【2008年2月】15年間続く日本語会話クラブ/良き夫であるための十ヶ条

春さんのひとりごと

<15年間続く日本語会話クラブ>
ある日の夕方、友人との待ち合わせのためにサイゴン市内にある喫茶店にたまたま入りますと、その入り口近くにあるテーブルの上に、「日本語の会話クラブ」という数ページの会報が置いてありました。

私がそれを何気なく手に取ってしばらく読んでいますと、そこの店員が注文を聞きに来るまでもなく、「先日の日曜日、実は私は青年文化会館であったその日本語会話クラブに行って来ましたよ。」と、その店員が私に説明してくれたのでした。私が見たその資料は、そこの店員がどうやら自分で持ち帰ったのをそこに置いていたようでした。

その店員に私が、「ベトナム人の参加者は何人くらいいましたか。」と聞きますと、「その時は40~50人くらい来ていましたよ。」という返事でした。「面白かったですか。」と聞きますと、「まあまあ面白かったです。でも日本人の人たちがたくさん来てくれていれば、もっともっと面白かったのにと思いました。」と答えてくれました。

「それはそうでしょうね。それで、その日には日本人は何人来ていましたか。」と聞きますと、「先週はゼロでした。2週間前は2人ほど来てくれていましたが・・・。」との答えが返ってきました。「日本人は先週はゼロでした!」というその店員の返事を聞いて、私も驚きました。

それでも、50人近くのベトナムの人たちが参加してくれていることには感心しました。しかしまた、(その日に50人近くも来て参加してくれたベトナムの人たちは、肝心の話し相手の日本人がいないので、さぞガッカリして帰って行っただろうな~)とも想像しました。

実は私もベトナムに来た当初、総合大学(今の人文社会科学大学)で日曜日に開かれている「日本語会話クラブ」に何回か足を運んだことがありました。そこではサイゴンに住んでいる日本人の人たちと、日本語を勉強しているベトナムの人たちが、ベトナムの人たちはまだまだ拙い日本語を駆使しながらも、お互いに日本語で会話をしていました。私自身もそこで出会って以来、今でも時々会う人たちが何人かいます。

しかしここでの会合は、ある日曜日には有ったり、ある日曜日には時に休みだったりして不定期でしたので、自然と足が遠のいて行き、それから今に至るまで行くこともありませんでした。

しかしこの青年文化会館での集まりは、その開始から今に至るまで原則として、毎週日曜日に定期的に継続して開かれているということでした。

私も日本語クラブ自体はどこかで開かれているだろうということは聞いてはいましたが、青年文化会館で毎週日曜日に開かれているというのはこの時に初めて知りました。

そして実は、私のように永年サイゴンに住んでいる人たちにもあまり知られていないような状況なので、日本人の参加者も少ないのだろうなと思いました。

私はお茶を飲みながらしばらくの間、その日本語クラブの資料を手に取って読んで見ました。最初のページには、当日にみんなで話し合うテーマとその説明が書いてありました。この日のテーマは「日本の正月」についてでした。

しかしおそらくは、この文章はベトナムの人が作成しているのでしょう。時に小さな表現のミスはいくつかありましたが、「日本の正月」についてのその内容は、私が知らないような昔の故事来歴まで調べて書いてありました。そして難しい日本語の単語には、ベトナム語の訳も付いていました。さらには、そのテーマについての質問項目も日本語で用意されていました。

そして最後のページには、中島みゆきさんの「ルージュ」の歌が載っていました。前回の会合では、この歌をみんなで歌ったそうです。しかし日本人が誰一人も参加していない「日本語会話クラブ」で、ベトナムの人たちだけで日本の歌を歌っているのを想像しますと、なにか寂しい気もしてきました。

さらにこの資料の最後の部分には、<問い合わせ先:S>と担当者の名前が書いてあり、その人の電話番号が書いてありました。おそらくこのSさんがこの日本語会話クラブのリーダーで、この人自身が資料を作成したのでしょう。

しかし毎週のようにこのような資料を作成しているというのは、大変な労力だろうなーと思いました。しかも日本語会話クラブに参加するに当たって会費などを払う必要はなく、参加者はこの資料を貰う時に、コピー代として3千ドン(約20円)だけを払えばいいそうですから、会合で使う部屋代の料金などは、おそらく担当者が自分で出しているのでしょう。

私はそこの喫茶店でその資料を読みながら、(日本語会話クラブで肝心の日本人の参加者が少ないというのはどうしたものか・・・)としばらく思案していましたが、思い切ってそのSさんに電話を掛けました。すると電話の向こうから、元気な男性の声が聞こえて来ました。

「今度の日曜日には、日本語の会話クラブはありますか。もし有るのなら、私の日本人の友人も誘って参加したいと思いますが。」と聞きますと、Sさんは「ええ、是非来て下さい。日本語を勉強しているみんなが、こころから皆さんたちをお待ちしていますよ。」と、大変上手な日本語が返って来ました。

そして当日は私の知人2人にも、「日本語を勉強しているベトナムの人たちを励ましに行きましょう!」と声をかけて、私たちは朝9時前に青年文化会館に着きました。この日は、入り口近くでSさんと待ち合わせの約束をしていましたので、そこから彼の携帯に電話を掛けますと、「今からすぐそこに行きます。ちょっと待っていて下さい。」と明るい声が返って来ました。そしてしばらく待っていますと、会館の通路の向こうから早足で歩いて来る青年を見て、私は大変びっくりしました。

何と私が電話をしたSさんとは、10年前に当時オープンした日本人経営の喫茶店で一時は良く顔を合わせていろんな話をしていた人物なのでした。しかしそれはあまり長い期間でもなかったので、私はそれから彼の名前をすっかり忘れてしまっていました。しかしその当時から大きかった彼の体躯と独得の風貌は、この日遠くから見た時にもすぐ彼だと分かりました。

「Sさんとはあなたのことでしたか!いやー、ひさしぶりですねー。」と私が意外な再会を喜びますと、彼もすぐ私のことを思い出してくれました。「あなたがあの電話を掛けてくれた人でしたか。ここで会えて本当に嬉しいです!」と言ってくれました。しかし「十年一昔」とは言いますが、彼は10年前と全然変わらない風貌をしていました。

彼は私たちをすぐに会合のある部屋まで案内してくれました。その広さは20畳にも満たない部屋だったでしょうか。私たちが部屋に入った時には、すでに10名くらいのベトナムの人の青年たちがいました。しかしこの時点では、日本人は私たち3人だけでした。

Sさんはベトナム人で初めて参加する人に、住所・氏名・電話番号などを記入してもらうための紙を配っていました。それを基に日本語クラブの会員として登録しているようで、彼に聞きますと、今までの会員数は合計すると3千人を超えているということでした。これは驚くべき会員数ですね。

そして私たちはまず最初にお互いに挨拶を交わしてから、日本人一人につき3・4人のベトナムの人たちを机を挟む形で前に座らせて、お互いの自己紹介から始めて日本語会話クラブがスタートしました。

まず私たち日本人の方からいろんな質問をしました。「何故日本語を勉強しようと思ったのですか。」や、「今までどのぐらい日本語を勉強していますか。」や、「将来どんな仕事に就きたいですか。」などについて質問しますと、みんながそれぞれの質問に対しては日本語で答えるというやり方です。もし時に日本語として間違った表現があれば、そのつど直してあげました。

この日のテーマもまた日本の正月の話が続いていて、私たちは日本の正月についての話題を取り上げていろいろ話しました。そして途中から突然この日の会話クラブの資料に載っていた日本の歌を歌うことになりました。

そしてこの日は坂本九さんのあの有名な歌「上を向いて歩こう」が紹介されました。その歌を全員で楽しく唱和して場の雰囲気を盛り上げた後に、また分科会のような形で日本人の座っているテーブルごとに分かれて、さらに話が進んでいきました。

しばらくして会の半ばを過ぎた頃に、2人の日本人の男女が部屋に入って来られました。それを見て私も、「ああー、この会合を知っているのは私たちだけではなかったんだなー。」と、少し安堵しました。後で聞きますと、時々この会合に参加しているとのことでした。そして最終的に私たちは、9時から始めて11時半頃までいろんな話をしました。

そして実はこの日はテト前ということもあり、ベトナムの人たちの参加者は最終的には全員で30名くらいでした。しかし、こういう会合に集まって来ているベトナム人の青年たちは実に素直ですね。さらに彼等はこの会合の場で日本の人たちからいろんなことを聞きたい、知りたいという強い意欲に満ち溢れています。

私が誘った日本人の2人も「今日は本当に楽しかったです。ここに来て、いろんなベトナムの人たちと知り合えて本当に良かったあー!」という感想を洩らしていました。

そして会が終わった後に、日本人全員とベトナムの有志の人たちと一緒に昼食に行くことにしました。近くにある大衆食堂で昼食を摂りながら、続けてまたいろんな話をしました。

お昼ご飯を食べながら、私はこの会合を主催しているリーダーであるSさんから、この「日本語会話クラブ」についての設立から、今に至るまでの経緯を直接聞くことが出来ました。そして彼の話は、私には実に興味深いものでした。

Sさんは今34才ですが、この会合を開いたのは彼が若干19才の時で、それから今まで彼がずっとこのクラブのリ-ダーとして頑張って来ているといいます。

それでこの日本語クラブ自体は、今年で実に15年間も続いているわけです。その会合で使う資料も全て彼が一人で作成し、会場の手配や準備などもすべて彼一人が担当してきたといいます。

彼に「15年間も、この日本語クラブを続けているあなたの情熱の源は、一体どこから来ているのですか。」と聞きますと、彼はこう答えてくれました。

「日本語を勉強したくても勉強出来ない生徒たちが、このホーチミン市にはたくさんいます。何故なら、貧しい学生たちは大学の学費が高くて、学校の授業料を払うだけで精一杯なのですから。さらに日本語学校の授業料まで払って日本語を学べる生徒たちは、経済的には恵まれている生徒の部類に入るのです。」

「そしてまた日本語学校に通っている生徒たちでも、その学校自体に日本人の先生がいない学校もあります。日本人の先生に払う給料よりも、ベトナム人の先生に払う給料のほうが安いので、敢えて日本人の先生を雇わずに、ベトナム人の先生だけでやっている日本語の学校も実際にいくつかあるのです。」

「それでも(日本語を何とかして勉強したい。日本の人たちとチャンスがあれば交流したい)と考えているベトナム人の学生たちはたくさんいます。それで私は参加費用ゼロの日本語クラブを開いて、このホーチミン市で日本語を学びたいと思っているベトナム人に、一人でも二人でも参加してほしいと思ったのです。」

私は彼のその話を聞いて本当に感動しました。そしてまた彼の話を聞きながら、(会費ゼロの日本語クラブを、純粋なボランテイアで15年間もよくも続けているものだなー)という思いを改めて強く抱きました。

そして彼は、そこに至るまでの驚くべき彼の人生観についても私に率直に語ってくれたのでした。それを聞いた時私は、(このSさんとはこれからおそらく長い付き合いになっていくことだろうなあー)という思いを強くしました。

彼は10人兄弟の9番目に生まれたそうで、兄弟が多い中で両親が多くの子供たちを苦労して育てる様子を目の当たりにして、「勉強をしっかり頑張って親孝行をしたい。」という気持ちをいつも抱いていたといいます。

そしてここからが彼のすごい勉強意欲に繋がるのですが、彼は英語、日本語、ロシア語、中国語の習得に力を注いだといいます。そして彼は、ホーチミン市内の経済大学を卒業しました。そして大学を卒業してから、彼は外国との貿易を扱う会社に就職しました。

しかし彼の人生観としての強い願望はさらに別の次元にあり、彼はさらに上記の外国語に加えて「チベット語」と「ヒンズー語」にも努力を傾注しました。「何でまた、そんな外国語まで勉強しようと思ったのですか。」と聞きますと、彼は静かに息を吐きながら「私は悟りの世界に憧れました。限り有るこの人生の中で、生きている間に悟りを追求したいと強く思っているのです。」という答えをしたのでした。

彼が私に語った、「悟りの世界に憧れた。」「悟りを追求したい。」という言葉を聞いた時に、私は思わず耳を疑いました。最初は(冗談でも言っているのか?)と思いましたが、ずっと彼の話を聞いているうちに、どうやら本気らしいということが分かって来ました。

私はこのような言葉は、今まで出会ったベトナムの人はもちろん、日本人からもいまだかつて聞いたことがありません。私が今まで出会った人で、このような言葉を聞いたのはこのベトナムで、彼が初めてなのでした。

しかも今私と話している彼は、70代や80代で人生の黄昏を迎え、ようやく宗教心に目覚始めて来るような年代ではありません。今私の目の前に座っている彼は、この時まだ34才なのです。

そして何と彼はその思いを実行するために、インドのボンベイにも行き、チベットにも行き、ネパールのカトマンズにも行きました。そしてチベットでは、あのダライ・ラマ14世にも実際に謁見してきたそうです。今年もお金が貯まれば、是非またチベットには行きたいと話していました。

日本にも彼は行った経験があり、東京や京都や奈良や大阪を訪問したといいます。そして京都に行った時に、彼に般若心経を教えてくれた日本人がいて、今も彼は「すべて漢字で書かれたその経文を、毎日研究しているのです)と話してくれました。

いずれにしても、19才から34才の今に至るまで何と15年間もの長きに渡って、毎週の日曜日に開かれるこの日本語クラブの中心的なリーダーを、日本語の達者な彼が担って来たことはまぎれもない事実なのでした。そしてその永年の地道な努力に対して、彼はホーチミン市の人民委員会から表彰状も貰っていました。

最後に、彼は私にこう言いました。「サイゴンに滞在している日本の人たちはもちろん、旅行でベトナムを訪問した人でも誰でも構いません。毎週日曜日にこの青年文化会館で行っている日本語会話クラブに、一人でも二人でも多くの日本人の方たちに参加して頂ければいいなーと考えています。ベトナムの人たちは、日本の人たちと日本語で会話したいと強く思っているのですから。」と。

サイゴンに住んでいる日本人の皆さん。旅行でサイゴンに足を停めた人たち。もし暇がありましたら、時間の許す限り、毎週の日曜日午前中に青年文化会館で行われている「日本語会話クラブ」に参加してみませんか。

日本語を学んでいるベトナム人の青年たちが、皆さん方の参加をこころよりお待ちしています。

ベトナムBAOニュース

「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。
「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。

■ 今月のニュース <良き夫であるための十ヶ条> ■
◎愛情の三つの金言◎

日本の東京にある小さなレストランの中で、背広をきちんと着こなした男の人たち十数人が、大きい机を囲んで座っています。狭い部屋にはタバコの煙が充満していて、テーブルの上には飲みかけのビールのコップが置いてあります。初めて見ると、週末にどこにでもよく見かけるパーティーのようです。

しかし一つ違うのは、机の向こうにあるホワイトボードに、マジックで参加者の注意を引く文章が書いてあることです。そこには、「愛情の三つの金言」という題で次のような言葉が書いてあります。

一、「ありがとう」・・・・・相手に伝わるように、こころを込めて話す
二、「ごめんなさい」・・・・恐れないで誠意を持って話す
三、「愛している」・・・・・もじもじしないで、はっきり話す

そして話が盛り上がったところで、突然全員が立ち上がり、「私は勝てない」「私は勝てないだろう」「私は勝ちたくない」と、大きな声を上げて全員で唱和します。そしてみんなで拍手して、笑いながら楽しくお喋りをしていました。

そういうわけで、このグループの名前は「離婚しない会」と呼ばれるようになり、今までに全国で4,700人の会員数がいます。このグループのメンバーの人たちは大変礼儀正しくて、彼等にこの会合のことを聞きますと、「みなさんにここでこうして会えて話すのは楽しいですよ。」と話していました。

日本政府は2007年に、夫と離婚した奥さんはその財産を半分は貰う権利があるという法律を施行しました。毎日家で夜遅くになってしか帰って来ない夫を待つ奥さんは、ある日突然夫と別れて一人で生きていくことを決めます。

そうなって初めて夫は離婚を恐れて、こころを入れ替えようと努力します。しかしその時には遅い場合が多いのです。日本人は二人だけで話し合っている時にも、直接的な愛情表現を表すことが少ないようです。

ある日本人男性と結婚して日本に住んでいるベトナム人女性は、夫が朝8時から会社で働いていて、帰りは大体夜の12時を過ぎているということを話していましたので、彼女の夫は何と1日16時間近くも働いているわけです。

彼女は夫に「何でいつもそんなに帰りが遅くなるの!」とうるさく言いますが、夫は「これが日本の習慣なんだ!伝統なんだ!」と言って、聞く耳を持たないといいます。

◎良き夫であるための十ヶ条のルール◎
一、結婚後3年以上経っても愛し合うこと
二、家事を手伝うこと
三、浮気をしないこと
四、奥さんがいつも最高だと思うこと
五、外を歩く時には手をつないで歩くこと
六、妻の言い分に素直に耳を傾けること
七、妻と姑のいざこざを解決すること
八、ありがとうと、こころを込めて話すこと
九、ごめんなさいと、恐れないで話すこと
十、愛していると、もじもじしないで話すこと

タカヤマ ヨウヘイさんはこの会員の一人ですが、この会に入る前には奥さんと外出する時には手をつないで歩くことなどしなかったのですが、この会に入ってこのルールを知ってからは、積極的にそれを実践してきました。

タカヤマさんは奥さんと結婚して二年目になります。しかし最初の半年間は、家庭生活でいろんな困難なことに出遭ったが、このクラブに入ってからは性格が大いに変わって来て、家庭内のトラブルが少なくなりましたと話してくれました。

タカヤマさんの奥さんも、夫がこのクラブに入った後は家にいる時間が多くなり、家事も進んで手伝ってくれるようになり、いろんなことについて二人で分かち合うようになったという。

以前はタカヤマさんは、外で奥さんと手をつないで歩くのは意識的に行動しないと出来なかったが、今は自然とそれが出来るようになった。それで奥さんも、外に二人で出かける時には楽しくなって微笑みが出てくるのだった。

(解説)
ベトナムの諺に「料理は中国、家はフランス、妻は日本」というのがあります。この諺では日本女性は、男性に尽くす存在としての理想的な女性観が描かれています。

昔の日本人の女性は、夫である男性には三つ指を付いてお辞儀をするような封建的な時代があったのでしょうが、今でも少なからぬ点にそういう部分が見うけられるというのが、この記事を書いたベトナム人記者の視点なのでしょう。それを夫の帰宅する時間の遅さに焦点を当てています。

私の知人のベトナム人にも、日本人の男性と結婚して今日本に住んでいる女性がいます。彼等二人が時々テト(旧正月)にベトナムに帰って来た時に会うことがあります。

その時の話題になることなのですが、この記事の中にあるように、奥さんのほうが「あなたは何でいつも帰りが遅いの!」と怒るのだそうです。ベトナムでは、夫は仕事が終われば家に早く帰るのが当たり前という風習なのですから。

すると怒られた夫のほうは、周りにいる妻子持ちの同僚もみな彼と同じ行動パターンをしているので、「これ(酒の付き合い)も仕事の延長なんだ!」と反論するのだそうですが、もちろん彼女にはその言い訳は理解出来ないでしょう。

ベトナムでは夫は、仕事の後にはどこにも寄り道をしないで、早く家に帰らないといけないという文化圏で彼女は育ちましたから、いざ日本に行って自分の夫がいつも遅く帰って来るのを見ると、日本のそういう習慣が頭では分かっていても、ついそういう言葉が出たのだろうなーというのは理解出来ます。

「日本人の夫というのは家に遅く帰っても当然と考えているし、それを日本人の奥さんが平気で許しているというのが信じられない。家族揃って一緒に晩ごはんを食べられない日本人の奥さんたちは可哀想だ。」と彼女は話していました。

それで私は遅く帰ったらそういう言い訳は出来ない国に今いますので、出来るだけ早く帰らないといけないなと最近はこころがけています。

Posted by aozaiVN