【2009年8月】40年後の再会/夏休みにお別れをする生徒たち

春さんのひとりごと

<40年後の再会>

朝たまたま 私が家にいた時に、家の入り口のほうで「ドサッ!」と何か物を投げ入れたような音がしましたので、下に降りてみました。すると入り口の床の上に、茶封筒に包まれた物が置いてありました。それを開けますと、中には一冊の本が丁寧に包装されて入っていました。そしてそれは、私がこころ待ちにしていた 、日本から届いた K 先生の本なのでした。

私は K 先生とは、このサイゴンで二度お会いしました。最初にお会いしたのは、約2年前の2007年1月のことでした。事前に会社の同僚の、(あの東京のお好み焼き屋さん・染太郎に同行した)N 氏から、「知人の K 先生が、ある“目的”を持ってサイゴンに行かれるので宜しくお願いします。」ということを聞いていました。

そしてその“目的”についても事前に聞いていましたが、今回の K 先生の短い滞在日程の間に、その“目的”を叶えるまでに予想される困難さを考えた時、(これはベトナム事情に精通した、あのアクトマン [ マングローブ植林行動計画 ] の浅野さんに同行してもらったほうが上手く行くだろうな。)と考えて、その旨を浅野さんに依頼しますと、浅野さんはこころよく引き受けて頂きました。そして結果として、やはりそれが正解でした。

浅野さんは今ベトナム滞在が 16 年目になりますが、ベトナムでのマングローブ植林のために、今までベトナムの全土に入り込んで様々な苦労を重ね、多くの修羅場をくぐり抜け、貴重な経験を積んで来られました。

その当時日本人ではまだ誰も手掛けていない、ベトナムでのマングローブ植林という事業のためにベトナムの北部に赴任し、それを スタートさせました。そして ベトナムに来て間もない最初の時期には、ベトナム北部の辺鄙な田舎の村にあるベトナム人の家に住み込んで、ベトナム人の家族と一緒に暮らしながら、そのノウハウを培ってきたのでした。

ですから正式にベトナム語を学校に学びに行く時間などなく、浅野さんは全くの独学と実践で、ベトナム語を習得して来ました。彼がベトナム語を学ぶ時の先生は、教室にいる先生ではなく、街中や村にいる普通のベトナム人であり、日本から持って来た、たった一冊の参考書と 越日・ 日越語の辞典だけでした。外に出る時には、彼はその辞書を肌身離さずいつも持ち歩いていたといいます。

それだけを頼りに必死にベトナム語の勉学を重ね、そして二年くらい経った後では、ベトナムの人民委員会のお役人達とベトナム語でやりとりをすることが出来るレベルまでに到達していました。さらに三年目くらいには、浅野さん以外は全員がベトナム人の中で、ベトナム語でワークショップの発表をしていました。

「語学の天才」というのは確かに実在すると思いますが、そのような言い方は何か努力せずしてそのレベルに到ったような表現ですが、身近に浅野さんを知る私には、学校に通う時間もなくベトナム語を達人のレベルまでに習得した浅野さんの場合は、大変な努力をして「語学の天才」の域に到達したような感じがしてなりません。

以前 10 年ほど前に、浅野さんと私が Ben Tre( ベン チェー ) に行った時に、ずいぶん以前から浅野さんを知る人民委員会のお役人が、浅野さんが流暢に話すベトナム語を聞いて、「最初あなたがここに来た時には、辞書を片手にタドタドしいベトナム語で話していたのに、今はえらくベトナム語が上手くなったねー。」と、目を丸くしながら感嘆し、次には目を細めながら喜んでいたのを、私は今でもしっかりと覚えています。

それだけに、特にベトナムのお役所を相手に交渉する時の難しさや、こちら側がある一つのことを成し遂げたい時に、向こうの反応を見極めながら、それが実現可能かどうかについて、浅野さんは独特の嗅覚と感性を持っています。さらに浅野さんには、大人から子どもまで多くのベトナムの人たちに愛される、溢れるような人間的な魅力があります。

私がベトナムに来た当初、浅野さんと一緒にベトナム北部の海岸に近い村を訪ねました。その村が浅野さんのフィールドワークの場所でした。その田舎道を二人で歩いていますと、十数人の子どもたちが道に飛び出して来て、みんなで「アサーノー!」とニコニコして叫びながら、浅野さんに近寄ってきました。

また同じ村で、年配の男の人が浅野さんに会うと、両手を胸の前で組んで、「タカジ!タカジ!」と挨拶します。「タカジとは誰のことですか。」と、私が浅野さんに聞きますと、以前ベトナムのテレビで放送されて大人気になった“おしん”に登場する人物のようで、その人は同じ日本人である浅野さんも、「タカジ」だと思い込んで、浅野さんに会うたびにそのように呼ぶということでした。

浅野さんが、「いや、自分はタカジではなくアサノだ。」と訂正すると、その場では「ああー、そうなのか。」と分かってくれるそうですが、次に行くとまた同じように、「タカジ!タカジ!」と挨拶してくるので、諦めてそのままにしていると笑っていました。

また彼は目の前に大きな壁が立ちはだかっても、幾多の困難を乗り越えてきた強靭な精神力もあります。このベトナムで、今までいかに多くの人たちが裏方で支えてくれた、その浅野さんという一人の人物の存在に助けられたことでしょうか。 しかし普段私が接する時の浅野さんは、そのような苦労話を彼自身は人前では一言も話さず、いつも飄々としています。

今ベトナムにいる日本人で、北から南までのベトナム語を縦横に駆使出来るという点では、彼を超える日本人は(おそらく外国人でも)いないでしょう。彼と初めて会い、直接ベトナム語で会話をしたベトナムの人たちは、浅野さんが話すベトナム語の表現力のみごとさ、ベトナム人と全く変わらないその発音のすばらしさを聞いた時、かくもベトナム語を流暢に話す浅野さんはベトナム人だと思い込んで、どうしても浅野さんが日本人だとは信じられないと(私の知人のベトナム人も)言います。

その浅野さんと共に、私は2年前にサイゴン市内のホテルのロビーで K 先生に会うことが出来ました。私がここで K 先生を“先生”と敬称を付けて呼ばせて頂く理由は、K 先生自身が神戸や関西の大学で、実際に教授として大学生に教えて来られたという経歴もありますが、それが大きな理由ではありません。そしてそもそも、私自身が K 先生の生徒ではありません。

私はこの時初めて K 先生に会って話をしながら、 K 先生のそのまことに温厚な話し方と、紳士然とした落ち着いた雰囲気をみて、(今まで会ったことがないタイプの人だなー。)という印象を持ちました。はるかに年下の浅野さんや私にも、 K 先生は実に丁重な挨拶や言葉遣いをされました。この日はそのホテルで K 先生と浅野さんと私の三人で、明日からの動きについて実務的な確認をしただけでその日は別れました。

私は K 先生と別れた後の余韻を振り返りながら、バイクで家に帰る途中も、 K 先生の人となりを思い返していました。 K 先生は、今まで私が会った人の中では初めて見る印象的な人でした。そして私の遠い記憶の中から、 K 先生について次のような言葉が浮かび上がって来ました。

“君 子”

今から 2500 年前の昔に、歴史世界の古代中国で孔子が頻繁に口にしていた“君子”というのはああいう人のことをいうのではなかろうかと、私は一人想像をめぐらせました。私や浅野さんと話していた時の、 K 先生のもの静かな、落ち着いた口調や、人を包み込むような温かい優しさを感じさせるその人となりから、私はそのような言葉を K 先生に重ね合わせていました。

そして今回 K 先生がベトナム訪問を決意された“目的”というのは、観光やビジネスではありませんでした。今回の一週間足らずのベトナム滞在時に、「 40 年前に会ったベトナム人に再会したい。もし今回再会が叶わなくても、何らかの手がかりくらいをつかみたい。」という“目的”なのでした。そしてそのベトナム人というのは何と、 40 年前に K 先生を捕まえた「南ベトナム解放戦線の兵士(ベトコン)」でした。

1965 年に K 先生は毎日新聞の特派員としてサイゴンに来られました。そして 1967 年の6月6日、サイゴン郊外に取材に出かけた時に、解放戦線の兵士(ベトコンゲリラ)に、日本人のカメラマン・ KY 氏と一緒に捕まってしまったのでした。

捕まった理由は、(アメリカのスパイではないか?)と疑われたからでした。二人は三時間半拘束されて、所持品を全て調べられ、いろいろな訊問を受けて、ようやく疑いが晴れて解放されたのでしたが、その時危険な状況下に陥っていたのは事実でした。

しかし所持品の中には武器は入っていないし、カメラの器材だけしかないし、車の中には地元で買ったパイナップルが積み込んであり、(別段あやしい者たちではなさそうだな。)と判断されて、ようやく拘束状態から解放されたのでした。

そしてスパイの疑いが晴れた後には丁重に扱われ、最後には解放戦線の兵士からパイナップルまでお土産に貰ったということでした。兵士たちとの別れ際に記念として一枚の写真を撮って、ようやくそこを無事去ることが出来ました。そして実はこの一枚の写真が後で、大きな意味を持つことになりました。

K先生はベトナムを離れてから、日本でまた新聞社の仕事をされた後、神戸や関西の大学で教授の仕事に就かれました。そこで働いていた十数年の間も、べトコンゲリラに捕まって解放されたという強烈な思い出が脳裏を去らず、(いつかまたベトナムを再訪して、自分を捕まえたあのゲリラたちに再会したい。)との強い願望を持ち続けて来たということでした。

しかし教授の仕事をしている間はなかなかまとまった時間が取れず、退職した後にようやくベトナムを再訪することが可能になったのでした。それが 2007 年のことで、あの解放戦線の兵士に捕まった時から、実に 40 年の歳月が経っていたのでした。

そして翌日K先生と浅野さんの二人で、ベトコンゲリラに捕まった Duc Hoa (ドック ホア)という場所までレンタカーを借りて行きました。 Duc Hoa までは、サイゴンから約 2 時間かかります。

K先生と浅野さんは、まず Duc Hoa の人民委員会を訪ねました。そこで外務省からの紹介状を出して、ここを訪問した目的と、人民委員会の協力をお願いしたいと依頼すると、その紹介状が大変効いたらしく、非常に好意的な応対をされたということです。

しかしこの日、人民委員会の主席は会議が続いていて、直接は会えなかったので依頼をしただけで帰りましたが、その時に 40 年前に解放戦線の兵士と別れる時に撮った、一枚の写真を置いて帰りました。

そしていよいよ明日が帰国前夜という日に、向こうからは何の連絡も来ないので浅野さんが直接電話を入れたところ、「写真に写っている人たちのうち、ほとんどが亡くなっているが、まだ数名は存命しているので、もしかしたら再会の可能性があるかもしれない。」との返事をもらったのでした。それを浅野さんから聞いた K 先生は、このまま日本に帰るよりも一縷の望みがあるのならまた聞きに行こうと思い、 Duc Hoa 村を再度訪ねることにしました。

K 先生が人民委員会に残していった一枚の写真は、あまりに長い歳月を経ているために、その中の人物を特定するのに困難を極めたそうですが、それでもいろんな人たちに打診し、聞きまわったそうです。それでもやはり 40 年という長い年月で人々の記憶も薄れていて、すぐには良い返事が返 ってこなか ったのでした。

しかし何と K 先生が帰国する前夜に、偶然にも実はその人民委員会で働いている女性職員 N さんが、 K 先生を捕まえた人物を知っているかもしれないという情報がもたらされたのでした。さらにまた奇跡的なことに、その K 先生を捕まえた人物というのが、年齢は離れていますが N さんの兄に当たる Hai (ハーイ)さんなのでした。

N さんは K 先生が残していった一枚の写真を見て、その中の一人の人物にじっと目を凝らしていました。そして昔伯父から「ずいぶん以前に日本人を捕まえたことがある。」ということを聞き、 N さんの兄はその伯父と一緒の部隊で戦っていたということも聞いていた経緯がありました。

その写真では余りに若い風貌ながらも、(もしやこの人物は私の兄ではないのだろうか・・・)と想像し、さらにいろいろ調べていくと、やはりその写真の中の人物が N さんの兄・ Hai さんなのでした。その写真の中の人物が余りに若いので、 N さんも Hai さんの若い時の写真の顔を見て、「これが自分の兄だとはすぐには分からなかった。」ということでした。

さらに言えば、ゲリラに捕まって解放されて別れる時に、カメラマンの KY さんが撮った写真には6人のゲリラが写っていますが、まだ今も生きているのはその Hai さんと、後一人だけだそうです。そして後で聞けばその一人も、 Hai さんは今どこに住んでいるのか全然知らないということでした。それだけに 40 年後の今になり、あの時 K 先生を捕まえたのがNさんの兄である、 Hai さんという人物に絞り込むことが出来たということは、非常に稀な幸運だったというべきでしょう。

その Hai さんは Duc Hoa の隣にある、あのクチ・トンネルで有名な Cu Chi (クチ)郡に今住んでいます。そしてすぐこの日に N さんが Hai さんに連絡を取って、人民委員会の役所に呼びました。そしてこの時に K 先生と、 K 先生を捕まえたベトコンゲリラとの再会が、実に 40 年ぶりに実現したのでした。

その 40 年ぶりの再会の場面には、浅野さん自身が直接立会いました。その時の光景を浅野さんは、「 40 年ぶりに出会った二人が、感動の余り抱き合うというような場面などなく、二人が出会った時に一瞬の沈黙が流れ、そして二人はやおら握手をされていましたね。」と、私には話されました。

それを聞いた私は、(創作のフィクションや、映画のドラマなどでは「劇的な対面!」という展開になるのだろうが、そうでない現実世界では、そのような光景が真実に近いのではなかろうか。)と、浅野さんの話を聞いてしみじみと思いました。

お互いがその年齢も、風貌も、体型もすべてが変わってしまったであろう、 40 年という永い歳月を経た二人が再会する時の光景というのは、目の前にいる相手が果たしてあの時の人間と同じ人物なのかと認識するまでには、しばらく時間がかかったのだろうなーと思いました。

二人が大仰に抱き合う光景よりも、しばらくは静かな時間が流れたというそのほうが、事実のみが持つ説得力があり、いかにも真実味があることだなーと理解出来ました。しかしそれにしても、 40 年の永い歳月を経て再会出来たこの時の感激は、 K 先生と Hai さんしか共有出来ません。

そして K 先生はこの時の Hai さんとの感動的な再会を果たして日本に帰国された後しばらくして、日本から「 Hai さんとの感激の再会から筆を起こして、今一冊の本を書いています。」ということを私に連絡されてきました。

そしてそれから二年後にようやく完成し、出版されたのが、ベトナムにいる私に届いた本なのでした。私はK先生の律儀さと、その精力的な文筆力に本当に敬服しました。その本は 200 ページを超える分量ながらも、私には大変読みやすく、かつ非常に刺激的な内容でした。

私が頂いた K 先生の本の「はじめに」の序章の中には、以下のような文がありますので、それをそのまま引用してみます。

“この本は四十年ぶりに元解放戦線兵士と再会して、再びベトナムと関りをもつことができるようになった話をきっかけにして、「ベトナム戦争」を改めて見直し、なぜ米国が屈辱的な敗北を経験せざるを得なかったのか、ベトナム戦争が今のベトナムとどのようにつながっているのか、私なりの考えをまとめようとしたものである。”

そしてK先生は、「この本が完成したのは、実に Hai さんのおかげなのです。その Hai さんにお礼の手紙とお土産を渡したいと思っているのですが、自分自身が最近病気がちになり、ベトナムまで行くことが出来ません。それで自分の代わりに Hai さんの家までそれを届けて頂けませんか。」という依頼を私にされましたので、「承知しました。喜んで行きますよ。」と私は返事しました。

そして7月下旬の日曜日の朝 8 時に、サイゴンで Hai さんとの再会に尽力してくれた外務局の担当者の Dung (ユン)さんと一緒に Cu Chi にある Hai さんの家まで行くことにしました。 Dung さんは今年 30 歳で、日本語を少しは話すことが出来ます。私が事前に彼と会った時、「非常に真面目な好青年だなー。」という印象を受けました。彼は外務局で4年間ほど働いているということでした。

Cu Chi に行く道中で、 Hai さんのお孫さんたちのためのお菓子も購入して、私たち二人は Cu Chi のほうまでバイクを飛ばして行きました。 Dung さんも今回初めて Hai さんの家を訪問しますので、 Hai さんの家の近くに来たころには、道中の店で Hai さんの住所を聞きながらゆるゆるとバイクを走らせて行きました。この時、サイゴンを出て一時間半ほど経っていました。

するとある店で Hai さんの住所を聞いていた時に、 10 mほど先に私たちに手招きをしている人がいました。実はそれが Hai さんなのでした。 Hai さんは私たちが Cu Chi に到着する時間頃を見越して、炎天下の道路上に出て私たちを待っていてくれたのでした。 Hai さんのその気持ちが大変嬉しかったですね。

そして Hai さんはバイク・タクシーに先に乗って、私たちを案内してくれました。私たちが Hai さんと出会った場所は国道でしたが、そこから脇道に入って行くと、全然舗装されていない道になりました。しばらく行くと、全くベトナムのごく普通の田舎の光景が目の前に現れてきました。ここら辺りの家々の周りは、レンガ塀や鉄格子などはなく、簡素な竹の生垣で囲まれていました。今のサイゴン市内では余り見かけないそういう光景を見ますと、何かほのぼのとしてきました。

そして庭先には、あの元日本兵の墓を訪ねてメコンデルタの Cai Be( カイ ベー ) を訪問した時にも見た、犬もネコもニワトリもヒヨコも檻になど入らずに、お互いの目と鼻の先でケンカもせずに、自由にのびのびと遊んでいる光景がここにもありました。しかしこの光景は何回見ても、実に不思議でなりません。

そして Hai さんの家の中に入り、 K 先生から託されて来た手紙とお土産を渡しました。 Hai さんの年を聞くと今年 61 歳で、 K 先生を捕まえた時には、まだ 18 歳か 19 歳ぐらいだったそうです。

しかし Hai さんはこの時には老眼のため手紙を読めない状態でした。老眼鏡も持っておられないようでした。それでその手紙をお孫さんに当たる、小学生のような子が大きな声で読んで聞かせていますと、 Hai さんは食卓の上にあった手拭いを目に当てていました。

さらにこの時には、日本から同僚の N 氏が送ってくれた TBS のビデオテープを DVD に焼き直したものも持参しました。これは 2007 年6月に K 先生がベトナムを再訪された時に、 Hai さんとの再会の場面を撮ったものでした。

幸いにも Hai さんの家には DVD の機械がありましたので、 Hai さんも奥さんも、そして子どもたちや、お孫さんたちも一緒になってその DVD を観ました。家族のみんなは、自分の父であり、お爺ちゃんでもある Hai さんが日本のテレビに出ているその番組を見て、興味津々という感じでした。

Hai さんは戦争が終わった後は、川や池で魚を獲る仕事をしながら家族を養ってきたそうで、三人の娘さんと、多くのお孫さんがいます。今でも魚を獲る仕事自体は続けているそうで、魚を獲る時の網も見せてくれました。

そして軒下に据えてある大きな甕の中には、 Hai さんが自分で捕まえたという大きなナマズが三匹入っていました。しかし最近は体が弱くなって来て、以前より魚を獲りに行くのは少なくなったということでした。

そして我々二人の訪問を大歓迎してくれて、 Hai さんの奥さんが「お昼ご飯を食べていってね。」と言ってくれましたので、喜んでその好意に甘えさせて頂きました。出てきたオカズは三品ほどの簡単な料理でしたが、奥さんに作って頂いた料理が大変美味しく、また Hai さんの家族と食べる楽しさもあり、私などはご飯を三杯もお代わりしてしまいました。

Hai さんと食事しながら、私が「 K さんと 40 年ぶりに再会出来た時の気持ちはどうでしたか。」と聞きますと、「あまりに遠い昔の出来事なので、日本から自分を訪ねて来ている日本人がいるということを聞いた時、信じられない思いがしました。そして K さんと再会出来た時、あの戦争当時をしっかりと思い起こしました。今ベトナムは平和な時代を迎えましたが、ああして二人が再会出来たことがその証明のような気がしたのでした。」とゆっくりとした口調で語られました。

私たちが Hai さんと話していたこの時、部屋の中には五人ほどのお孫さんたちがいて、私たちの後ろにあるベッドの上で跳んだりして、キャーキャー叫びながら遊んでいました。 Hai さんが「お客さんがいるから静かにしろ!」と叱ると静かになりましたが、その Hai さんの顔を見ていますと、目の前でお孫さんたちが楽しく遊んでいる光景に至福の喜びを感じているような表情であり、今は田舎で多くのお孫さんに囲まれて、楽しく・静かに暮らしている“好々爺”という感じがしました。

40 年前にベトナムという戦場で出会った K 先生と Hai さんは、 40 年後に奇跡的な再会を果たされましたが、戦場という舞台ではその話の多くが悲劇的な結末を迎えている中で、 K 先生と Hai さんの“ 40 年後の再会”は、実に感動的な、貴重な実話として、直接それを体験されたK先生と浅野さんのお二人の感激も併せて、それを間接的に見聞した私にも、生涯忘れることの出来ない思い出になりました。

そして私が K 先生から頂いた本の題名は、「ベトナム戦場再訪・ 北畠 霞/川島良夫 著 」です。

ベトナムBAOニュース

「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。
「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。

■ 今月のニュース <「夏休みにお別れ」をする生徒たち> ■

ホーチミン市の学生たちが「夏休みにお別れ」をしてから、長い期間が経った。生徒たちは一年中たくさんの勉強をしなければならないので、遊ぶ時間や、リラックスする時間がなくなり、余裕がなくなった。また体が疲れても回復する時間もなく、そのことは肉体と精神の発達に大きい影響を及ぼしている。

生徒たちが一年中たくさん勉強しなければならない理由はいろいろあるが、一つ目の理由は、勉強の内容量だ。大多数の人の意見では、今のそれぞれの学年の学習内容と量が多すぎるということだ。

しかし教科書を編集する人たちは、たくさんの知識を教科書に入れたいので、その学年の2学期頃には学生たちが学習内容を「消化(理解)」できなくなってしまうという。特に標準的な学力レベルの生徒たちには、そういう傾向が顕著に出てくる。

そしてそういう生徒たちには、「夏期講習」の参加募集のお知らせが学校から通達されるので、生徒たちは「夏期講習」の申し込みをしなければならない。そしてこの「夏期講習」の中では、8月中旬から始まる次学年の内容が教えられているのである。

夏休みに次の学年の学習内容を教えるのは良くないと教育省が指導したが、実際には逆のことが起きているのである。学習量をもう少し減らした教科書を再編集するようにということも、今まで何回も言われたが、現時点ではまだ完成していないので、夏休みを休みとして取れない生徒たちがこれからも多くなってくることだろう。

しかしまた、このような若い学生たちの年齢の時期には、論理の知識だけではなく、社会生活に役立つ技能の習得も大切なことだ。夏休みはそれを学ぶいい機会なのだが、学生たちにそういうプログラムを提供してくれることはない。

そしてさらに二番目の理由は、勉強をする代わりになる娯楽やレクレーション設備の少なさだ。娯楽施設も不足しているので、夏休みに子どものそばにずっと付き添うことが出来ない、仕事を抱えている忙しい親たちは、その代わりとして子どもたちに「夏休みも勉強!」させている傾向がある。

一方農村では、都会の生徒たちほど「夏休みも勉強!」している生徒は少ない。生徒たちは夏休みのほとんどの期間、農業などをして両親の仕事を手伝っている。ホーチミン市では「夏練習」という活動があるが、夏休みの長い期間に比べ大変短かすぎるから、生徒たちの要望に応えることが出来ていない。

「夏休み」が本当の「夏休み」として生徒たちが過ごすことが出来るようにするためには、学習内容の軽減や、様々な教育的サービスの充実や、野外活動などを増やすことが必要だ。

そうしないと、一年中休みがない生徒たちの精神期な成長・発展を阻害してしまう。そして体力も消耗して、勉強の意欲も下がってしまう。何故ならば、本来生徒たちにとって、「勉強は楽しいもの」ではなく、「勉強はつらいもの」なのだから。

◎学習内容を事前に学ぶと、正式に勉強する時興味を失くしてしまう◎

各学校で競争するように、生徒たちに学習内容を前もって教えておいたら、教育上の公平さがなくなると思います。さらにまた、生徒たちが学習内容を前もって勉強していると、正式に勉強するときに、(あー、もうこれはすでに勉強してしまった。)と考えて、興味を失くしたり、勉強する意欲もなくなり、生徒たちは試験の時に高い点数を取ることだけに関心を持つようになるでしょう。

そしてまた普通の家庭の収入と比較して、「夏期講習」や塾での費用は高すぎるので、ほかに必要な家族生活に大切な支出を削らざるをえないような事態も出てきます。具体的には、食費、教養・娯楽費、短い旅行などです。

この「夏期講習」の一コース(3科目)は、何と 500,000 ドン(約 2,600 円)と高額なので、もし二人の子どもがいる家族の場合には、ほかの支出に充てる費用が無くなってしまいます。

ですから私は、「夏期講習」の対象者は学力の低い生徒たちに絞り、勉強に追い付けない生徒たちの学力を高め、同級生に追いつくようにしたらどうかと提案したいのです。学力の高い生徒たちは、もうすでに高いレベルに到達しているわけだから、あえて「夏期講習」に行かせる必要などありません。

もしそのようなレベルの高い生徒たちを鍛え、知識を高めたいのであれば、数学や物理などの国際オリンピック試験を受けたいような学生たちだけを対象にしたほうがいいと思うのです。
( Tung 先生)

●休みはなし、勉強漬けの小学生●( ベトナム ガイド com より引用 )

私の住む地方の子どもたちの学習事情について書きたいと思う。どうしようもない苛立ちを、胸に感じたからだ。

私の子どもは、夏休みが明けると 4 年生に上がる。教育に対する理解はないでもないが、それでも私は、ここまでして勉強させなければならないのかということに、憤懣やるかたない気持ちでいる。

3 年生の頃から、 T という女性が担任なのだが、子どもたちがまだ小さいにもかかわらず、月曜から土曜日まで勉強漬け。休みは日曜日しかない。

私の子どもは、昼寝すらしない。寝過ごしてしまうと困るからだ。夕方帰宅して、シャワーを浴び、食事を口に詰め込んだかと思えば夜の教室へ。先生は自宅で週 3 回の補習教室を開いており、 1 回あたり 7 ~ 9 時の 2 時間で 5,000 ドンを徴収している。

学校に対し、子どもたちの健康に配慮し夜間教室を開かないよう提案する手紙を書いたこともある。子どもがあまりにも疲れて眠そうで、「勉強するなら家でしなさい」と言いたくなるようなことも多い。しかしクラスの皆が行っているため、行かせないようにすれば「成績が落ちたらお父さんたちのせいだからね」と子どもが泣き出す。

私が学校に手紙を書いた後、子どもは夜間教室への参加申込書を書くよう母親にせがんでいた。私が反対をしたことが知れたら皆にどう思われるだろうか。子どもへの影響はどうなるだろうか。そう考えて、結局学年が終わるまで続けさせることにした。

今年になり、子どもたちが夏休みに入って 1 週間ほどしたところで、先生は学校で月曜から土曜の午前中に補講を開くようになった。子どもたちが楽しく遊ぶ夏休みはどこにあるのだろうか。このようにしなければ、勉強ができるようにはならないというのだろうか。こうまで勉強しなければならない理由が、私にはわからない。

(解説)
ベトナムでのホーチミン市と、地方での生徒たちの夏休みの過ごし方について理解して頂くため、今回二つの記事を紹介しました。

2・3年前までは、私はこのような記事を読んでも他人事のような気持ちでした。しかし昨年から娘が小学校に通い始めてからは、このような記事に強い関心を持たざるをえなくなりました。

実はこの記事を読んだその日に、夏休みに入った6月から8月の初旬に至るまで家で女房が教えていた娘の教科書を見てみますと、何と小学1年生の我が娘の教科書の表紙にも、「2年生」と書いてありました。この記事を読んだすぐ後でしただけに、「何でまだ習っていない次学年の内容を教えているの?」と聞きましたら、その答えはこの記事の内容と符合してきました。

女房いわく、「ベトナムの学校の学習内容は量が多すぎるので、先生は授業の中で、あるテーマについては深くは教えないで、浅く広く短時間で教えて次に進むので、生徒たちは理解出来ないままで次学年に移っていく。それが父兄も分かっているので、事前にまだ新学年が始まる前に家で親や家庭教師が教えたり、夏期講習に子どもを参加させたりするのよ。」と。

そしてさらにこの記事を読んだ後、私の知り合いの中学生の生徒に今の学校の現状を聞きますと、彼の学校では約 80 %以上の生徒たちが、この記事の中にある「夏期講習」に費用を払って参加していると答えました。

「周りの友達の多くが次学年の予習をしてくれる夏期講習に参加していたら、それに参加していない生徒は次学年の学習内容の理解が遅れるのは当たり前ですから、やはり参加しないといけなくなるのです。」と答えました。それはそうでしょうね。

そしてさらにまた女房にいろいろベトナムの教育の現状を聞きました。実は私の娘は最初に入った小学一年生のクラスは、インター・ナショナルスクールだったのですが、高学年になるにつれて上がる学費の余りの高さに驚きました。中学3年くらいになると、日本円にして一ヶ月4~5万円にもなるということでした。

さらにまた、将来もしベトナムの大学入試を受けるとして、「インター・ナショナルスクールでその学年の教科を履修して受けた場合と、ベトナムの小・中・高と進んだ場合に授業を受けて大学入試に挑んだ場合と、どちらが有利か?」と、年配のベトナム人の先生に聞いた時に、「それはベトナムの公立の学校に行かせたほうがいいですよ。英・数・国・理・社の授業時間数やレベルが当然違いますから。」という答えが多かったので、我が娘をインター・ナショナルスクールに行かせるのは断念しました。

そして今新学年が8月中旬から始まるのを目前にして、女房が小学2年生の内容を家の中で教えているのでした。そしてそれを横から見ている私に、「あんたも夜ビールを飲む時間があれば、娘に算数でも教えてあげなさいよ!」と、女房から厳しい教育的指導を受けました。

Posted by aozaiVN