彼らの回りの多くの日本人の方々の 『温かい厚意』 があったからこそと思います。

この日の夜に、彼らに再会出来たお礼をIJさんに連絡しましたら、次のように述べられました。

「本当に感謝すべきは私たちなのです。三年間、彼らは全く不平不満を言わずに頑張り抜きました。苦労を掛けた彼らから“3年間は短かった”との言葉を頂けたことは、職長以下全員にとって、大きな慰めになりました。

三年間の実習期間を我が職場で終えた彼らと、食事に行きました。彼らには、仕事の面でも助けられることが多く、職場の誰もが彼女たちには、感謝の気持ちと、帰国を惜しむ気持ちが入り混じっています。」

そしてIJさんご夫妻は、今年の 12 月の末から年始にかけて、ベトナムを訪問されることになりました。初めてのベトナム訪問ですが、いろんなツアーにも行かれ、自分の趣味の 『魚釣り』 もされ、学校も訪問される予定ですが、一番大きな目的は 『ベトナム人の実習生たちとの再会』 です。

そして、 Huong さんの故郷である、サイゴンの南西にある「BAC LIEU( バク リュウ ) 」にも行かれます。 「 BAC LIEU 」へは、サイゴンから食事などの途中休憩を入れて、車で約 7 ~ 8 時間かかります。 Huong さんは、原稿用紙の最後に次のように書いていました。

「私はIJさんと奥さんと出会えて、本当に運が良かったと思っています。帰国しても私達の関係は続きます。今度は、IJさんと奥さんに、私の家族や、私が育った町を紹介したいと思っています。私は、日本に来て本当に良かったと思っています。三年間ありがとうございました。」

毎年ベトナムから日本に多くの実習生たちが派遣されています。現在 3 万 5 千人くらいのベトナム人実習生たちが日本には滞在していると言われています。彼らが日本で暮らし、日本で仕事をしている間、私は 「三年間仕事もしっかり頑張り、日本語もしっかり勉強して欲しい。」 と願い、授業の中でもそのことを折に触れていつも話しています。

そして、彼らが日本で仕事をし、生活している三年の間に、IJさんご夫妻と Huong さんのように “感動的な秘話” が、日本全国にいるベトナムの実習生達と日本人の間に、私が知らないところでいろいろ生まれていることだろうと思います。

今回、その “秘話” の一つを直接見聞きすることが出来たことは、私にとって大きな感動でした。もうすぐ、この年末にサイゴンを訪問されるIJさんご夫妻との再会を、私も楽しみにしています。

ベトナムBAOニュース

「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。
「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。

■ ダラットで“奇跡の村”設立の土地探し ■

今から述べるこの話は、数人の日本人がダラットに来て、土地を探して “奇跡の村 を設立する話です。“奇跡の村”と言う呼び方は日本にある 「川上村」 のことで、その当時 一番貧しかった土地を、一番裕福な土地へ作り変えた村です。

11 月末に Masahito Shinohara ( 34歳)氏と Takaya Hanaoka ( 35歳)氏の二人の日本人が、ラム・ドン省の農業専門家、野菜生産会社「アン・フー・ダラット」の数人と同行して、“奇跡の村”の技術やノウハウなどを応用できないか、その調査を兼ねてダラットへ土地を探しに来ました。

☆専用の別番組☆

Shinohara 氏 によりますと「川上村」には専用の別番組があり、「川上村」の農業の話を放送すると共に、地方における農業生産方法の案内、市場の情報などを毎日更新して放送しているといいます。「この番組のおかげで、農民が収穫時期を統一して決めることが出来ます。」と彼は言いました。この番組は村人にとって大事な番組であり、もし一日でも放送できない日があると、村人たちはとても心配します。 Shinohara 氏 はダラットの農民たちに「どうやって市場の情報を仕入れているのですか?」と聞きました。しかし、野菜を収穫したばかりの農地にいた農民はただ黙ったまま、首を振るだけでした。

“奇跡の村” と言うのは、東京の西方にある 「川上村(長野県南佐久郡)」 を、日本人が付けた名前です。 1980 年より以前には、そこは日本の中でも一番貧困な土地でした。しかし、レタス生産を中心にして先端的な農業技術を導入し、 20 年間以上をかけて村民総出で工夫・改善し続けて、今や日本一の裕福な村になりました。

毎年農業に従事する労働時間の合計はたった 4 ヶ月( 6 月から 10 月まで)しかないのに、年収は 25 万ドル / -世帯 / 年なのです。農業に従事出来る季節以外は、時には気温がマイナス20度になり、降雪 のために農業自体が出来ないのです。

「川上村」はダラットと同じ高原地帯で、海抜が 1.185m あり、耕地は全部で 1.735 ha ありますが、その全てを レタス生産ために利用しています。この面積はダラットの全農業面積の 4分の1くらいしかないのに、年間1.5億ドルの収入を稼ぎ出しているのです。

ベトナムでの< HT Capital 投資基金組織代表>の Hironosi Tsuchiya 氏 は、「“奇跡の村”の“奇跡”と言うのは夢のような、空想の収入を指しているのではなくて、日本で一番貧しかった土地から現実に生み出された収入を指している言葉なのです。」と言うのでした。

● 「川上村」からダラットへ ●

10 月初めごろ、「川上村」を誇りに思っている Hironosi Tsuchiya 氏 がダラットに来て、野菜生産の企業家たちと話していた時、彼はいつも <日本農業のモデル村> をダラットにおいても出来ないかというイメージを描いていました。日本へ出張する時には、彼はダラットで「川上村」のレタス生産技術を指導するために協力してくれる農家の若者達を、一緒に「川上村」に連れて行きました。いずれはダラットで生産したレタスを、日本の 500店舗のスーパーで販売し、さらにまたヨーロッパへも輸出する計画です。

株式会社・ラクエのオーナーでもある若い農民 Shinohara 氏 と Hanaoka 氏 の二人が彼の案件に興味をもってダラットに来ました。二人は「川上村で農業をする土地がなくなったので、川上村の野菜生産の技術のノウハウを活用出来るのではと思い、ダラットで野菜が生産できる土地を探しに来ました」と、その理由を述べました。

ラック・ズーン郡にあるラット村の農業の生産地に向かっている時、 Hanaoka 氏 が道路沿いの土を手に取って、それを手で砕いて自分の鼻に近づけました。そして、彼はニヤリと笑いました。「私の村の一番土質の良い土地でも、それは恐らくダラットでは一番土質の悪い土地でしょう。」と彼は話しました。

魚粉の肥料の匂いがする農地内で、 Hanaoka 氏はある 農民からレタスを一つ頂きました。彼はそのレタスを手に取ると、じっくり見ながらそれをぐるぐる回してみていたかと思うと、いきなりかぶりつき、ムシャムシャ食べ始めました。これには、農民たちと農業の専門家も唖然としました。

彼は平然として、「私は今までこのやり方で、その野菜の品質と生産レベルの良し悪しを判断してきました。」と彼は説明しました。「ダラットの農民たちがレタスを生産する時には、川上村の技術と野菜栽培のやり方を全部引き渡す予定です。」と Hanaoka 氏 は強く言いました。「現在のような肥料のやり方では、本来は良い土質でもいつか悪くなり、清潔な野菜も不衛生になってしまい、最終的にそれは水の汚染になるのです。」と彼は話を続けました。

●“奇跡の村”の鍵 ●

その野菜の栽培農地から他の野菜の農地へ行く間に、二人は「川上村」の農業発展と経済発展における“奇跡”の基本的な法則について熱心に話していました。 1965 年代ごろ、村の人は最初外国人を対象にレタスの生産を始めました。特に日本に住んでいるアメリカ人がその対象でした。

長野県が置かれた厳しい環境を考えると、レタスの生産は米を生産するよりも良い案でした。しかしそれでも、日常の生計までが維持できるくらいで、日本一番貧困な土地からはなかなか抜けられませんでした。

それが、 1980 年代ごろ村人の考えが変わりました。現在の村長・ Tadahiko Fujiwara 氏 (1938年生まれ)がリーダ役を果たして、当時の農業の先端的な技術でレタスを生産するように村人を指導しました。

「ダラットの農地にも川上村の先端的な、一番良い農業技術を導入したいと思います。川上村が他の農地と一番違った点は、川上村の村人たちはそれまでの古い生産方法を捨てて、新しい生産方法を導入して運営したことです。」

と Shinohara 氏 は述べました。「それは川上村が生産した野菜の安全基準の設定と、野菜のブランド作りに関して大きなメリットがありました。」と彼は話しました。

「川上村」が野菜の安全基準を適用しているのは、 Global GAP 【 世界的に認められた基準】 である。それ故に、日本の食品安全基準よりもさらに品質の良い野菜を生産しているのである。「具体的に言い代えますと、村長は“野菜にやる肥料は安全で、また人に害が無い”と言います。」と Shinohara 氏 は説明した。

「川上村レタス・ブランドの信用を確保するために、村長自らが野菜の生産農家の秩序・規律の業務担当を致します。もし、川上村が統一して決めた野菜の生産基準に違反した農民がいたら、即野菜の生産を停止します。」

「生産する規律を厳しく設定して、生産するだけのために食品安全や野菜の品質について基準を緩めるようなことは無くて、そのような基準をどんどん厳しくしてゆきます。」

Shinohara 氏 によると、「年間での収入 1.5億ドルを得るためには、農業技術指導の傍ら、生産規律も一番大事な鍵になる。」 と言うのである。「川上村の野菜保存方法は、今のダラットの農民達の野菜の保存方法とは違います。」と Hanaoka 氏 は言いました。

「野菜を収穫した時の温度のままで野菜を保存して、それを購入する人たちまで届けます。ダラットでは野菜を収穫するのはほとんど昼間ですが、川上村では朝一番早い 2時から6時までに野菜を収穫しています。その時の大気の温度は大体2度~4度です。収穫した後、すぐに大気の温度と同じ温度に調整した冷凍トラックに入れ、太陽の光を避けて野菜の品質を確保しています。」

● 若い農民達の農地 ●

「ダラットの農地を見ていた時に、お年寄りの人たちの姿をたくさん見かけました。」 Hanaoka 氏 はそれについて「何故?」という疑問を持っていました。それをダラットの人に質問すると、「ほとんどのダラットの若者たちは家族の意向で農業を辞めて、他の地域で別のチャンスを探すのです。」と説明してくれたという。

Hanaoka 氏 はその答えを聞いてから、自分の国のことを話しました。日本においても、他の村の若者たちは村を離れて都会に稼ぎに行って、自分の将来のチャンスを探しに行きます。しかし、「川上村」の若者たちは、農業科や経済学部などを卒業したら、村に戻ります。そして、彼らは農民として夜中の1時から夕方の 19時まで働きます。

Hanaoka 氏 によりますと、若い農民達がたくさんいるので、農業はいつも新しい技術を村に一番早く応用出来るという。 Hanaoka 氏 自身も専業農家の 5代目になった。彼は財務の会社に採用が決まっていたのを辞退して、農業に従事することにしました。「家族が誇りにしていた農業の仕事で、土質の悪い土地でも利益を多く稼ぎ出す方法を探ることを教わりました。」と Hanaoka 氏 は言いました。

彼は、ベトナムの若者たちが都会で失業している状況も気にしていました。「多分、その若者達は村ではチャンスを見つけられなくて、農業で生産する楽しさも味わったことが無いのでしょう。しかし、それと同じ状況はわが国にもあります。」と Hanaoka 氏 は言いました。

「川上村」では、それぞれの家庭の状況次第ではいろいろな影響が出るかもしれませんが、村人はある一つの規定を守らなければなりません。それは、農民の子供たちが念願の勉強や他の人たちの義務を成し遂げた場合には、親は農地の管理を子供に引き渡し、子供に任せて、子供の考えで農地を開発させることです。

村長の考えでは、「これは若者にチャンスを与える場としての規則でもあります。若者が村に戻って働くのは良いことであり、また農業現場も生き生きして、村に新しいアイデアや技術が生まれやすい理由でもあります。」と Hanaoka 氏 は言いました。

Hanaoka 氏 自身も、 25歳の時に家族から2haの農地をもらいました。それから10年後の今に至るまで、その農地を開発して他の多くの農家と連携して株式会社を設立し、毎年1500トンのレタスを国内市場に提供しているといいます。

■ダラットで日本基準のレタス生産プロジェクト■

HT Capital 投資基金組織を通し、株式会社・ラクエはダラットを訪問し、野菜生産会社アン・フー・ダラットと協力して、ダラットで日本の基準でレタスの生産をするプロジェクトに乗り出しました。ダラットで生産したレスタを、アジア地域やヨーロッパに輸出する企画です。株式会社・ラクエはダラットに来て、生産技術や生産プロセスを観察して、日本標準の指導を行います。このプロジェクトは 2014年度からスタートする予定です。Nguyen Truc Bong Son氏【ラム・ドン省の農業奨励センター・社長】は「このプロジェクトは、ダラットに先端の農業技術の導入を促進し、世界基準による野菜を生産することである。」と述べました。

◆ 解説 ◆

この記事は新聞の一面に大きくと、さらにルポルタージュの記事面に一ページ全部を割いて載りました。それだけ、読者の興味を強く惹く記事なのだろうな~と想像しました。

実は、私自身はここに出て来る 「長野県南佐久郡川上村」 というのを、この記事を読むまでは、その存在自体を知りませんでした。ですから、その「川上村」が日本では “奇跡の村” と呼ばれているのを、この記事を読んで初めて知った次第です。そこの農家の人たちは、豪雪のため一年で4ヶ月しか働かないにもかかわらず、 2,500 ドル近い年収があるということを知って驚きました。

それで、 ( そう言えば、長野県と言えば Saint Vinh Son 小学校の支援者だった、あのAさんの故郷だな~。もしかしたら「川上村」のことを知っているかも・・・ ) と思い、メールで連絡しましたら、「ええ、川上村と言えばレタスが有名ですよ。 “良い物を作ろう” という信念で取り組んできたからなんでしょうね。」という返事を寄こされました。やはり、そうでした。「レタスの栽培」で有名なのでした。

そしていろいろ調べましたら、やはり WEB にも「川上村」のことがいろいろ出ていました。

☆平均年収 2500万円、奇跡の村が作る究極のいちご☆

http://sankei.jp.msn.com/economy/news/131129/rls13112912430001-n1.htm

「西に八ヶ岳連邦がそびえ、 2000 メートル級の山々に囲まれる長野県川上村。真夏でも平均気温 20 度前後、冬はマイナス 20 度近くまで冷え込むため、かつては農作物の育たぬ不毛の地だった。それが藤原忠彦村長のもと約 30 年に渡り様々な改革を行った結果、今ではレタスの生産量日本一。平均年収 2500 万円 の奇跡の村として注目を集めている。」

そしてこの記事が出て一週間後、あの 「日本語能力試験一級」 合格者の Bao (バオ)君 に会うことが出来ました。 Bao 君は 2006 年に実習生として日本に行き、 2009 年にベトナムに帰りました。今年 29 歳の若者です。そして、その3年 間の日本滞在の間に、実習生として働きながら、 「日本語能力試験一級」に合格しました。

彼はつい最近まで 11 人のベトナム人と一緒に日本に行き、日本の下水道設備の研究のために二週間ほど研修に行って帰って来たばかりでした。そして彼がベトナムに帰って二日後に、 「日本語能力試験」 がサイゴンで行われ、彼は今年もまたそれ受けたと言いました。

実は、彼の故郷がこの記事にある 「 ダラット」 なのでした。それで、彼はこの日の新聞に載った記事を読んで痛く感激して、「もし、自分の日本語の力を活かして、何かお手伝い出来ることがあれば、この会社に精一杯お手伝いしたいと思います。」と、 Bao 君は私の目の前でそう言いました。

彼の両親の実家も農業をしていて、幼い時から両親の苦労は目のあたりにして来ただけに、(農業をやっている両親たちが、もっと豊かになれる方法は無いものだろうか・・・)と 、 Bao 君は考えざるを得なかったと言います。それだけにこの記事を読んで、(これはいい!)と直感しました。

その会社は、日本での「レタス栽培の最先端技術」をダ・ラットに持ち込んで、日本で栽培しているのと同じような「レタス栽培」を目指すために、ダ・ラットで新しい会社を設立するため、土地を今探しているのだという記事でした。「故郷のダ・ラットのために、そのお手伝いが出来れば・・・」というのが、 Bao 君の今の思いなのでした。

四年前に私が初めて Bao 君に出会った時、彼は私に次のような夢を語りました。

“ 日本とベトナムの架け橋になりたい!”

そして今、彼は

“ ダ・ラットと川上村の架け橋になりたい!”

という夢を描いているのです。今まで着実に自分の夢を叶えて来た Bao 君ですが、さらにまた新しい志と夢に向けて歩もうとしています。天晴れだ!と思います。

Posted by aozaiVN