【2009年9月】世界一周をする大介くん/日本のマンガと新しい夢
春さんのひとりごと
<世界一周をする大介くん>
今年 5 月に日本を出て、世界一周の途上にある日本人青年・大介くんにこのサイゴンで会いました。
ベトナムは、今回彼にとって初めての訪問でした。彼が日本を出て最初に目指したのは、友人のいるバリ島でした。そこに二週間ほどいて、次はインドネシア、そしてオーストラリア、シンガポール、カンボジアを経由して、ベトナムに降り立ったのが7月中旬でした。
そしてサイゴンの安宿街の通りをうろうろしている時に、ある一人の日本人から声を掛けられました。「日本人ですか。どこへ行くの?」と。彼に声を掛けたのは、またまたあのフォト・ジャーナリストの村山さんです。
村山さんはこの夏、戦争証跡館で 2007 年に続いて第二回目の彼の写真展を開くことになり、そのために彼も7月中旬に来たのでした。春の段階では、最初彼はその写真展を安宿街の中にある画廊を借りて開こうと考えていたのでしたが、その話を聞いた戦争証跡館の副館長さんが、「どうせやるのなら、世界中から多くの人が訪問してくれるこの博物館で開いたら?」と好意的な申し出があって、再度そこで写真展を行うことが出来ました。
そしていつものように安宿街で生活しながら、写真展の準備をしている時に、彼が泊まっている宿の近くを、荷物を背負ってふらふらと歩いている旅行者に声を掛けました。それが日本人青年・大介くんでした。それ以来大介くんは、村山さんと同じホテルの隣の部屋を借りました。
そして村山さんはその日の夜に大介くんを連れてベン タイン市場前の屋台に現れ、私とあの Saint Vinh Son の支援者・ A さんに紹介してくれました。最初に彼と会ったこの時には、私たちはもちろん彼がどんな人物なのかは知る由もありません。
そこで四人で話している時に、彼は自分がいま世界一周の途中で、いろんな国を経由して今サイゴンに着いたことなどを、旅の疲れも見せず、明るい・爽やかな笑顔で話してくれました。
その名前の通り、彼の身長は 180 センチを超え、体も顔も大きく、それでいながら大変愛嬌のある青年を私はもちろん、私の友人たちも大いに気に入りました。
しかしそれにしても、「世界一周!」と聞いて私たちは正直驚きました。彼は年齢も 28 歳とまだ若く、この旅のために今までの仕事を辞めたと言いました。まあそれも当然でしょう。彼の旅は一週間や二週間ではないのですから。約十ヶ月近くの長旅になるだろうということでした。
そして私は今世界一周をしている青年を目の前にして話していますと、つくづくと(やはり日本は豊かな国になったんだなー。)と実感しました。実は彼以外にもこの夏は、新婚旅行で同じように数ヶ月間の休みを取って世界一周している若い日本人夫婦にも二組ほど会いました。彼らもまたベトナムは、まだ世界一周のスタート地点にありました。
大介くんの予定ではサイゴンでしばらく滞在した後に、ベトナムの中部と北部へ上り、そこからラオスに入り、インド、中東、アフリカ、ヨーロッパ、南米へ周るという壮大な計画を立てていました。そして日本に帰り着くのは、来年の二月頃を予定していました。
彼に「なんでまた、そしていつ頃から世界一周しようと思ったの?」と聞きますと、小学生の時に父親が広げてくれた世界地図を見て、(世界には何と多くの国があるんだろうか。いつか将来この地図の中にある国々を訪ねたいな~。)という夢が膨らんでいったそうです。
しかしそういう夢は彼に限らず、子ども時代なら誰しもあることでしょうが、ふつうは長ずるにつれてそのような夢を抱いたことも過去の記憶からは薄れてしまい、シャボン玉のように淡く消えてしまうものでしょう。
私が子どもの頃、「兼高かおる・世界の旅」という番組がありましたが、毎週日曜日に放映される、兼高さんが旅した世界の国々は、確かに私の子ども心にも大きな憧れと好奇心をかき立てました。しかしそれはあくまでも、“兼高かおるさん”という特別な境遇の人に許された、趣味と実益を兼ねた番組の中の世界のことであり、(自分も世界一周をしてやろう!)とは、私の場合なりませんでした。
そもそも学生時代はふつう、「時間はあるが、金がない。」でしょうし、社会人になれば、「金はあるが、時間がない。」ものでしょう。「金もあるし、時間もある。」という人のほうが例外的でしょう。そして現実世界に埋もれていくうちに、子ども時代に描いた世界一周旅行の夢など、多くの人たちにはふつう自然と消えてゆくのでしょう。
でも彼の場合は、子ども時代に描いたその世界一周の夢をずっと胸に抱いたまま忘れなかったのでした。そして約二年半ほど前から、いよいよその夢の実現に取り掛かりました。先立つ物はまず、お金を貯めることでした。彼はスポンサーなど誰もいない、この世界一周に要する費用を、いろんな先人の例から約三百万円くらいと予想し、その目的に向かってスタートしました。
彼は日本では東京でホームページを作成する会社に勤めていましたが、三百万円を貯めるという目標のために、与えられた給料を普通に貯金するだけでは達成できないことが分かり、いろいろ考えた末に昼食代を切り詰める生活を始めました。
その三百万円を貯めるために、毎朝家で昼食用のお弁当のオニギリを自分で握って会社にそれを持参して、同僚が外に食事に出て行くのを横目で見ながらそのオニギリを頬張っていたのでした。
2年半の間ずっとその生活を続けて、昼に外食することはなかったといいます。時には余分に作ったオニギリを、同僚にコンビニの値段よりも少し安い値段で売ったこともあったそうです。そういうことを積み重ねて、チャッカリと海外旅行の費用を稼いでいたのでした。
それを聞いた時、彼がその大きい体でオニギリを握っている光景を想像して、何ともいえないユーモアを感じ、そしてその涙ぐましい・ひたむきな姿勢にたまらない好感を持ちました。
そして彼は事前にガイドブックなども調べて、大した観光名所などほとんどないこのサイゴンには、最初は三日くらいの滞在ですぐ中部に移動する予定でした。しかし村山さんやAさんや私たちとの出会い、語らい、飲み会がだんだんとこのサイゴンでの憩いになってきてしまい、ノービザで入って来たのにとうとうビザまで取ってしまいました。
その間彼がサイゴンを拠点に旅をした場所といえば、メコンデルタのツアーに出かけたくらいでした。そして村山さんの写真展のオープニングにも参加しました。しかしそれ以外は、ほとんどサイゴン市内をぶらぶらしていました。
そして私が誘った日本語会話クラブでの交流会に来てくれたり、私の知人が日本語を教えているホーチミン百科大学(通称ホーチミン工科大学)に飛び入りで参加してくれました。そこではすべて日本語で、日本事情や世界一周のことなどを大学生たちに話しました。
このホーチミン百科大学というのは日本でいえば東大レベルに当たる大学で、彼もそこの大学生たちと実際に話して(大変レベルが高い学生たちだなー)という感想を持ったそうです。彼ら大学生たちは、飛び入りで参加してくれたこの若い日本人青年を大歓迎してくれました。そこでの授業が終わった後には、サッカー場に連れて行かれて、夜 10 時ころまでサッカーをして来たと言っていました。
そうこうしているうちに、彼のサイゴン滞在は 20 日、 30 日を超えていきました。もともと 3 日くらいしか滞在しない予定だったのが、いろんな人たちとの出会いが楽しくなったらしく、気が付いた時には 35 日目くらいになってしまいました。この頃になると、行きつけの屋台の店員たちが自分たちが晩御飯を食べる頃になると「ダイスケ、お前も一緒に食べろ!」と誘ってくれるようになったそうです。
彼は「ここでのみんなとの出会いが楽しくて、ついつい長居してしまいました。あと数日でこのサイゴンを発とうと思いますが・・・」と言いました。私たちからも、「そう、君の目的の世界一周の大志を忘れないようにしたほうがいいよ。このサイゴンで“沈没”したらいけない。もうそろそろ次の目的地へ向けて旅立ったら。」と話してあげました。
そしてサイゴン滞在 40 日目にして、ついに大介くんは9月初旬ベトナム北部のハノイを目指して飛行機で旅立って行きました。一ヵ月後、二ヶ月後、そして来年、彼は地球上のどこを“放浪”しているでしょうか。
私は大介くんが旅立った後、多くの人が子ども時代に夢見る“世界一周”を、彼が代わりに実現してくれているような気がしてきました。
ベトナムBAOニュース
「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。
「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。
■ 今月のニュース <日本のマンガと新しい夢> ■
日本に行く前に、私は「日出る国・日本」の文化の紹介に大変憧れた。このベトナムでも、どこに行っても日本の姿が見えるのだ。例えばスシ、茶道、桜、折り紙など。
その中でも特に興味深いのが“マンガ”だ。フランスにいっても 「西欧化された文化を持っている国」日本の“マンガ”を読んでいるフランスの若者を見かける。
でも私がいよいよ東京に行くことになり、日本人と一緒に働いて、日本の様々な工芸品を使っていくうちに、日本の文化は「世界征服」という目的を目指しているんではなくて、日本の文化を通して「世界の人たちが文化交流出来る」ということであり、もっと・もっと雄大な夢の実現にあるということを気付いた。これは日本人の夢なのだ。日本の文化は、文化からエネルギーが出て、その夢はいつかは現実のものになるのだ。
東京で、「 HUMANOID ロボット」と一緒に遊ぶ機会があった。日本はこの分野では、世界で一番進んだ国だ。そして私は、このロボットは世界中の子どもたちを惹きつけ、今も魅了しているあの“ドラえもん”という猫のロボットに似ているなと気付いた。マンガの中の「ドラえもん」は想像上のロボットだったが、いまやそれが現実になった。人間と同じようなロボット、人間の友達になるロボットが目の前に実在しているのだ。
よく考えれば、マンガの中のドラえもんのポケットから出てくるいろんな宝ものは、実は「日常生活の中で必要なもの」であり、「こういうのがあったらなーという人間の夢」なのだった。香りを保管する箱、小さいロボット、過去に行ける乗り物。それらのものは人の好奇心をそそるが、全くの夢物語りというわけではない。
私は高いビルから、東京の街並みを見下ろしていた。並木、ビル、動いている乗り物などは、ドラえもんのマンガに描いてある未来の生活と同じものだった。そういう考えを日本人の教授に言ったら、「ドラえもんは“ HUMANOID ロボット”の元祖ではないけれど、いろんなロボットがあったら便利な生活ができるようにと、いろいろな人の想像や夢にドラえもんという存在は大きな役割を果たしたのでしょうね。」と彼は笑いながら言った。
もちろん、日本のマンガといえば「ドラえもん」だけではない。「名探偵コナン」「キャプテン翼」「ブラック・ジャック」など、まだまだ山のように日本のマンガはベトナム語に訳されて読まれている。
私は今まで読んだ日本のマンガを振り返ってみた。そして24歳の私はベトナムのマンガを読んでいないことに気が付いた。私の子ども時代、ベトナムのマンガには印象的なマンガがなかった。ベトナムのマンガは昔の物語だけであり、子どもが未来の夢を膨らませるようなマンガはなかった。
ベトナムのマンガに印象的な作品が少ないのは、そもそも有能なマンガの作家が不足しているからだ。または教育的なマンガは、ベトナムの伝統的なものが描いてあるマンガだけだといわれていた。
その国の伝統的なものを子ども達に伝えるのは必要なことだが、夢のある、より良い未来の生活を子どもたちに描いてあげることも大切なことだと思う。
Huu Phan (フー ファン)千葉・船橋在住
(解説)
ベトナムの本屋さんに行きますと、マンガの本のコーナーがあり、子どもたちが座り込んで読んでいる光景をよく見かけます。そしてそのマンガのほとんどが、日本で読まれている、日本のマンガの翻訳物です。数え切れないくらいの種類の日本のマンガが、ベトナム語に訳されてそこにおいてあります。
私が日本語会話クラブなどで、日本語を勉強しているベトナムの若者たちに、「どうして日本語を勉強しようと思いましたか?」と質問しますと、「日本企業で働きたいから。」とか、「日本に行くから。」という答えのほかに、意外と多いのが「日本のマンガを読んで日本に憧れたから。」という答えです。
これを書いた Phan さんのように、ベトナムでも日本のマンガはよく読まれています。その日本のマンガの中でも、飛び抜けて多く読まれているのがやはり「ドラえもん」です。ベトナム語の表記では「DORAEMON」ではなくて、「DOREMON」という名前です。最初その発音を聞いた時、思わず笑いました。
ベトナム語版「ドラえもん」は、 1992 年に最初に出版されて、そういうマンガを読んだことがないベトナムの子どもたちの大人気となり、わずか三ヶ月で 30 万部を売り上げました。この時にはもちろん著作権など無視した海賊版でした。
しかし 2005 年からは正式に日本側と契約を結んで、今までに売れた「ドラえもん」は何と2千万部に達するといいます。そして今ベトナムで翻訳出版されている日本のマンガは、全部で約400 種類くらいあるといわれています。あの村山日本語学校のLuan先生も、まだ日本語の出来る翻訳者 が少なかった頃に、日本のマンガの翻訳作業に駆り出されて手伝 ったと言っていました。
道路をバイクで走っていますと、小学生くらいの年齢の子どもがお父さんが運転するバイクの後ろで、「ドラえもん」のマンガを両手に広げて器用な姿勢で読んでいます。両足だけでバイクに乗った体を支えながら、夢中に「ドラえもん」のマンガを読んでいるのを見ますと、改めて日本のマンガの浸透ぶりに驚かされます。
そして実はいま私の6歳の娘も学校から帰るとすぐ、カバンを放り投げて「ドラえもん」のマンガを食い入るように読んでいます。もちろんベトナム語訳の「ドラえもん」です。値段を見ますと、白黒版で 13,000 ドン(約 70 円)でした。巻数を見ますと、 41 巻目でした。「全部で何巻あるの?」と女房に聞きますと、「あんまり多くて分からない。」という返事でした。
今や日本のマンガやアニメは、世界中で「 Cool Japan (かっこいい日本)」の代名詞になったような感があります。日本のマンガはもともと日本人向けに描かれたもので、日本人だけを対象にしたものだったのでしょうが、海外でこれほどまで読まれるとは、その日本の作者も想像出来なかったでしょう。
世界の中で読まれることを意識しないで描いた様々な種類の日本のマンガが、今や世界中の子どもたちに、その国の言葉に翻訳されて読まれているというのは、実に面白いことだと思います。