【2013年5月】日本帰国二話
春さんのひとりごと
<日本帰国二話>
● 伊勢神宮に参拝 ●
「懐かしい地」 というのは幾つかありますが、私にとってはその中でも 『伊勢神宮』 には格別な思いがあります。その『伊勢神宮』を、この春にふたたび訪れることが出来ました。
初めての『伊勢神宮』訪問は、今から 40 年ほど前にもなります。私の 40 年来の友人でもある KA くんが三重県松阪市の出身で、彼の故郷を訪ねた時に、初めて『伊勢神宮』に連れて行ってもらったのでした。
その時に見た、五十鈴川の澄みきった清らかさ、多くの杉の大木、そして神宮の神々しさには目を奪われました。あの時の光景は、今までずっと忘れることが出来ませんでした。それ以来、私には『伊勢神宮』という単語を目にし、その言葉を聞くたびに、あの時の鮮烈な思い出が今でもよみがえります。
さらには、作家の 司馬遼太郎さん と、日本文学研究家の ドナルド・キーンさん が、 20 年前の『伊勢神宮』の <式年遷宮> の時に、お二人が『伊勢神宮』の境内の中に座って対談されていましたが、私はそれをテレビで観た思い出があります。司馬さんは亡くなられましたが、キーンさんは日本に帰化されたことを知り、感慨深いものがあります。
最初の『伊勢神宮』訪問から 40 年近く経ちましたが、その間(いつかまた『伊勢神宮』を訪問したいなあ~)という気持ちはありましたが、なかなか果たせないでいました。しかし、二年前頃にその友人の KA くんから、
「平成 25 年が 62 回目の式年遷宮だから、その時は是非来いよ!」
という誘いを受けて以来、 (よし、今年は『伊勢神宮』を訪問しよう!) と決めていました。
<式年遷宮> は約 1300 年前から続いている伝統の行事ですが、最初の建築様式と同じスタイルで建て直すという実にユニークなやり方は、 「日本文化の永続性」 の象徴のような気がしています。
それは隣国の中国のように、 夏 ⇒ 殷 ⇒ 周 ⇒ 春秋・戦国 ⇒ 秦 ⇒ 前漢 ⇒ 新 ⇒ 後漢 ・・・と、目まぐるしく王朝そのものが興亡・交替した国とは比較にならない、 「日本という国の安定性」 を示しているのだろうと思います。 21 世紀の今日でも、 1300 年前と変わらないやり方で建てられたものを目にする事が出来るというのは、世界でも例がないことでしょう。
それだけに最初の『伊勢神宮』の訪問以来、私にとっての『伊勢神宮』は、
「日本人のこころのふるさと」
という感を強くしていました。そして、今年の<式年遷宮>を逃せば、次の<式年遷宮>の時に私は 80 歳になっていて、(果たして元気な姿で行けるだろうか・・・)と想像もしました。それで、(今年こそは必ず行くぞ!)と決めていました。
さらには、またあと一つの目的もありました。それは私の教え子でもある、ベトナム人の実習生たちに『伊勢神宮』で会うことでした。毎年日本に帰国した時、私自身は今まで一度も、ベトナムで教えていた生徒たちには会ったことがありませんでした。
彼らを受け入れている日本の組合が、実習生たちと外部の日本人が接触することをあまりこころ良く思わない例も聞いていて、(彼らにも迷惑が掛かるかな・・・)とも思い、敢えて連絡を取ることもしなかったし、彼らに会うことはありませんでした。
しかし、今回は三重県に住んでいる実習生たちが、私の三重県訪問のことを知り、事前に何回か連絡をしてくれたのでした。また、彼らを受け入れている会社の中で、理解ある日本人の方がおられて、日本側で今回の実修生たちとの再会までに尽力をされ、彼らと私が伊勢の地で会う橋渡しをして頂きました。
その方の名前は IJ さんと言います。ベトナムに私がいる時に、実習生たちから IJ さんを紹介してもらい、当日に『伊勢神宮』で会う場所と時間を、ベトナムと日本から私たちはメールで何回か打ち合わせをしました。
そして 4 月初旬のある日に三重県に住む友人宅を訪ね、その翌日友人と共にいよいよ『伊勢神宮』を訪問することになりました。『伊勢神宮』までは友人の車で行きましたが、実はこの日は雨が降り、強い風も吹いていました。 ( 果たして無事に会えるだろうか・・・ ) と心配になりました。
IJさんとの打ち合わせでは、新しく出来た [ せんぐう館 ] でお昼頃に会いましょうと約束していました。 [ せんぐう館 ] は外宮の入口近くに作られていました。それで朝早く松阪市内を出た私たち二人は先に内宮に行き、その後外宮に行くことにしました。
しかし、友人が言うには『伊勢神宮』の参拝コースは、まず先に外宮に行き、その後内宮に行くのが普通なのだそうです。でも私は、お昼頃に外宮の中にある [ せんぐう館 ] で実習生たちに会う予定でいましたので、先に内宮に行くことにしたのでした。
内宮に着いた時には雨が少し降っていました。私たちは内宮近くの駐車場に車を停めましたが、この近くには、あの <君が代> の歌詞の中にある 「さざれ石」 がありました。私は初めて『伊勢神宮』を訪問した時には、この「さざれ石」の思い出が無かったので、今回じっくりと見ました。
そして、そこから歩いて少し行くと、有名な 〔おかげ横丁〕 があります。この通りには 〔赤福餅〕 の店が並んでいます。ずいぶんと古い店構えの「赤福」の店もありました。本店なのでしょうか。それにしても、この日は大変な混雑でした。さらに、この頃からだんだんと雨が強くなってきました。
五十鈴川 に掛かる 「宇治橋」 を渡る時にはますます雨が強くなってきましたので、五十鈴川の近くまで降りて行くことが出来ませんでした。しかしこの「宇治橋」は <俗界と聖界との架け橋> と言われていますが、この橋を渡る先には、実に厳かな雰囲気が漂っていました。
砂利道を歩いてゆく時、道の両側には杉の大木が聳えています。たまたま前を歩いていたグループのガイドらしき人が、ある一本の杉の巨木を指差して「この杉は五百年以上経っています。」と説明していました。『伊勢神宮』に聳えて立つこれらの杉の巨木の群れの姿は、いかにも
( 今聖地にいるのだ! )
という感じがしてきます。そして、私の視界の中には 40 年前に訪れた姿のままの、『伊勢神宮』の姿がそこにありました。でも、雨の勢いがさらに強くなってきました。友人が傘を差しかけてくれました。
新しく建てられた社殿がありました。しかし、高い塀に囲まれていて、社殿の全貌は見えませんでした。小さい建物も新しく造られていました。森全体が雨に濡れて薄暗く見える中で、遠くに見える新しい建物群は金色に輝いていました。雨が降る中で、私はしばらくじーっとそれを眺めていました。
内宮の訪問を終えてまた宇治橋を渡り終える頃、雨が徐々に弱くなってきました。そして、次にいよいよ外宮に向かいます。内宮から外宮は近い距離にあります。外宮の駐車場に車を停めた時には、強い風は吹いていましたが、不思議なことに雨が完全にあがっていました。
[ せんぐう館 ] に着きました。建物の中から二人の女性の実習生と、 IJ さんとその奥様が出て来られました。初めてお会いした IJ さんに挨拶し、教え子たちとの再会に尽力して頂いたお礼を述べました。
IJ さんは、「当初はこの日に六人くらいは来る予定だったのが、急に残業が入ったりして参加出来なくなり、二人しか来れませんでした。みんながよろしくと言っていました。」と言われました。この日は日曜日でしたが、 ( 日曜日も休まずに頑張っているのだなー ) と想像しました。
私は、二人の教え子たちに会えただけでも十分に満足でした。彼女たちも喜んでくれました。彼ら二人に会えた時、熱いものが込み上げてきました。『伊勢神宮』参拝と、実習生たちに会うという二つの目的を果たすことが出来ました。
この後全員で、 [ せんぐう館 ] の中にある展示物を見学しました。そこには<式年遷宮>に至る説明と展示物。そして、実物大の見事な新しい社殿がありました。そこを出た時には、青い空が広がっていました。
IJ さんと二人の実習生たちとはそこでお別れしました。二人ともまだ二年近く日本での実習があります。私は「体に気をつけてね。またサイゴンで会いましょう!」と言って別れました。
そして友人と私は、外宮の中に入りました。ここにもまた新しい社殿が建てられていました。大きな杉の木も立っていました。ここもまた多くの観光客がいました。ガイドさんが次のような説明をされていました。
「『伊勢神宮』の遷宮は 20 年に一度、『出雲大社』の遷宮は約 60 年に一度なのですが、今年はこの二つの神社の遷宮がたまたま重なった珍しい年なのです。」
外宮を出た後に、友人と私は熊野まで行きました。怪我で入院している私たち共通の知人を見舞うためです。その知人とも 40 年来の付き合いがあります。途中に、奇岩の 〔獅子岩〕 を見ました。見事な獅子の形をしていました。
見舞った友人は大いに我々二人の訪問を喜んでくれました。 40 年前の当時のこと、そして今お互いが 60 歳を越え、定年を迎えようとしていることについて話が進んでゆきました。
[60 歳についての捉え方] では、日本帰国時にたまたま読んだ新聞に、 「作家・森村誠一さん」 の次のような内容の記事が載り、あらためて目を開かれる思いでした。
~余生ではなく“誉生”を~ ・・・「熊本日日新聞」 5 月6日付け
「仕事を 60 歳でリタイアしたとして、 20 年もの時間がある。これを『余った生』として何もしないのはあまりにもったいない。自分がいつまで生きられるか分からないということは、無限の可能性がある。将来の自分から見れば、今の自分が一番若いのだから」。
森村さんは今年ちょうど 80 歳になられています。そして今も、現役の作家として活躍されています。だからこそ、その言葉には深い洞察があります。私は森村さんが書かれた本の中で、ベトナムに深い愛情を注いで書かれた 『青春の源流』 の愛読者の一人でもあります。
この春もいろいろな人たちとの出会いがありましたが、熊野の知人に会うのも約 30 年ぶりのことでした。「いつかまた元気な姿で会おうね。」と約束して、三重県まで帰って行きました。
● 大宰府で“大ベトナム展”●
「大宰府でベトナム展をやっているよ」
と教えて頂いたのは、私の中学時代の恩師・ N 先生からでした。私が日本に帰国した時、 N 先生とは二年前から食事会をさせて頂いています。今回で三回目になります。五月の連休の中で行っています。毎回五・六人の同級生が集まってくれています。
食事会をする場所はいつも同じ、あの 「熊本弁を話すオーストラリア人」 マイケル・ラッタさん の親友でもあるシェフ・Hさんの 「欧風レストラン」 です。今では非常に有名なレストランになっていて、事前に予約しておかないと席が取れないほどです。マイケルさんは、ベトナムで私が偶然出会ったオーストラリア人です。熊本には 13 年間住んでいました。熊本弁もペラペラです。
ベトナムで会った時に、熊本弁の面白さについて、次のようなことを話してくれました。「熊本弁には、同じ発音を続けて言う単語が幾つかあるでしょう。あれが実に面白いですね~。例えば“背中がスースースー ( 寒い ) ”“この席はトットットッ ( 取ってある ) ”」
そして今回の帰国時には、マイケルさんに関して痛恨の一事がありました。何とそのマイケルさんが熊本に帰って来ていたというのです。しかも、私が故郷に帰っていた時に一日だけマイケルさんと会える日が重なっていたのでした。最初、私はそれを親友のKくんから聞きました。
Hさんのレストランで食事会をするのはいつも五月なので、Hさん自身も私が故郷に帰るのは五月だろうと思い込んでおられたのでした。ですから一日だけながら、直線距離にしてわずか五キロも離れていない場所で、お互いにそれを知らないまま、私たちは同じ日を過ごしていたのでした。マイケルさんは熊本滞在時には、Hさんの家に泊まられていました。
食事会の当日、食事が一段落してからHさんが厨房から出て来られて、 ( いやー、本当に残念でしたね~。もしあなたが帰っていると知っていれば、マイケルと会えたのに・・・ ) と、私以上に大いに残念がっておられました。その時マイケルさんと会えていれば、 6 年ぶりの再会になるところでした。
家に帰ってからすぐ、オーストラリアにいるマイケルさんに電話しました。彼もひさしぶりの私からの電話に驚いていましたが、「実はあなたが熊本にいた時に、私もベトナムから熊本に帰っていたのですよ。」と話しましたら、「ええーっ!本当なんですか!?」と、さらに驚いていました。Hさんからそのことはまだ詳しく聞いていない様子でした。
マイケルさんの話では、 4 月7・ 8 ・ 9 日と熊本に滞在していたそうです。驚くべき偶然ながら、マイケルさんが日本を離れたのは 1997 年 4 月 7 日のことでしたので、今回の日本訪問はピタリ 16 年ぶりのことなのでした。さらには、私が初めてベトナムに行った年も、同じ 1997 年でした。
マイケルさんと電話で話すのも久しぶりのことでしたので、大いに話が弾みました。会話はもちろんお互いに日本語で話しましたが、マイケルさんが 「○○○だけん・・・」 と熊本弁が今も自然に出て来るのには、後で思い出して笑いました。「次に日本に行く時には、お互いに事前に連絡しましょうね!」と、約束して電話を切りました。
さて「大ベトナム展」に話が戻りますが、N先生は食事会の場所にそのパンフレットを持ち込んで来られました。そのパンフレットには、 「日本初 大ベトナム展」 と書かれていました。期間は、 4 月 16 日から 6 月9日まで。場所は、 「九州国立博物館」 。「九州国立博物館」がある場所は、 「大宰府天満宮」 の近くなのでした。
そのパンフレットの中にある幾つかの写真の中で、ある一つの写真に目が留まりました。写真の名前は、 『茶屋新六交趾渡航図巻』 ・・・江戸時代 17 世紀 名古屋市・ 情妙寺蔵 ・・・と書いてありました。
『茶屋新六交 趾 渡航図巻 ( ちゃやしんろくコウチとこうずかん ) 』 ・・・ 情妙寺蔵・・・ とは、私がベトナムにいる時に、あの 「さすらいのイベント屋」 NM さん が、私に熱心に話してくれていた「絵巻物」そのものの名前なのでした。 「交趾」 が 今のベトナム国を指しています。 NM さんも見た、情妙寺所蔵の「絵巻物」の現物が、「九州国立博物館」に展示してあるらしいのです。
それを見た時に、 ( あの「絵巻物」の現物が展示してあるのなら、是非行こう! ) と思いました。そしてそのことを親友の K くんに話しますと、彼もその気になり「では車で一緒に行こうか。」ということになり、 N 先生との食事会から三日後に行くことにしました。
当日は朝 8 時過ぎに家を出ました。奥さんと娘さんも一緒に福岡までは行かれましたが、お二人は福岡空港に行く用事があり、私と K くんとはそこで別れました。そして、 10 時に目指す「九州国立博物館」に着きました。それは新緑の緑が映える、こんもりとした森の中にありました。そしてその建物を見た時、あまりの大きさに私たち二人とも驚きました。
入場料は一人が 1,300 円。館内は薄暗く、目が慣れてくるまでに時間が掛かりましたが、展示品の数の多さには感心しました。全部で 165 点が出品されていました。そしてその展示品は、日本国内からはもとより、ベトナムやインドネシアからも持ち込まれていました。
おそらく、相当な準備期間を費やしたのだろうな~というのは想像出来ました。そして、ベトナムからは 「ベトナム国立歴史博物館」 からのものが多数を占めていました。時代も、古くは紀元前 3 世紀から 20 世紀に至るまでの品々が展示されていました。
銅鼓、燭台、壷、短剣、斧、耳飾り、頸飾り、指輪、銀貨、装身具、如来立像、瓦、金冊、仏頭、仏塔、皇帝の冠、シヴァ神像、獅子像、勅封、外国図、万国総図、・・・などなど。
中部のホイアンに関しての資料の中には、 「日本橋」 の写真の他に、ホイアン市の近くにあるという 「日本人の墓」 の写真がありました。そのお墓の中に眠る日本人の名前は 「谷弥次郎兵衛」 。その墓は日本の方に向けて建ててあるそうです。そのお墓に向かい、日本人らしき一人の方がお参りされている写真がありました。
現代の出品物では、私も見たことがある少数民族の女性の衣装などがありましたが、私が見た中での圧巻は、 『白藤江 ( バクダン川 ) の戦い』でモンゴル軍の船に対して用いられたという木の杭の現物でした。今も白藤江の河口付近の地下からは、その当時の木杭が出て来ると言います。
白藤江は干満の差が激しいので、それを良く知るベトナムの軍船は、おとりを使ってモンゴルの船団を木杭におびき寄せました。そして川の水位が下がって来ると、モンゴルの軍団は身動きが取れなくなりました。
それに対して一斉に攻撃を仕掛けて、火をつけたいかだを川に流し、モンゴルの船に火を放ち、モンゴルの軍団を撃退したという、あの逸話の木杭です。私は現物を初めて見ました。これも「ベトナム国立歴史博物館」所蔵となっていました。
そしていよいよ 〔出品番号 98 番目〕 に、 情妙寺蔵 の 『茶屋新六交趾渡航図巻』 が展示されていました。縦が約 70 センチ、長さは全部広げれば 5 メートルを超えるので、半分ほどは巻かれたままになっていましたが、確かに情妙寺蔵『茶屋新六交 趾 渡航図巻』と、出品紹介に書かれてありました。
( これが、あの NM さんが話していた図巻なのかー・・・ )
あの時 NM さんが私に話してくれていたものと同じ現物の図巻を今見ているのだと思うと、不思議な気持ちになりました。今この図巻は、愛知県の県指定文化財になっているといいます。情妙寺は、名古屋の商人・茶屋新四郎長吉により、徳川家康の菩提を弔うために創建されたお寺だそうです。そして、この <作品解説> には次のように書いてあります。
「本絵巻は、茶屋家の貿易船が交 趾 へ赴き交易する様子を描いたもの。絵の表現には構図として破綻している箇所もあり、専門の絵師によるものでは無い。絵画作品としてみるよりも、資料的価値の高い絵図的な作品として評価すべきである。現地に渡航しなければ知り得ない情報も散りばめられており、実際の見聞を元にして描かれたと考えられる。また、書き込まれた文字情報も豊富である。」
私はこの図巻を見終えた後一度去り、二度去り、結局三回見ました。この図巻は右から左へ、日本出発からベトナム到着までを描いてあり、時間の舟の流れに乗りながら、自分が当時そこに漂っているような感じがしてきました。
「九州国立博物館」の館内は予想以上に広く、「大ベトナム展」の規模も大きいものでした。時計を見たら 12 時になっていましたので、二時間近くも見学していたことになります。そして出口近くに、 「日越交流を果たした九州に関係ある人」 というコーナーがありました。
その中に紹介されていた一人のベトナム人の名前を見て、思わず足が前に進みました。その名前は、 Luong Dinh Cua( ルゥォン ディン クア )。何とその人の名前は、私の娘が今まで通っていた小学校の名前なのでした。今まで、そのベトナム人について、どういう人なのか全然知りませんでしたが、この時初めて知りました。ここには次のように紹介されていました。
◆ ルゥォン ディン クア ~九州大学で学んだベトナム農業の父~ ◆
太平洋戦争中、 「南方特別留学生」 として来日した Luong Dinh Cua 博士は、 1944 年から 4 年間九州帝国大学 ( 現九州大学 ) で学びました。在学中に大学の職員であった中村信子さんと結婚。 1952 年に第 1 次インドシナ戦争 ( 抗仏戦争 ) 下の祖国に戻り、 「作物の品種改良」 に取り組むなど、激動の時代を農学者として、祖国の発展にささげました。
その紹介文を読んで、クア博士の経歴を初めて知りました。そして後でいろいろ調べましたら、クア博士と結婚された「中村信子」さんは、ベトナム戦争中はハノイに住んでサイゴン解放を日本語放送で語った人だということです。
今まで娘をバイクで送り迎えしながらも、学校の名前に全く無知であったのに、急に身近に感じられて来ました。そういう意味では、今回の「大ベトナム展」訪問は、『茶屋新六交趾渡航図巻』の現物を見たことと、ルゥォン ディン クア博士の人物像を知ることが出来たこと、この二つの大きな収穫がありました。
そこを出ますと、 K くんが「 大宰府天満宮 に行こうか!」と言うので、そこに行くことにしました。折りしもこの日は連休の最終日ということもあり、「大宰府天満宮」は多くの人出で賑わっていました。そして、この日この時が、私には初めての「大宰府天満宮」訪問なのでした。その有名な名前は聞いていても、今まで来たことはありませんでした。
初めての「大宰府天満宮」訪問でしたが、入り口の鳥居の後ろに聳える大きな森の美しさにまず惹かれました。何という名前の通りなのか聞き忘れましたが、ここにも「伊勢神宮」でも見た「おかげ横丁」のように、お土産屋さんや食堂が両側にありました。
外国人の観光客も多く来ていました。連休日とはいえ、何故にこんなに人が多いのか、初めてここに来た私には良く分かりませんでしたが、 「心字池」 に掛かる御神橋を渡った時にだんだんと分かって来ました。神社全体の雰囲気が実に明るく、キレイなのです。ここは、「伊勢神宮」とはまた違う魅力がありました。
有名な神木の 「飛梅 ( とびうめ ) 」も見ました。境内には約 6 千本の梅の木があるということですが、梅の花が咲く時期には、さぞキレイなことでしょう。瓦の紋にも梅の図が描かれていました。
そして境内を右手に進んで行くと、何と「九州国立博物館」へ通じる道があり、山の上にある博物館へ昇るエスカレーターまでありました。つまり、「太宰府天満宮」の裏手の山の上に「九州国立博物館」があるのでした。それで、何故あのような山の中に博物館を建てたのかが、ようやく分かりました。
K くんと私は境内の中にあるレストランでお昼ご飯を食べました。そこは「心字池」の中にあり、ガラス越しに池が見え、池の中の菖蒲がよく見えます。この時は菖蒲の花はまだ咲いていませんでしたが、実に美しい風景だな~と感じたことでした。こころが安らいできました。
二人でカツ丼を食べながら、ガラス越しの光景を飽きずに見ていました。「大宰府天満宮」は最初の予定になかった訪問地なのでしたが、 ( 本当に来て良かったなー ) とこころから思いました。 K くんのおかげで、実に充実した一日を過ごすことが出来ました。
今回の日本帰国での 『伊勢神宮』 『九州国立博物館』 『大宰府天満宮』 訪問では、 「感動」 と 「発見」 と 「安らぎ」 を得ることが出来ました。
ベトナムBAOニュース
「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。
「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。
今月は、春さんが一時帰国中のためお休みです。