【2019年11月号】バイクで<ベトナム南北縦断の旅>に挑戦・前篇/訪日中のフック首相、天皇陛下の「即位の礼」に参列
春さんのひとりごと
バイクで<ベトナム南北縦断の旅>に挑戦・前篇
バイクで<ベトナム南北縦断の旅>への挑戦は、あの「ベトナム戦争当時に バナナを栽培していた山元さん」と私との約10年前からの夢でした。 山元さんとの出会いは今から14年も前の2005年のことです。長い歳月が流れま した。最初は二人だけで話していた<ベトナム南北縦断の旅>でしたが、「私も参加したい!」と言う方がさらに三人増えました。
お一人の方は、東京浅草にある有名なお好み焼き屋さん「染太郎」の<総支配人> をされていた澤口さんです。澤口さんは山元さんとは小学校時代以来からの <大親友>でした。
あと一人の方は渋谷さんです。渋谷さんはBinh Duong (ビン ズーン)省に、 千坪の広大な喫茶店「Gio va Nuoc(ゾーバーヌック:風と水)」という名前の 喫茶店を開いた日本人です。最後の、もう一人の日本人の方は、かつての 「Saint Vinh Son小学校」の支援者・赤羽さんです。
渋谷さんと赤羽さんは日本に戻られました。澤口さんは2年前の2017年6月に他界されました。もうこの世にはおられないのです。それで、最終的に<ベトナム南北縦断の旅>は、山元さんと私の二人だけの出発になりました。
澤口さんのご遺族は、生前の澤口さんが愛用されていた「サングラス」を山元 さんに<澤口さんの遺品>として譲られました。山元さんは今回の旅の道中、 サイゴンからバイクで走っている時、そのサングラスを掛けて「澤よ、見てみろ! 今ベトナムの道をサイゴンからハノイまで走っているんだぞ!」と話しかけていたそうです。後で、それを聞いた私は胸が熱くなりました。
事前に、山元さんと私は「行きのルート」と「帰りのルート」を話し合いました。 サイゴンから北のハノイに向かう「行きのルート」は海岸沿いの国道1号線では なく、山岳部を通る、いわゆる「Duong Ho Chi Minh (ホーチミン・ロード)」と 呼ばれる道路です。平坦な道路が多い国道1号と違い、山岳部を走るので、山道の 登り・下り、天候の急変、バイクのトラブルなどのいろんなケースを想定しておかないといけません。
「帰りのルート」は
①ハノイからそのままバイクで国道を南下する
②ハノイでバイクを列車に積んで、ニャー チャーン辺りで降ろし、その後 バイクで南下する
という2つのルートを予定しておき、ハノイに着いた 時点で決めることにしました。
バイクで<ベトナム南北縦断の旅>に必要な準備物はAEONで購入。
「AEONにはバイクでツーリングする時に必要な物がいろいろ有りますよ」ということを、旅に出るちょうど一週間前にたまたま「日本語会話クラブ」に 参加していたNguyen(グエン)君という若者から教えてもらいました。
彼はすでにバイクでの<ベトナム南北縦断の旅>を経験済みでした。私は今回初めてAEONに行きましたが、確かにバイクでの旅に必要な物がいろいろ置いてあり、あちこち別の店に行く必要が無いので助かりました。今回の旅ではそこで購入した準備物をバイクに積んで、サイゴンからハノイ、ハノイからサイゴンまでを移動しました。
そして、<ベトナム南北縦断の旅>にサイゴンを発つ日は10月10日と決定。事前にそのことを知った「家具屋のABさん」が山元さんと私のために<壮行会>を開いてくれました。翌日の出発時間は「早朝の6時」と二人で決めました。山元さんが言われるには「朝はサイゴン市内を早く出ないと通勤・通学の交通渋滞に巻き込まれる」そうなので、その時間にサイゴンを出ることにした訳です。いよいよ10年来の<夢>が実現します。
★1日目:Sai Gon(サイゴン)⇒Buon Ma Thuot(バン メ トート)★
10月10日、バイクで「ベトナム南北縦断の旅」に出発。前日に山元さんと決めた、今回の旅の「スタート地点」は<ベンタン市場>前。時間は朝6時。今回、私は荷物が多くバイクに積み込むのに手間取り、山元さんに「少し遅れます!」とSMSを送って家を出て、6時05分に<ベンタン市場前>に到着。
すると、何と山元さんはいない!(いつも時間厳守の山元さんにしては珍し いな・・・)と思いました。山元さんは小学生時代以来「学校にも、会社に も、人との待ち合わせにも遅れたことが無い」と言うほどの「時間に厳しい 人」なのです。しかし、この時だけは(何かが有って遅れているのかな?)と思い、しばし待つことに。
そして数分後、山元さんから「先に行きますので、13号線を走って来てくだ さい」とSMSの着信が有り、私は(ええーっ!)と驚きました。山元さんの気の短さは承知のことなので、私もすぐに後を追うことに。しかし、山元さんが SMSで送ってこられた13号線を勘違いしていてBien Hoa方面まで進み、Suoi Tien (スイ ティエン) テーマ・パークの前まで来てしまったのです。
そこから、山元さんにまたSMSを送ると「全然違います。国道13号線です。 Thu Dau Mot (トゥー ダウ モット)に私は到着。更に北進し、国道14号線に 向かいます」との返事。それで、慌ててバイクを方向転換して私も13号線に 入り、Thu Dau Motを目指したのでした。やはり、山元さんが言われたように、早朝の街中は車もバイクも少なく、スイスイ走れます。
山元さんには「国道14号線に入った所の交差点近くで待っていてください」 とSMSを送ると「分かりました。13号線と14号線の交差点にある地名が、 Chon Thanh (チョン タン)と言う名前です。そこの交差点近くで待機してい ます」との返事があり、私も一安心して追いかけました。
そして、9時半にChon Thanhに到着。すると、交差点を右に曲がった先に山元さんが立って私を待っていてくれました。山元さんの顔を見てホッとしました。私が「5分遅れたぐらいなのに、待っていてくれたらいいじゃないですか」と言うと、山元さん曰く「私は5時半から待っていましたよ。出発が遅くなると、市内の交通渋滞に巻き込まれて大変なんですよ」との答え。まあ、無事に会えたから良しとしましょう。
そこからバイクで<南北縦断の旅>の二人でのスタートが開始。 10時半頃、Dong Xoai (ドン ソアイ)の交差点に差し掛かり、11時に茶店に入って 休憩。二人でこれから進むルートを地図で確認。二人での移動時には、途中で はぐれることも有り得るので、その日の宿泊地を決めておいて、もしはぐれても、そこに着いた時にお互いに連絡を取ることにしました。
この後は、通称「ホーチミン・ロード」と呼ばれる国道14号線をひたすら走り、 Buon Ma Thuot (正確には、ブオン マ トゥオット:通称は、バン メ トート) まで移動し、この日はそこで宿を取る予定にしました。しかし、高原地帯を バイクで走るのは爽快に尽きます。高原の爽やかな空気をバイクで切りながら、 ビュンビュンと走るのは気持ちいいものです。
Dong Xoaiからバイクで走ること2時間を過ぎた時、Bu Dang (ブ ダン) に来た所で 突然の大雨。街道沿いにある茶店で一休み。雨はすぐに止んだので、またBuon Ma Thuotを目指して出発。しかし、茶店を出てしばらく走り、高原地帯を気持ち良く走っていた所でハプニング。交通警察に呼び止められたのでした。
交通警察は道路が一直線の所には潜んではいなくて、道路が少しカーブしていて、すぐには見えにくい場所に隠れていることが多いのですが、この時もそうでした。先に走っていた山元さんは呼び止められず、私一人だけです。山元さんは先のほうでバイクを停めて待っています。
呼び止められた以上は仕方なく、私がバイクを停めて降りると、交通警察が自分の携帯の画面を私に見せて、「スピード違反だ!」と言うのでした。それを見ると「68km」という数字が画面に表示されているではないですか。(そんなにスピードは出していないが・・・。そもそも、こんな山の中のどこにカメラがある?)と思いましたが、交通警察は「免許証を見せろ!」と言う。
素直に免許証を出すと、若い警察官がじーっと免許証と私の両方を見つめています。しかし、旅の第一日目に足止めを食うのも損だし、ケンカ腰になっても勝ち目は無いので、そこは下手に出て、「許してくれ!私は日本人だが、今からハノイまでこのバイクで行く途中なのですよ!」と柔らかく話し掛けました。
すると、若い警察官だったせいか、急に態度が柔らかくなり、(ふ~~ん)と いう顔付きで、私の出で立ちを上から下まで眺め、荷物をジロジロ見ています。そして、私がバイクの前に下げている長靴に彼が眼を止めました。今から考えると(呼び止めた以上は、何かを頂いてやろう!)と、その警察官は考えていたのでしょう。
その長靴を指して「そこにぶら下げている長靴はどこで買った?幾らだ?」と訊くので、素直に「これはAEONスーパーで買った。50万ドンだった」と言うと、その若い警察官は何と「記念(Ky Niem)に俺にくれ!」と言うではないですか。 (何が記念に俺にくれだ!)とその言い草には笑いたくなりましたが、ここでそれを取られたらバカバカしい。
(要は、ワイロが欲しいだけだな・・・)と察しましたが、AEONで高い値段で 買ったばかりの長靴をここで渡すのもシャクだなと思い、私が「まだ旅が始まったばかりで、雨が降る時にこれが無いと困る。それは出来ない。勘弁してくれ!」と言うと、あっさりと「そうか。仕方がないな。まあ、気を付けて行け よ!」と無罪放免。免許証も返してくれたのでした。後で思い出すと(南の交通警察は物わかりがいいのだな・・・)と感じたことでした。
その後、また山元さんとバイクを走らせ、途中でDak Nong (ダクノン)を通過。 この地は私の教え子でもあるGai (ガーイ)さんの故郷でもあります。Gaiさんに ついては、2017年5月号の<日本帰国余話・前篇>で触れています。現在彼女は 田舎に戻り、家の農業の手伝いをしています。彼女に日本語を教えていた時のことを思い出しました。
後日ハノイに着いた時「Gaiさん、あなたの田舎をバイクで通りましたよ!元気ですか?」とメッセージを送りましたら、「はい、元気です。有難うございます。今私はコーヒー豆の収穫をしています」と言う返事が来ました。彼女の日本語能力は大変高いのですが、お父さんが亡くなった後、今はお母さんを助けながら農業に精を出しているのでした。
そして、この日の宿泊地Buon Ma Thuotに着いたのは夕方5時。ホテルの名前は 「Duy Hoang Hotel」。一泊25万ドン。旅に出る前から山元さんが「宿は一泊 20万ドンぐらいの所に泊まりましょう。二人で折半すれば、一人が10万ドンになるからさほど高くはないでしょう」と言っていましたので、この日はこの宿で山元さんも「OKです」と承知してくれました。
その後、宿に荷物を置いて、二人で夕食場所を探しに行くことに。ホテルの 周りをぐるぐる回ると、屋台の店があり、いろんな唐揚げ類がすでに揚げた 状態で置いてあったので、適当に「これとこれを頂戴!」と頼んで、二人で無事に着いたことを祝い、ビールで<乾杯!>。そこに腰を落ち着けて夕食を摂り、8時半頃ホテルに帰着。
体に異変が起きたのは夜10時頃。最初に右足全体の筋肉が引きつったような 痛みが走り、数分後には左足も同じような痛みが起きました。どうやら朝6時から夕方5時まで大した休みも取らないでバイクで走ったので、足の筋肉が悲鳴を上げたようです。(どうしたものか・・)と思い、シャワー室に入り、シャワーで温かいお湯を足に掛けると痛みが引き、筋肉の硬直も消えました。
ホッとしてベッドに戻ると、次に山元さんも私と同じような症状が右足に起きて、「痛い、痛い!」と叫んでいます。「お湯を掛けたら治りますよ!」と私がそう言うと、同じようにシャワー室に入り、お湯を掛けたら治ったのでした。この日は朝から夜までハプニングがいろいろ有りましたが、とにかく無事に目的地には着いたので安眠できました。
★2日目:Buon MaThuot (バン メ トート) ⇒ Kon Tum (コン トゥム)★
早朝の5時に起床し、6時にBuon Ma Thuotを出発。高原の朝は涼しい。気候が 涼しいので、この辺りには松の木も生えています。この日がホテルからの旅のスタートの初日になりました。朝起きたら、すぐに荷物の準備に取り掛かり、 この日から、朝食も摂らずにただひた走ることになったのでした。後でそのことを友人に話すと「まるで修行僧のようですね」と笑っていました。
山元さん曰く「目的地に着くのが遅くなると道路標識が見えず、ホテル探しも 困難になる。さらに、街灯が無い道路も多いので、暗くなる前に目的地に着くようにしないといけない!」と。バイクでの経験豊富な達人が言うことなので、 ごもっとも。それで、この旅の間は朝食も昼食も摂らず、途中コーヒー・タイムで休むことも少なく、一日中ひた走ることになりました。夕食で飲むビールと、ツマミのオカズを楽しみにしてバイクでひたすら走ったのでした。
もともと私は普段が一日二食の生活で、丸一日何も食べないでも空腹感を感じ ない体質なので問題は無いのです。結局、今回の旅の期間中、一日で朝・昼・晩と三食摂ったのは、最終日のDong Nai(ドン ナーイ)に泊まった時だけで した。
さらには観光地を訪問することもほとんど有りませんでした。後で、一人の方から「せっかくあそこまで行ったのに、あの有名な場所を見に行かなかったのですか?何と惜しいことを!」と言われました。そもそも山元さんは「私は観光には全然興味は有りません。そういう場所には行きません」と言われる人です。
私もベトナムの主な観光地は大体巡っているので、バイクで<南北縦断の旅> をしながら、さらに<観光>までもしようという欲は捨てました。そうなると 何日掛かるか分からないし、南北という縦線のほかに、左右斜めにバイクでの移動と日数が増えるからです。ここは単純に<南北の縦線を走る>ことに徹しました。今回の旅で<観光>した所と言えば、サイゴンに戻る途中のNghe An 省のVinh市で(あそこだけは是非行きたいな!)と思い、タクシーに乗って行った、その一ヶ所だけでした。
9時半にGia Lai(ザー ラーイ)省の手前に入り、11時10分にPLEIKU (プレイク) 市内に到着。道路の両側に植えてある街路樹がクスノキでした。ベトナムでは あまりクスノキは見かけないので興味深いことでした。PLEIKU市内は車やバイクも少なく、緑が多く、大変静かなところでした。PLEIKUを過ぎればKon Tumはもうすぐです。
PLEIKU市内を過ぎると山越えになります。この辺りには少数民族の人たちが多く住んでいて、バイクで走っている時にも何人か出会いました。少数民族の人たちはその外観で分かります。背中には籠を背負い、服もそれぞれの少数民族に特有の衣装を着けています。そして、大変恥ずかしがり屋です。写真を撮ろうとすると顔を背けたり、下に向ける人たち(特に女性)が多いです。
背中に籠を背負った少数民族の女性が一人で歩いていました。その時、ポケットに眠気覚ましのためにニッキ飴を入れていました。毎朝山元さんと一緒に朝早く起きていたので、バイクを走らせている時、ふっと睡魔が襲いました。その時、 その飴をポケットから出してしゃぶると、睡魔が消えてしまいました。「飴を持っていったがいいですよ」と言ってくれたのは、旅に出る前のNguyen 君のアドバイスでした。彼が言った通り、飴を持っていって正解でした。
この時もその飴をバイクの中ではなくて、ポケットに入れていました。それで、 すぐにポケットから出してその女性に差し上げようとして、バイクを停めました。見知らぬ外国人らしき男がバイクで近づいてきたので、彼女も少し警戒し たような表情でしたが、開いた手のひらの飴を見ると、それを取ってニコッと微笑んで写真を撮らせてくれました。そして、またスタスタと歩いて行きました。
彼女の家がそこから近いのか、遠く離れているのかは分かりません。私は少数 民族の人たちにはベトナムに来た当初から強い関心・興味が有りました。 それで、以前この中部に住む<バン メ トートのEde(エデ)族>と<コン トゥム のBa Na(バナ)族>の2つの民族さんたちが住む場所を6日間かけて訪問したこと があります。
それは2001年9月のことでした。
<バン メ トートのEde(エデ)族>についてはこちら。
<コン トゥムのBa Na(バナ)族>のことはこちらに載せています。
そこを過ぎた頃、道路の標識が「Kon Tumまで16km」となっていました。1時間ぐらいで着く距離です。Kon Tum市内に着いたのは午後1時過ぎ。それから二人でバイクに乗って適当なホテルを探し、3時半頃に一泊20万ドンのホテルがあったのでそこに決定。荷物を入れて一休みして夕食へ。レストランもホテルの近くに有りました。
長時間バイクで走って、この日の移動が終わり、ビールを二人で飲んでいる時、空をふと見上げると、満月に近いお月さまが私たちを照らしてくれていました。この日は何のトラブルもハプニングも無く早めに就寝。
★3日目:Kon Tum (コン トゥム)⇒Da Nang (ダナン)★
3日目は朝4時半に起床。5時40分にホテルを出発。天気は快晴!この日はダナンを目指します。朝7時にDak Haを通過している時に濃霧が発生。 ものスゴイ霧で先が見えない。ライトを照らして進むことになりました。対向車もライトを点けて走っています。 15分ぐらいして陽が射してくるとだんだんと消えてゆきました。こういう現象も面白いものです。
7時35分Ngoc Hoiの交差点に到着。右に曲がれば、通称「Duong Ho Chi Minh (ホーチミン・ロード)」と呼ばれる道路に入り。これが地図上では国道14 号線になっています。そして、いよいよ「ホーチミン・ロード」に入ります。 この「ホーチミン・ロード」と「Ho Chi Minh Trail(ホーチミン・トレイル)」 は違うということを、ここで山元さんから詳しく教えてもらいました。
「ホーチミン・トレイル」とは、北の「ベトナム民主共和国」から「南ベトナム 解放民族戦線」への軍事物資や食料などの兵站補給のルートを指し、そのルート はラオス、カンボジア領内を通っていたこと。この「Duong Ho Chi Minh」は国道14号線のことを、後に通称で「ホーチミン・ロード」と呼ぶようにしたもの で、後から付けられた名前であること・・・などです。
しかし、ここからでもダナンまでは後220kmもあります。コン トゥムからは 山越えの景色が実に美しいものでした。美しい景色が眼の前に現れると、 バイクをそこに停めてしばし見惚れました。バイクならではこその醍醐味です。 バスに乗ってこういう場所に来ても、バスはただ通過してゆくだけです。
しばらく山の道を走っていると、道路沿いの丘の上に「少数民族」の家が建っていました。史跡として保存してあるようでした。バイクを停めて、しばらくそれを見物。丘の上に建つ高床式の建物は、以前私がコントゥムで見た「少数民族さんの家」とよく似ています。上に伸びた高い屋根と、スカートのように広がった屋根が特徴です。同じ民族さんかもしれないなと思いました。
建物の中を見ると、誰もいません。中はガラーンとして何も有りません。ただキレイな装飾が施された大きな柱や壁がありました。何本もの大きな柱が大きな屋根を支えています。材料のほとんどが木材で出来ています。屋根はワラブキではなくて、もう少し厚みのある材料で葺いてあるようです。屋根の上には 「DAK WAK」と言う文字が飾ってありました。ここの地名ではないかなと思いました。この時、観光客は私以外誰も居ませんでした。
またバイクを走らせると、山の崖伝いに滝が流れ落ちています。さほど大きな滝ではありませんでしたが、こういう山の中で滝を見ると清々しい気持ちになります。水に触れてみると冷たい。その水を飲むことはしませんでしたが、 しばらく手を浸けていました。汗も引いてゆきました。
そこを去り、「Dak Glei」という地名の場所にもう少しで着くという所で、今にもガソリンが無くなりそうになりました。ガソリンのメーターの針がレッド・ゾーンに入った状態がしばらく続きハラハラです。(この山道を越えるまでは ガソリンが持たないのでは・・・)と心配になりました。Kon Tum市内を出発する時に満タンで入れてきたのですが、もう少しで無くなりそうな状態です。
山元さんのバイクは満タンで入れると200kmぐらいは走りますが、私のバイクは 120kmぐらいしか走りません。後で「走行距離」を記録していてそれが判明しました。しかし、ここは山の中だけにガソリンスタンドは無し。こんな山道で ガス欠になったら、重い荷物を積んだバイクを押して坂道を上ることも出来ま せん。
すると、ちょうど山越えの頂上辺りに差し掛かった時、峠に民家が有り、そこにはポリタンクに入れてガソリンを売っていたではないですか!!まさしく、 「天の助け!」「天の恵み!」とはこのことです。涙が出るほど嬉しかった! <峠のガソリン屋さん>に感謝でした。おそらく、今までにも、私と同じよう にガソリンが無くなりそうになって困っていた人たちを助けていたのだろうな ぁーと思います。
11時45分頃、Thanh Myまであと50kmの標識を通過。まだ山越えの道が続きます。 ダナンまではあと130kmほどです。携帯の画面を見ると「圏外」という表示が出ています。先行していた山元さんが「何回電話を掛けても通じなかったよ」 と言われたのですが、この時点での頃だったようです。ただ、道路は一本道なので、山元さんとはぐれることはありませんでした。
国道を走っていた時、道路沿いの草を食べていたヤギさんたちの群れに出会いました。こういう動物に山の中で出会うと嬉しい気持ちになります。ここだけではなく、いろんな場所でこういうヤギや牛などの群れが国道の道路沿いの草を食みながらゆっくりと歩いています。トラックや大型バスやバイクなどはそれを避けて通るしかありません。
そして、1時半に「国道14B号線」に入り、麓に下りた所で山元さんが待っていてくれました。ダナン市内に着いたのはちょうど午後3時。あの有名な「ドラゴン橋」 が見えてきました。ここでコーヒーを飲んで一休み。長時間バイクに座り続けていたので、お尻が痛くなってきました。このダナン市は山元さんが以前働いていた職場があった街でもあります。山元さんがベトナムを再訪するキッカケとなったのが、ここダナンにある「Furama Resort (フラマリゾート)」での仕事でした。
それで、山元さんも「以前このダナン市内のアパートに住んでいたので土地勘は 有ります。二人で今からホテルを探しに行きましょう」と言って、喫茶店を出てバイクに乗り、二人でホテルを探しに行くことに。土地勘がある山元さんが先にバイクで進み、私は後を付いて行きます。しばらく走った後、先を行く山元さんが首を左右に捻っています。30分経っても、40分経ってもなかなか目ぼしいホテルが見つかりません。
山元さんがバイクを停めて「以前ここダナンで働いていたことがあるので、見覚えのある場所や建物を注意して見ていましたが、街中の建物や風景が大きく変わっていて、馴染みの店とかも無くなっているのですよ」と、悲しそうな表情で言われるのでした。私が「大きい街が変わるのはどこでも同じでしょう。馴染みのあるホテルでなくてもいいですから、どこか適当な所を早く探しましょう」と答えて、またバイクで探し回りました。途中で通り過ぎた「ダナン・ビーチ」の夕焼けも大変キレイでした。
そして、ようやくホテルを見つけたのが夕方4時を過ぎた頃。「一泊35万ドンだ」 と言うのを、「30万ドン」に値切って、この日の宿探しも終わりました。6時過ぎに夕食へ行くも、近くには貝料理の店が多く、適当な店が無いのでした。ダナンは 「海鮮料理」、特に「貝料理」が有名なのですが、旅での移動中はお腹を壊してもいけないので、敢えてそういう料理は避けました。
しかし、なかなか見つからないので、適当な店に入り、お粥とビールで、無事にダナンに着いたことを祝い二人で<乾杯!>。この日の夕食はそのお粥だけ。 その代わりに山元さんも私もこの店で6本、ホテルでもまた2本、一晩でビールを 8本も飲んでしまいました。
コン トゥムからダナンまでは300kmでした。良く走りました。地図上で見ると、 サイゴンからハノイまでの距離の半分をようやく超えたぐらいの距離になります。翌日はDong Hoi (ドン ホイ)を目指します。
(・・・中編に続く)
ベトナムBAOニュース
「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。
訪日中のフック首相、天皇陛下の「即位の礼」に参列
日本を訪問中のグエン・スアン・フック首相は22日午後、宮中で行われた「即位礼正殿の儀」に参列した。同日夜には皇居・宮殿の豊明殿(ほうめいでん)で開かれた天皇陛下の即位を祝う祝宴「饗宴の儀」に出席した。
フック首相は天皇陛下の「即位の礼」に参列するため、22日と23日の日程で日本を訪問している。今回の訪問は、フック首相にとって現職就任後5回目の訪日。
フック首相の即位の礼参列には、マイ・ティエン・ズン政府官房長官、レ・ホアイ・チュン外務次官、ブー・ホン・ナム駐日ベトナム特命全権大使、ブイ・フイ・フン首相補佐官が同行した。
ベトナムメディアでは、フック首相が即位の礼に参列したことは、ベトナムが日本との広範な戦略的パートナーシップを非常に重視していることを示すものだと評価されている。
なお、天皇陛下は皇太子だった2009年にベトナムを訪問している。また、2017年には父・明仁上皇が国賓としてベトナムを訪問。これは、1973年の日本とベトナムの国交樹立後初めての天皇陛下のベトナム訪問となった。
<VIETJO>
◆ 解説 ◆
「即位礼正殿の儀」が行われていた10月22日、私はNha Trang (ニャー チャーン) からサイゴンに向けて移動中だったので、その日には直接映像でその儀式を見ることは出来ませんでした。しかし、サイゴンに戻った後、Youtubeで「即位礼正殿の儀」と<皇居・宮殿で「饗宴の儀」>という映像を拝見しました。
「即位礼正殿の儀」は10分と少し、<皇居・宮殿で「饗宴の儀」>35分ほどの映像でしたが、深い感動を覚えました。それは実に古式豊かな儀式でした。今、世界中の国々の中で、日本の天皇家ほどの永続性を保っている皇室はありません。「皇帝」「王」と呼ばれる存在は世界からほとんど姿を消してしまいました。その古く、永い歴史を今に伝え、21世紀の私たちの目の前に古来からの儀式を広げて見せて頂いたのが、今回の「即位礼正殿の儀」でした。
さらには世界各国の要人たちを日本に集めうる求心力。上記の記事にあるように、ベトナムからはフック首相が参列されました。その方たちを皇居に招いて「即位の礼」を披露し、それが世界各国に放映される。世界の至るところで、多くの人たちがそれを見て感動したことでしょう。
事実、私の知人のベトナム人はこの日の「即位の礼」の儀式をテレビで観ていて 「大変感動し、驚きました。私の国であのような儀式を見ることは出来ませんから」と、私に話してくれました。異国に住む日本人の一人として誇りに思います。
私の日本の会社の同僚も、次のような感想を送ってきました。
“あの「即位礼正殿の儀」の日は朝から雨でしたが、儀式が始まるころに 雨が止み、東京上空に、見たこともない大きな、見事な虹がかかった映像を見て、「あぁ、やはり日本という国は、神の国なんだ。」と思いました”と。
そして、実に美しいその「見事な虹」の映像を送ってきてくれました。
私は今回の旅<ベトナム南北縦断の旅>に出る時、一冊の本を持参しました。 私は旅に出る時、いつも最低一冊の本を持ってゆきます。そして、旅の道中で時間が有る時には本を読むようにしています。今回の旅の時に持ち込んだ本の著者と題名は「明治天皇の世界史:倉山満 著」です。「倉山さん」はまだ私 よりも若い1973年生まれの人です。私とはちょうど20歳違います。しかし、私は 最近「倉山さん」の著作には注目しています。倉山さんはその本の「あとがき」に次のようなことを書かれています。
「そして平成31年、200年ぶりの譲位が実現する。敗戦以来70有余年、皇室と国民の絆は切れていない。いろいろ問題はあるが、日本は健在である。
なぜ、日本に天皇が必要なのか。日本が日本であるためだ。天皇がいなければ、 その国は日本を名乗っていても、日本ではない。日本とは皇室と国民の絆のことなのだから。明治150年、我々は歴史に学ぶべきだろう。日本人に生まれて よかった。そんな日本を守り続けるために」
私も全く「倉山さん」と同じ気持ちです。明治天皇に象徴される「明治時代」 が有ったからこそ、日本は欧米やロシアなどの帝国主義国家から、その独立を護り抜いたのです。欧米の帝国主義国家から植民地にならなかったのはタイだけでした。タイはちょうど欧米の帝国主義国家の緩衝地帯に位置していて幸運だったからです。
しかし、そのタイを除けば、アジアの中で独立国家として存続し、欧米列強の支配から立ち上がったのは日本だけでした。その出発点を刻んだ天皇が「明治天皇」だったわけです。そして、「令和」の時代を迎えた今、その皇統を継ぐ「徳仁天皇」が即位されました。これほど喜ばしいことがあるでしょうか。 私は今上天皇の「令和」の時代がこれからも永く・永く続くことを願っています。