【2010年12月】厚き友情は続く/ベトナムの若者は、生きる能力が弱い
春さんのひとりごと
<厚き友情は続く>
(いくつになってからでも、厚い友情を築くことは出来るのだな・・・)
と、最近私が感じているのがYさんとSBさんのことです。Yさんとは以前にも何回か紹介した、あのベトナム戦争当時にメコンデルタ地方の小さな島・ Cai Beでバナナを植えていた人です。SBさんはBinh Duong(ビン ユーン)省に、千坪の広大な喫茶店Gio va Nuoc(ゾー バー ヌック:風と水 )という喫茶店を開いた日本人です。Yさんについては、もうすでにいろいろ紹介しましたので、今回はSBさんについてお話しします。
SBさんは日本の東京で、長年公認会計士をされていました。そして日本で、ある一人の若き、異能のベトナム人に出会いました。Vo Trong Nghia (ボー チョン ギア) さんがその人です。このNghiaさんとの出逢いが、SBさんがベトナムに来る契機となり、また今もベトナムに住んでいる縁にも繋がりました。
Nghiaさんは東京大学大学院を卒業して、建築士の道に進みました。そして彼は日本にいる時に、日本の木造建築に強い興味を惹かれました。その日本の木造建築の中でも、特に法隆寺の建物に深い感銘を受けたそうです。彼がインタビューを受けた留学生向けの『向学新聞』に、次のような話をされています。
――日本に留学して学んだこととは?――
『法隆寺に代表される木造建築は、日本文化の深さを表しているものの一つではないかと思いますが、そういった木造建築技術は私にとって非常に勉強になります。現にまだ法隆寺は建っているわけですから、その技術は現在でも通用することが立証されているわけです。
一般の建築技術ではなく、法隆寺を作るためだけに使われている少し特殊な技術ではありますが、それらを現代の様々な建築に応用して活かしていけたらよいのではないかと思います。
日本に来てから木造建築について学び始めたのですが、ベトナムに帰ってからも日本で学んだことは役立つと思います。建築は自然の中に存在する訳ですから、自然を良く理解して作った方がいいのです。自然のものはそのまま存在していても違和感がないでしょう。そういう自然の中にこそ、様々な建築のヒントが隠されているのです。』
そしてNghiaさんは、平成16年度第2回「東京大学総長賞」も受賞されました。この時は個人の部で九人の方が受賞されていますが、外国人は彼一人だけでした。そして彼は懸賞論文にも応募して見事それに入賞し、その授与式の時に行われた「留学生の知的貢献」というパネルディスカッションで、次のように語られています。
『本日お話させていただくテーマは、懸賞論文で書いた「私の研究」とは異なり、僕なりの戦争体験についてです。なぜ「僕なり」かというと、ベトナム戦争が終わったのが1975年。僕が生まれたのは1976年で、直接には戦争を体験していないからです。しかし、戦後の生活を体験していますので、その経験や周りの人たちから聞いたことをもとに、今日はお話します。
まず、子供の時は、身近にまだ地雷や爆弾がたくさん残っていました。両親は危ない遊びは止めなさいと言うものの、何が危なくて何が危なくないのかも分からず、友達と遊ぶのをやめるわけにもいきません。そんな中で遊んでいると、友達が地雷や爆弾を遊びに使って、目の前で爆死したりすることも日常的にありました。
終戦後の生活というのは、日本でもそうだったと思いますが、食べ物も服も学校もなかったという状況です。学校の建物は木と草と土で作られていましたから、毎年台風で倒れて、大体一ヵ月くらい休みになりました。壊れたら土に帰るというのは、建築を学ぶ今考えれば、とてもすばらしいことだったと思います。
当時は子供だったので、学校が壊れて行かなくてよくなると喜んでいました。授業は、午前中あるいは午後しかなかったり、英語の先生がいなかったり、体育の授業はなかったりという具合です。そういう意味では僕はまともな教育を受けていません。ですから、今、足りないところを勉強しています。
戦争が終わって、30年近く経った今、ベトナムも発展しています。そして、環境問題・建築・土木・都市環境の問題などとの、新しい戦いが始まっています。僕自身は、環境問題を解決するために、ベトナムの風土・文化に合う都市と建築はどうあるべきかを研究しています。
自分一人では出来ませんので、日本で東京大学の生産技術研究所の先生や、日本の有名な建築家と共同で、ベトナムの都市設計や建築、交通問題に関する大プロジェクトをすすめています。そしてその中で、21世紀のエネルギー問題などを解決していきたいと思っています。』
そしてNghiaさんはベトナムに帰国後、SBさんと二人の共同経営という形で、Nghiaさんの哲学と構想による喫茶店を開かれました(今現在は、SBさんは経営権を譲渡されました)。それが竹の素材を建築の哲学理念においた、ベトナム初の竹のドームで出来たGio va Nuocなのでした。
Nghiaさんがベトナムに帰国後にその喫茶店を造った後、ベトナムの新聞に次のように彼のことが紹介されました。実は私はSBさんに初めて会う前に、その記事を読んでいましたが、ベトナム人で日本に留学していて、そのような活躍をしているNghiaさんの記事を見て強い印象を受けて、その記事の内容と彼の名前をおぼろげながらも覚えてはいました。
そしてその後SBさんにお会いしてからしばらくした後、実はSBさんがVo Trong Nghiaさんと深い繋がりがあると聞いた時に、あの新聞記事のNghiaさんを知る人が目の前に座っている、その意外さに大いに驚いた次第でした。それであの時私が読んだ記事を紹介します。少し長いですが、Nghiaさんという人物の生い立ちや、考え方が良く分かるかと思いますので、そのまま引用してみます。
『日本で多くの人々に高く評価された5階建ての木造家屋を建てた建築家Vo Trong Nghia氏は故郷・ベトナムに戻り、自然にやさしい資材と建築方法のアイディアを数多く生み出している。ビン・ユーンの喫茶店「風と水」は環境にやさしく、生活の至る所で使用されているエネルギーを節約できる建築様式として初めての試みであった。
[青年の力と意志]
1976年、クアン・ビン省レ・トゥイ県にある村の貧乏な家庭の7人兄弟の末っ子として生まれたNghia氏は「私は末っ子ですが、小さい頃から働き、終わったばかりの戦争の跡地で水牛の番をし、籠を作りました。」と述べた。当時、Nghia氏は日々勉学に励み、クアン・ビン省の専門中学校に進んだ。卒業後、ハノイ建築大学建設学部に合格し、新たな大きい機会が巡ってきた。
2年生の時、日本政府の奨学金を受け、名古屋工業大学に留学、日本語を勉強しながら、文化、習慣、気候に慣れ、難しい科目の習得に努力しなければならなかった。しかし熱心な先生に指導され、勤勉な友達がいたので、彼は自らの能力を発揮することができた。
2002年、名古屋工業大学建設学部の卒業論文で優秀賞を受けたのが最初の成功で、彼にとってはとても大きな励みとなった。Nghia氏は引き続き東京大学において修士論文を書き上げ、その後も続けて多くの賞を受けた。彼が賞を獲得した多くのプロジェクトは国内外において実施された。
[創造的なアイディア]
優秀な修士論文を作成後、彼は引き続き研究生となる機会があったが、ベトナムに帰国し、ビン・ユーン省に喫茶店「風と水」を開くという自らの計画を実現した。それは最初の試みである。その喫茶店「風と水」は建築界に大きな影響を与えた。詩的で、竹で作られたドームがあり、池の近くにある現代的且つ伝統的な喫茶店はホーチミン市の若者たちの間に口コミで広がった。
「風」と「水」は彼のどの設計にも出現するようである。竹は安く、珍しくないため、竹を主な資材にすることは合理的である。都会ではどこでもコンクリートで作られたビルとアルミニウムのドアが見られる。しかし、彼は竹を選択しているため、多くの人々に支持された。世界では自然にやさしい材料を使用し、すべての分野で使われるエネルギーを節約する傾向にある現在、Nghia氏のその選択は正しかったのである。
竹は木、石、麦わらの様に、東西を問わず家屋の主な建築資材である。ベトナム人は子供の頃から竹で作った揺りかご、漕ぎ座、ベッドなどに慣れ親しんでいる。彼の血の中に隠された竹の魂があるのだろう。竹や木を使った設計で有名且つ優秀な建築家がいる日本に留学した時、Nghiaさんはいつもその魂を自らの設計に注入した。3年近くの間に、彼の設計した多くの建築工事がハノイ、フックイエン省、クアン・ニン省、クアン・ビン省、ダ・ナン市、カイン・ホア省、ホーチミン市、カントー市、そして中国でさえ施工された。
Nghiaさんは恩師である内藤広志先生の言葉【古きを捨てれば、新たなことが創造できる】をいつも思い出しながら、自らが設計するそれぞれの建築工程に新しい試みを取り入れている。』
私も一度SBさんからその喫茶店・Gio va Nuocに招待されましたが、建物丸ごと一つの外壁が竹だけで出来ていたり、喫茶店の天井全てが竹で流線型を描くように造られていたり、Nghiaさんの徹底した竹に対するこだわりを感じさせるものでした。
そしてまだ今年35歳にもならないこの若き、異能の建築家・Nghiaさんは、ベトナム政府からも注目を浴びる人となり、何とあの【上海万博ベトナム館】の設計をすべて任されるという、異例の大抜擢をされました。上海万博はもう終わりましたが、彼が造ったベトナム館の写真を後で私も見ました。そのベトナム館は、これまた外壁はすべて竹で覆われていました。Nghiaさんの建築哲学は、留学生向けの新聞にもあるように、「自然の素材を、建築に如何に上手く活かすか。」にあるようです。
そしてSBさんが、サイゴンから仕事場のBinh Duong省にあるその喫茶店まで通うのにアパートを借りていた時、その同じアパートにたまたま住んでいたのが、あのSaint Vinh Son小学校の支援者Aさんなのでした。ある日そのAさんが、SBさんを伴いベンタン屋台村に来られました。その時たまたまYさんも来ておられました。それがお二人の初めての出会いでした。今から約一年半ほど前になります。
それをきっかけにして、お二人は会うたびに親交を強く、深く結ばれていく様子が、私たちが傍目で見ていても良く分りました。ベンタン屋台村でも、お互いの年齢も近いということもあるのでしょうが、お二人で昔のことや、共通の話題を次々に披露されて、飽きることなく話されています。
そして最初の出会い以来二人一緒での行動が多くなり、中部のダ ナンまで魚釣りを兼ねて観光に行ったり、Yさんのバイクの後ろにSBさんが乗って、ブン タウまでツーリングに行かれたりもしました。先月には、Saint Vinh Son小学校の支援者Aさんがニャー チャーンで「ニャー チャーン・ビーチ・ハーフマラソン」に参加されるので、その応援のために二人の韓国の人を伴って一緒に行かれました。
さらにYさんが日本からベトナムに戻って来る時など、深夜の遅い時間帯であっても、SBさんはわざわざ空港までYさんを迎えに行っているということも聞きました。お二人は今いかに深い信頼関係で結ばれているかが、私から見ていても良く分ります。
日本に帰った時にも、その滞日期間が重なる時には、二人とも同じ東京なので、YさんとSBさんは、浅草のお好み焼き屋さん『染太郎』に集まり、かつてのここの総支配人で、Yさんと同じく若き日にベトナムでバナナ栽培に携わった、Sさんの手ずからお好み焼きを焼いてもらい、三人で談笑されるのでした。
また今から半年ほど前に、カンボジアのアンコール・ワットに日本人が数人で旅行の計画をしていた時にも、(いい機会だ!)と喜び、それにも二人で合流されました。この時には、「カンボジアのどこに行っても、SBさんは韓国人に間違えられたんですよ!」と、Yさんが大笑いしながら話してくれました。
まあ、確かにSBさんの風貌は眉薄く、一重マブタで、頭も短く角刈りにしているので、一見すると韓国の人に見られます。カンボジアで泊まったホテルの従業員にパスポートを見せて、「ほら、日本人だろう!」とSBさんが説明しても、容易に信じなかったといいます。
さらにまたほんの最近ですが、二人だけでCon Dao(コン ダオ)島にも行って来ました。Yさんがたまたまインターネットで旅行情報を調べていた時に、ある旅行社が販売している格安の切符が目に留まりました。それがCon Dao島行きの切符でした。往復で一人・110万ドン(約4,400円)でした。
Con Dao島はブン タウから約二百kmほど離れたところにある島です。この島には、フランス統治時代と、ベトナム戦争時代に、反仏・反米・反政府運動を起こした多くの人間が連れて行かれて収容された、『トラの檻』と呼ばれる有名な刑務所があります。サイゴン市内にある『戦争証跡館』にも、それを再現した建物のコピーと、刑務所内での拷問の様子を再現した絵や、写真などが多数掲示されています。
しかしここは外国人にとってはあまり有名な観光地ではないので、Con Dao島についての情報も乏しく、(一応泊まるホテルはあるらしい。Con Dao島の海は、内地の海よりはキレイらしい。)くらいの情報はつかみました。それで二人とも、釣竿を持参することにしました。乗った飛行機は60人乗りの小型のプロペラ飛行機でしたが、この時はフランス人らしき白人が二人と、日本人はYさんとSBさんだけで、あとは全員がベトナム人だったといいます。
そしてCon Dao島の空港に着いて、二人はハタと困りました。お二人以外の観光客は、すべて事前にホテルを予約していたようで、ホテルから出迎えの小型バスが来ていました。彼らはそのバスに乗り、次々とホテルに向いました。しかしホテルを予約していない二人には、迎えのバスは当然ありませんでした。そして二人だけが空港に取り残されました。そしてここには、タクシーも、バスも、バイク・タクシーもなかったのでした。(あまり観光客が頻繁に来ることもない場所だけに、平時にはそのような商売はビジネスとして成り立たないのかも・・・)とは、後で話されたYさんの弁です。
Yさんはベトナムとの関わりは長いのに、(何故予約しないで行ったの?)と不思議に思うかもしれませんが、むしろ【ベトナムとの関わりが長いから、予約しないで行った】とも言えます。ベトナムでは、現地で泊まるホテルは「行った先で何とかなるさ。」という発想です。そしてこれはまた、ふつうのベトナムの人たちの思考様式でもあります。
ベトナムでは、五つ星などのよほど有名なホテルは別にして、普通のレベルのホテルやミニホテルなどは国外からでも、またはベトナム国内からでも事前に予約しておかなくても、着いた当日に「部屋は空いていますか。」と聞いて、空いていれば受付の人も「はい、空いています。大丈夫ですよ。」とスンナリと泊めてくれます。何の問題もありません。
日本ではカプセルホテルなどは別にして、例え部屋が空いていても事前に予約しておかないと、当日「泊めてくれ。」とお願いしても断られることが多いでしょう。以前何故そうなのか、その理由を聞いたことがありましたが、【部屋のセットや食事の準備が間に合わないから】だということでした。
しかしYさんは今までベトナム国内をバイクで走って旅行する時にも、一度として事前にホテルを予約したりすることは無かったのでした。着いた先で「何とかなるさ。」という発想です。そしてそもそも、Yさんが泊まるホテルは、三つ星や五つ星のレベルのホテルに泊まることはまず無く、いつも安いミニホテルレベルの宿ですから、それでよかったわけです。
しかしこの空港からはそもそも、今日泊まる予定のホテルを市内まで探しに行く交通手段が無いのでした。二人以外の観光客は、すべて事前にホテルを予約していて、彼らを迎えるミニバスが来ていました。しかし二人はそのバスには乗れないので、(どうしたものか・・・)と二人で思案している時に、たまたま空港内に来ていた若いベトナム人の青年が、Yさんがベトナム語で交渉しているのを聞いていました。彼は二人にツカツカと近寄って来て、「どうしたんですか?」と話しかけてくれました。
それでベトナム語が出来るYさんが、「かくかくしかじか・・・である。」と話したら、「ああ、そうですか。分りました。心配しないで下さい。私が何とかしてあげますから。」と親切に対応してくれたのでした。彼は単なる地元のふつうの人で、全くの親切心からそのような行動を取ってくれたようでした。
そして一時間半ほど待っていると、次の飛行機便で降りて来た乗客たちが空港から出て来て、ホテル側が用意したバスにつぎつぎと乗り込みました。そのバスの運転手に、そのベトナム人の若い青年が掛け合って「空いている席に、この二人を乗せてやってくれないか。」と頼みますと、「いいよ。」と引き受けてくれました。
直情家のYさんは、この若い青年の好意に大いに感動し、二人でそのバスに乗り込む前に、謝礼を渡そうとしました。するとその青年は笑いながら、「いいです。いいですよ。大したことじゃないですから。」と言って、ビタ一文受け取らなかったといいます。
YさんもSBさんもバスの中で椅子に腰を下ろして、Con Dao島に着いて早々若いベトナム人青年から受けた親切さに心地よい感動を味わいながら、街のほうまで向かいました。「サイゴンだったら、自分から(いくら・いくら呉れ!)と言うだろうなー」と、その時の青年の心根の爽やかさをYさんは私たちに話してくれました。
Yさんは、「Con Dao島にいる島の住民は、こういうのんびりした環境下に生きているおかげなのか、サイゴンにいる人たちと違い非常におだやかで、お金にガツガツしているという印象を受けたことが無かったですねー。特にCon Dao島到着の最初に、あのようなベトナム人の若者と出会い、大変感銘を受けました。」と、後で私に話してくれました。
ちなみに帰りも同じように、空港行きの市内バスがあるわけではないので、その時は何と「軍隊」が乗っていた6人乗りの車に同乗させてもらったそうです。この島には軍人が常駐しているのでした。しかしさすがにこの時はタダではなく、一人3万ドン(約120円)を払ったといいました。
そしてバスに乗って15kmほどで、Con Dao島の市内に着きました。迎えのバスが来ていたホテルなどは、値段が一泊100ドル近くはするという話でしたが、お二人は一泊55万ドン(約2,200円)のホテルに宿を取りました。そしてそこらをしばらく二人で歩いて行くうちに、驚くべき光景を見ました。
今までの予想では、政治犯を収容した『トラの檻』と呼ばれる刑務所の位置は、(山奥か人里離れた場所にあるのだろう)と想像していたのに、実は市内の中心部にそれはあったのでした。ということは、(刑務所が先に出来ていて、街はその後に造られたのでしょう。)とYさんは話されていました。そしてこのCon Dao島の回りには、Con Dao島を入れて全部で16の島があり、そのうち14の島に人が住んでいて、全部で約6千人の人口があるということです。
そして着いた翌日には、その『トラの檻』を二人でじっくりと観察することにしました。ここには約60以上の建物からなる刑務所『トラの檻』があり、その檻の中にはその当時収容されていた人たちが置かれていた状況を再現するために、囚人の蝋人形が多数作られていました。そしてそこの係員は二人のために、わざわざ部屋の鍵を開けて見せてくれたそうです。中には足を鎖に数珠繋ぎに繋がれていたり、拷問を受けていたりしている多くの人形がありました。
さらには、この『トラの檻』の建物全ての天井は空間がぽっかりと空いていて、屋根はありません。ということは雨風がそのまま吹き込むということです。もちろん天井部分に当たる場所には、太い鉄の格子がはめられていて、囚人たちは逃げることは出来ません。まさに『トラの檻』のようなイメージです。そしてこの鉄格子の部屋の天井の空間から、様々な拷問を檻の中の受刑者に与えました。
水責め、ロウソク責め、石灰責めなど・・・です。檻の上から看守たちが、部屋の清掃と囚人たちのシャワーを兼ねて、強い水圧で中の囚人に向けて放水します。さらにその前に、石灰を上からドーンと降りかけておいてから水を当てることもありました。服も着ていない裸の受刑者たちの体は、石灰が水で溶けると当然高熱を発して皮膚が焼け、部屋の中の囚人たちは苦しみます。またさらには、火の点いた大きいロウソクを、わざと檻の上からポタリ・ポタリと垂らすような残虐なこともしていました。
ベトナム統一前に、多くの人たちがこの『トラの檻』で亡くなりましたが、有名な人物ではVo Thi Sau(ボー ティー サウ)という若い女性もここで命を落としました。彼女はわずか18歳弱で銃殺刑に処されて亡くなりました。ベトナム人の多くが涙を流す彼女の短い一生はドラマ化されて、今も時々テレビ番組で放送されています。私も観たことがあります。
サイゴンにお二人が帰られた後、Con Dao島を訪問しての報告会を私たちの仲間にされましたが、(あんな所に何年も投獄されていたら、気が狂うだろうなー)とYさんがしみじみと話されました。事実ここから戦後に解放されても、精神に異常をきたした人間が数多くいたそうです。
そして監獄や蝋人形の写真を撮っている間に、YさんもSBさんもだんだんと鬼気迫るものを感じて来て、気分が重くなって来たそうです。そういう理由でもあるのか、後で見せてもらった監獄の風景を写した写真は十枚もありませんでした。
今回のお二人のCon Dao島訪問は二泊三日でした。最初の一日目は『トラの檻』見学。翌日はCon Dao島の周囲を回って魚釣りを楽しまれました。ここの海は大変キレイだったのですが、最終的には二人で三匹だけ、サイズも小さい魚しか釣れなかったということでした。一見したところ食べられるような魚ではなかったので、その場でリリースしたといいます。
そして今回のCon Dao島訪問で一番困ったのが、ホテルの回りにはレストランも喫茶店も、遊ぶところも、全く何もなかったことでした。ですから一日三度の食事は、朝・昼・晩とすべてホテルの中の小さいレストランで食べるしかなかったのでした。ビールも冷えたのはなくて、生ぬるいのしか飲めなかったと話していました。
それでサイゴンに帰る前日、ホテルの食事を作ってくれていた、顔馴染みになったおばちゃんが、「次はいつあなたたちは来るんだ?」と、Con Dao島を去る前日にいかにも名残り惜しそうに話しかけて来たそうです。
Con Dao島を訪ねた感想は、(とにかく、全くなーんにも無いところでしたよ。一回行けばもう十分ですね。二回も行くようなところではありません。しかし大した、思い出深い印象がないだけに、あの若いベトナム人青年の思い出だけが鮮烈に残っています。)と、お二人は笑いながら、懐かしく回想されながら話されたのでした。
そして11月末に、Yさんは寒い冬の日本に帰って行かれました。その帰国前日にみんなでお別れ会をしましたが、Yさんがみんなに別れを告げて立ち去られた後、道路に出て遠くに去って行くYさんの背中が見えなくなるまで、じーっと見ていたSBさんの姿が印象的でした。
ベトナムBAOニュース
「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。
「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。
■ ベトナムの若者は、生きる能力が弱い ■
KATO KENJI(24歳・ホーチミン市の留学生)
長い間ホーチミン市でベトナム語を勉強しながら暮らしていると、ホーチミン市という都会に住むベトナムの若者たちについて、私なりのいろんなイメージや感想がある。それについてお話ししたいと思う。
● ベトナムの若者たちのフレンドリーさ ●
私がベトナム語の学習で分らない所を聞きたくて、ベトナム人の若い人たちに手伝ってもらいたい時、ベトナム人の若者たちは気軽に付き合ってくれて、一緒にコーヒーを飲みに行ってくれる。そして、それからすぐ友達になれる。しかし今の日本ではこのようなことは、実は大変難しい。
自分が何か聞きたいことがある時、質問された日本人は聞こえない振りをして無視するか、答えてもすぐその場から立ち去って行ってしまう。そういう点では、ベトナム人と比べて、日本人は大変冷たい性格をしているなーと思う。
● 公共の場所では、他人への迷惑を考えない ●
今まで私がホーチミン市で出会った若者たちは、どんな場所ででも大きな声でお喋りをしたり、人が歩いて通る歩道上に座り込んだりしている。通行の邪魔になるからと、大人から注意されたりすると、若者たちはイヤな顔をしたり、ケンカ腰になったりすることもある。日本でもそういう風に、大人から注意される事はあるが、たいていは納得した顔をして黙って立ち去って行ってしまう。そういう点は、ベトナムの若者たちとは違うかもしれない。
● “歩くという文化”に、全然関心がない ●
日本ではいつもみんな通勤、通学の時、二本の足で歩くことが多い。そしてそのことは健康にも良いし、電気やガソリンなどのエネルギーを使わないので、地球環境にも優しいはずである。そして日本人はいつも、足早にスタスタと歩いて行く。歩く時にも、話しながら歩くことはない。日本人は、どういう場面ではどんなことをすべきかを、習慣として身に付けているのだ。歩く時には歩くことだけに集中し、話をしたい時には別の場所で話すようにする。
しかしベトナムは違う。ベトナムでは二人で歩いている時でも、バイクに乗って二台で走っている時でも、いつも喋りながら歩き、喋りながらバイクで走っている。ベトナムの道路はいつもバイクなどで混んでいるが、日本人から見たら、そのような行動は自分や他人に危険を及ぼすというのはすぐに分かるだろうにと思う。
● 大人たちの関心の薄さと過剰さ ●
私は裕福な家庭(だろうと思われる)の子どもが、肥満体で歩いているのを見た。でも親はその事にはあまり関心は強くは持っていない。というか、関心が薄い。あまり注意もしないし、自分の子どもが好きなもの、食べたいものは何でも与える。
しかし反対に、子どもたちの考え方とか、勉強のこととか、仕事のこととか、余分なことなどについては、過剰なほどに強く干渉したがる。そうなると、親と子の関係はだんだんと悪くなってくる。
同じような事はかつての日本でも起こったことだが、今の日本では家族が一緒に食事をすることは大変少なくなって来てしまった。そして一番心配なことは、日本の若者の自殺率が、世界の中でも非常に高いことである。
● 生きる、基本的な能力が弱い ●
私がベトナムに来て一番びっくりしたことは、ホーチミン市に住んでいるベトナム人の友人たちが、ほとんど水泳が出来ないことであった。台風や、津波や、地震の時なども、みんなどうしたらいいかほとんど分らないことだった。
日本では都会ではもちろん、どんな僻地の学校にもプールがある。大変な僻地にある学校の場合は、お金がなくてプールが学校にないところもあるが、そういう場合でも別の場所で水泳の練習をさせる。
日本は地震が世界で一番多い国だが、それでも地震で亡くなる人たちは少ないほうである。何故なら、日本では幼稚園でも小学校でも、子どもの時から地震が起きたらどうすればいいかを教えてもらい、訓練しているからである。その他でも、生徒たちはいろんな危ない場面で、どうすれば生き残るかを教えてもらっているのだ。自分の命すら守れなかったら、他に何を守ることが出来るだろうか。
今までこのホーチミン市は台風や地震などの天災があまりないが、今後も天災が全くないという保障はない。もし誰もがこのことに関心を払わなかったら、大変危険だと思う。
最近の新聞によると、地球の環境はだんだんと悪くなって来たという。そしてホーチミン市にも、その悪い影響は当然及んで来るだろう。そして将来、その影響がどんなに悪い結果をもたらすかのか、それは誰にも分らないだろうと思う。
◆ 解説 ◆
このKATOさんの記事は、ベトナムの文化や習慣について、いろんな観点から考察されていて、私には大変興味深く感じました。一つ・一つについて全てを解説すると大変ですので、ここでは「ベトナムの人たちのフレンドリーさ」について説明したいと思います。
今のベトナムは、サイゴンのような都会でも、「人間関係は非常にフレンドリー」であり、「濃密である」というのは、まさしくこのKATOさんのご指摘通りだと思います。今月号でご紹介したSBさんのアパートの大家さんなどが、まさしくその典型的なベトナム人のパターンです。
SBさんが仕事を終えて夜にアパートに帰りますと、一階にはいつも駐車場係りを兼ねた大家さんが椅子に座っています。普通はそのまま挨拶をして部屋に行きますが、その大家さんが時に、その駐車場の中で「ミニ宴会」を開いていることがあるそうです。
その時には帰って来たSBさんを捕まえて、「お前も一緒に飲め!」と言って、SBさんの腕を引いてテーブルまで連れて行きます。仕事場からそのままアパートまで何も飲まず、食わずでアパートに帰って来た場合は、SBさんは有り難くその宴会に参加します。
しかし、外で食べて、飲んで帰った場合にも強引に誘われることもあり、そいう場合は(早く寝たいのに、本当に有り難迷惑なんですがね・・・)と苦笑されています。
しかしそのような話を聞きますと、私の大学生時代に、東京の下町・葛飾区に下宿していた大家さんの思い出が重なります。私が下宿していた大家さん「葛飾のおじさん」が、まさしく非常に「フレンドリー」な大家さんでした。
おじさんの家には三人の娘さんがおられましたが、晩酌の相手をしてくれる相手がいないので、おじさんが仕事から帰られた後しばらくすると、アパートにいた私たち貧乏男子学生数人のガラス窓を「コンコン」と叩いて、「今から飲みに行くぞー!」という呼び出しが掛かりました。一ヶ月に四・五回はありました。
後にして思いますと、一人が毎月払っていたアパートの家賃代よりも、おじさんから毎回奢って頂いた飲み代のほうが多かったろうなーと、申し訳なく思ったことでした。そのおじさんは、今から約二十年ほど前に他界されましたが、その当時アパートに住んでいた全員が、おじさんの告別式には集まりました。
今の東京には、果たしてそのような人間関係の濃密な下町があるかどうかは分りませんが、大学生時代を東京でもう一度繰り返すことが出来れば、またあの「葛飾のおじさん」のアパートに住みたいなーと思います。