【2014年9月】第14回「ベトナムマングローブ子ども親善大使」ベトナム訪問を終えて/ベトナムで意識の種を植える
春さんのひとりごと
<第14回「ベトナムマングローブ子ども親善大使」ベトナム訪問を終えて>
今年も8月末に『ベトナムマングローブ子ども親善大使』がベトナムを訪問しました。今年は8名の小・中学生たちが日本からやって来ました。 『ベトナムマングローブ子ども親善大使』は、今年で 14回目になります。
今年もまた、彼ら「親善大使」たちは、一週間のベトナム訪問の中で、 「村山日本語学校の生徒さんたちとの交流会」「青空ベトナム語特訓教室」「ホーチミン市内観光」「ホームステイ体験」「ホーチミン市友好協会訪問」「カン ザーでのマングローブ植林」「 Saint Vinh Son 小学校との交流会」「クチ トンネル訪問」 などの行事のすべてに参加し、実に有意義な一週間を過ごしました。
毎年日本から来る生徒たちの顔ぶれは違いますが、迎え入れてくれるベトナム側の生徒さんたちの中には、毎年参加してくれる生徒もいます。それで、「ホーチミン市内観光」や野外での「ベトナム語教室」などを行う時、バイクが走る中で徒歩での移動時に注意してくれたり、日本の生徒たちにベトナム語の発音をていねいに教えてくれるようになりました。
大人側も慣れてきました。「友好協会訪問」であれ、「ホームステイ」であれ、非常にスムーズに進むようになりました。「友好協会訪問」時には、ベトナム側の生徒さんたちが毎回15名くらい参加してくれます。以前は、私が直接「村山日本語学校」まで出向き、直接生徒さんたちに声かけしていました。しかし、最近はLuan先生やかつて参加していたベトナム人の大学生などが集めてくれます。
「ホームステイ」もみんなが大変喜んでくれていました。日本の女の子たちが「ホーム・ステイ」先で泊まったNgoc(ゴック)さんの家では、お父さん自らがケーキを作ってくれて、みんなに食べさせてくれたそうです。お父さんのみんなに対する思いやりに、日本の生徒たちは感激していました。
● カンザーでの「第三回日越友好マングローブ植林活動」 ●
さらにカンザーでは、現地の小学生たちと植林を通して交流会を行う活動を行っています。ちょうど毎年私達が植えているマングローブが根を広げているのと同じように、『日越友好マングローブ植林活動』が着実に定着してきたなぁ~という思いを深くしています。
2012年から始めたベトナムの小学生たちとの 「マングローブ植林」 は、今回で三回目になりました。ベトナムの小学校の名前はAn Thoi Dong(アントイドン)小学校と言います。一年に一回だけ、カンザーの地で日本とベトナムの生徒たちが集り、交流会をし、食事をし、植林をします。「ベトナムの生徒たちは、今年もこの日が来るのを楽しみにしていたのですよ。」と引率の女性の先生が話して下さいました。
昨年はみんなが写った写真を額に入れて学校に贈りましたが、今年はそれに加えて植林に参加したベトナム人の生徒たち10人分の写真も渡しました。今回参加した生徒たちの中には、昨年も参加していたSon(ソン)くんという男の子がいました。Sonくんは、昨年と今年と二年続けて参加してくれたのです。それで、私が自ら直接彼にその写真を渡しました。Sonくんは大変喜んでくれました。
そして、日本の生徒たちは事前に10名のベトナムの小学生たちが参加することは知っていたので、みんなにプレゼントを用意してくれていました。お菓子や文房具などをプレゼントしてくれました。ベトナムの生徒たちの感激は言うまでもありません。
さらにもっと感激したことがありました。An Thoi Dong小学校の生徒たちを引率して来て頂いた女性の先生が次のように話されたのでした。
「2012年に行った<日本とベトナムの植林活動>の時、日本から参加していた生徒にIくんと言う男の子がいました。その時、彼と仲良くなったベトナムの生徒がいます。今回、彼から日本にいるIくんへのプレゼントを預かって来ました。日本に持ち帰ってIくんにこのプレゼントを渡して欲しいと言うので預かりました。」
それを聞いた私は感激しました。(今から二年前に、このカンザーで行った交流会で芽生えた二人の友情が、今も続いているのかー・・・)と思ったからでした。そして、これから行う交流会の後も、この二人のような友情が育まれてゆけばいいなと願っています。
今回の「日越友好植林」では、苗を100本用意してもらいました。しかし、この日は直射日光が照り付けて大変な暑さでした。日本の生徒たちは全員が地下足袋を履いています。ベトナムの生徒たちも、森林保全局が用意した長靴を履きました。
植林場所に行く手前で、苗と地面に穴を掘るためのスコップが置いてあり、それを各自手に持って移動。生徒たちは、一人が最初マングローブの苗を3・4本手に持ちました。今年の植林場所も、昨年植えた場所から50mくらい離れた場所にありました。道路を隔てた反対側に、昨年の生徒たちが植えたマングローブがあります。
今年も種子を地面に挿す植え方ではなく、土をスコップで掘り、事前に苗床で育成されて、少し生長した苗を植える方法です。「森林保全局」のスタッフがみんなに植林の仕方を説明します。
苗は2~3年掛けてポットの中で育てて来た苗で、高さが1mくらいに成長していました。今年植える苗の種類も、昨年と同じ「ルムニッツエラ」という名前のマングローブです。今年も昨年と同じく一人につき5本用意してもらいました。
穴は縦横が30cm、深さが40cmになるまでスコップで堀り、そこにポットから出した苗を入れる。昨年はその後、周りを土で踏み固めていましたが、今年は土のカタマリをそのまま入れるようにして欲しいとスタッフが指導しました。植えた苗木の周りを足で踏み固めると、この地帯は粘土質なので、水が浸って来た時に地面下に入らないからと言います。
地面に穴を掘る作業は簡単なようですが、日本の小・中学生にはこれがなかなか難しいのです。しかもこの日の植林場所の地面は固いので、手の力だけではとても掘れません。スコップの歯に足を上から当て、子どもの全体重を掛けて上から押し、スコップを地面に突き立てて、それをボコッと上にこねないと穴は空きません。そのコツをつかむまでに、自分で3・4回は掘らないと分りません。
今日のこの時間、太陽はジリジリと照り付け、炎天下の中での穴掘りになりました。スコップで掘ろうとしても、サクサクとスコップの歯が立つ砂地ではなく、粘土質が乾いた土地なので、なかなかすぐには穴が空きません。
しかし、今年の日本の生徒たちも粘り強いです。ベトナムの生徒たちは30分くらいすると疲れた様子で、苗を運んで来るまでの時間には、少し背の高い木陰を見つけて、そこで休んでいます。それをベトナム人の女の先生が笑いながら見ていて、「まだ苗があるよ、こっちへ来て植えなさい!!」と叫んでいます。
まるまる一時間半ほどかけて、参加者全員が炎天下の中で汗を流しながら、一緒に穴掘り⇒苗入れを共同してやりました。今回参加した生徒の中では、Sonくんだけが二回目で、他の生徒たちは初めてです。
苗を袋から出すのもポットのビニールがすぐに破れず一苦労です。炎天下の中で時に水を補給し、手を休めて、一時間半ほど掛けて持ち込んだ苗の全てを植え終わりました。みんなハーハー息を吐いています。そして、ベトナム人と日本人の生徒さんたち一人・一人に【植林証明書】の手渡し式。
【植林証明書】を渡した後、そこから少し離れた場所にある、マングローブの苗が生長しているところで、「2014年第3回日越友好マングローブ植林」完了の記念写真の撮影。疲れた表情の中に、明るい笑顔が浮かんでいました。
バスに乗り込んだベトナムの生徒さんたちに、日本の生徒たちは名残惜しい顔をしながら、手を振ってお別れの挨拶をしていました。マングローブの苗の生長と生徒たちの成長が楽しみです。
多くの人たちの協力を得て、三回目の「日越友好マングローブ植林」が終わりました。今年もまた大成功でした。ベトナムの生徒さんたちは、来年この日の写真をもらえるのを楽しみにしていることでしょう。この活動がこれからも五年・十年・・・と続いてくれることを願っています。
●「ホーチミン市友好協会」で、Tanh(タン)さんとの再会 ●
そして今回の「ベトナムマングローブ子ども親善大使」の後半には、お二人の方との懐かしい再会がありました。お一人目は、「ホーチミン市友好協会」でお会いしました。この日は午後2時半頃に、「ホーチミン市友好協会」に着きました。今回ベトナム側からは15名の生徒さんたちが参加しました。
「ホーチミン市友好協会」の中にある大広間の中に入りますと、いつも対応して頂いている、会長のQuoc(クオック)さんは出張でおられなくて、「ホーチミン市友好連合委員会」の議長・Nguyen Cong Tanh(グエン コン タン)さんと、ホーチミン市友好協会」のNguyen Van Manh(グエン バン マン)総書記が来られました。村山日本語学校長のLuan先生も、後で来られました。
実はそのTanhさんとは、今から14年前にお会いしたことがあります。以前私の友人が開いた喫茶店「日越ひろば」の中で初めてお会いし、私がインタビュー形式でTanhさんにいろいろお聞きして、それを「日越ひろば」のWEBに載せたことがありました。後でそれを読んで見ましたら、私自身も忘れていた興味深い内容がありましたので、この時の記事を紹介します。(記事の中の年度は、2000年当時のものです。)
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[ホーチミン主席は細かいことに気付く、部下思いの人]
Nguyen Cong Tanh(グエン コン タン・65歳[当時])さん
◆ 経歴 ◆
ベトナム民主共和国の外務省の外交官として活躍され、ホーチミンと毛沢東の通訳をしたこともある。世界各地を友好訪問し、世界の主な国で訪ねていないのは、米・豪くらい。ベトナム戦争後外交官の仕事を辞め、1976年からサイゴン・ツーリストという旅行会社を設立。1992年までその会社の社長として勤め、今は11年前から続けている「越日友好協会」の事務局長。
●1973年に日本をはじめて訪問されたということですが、まだベトナム戦争終結前ですよね。よく出国出来たものですね。その間の経緯と訪日の印象をお聞かせ下さい。
○南ベトナム臨時革命政府の代表として、1973年の6月にチリの大使と2人で訪問しました。当時はサイゴンからは行けないので、北ベトナムまで歩いてハノイに行き、中国→香港→羽田へと向かいました。約一ヶ月間、東京・名古屋・大阪・神戸・京都・札 幌などの都市を友好親善のために回りました。東京では美濃部都知事とも会いました。はじめて東京を見たとき、ベトナムでは当時二階建ての建物しかないものですから、高いビルの多さに驚きました。また商店にならんでいる電気製品の多さにも驚きました。しかし当時の東京は大気汚染がひどく、空気が悪かったです。最初の訪 問からその後30回ぐらい日本を訪問していますが、最近は良くなって 来たと思います。
●日本語はどこで勉強されましたか。
○独学でせざるを得ませんでした。当時は私が通えるような学校や、まとまったテキストがある訳ではないので、NHKでラジオの日本語放送を聞いて勉強しました。またその後、中越戦争の時日本人のカメラマンの高野さん(赤旗の記者)と一緒に仕事をして、彼からもいろいろ教わりました 。(注:高野さんは中越戦争の時、取材中に流れ弾で死去。)
●全部で何カ国の外国語を話されますか。
○一番得意なのは中国語で、その次が日本語。英語・ 仏語・露語も勉強しましたが、 今は少ししか出来ません。
●今の日本を見てどう思いますか。
○食事などがヨーロツパ風になって来ているかなと思います。それと私は音楽が大好きで、自分でもバイオリンを弾くのですが、世界の国々には、その国の伝統音楽の学校が有りますが日本にはないようですね。どこの国でも自国の音楽を大切に守っているのに 不思議ですね。ベトナムにも当然あります。
●「ホーチミン主席」や「毛沢東」とも会われたそうですが、「毛沢東」はどのような人でしたか。
○それは大変答えにくい質問ですね。
●では「ホーチミン主席」を、タンさんが間近かで個人的に見られてどうでしたか。
○大変細かいことに気がつく人であり、とても部下思いの人でした。ある日主席の通訳をしていた時のことでした。通訳の仕事というのは、政治家同志が食事をしながら話す時でも、横や後ろに控えて通訳しないといけません。その間食事は当然出来ません。ある時、会談が終わって帰ろうとする時のことでした。主席が私を呼び止めて「タン くん、君はまだ夕食を食べていないだろう。これを家に持って帰りなさい。」と言っ て、台所に有った食べ物を私に持たせてくれました。またいまでもはっきり覚えていますが、あれは1969年の5月31日のことでした。この日夜遅くまで仕事をしていた時、ホーチミン主席が
「タン君、明日は子供の日ではないですか。子供が家で待っているでしょう。早く帰 りなさい。」
と言って、私の手に飴を握らせて「これを子供さんにあげて下さい」と言われたのです。
●戦後すぐ外交官の仕事をやめられたのはなぜですか。
○南と北に有った外務省が、1976年に統一されてハノイに移りました。私はハノイには行けませんでしたので、辞めざるを得ませんでした。
●その後どんな仕事をされましたか。
○1976年にサイゴン・ツーリストという旅行会社を始めまして、そこを8年前に辞めて、今は11年前から続けている越日友好協会の仕事をしています。
●他の国の友好協会もたくさんある中で、なぜ「日本とベトナムの友好協会」をやろうとお思いになられたのですか。
○これは党委員会の依頼が有って引き受けたのですが、その当時は日本語が出来る人が少なく、たまたま私が日本語が出来たからです。
●今その「友好協会」は、何人でなさっていますか。
○10人です。みんなほとんどボランテイアでやっている状態です。
●今まで訪問した国の中で、住むとしたらどの国がいいと思いますか。
○やはり自分の国が一番良いですが、それ以外で住むとしたらスイスでしょうか 。風景と、四季の美しさと、戦争の無い国と言うのが大変印象的でした 。 それと、日本の京都と沖縄でしょうか。
●ベトナム戦争後とドイモイ後の変化を見てこられて、今のベトナムについてどんな感想を持たれていますか。
○良いことは仕事が速くなった事でしようか。昔は大変遅く、間違っても集団責 任 で 進めている為、責任の所在が結局はっきりせず誰も責任を取りませんでした。それと心配なのは都市部では貧富の差が大変大きくなっていることです。
●いままでの人生の中で一番嬉しかった事は何ですか。
○サイゴン開放後、今まで行方も知れず安否も不明だった母と、23年ぶりに逢えたのが何より嬉しかったです。
●今のベトナムの若者はどうですか。
○外国語をしっかり勉強している若者が多くなりましたが、勉強できる平和な時代になったにも拘わらず、遊んでいる子も見かけます。
●最後に、将来の日本とベトナムの若者たちへ一言。
○日本とベトナムの若者の相互交流を、もっともっと進めて行けばより良い関係が築い ていけると思います。お互い平和な関係を続ける事が一番大切だと 思いますから。
◆インタビュー日時:2000年7月13日◆
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みんなを迎えて頂いたTanhさんからは、次のような歓迎の挨拶がありました。
「Quocさんからも伺っていましたが、今年もまた日本からみなさんがベトナムに来て頂いて大変嬉しいです。カンザーでも毎年マングローブの植林をして頂いていますが、大変素晴らしい活動だと思います。そして、今回このような交流会にも参加して頂いて、単なる観光旅行とは違ったベトナムを発見出来たのではと思います。これからも日本とベトナムの友好親善が長く続くことを希望しています。」
さらにこの「友好協会」訪問の場には、今回女子の班の世話をして頂いたLinhさんの友人の新聞記者も来ていました。新聞社の名前は<Viet Nam News>。英字新聞です。友人の記者の名前は、Dat(ダット)くん。彼はあのフォト・ジャーナリストの村山さんの取材もしています。ホーチミン市内のVOV大学で、村山さんの通訳をしていたのがLinhさんです。
そのLinhさんとの繋がりで、この場に取材を兼ねて来ていました。そして、彼は約40分近く、私達にいろんなことを聞いていました。その時に彼が私達に聞いた内容の記事が、9月7日付けの<Viet Nam News>の日曜日版で発刊されました。以下のURLがその記事の内容です。本文の記事は英語ですので、今月号の「BAO」に、その日本語訳を載せます。
● Nguyen Tri Dung(グエン チー ユン)さんとの再会 ●
「ベトナムマングローブ子ども親善大使」の最終日は、「クチ・トンネル」に向いました。午前中の「クチ・トンネル」訪問を終えて、サイゴン市内に帰る前に、親善大使引率者である栁田氏の友人のNguyen Tri Dung(グエン チー ユン)さんの会社を訪問しました。
今から6年前の8月に、私と栁田氏はDungさんとサイゴン市内でお会いしました。そしてTan Binh(タンビン)区にある自分の会社まで、私たちを連れて行ってくれました。
Dungさんは、平成24年にホーチミン市総領事館より「在外公館長表彰」をされました。まさに<ベトナムと日本の架け橋>として活躍されておられる方です。以下のURLにもDungさんの活動内容が出て来ます。 http://www.nicd.co.jp/news141.html
これを見ますと、<ホーチミン市友好協会>で私が会ったQuocさんやTanhさんとも知人だというのが分かります。それぞれが「日本」という縁で繋がっておられるのです。
「クチ・トンネル」訪問を終えて、ちょうど3時にDungさんの会社兼自宅に着きました。部屋の中の正面の壁面には、2m四方ほどの大きなPCの画面がそのまま映し出されていて、Dungさんはマウスでそれを操作して、私達に見せてくれました。私自身もこういう大きな画面は初めて見ました。
その内容は、Dungさんが行っている様々な活動の紹介でした。PCから壁面に写される内容を見ていますと、Dungさんがいかに幅広い活動をされているかが分かります。Dungさんの略歴を簡単に紹介しますと・・・
「1948年生まれ。1966年サイゴン大学在学中に<日本政府国費留学生>として来日。1969年東京外国語大学日本語コース卒業。1973年一橋大学経済管理科学学科卒業。1978年筑波大学博士課程終了。1973年~1993年まで名古屋の国連地域開発センターに研究員として在籍。1989年ベトナムで民間初のビジネススクール設立。1993年NCID株式会社を名古屋に設立。1994年ベトナムミントラン社を設立。1993年~2003年HMC市海外ベトナムビジネス協会創立会長。サイエンス&テクノロジー海外ベトナム人クラブ副会長。「ひょうご友好親善大使」サイゴンハイテクパーク科学議会会長。などなど・・」
この翌日も会合があると言われていましたので、この日はその準備でお忙しかったでしょうに、私たちのために時間を割いて対応して頂いたのでした。会社の中は多くの樹木があり、その中に少数民族の高床式の家などもありました。公園の中にいるような気持ちになります。
Dungさんには一時間半ほどお付き合いして頂きました。Dungさんから「ベトナムとの出会いが一生の宝になるように、これからも頑張りましょうね。」と、日本の子どもたちに励ましの言葉を頂きました。日本とベトナムを行き来されているお忙しい方なので、次はいつお会い出来るか分かりませんが、またの再会を約束して私達はそこを辞しました。
そしてこの日の夜、ちょうど9時にホテルを出発!空港に向うバスの中では、もうすぐ日本に帰るという嬉しさからか、みんな大はしゃぎしていました。私から車の中で最後に話しました。
「この合宿がいよいよ終わろうとしています。この合宿では私が最初に、みんなお互いに仲良く、このベトナムでの合宿を過ごし、いい思い出を創って下さいと言いました。いい思い出が一人・一人のこころの中に出来たことと思います。ベトナムの友だちも出来ましたね。これからもベトナムの友だちとの友情を続けて下さい。もうすぐ空港に着きます。Linhさんも私も、みなさんのことは忘れません。」
空港に着いて荷物を降ろしました。運転手はあまり車を長い時間停めることが出来ないので、すぐに下の駐車場に移動しました。私とLinhさんはゲートの外で見送ることにしました。
いよいよ空港内にみんなが入ります。その時に、ある女子生徒が大泣きしました。Linhさんも彼女を抱きしめて涙を流しました。周りの生徒たちも涙顔になっています。しかし、ここで別れなければなりません。空港内に入って去って行く姿を見たLinhさんが、「◎◎ちゃーん!」と、その女子生徒の名前を叫びますと、彼女が振り向き、涙顔で手を振っていました。
今回の「ベトナムマングローブ子ども親善大使」も、Linhさんのような子ども好きな女性スタッフにも恵まれて、無事に終了することが出来ました。関係諸機関の方々に、厚くお礼を申し上げます。
ベトナムBAOニュース
「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。
「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。
■ ベトナムで意識の種を植える ■
多久春義氏は神戸に本社を置き、教育を主たる本業とする株式会社・ティエラコムの国際交流事業部ベトナム連絡事務所の所長です。Van Datは多久氏にティエラ・コムがこれまで実施してきた環境保全活動と、毎年行われてきたカンザーでの「マングローブ植林活動」を通しての「日本とベトナムの子ども達との交流」についてインタビューしました。
記者 : いつこのカンザーマングローブの植林計画が始まったのでしょう?
多久氏:『ティエラコムがこのプログラムを始めたのは1995年。しかし、当時日本とベトナムの子ども達が交流するプログラムはほとんどありませんでした。私が1997年にベトナムに来た時からマングローブの植林活動が始まりましたが、その時以来、若い世代の交流をもっと行わなければと感じていました。
ティエラコムは日本の子ども達に国際交流、つまりベトナムに来てマングローブ植林をし、森林を再生しようと呼びかけてきました。今までに、数多くの日本の子ども達がベトナムに来てカンザーのマングローブの植林を行ってくれています。1997年から合計で13回、日本の子ども達がベトナムに来てこの植林プロジェクトに参加しました。』
記者 : あなたはベトナムに来て17年になりますが、カンザーに日本とベトナムの子ども達を連れてきて毎年植林することをどのように感じていますか?
多久氏:『日本とベトナムの子ども達が共に植林し、それが新しい森林になっていくのを見られて幸せに感じています。今ではマングローブの木々は広く根を張り、中に歩いて入れず、ヘリコプターで上空からしか全体を見渡せないほどです。』
記者 : カンザーでのマングローブ植林の主な目的は何ですか?また、始めたきっかけは?
多久氏:『日本の神戸にあるティエラコムの代表の友人が、世界各地でマングローブの調査をしていたのがきっかけです。この友人がベトナム戦争時に傷ついたマングローブを復活させたいと強く思い、その話が始まりました。ベトナムのマングローブ林復活を強く望む一方、当時それを実現するための人手が不足していました。また一方で、ティエラコムの代表は子ども達に環境に関心を持って欲しいと思っていました。
その二人の思いが一致して形となり、実現したのです。その結果、ベトナムに対し手助けするだけでなく、同時に環境に対する意識や考えを学ぶ場とすることができたのです。
毎年、私たちはAn Thoi Dong小学校の生徒達の中から、日本からカンザーを訪れる子ども達と交流する生徒を選抜しています。理由は、ホーチミン地区から離れた郊外に住む子ども達は、他の国の子ども達と交流する機会がないからです。都市に住む子ども達はそういう機会が多いと思います。
私たちは日本人の子ども達にはベトナムの文化や習慣、生活を比較して学んでほしいと願っています。ベトナムの子ども達に対しては、このプログラムに参加者として選抜されるために、日頃から学業面で頑張り、学校内でも何事にも全力で取り組むようにと指導して欲しいと、学校側にお願いしています。』
記者 : ベトナムに来た、最初の様子を覚えていますか?
多久氏:『到着してすぐに私は浅野哲美さんという、ベトナム語が流暢に話せる日本人の方にお会いし、同じ家で暮らしました。私たちは何をするにも常に一緒で、昼食・夕食をいつも一緒に食べました。彼は私にベトナム語を教えてくれました。彼はマングローブのエキスパートでした。
私は44歳でベトナムに渡り、その3年後に今の妻と出会い、結婚しました。日本の私の友人が彼女を紹介してくれました。現在、61歳で11歳になる愛娘がいます。』
記者 : あなたがここに来る前、ベトナムという国の印象は?
多久氏:『当時、私が唯一知っていたのはベトナム戦争です。また、唯一知っていた人物は故・ホーチミン主席くらいです。私の会社がカンザーのマングローブ林の中に【セミナー・ハウス】を建て、私はこの環境活動に対するプログラムに強い興味を持ち、今に至っています。ティエラの植林活動に参加した子ども達と、私たちは今まで一万本以上の木を植林してきました。
記者 : 「日本語の教師」としてのあなたの仕事について話して頂けますか?
多久氏:『私はベトナムに来る前、日本で教師をしていました。ベトナムにおいては、この環境に対するプロジェクトを進めている以外に、私は日本語をベトナムの生徒達に教え、日本で働きたい若い人たちに日本語だけでなく、日本での心得や日本の習慣・文化などを教えています。
また日本で勉強し、働きたいベトナム人に日本語を教える以外に、ホーチミン市内にある≪青年文化会館≫で、毎週日曜日の午前中に行われている「日本語会話クラブ」に参加しています。私は日本とベトナムの若者たちの交流活動に、今後も積極的に取り組んでいきます。』
◆ 解説 ◆
自分に関して書かれた記事を、自分で◆解説◆するというのも妙な気持ちですが、この記事は、ティエラコムのベトナムにおける活動内容の概略が示されていると思って頂ければと思います。
そして改めて今、私がベトナムに来て以来、いろいろお世話になり、手助け頂いた「人」たちのことを思い返しています。漢字の「人」という象形文字は、白川 静博士の解説によると、<立っている人を横から見た形>だそうですが、右側にあるのが<脚>を意味します。しかし、私には「人」を支えているような形にも見えます。そして、このベトナムで私も多くの人に支えられてきました。
私がベトナムに来た当初、すぐに知り合ったのが「ホーチミン市農業局」にいたNamさんであり、「カンザー森林局」にいたSinhさんたちでした。ホーチミン市内にあるNamさんの事務所で雑談をしたりしました。仕事場に押しかけて来た我々にも、Namさんは別に迷惑な顔も見せずに、いつもにこやかに対応してくれました。
そして、カンザーからホーチミン市に来たSinhさんを誘っては、ヤギ鍋屋さんに連れて行ってくれたりしました。その当時、日本人にはほとんど知られていなかった、あの有名なヤギ鍋屋「Lau De 214」を紹介してくれたのもNamさんたちでした。
今ティエラコムがカンザーで植林活動を毎年継続して行えるのも、実はそのNamさん、 Sinhさんたちがレールを敷いてくれたからです。しかも、その当時はパソコンの扱い方も知らず、用事が出来れば50ccのホンダのスーパー・カブに乗って、まだ舗装されていないカンザーの田舎道を走って行きました。
今は、毎年カンザーで行っている「マングローブ植林活動」を行うに当たっては、「カンザー森林保全局」にメールを一本送るだけで、植林場所の選定、苗の準備、道具の準備、昼食の手配など、全てが済むようになりました。毎年実施している「マングローブ子ども親善大使」の活動を、カンザーでは多くの「人」が支えています。
そしてホーチミン市では、「村山日本語学校」のLuan先生が支えてくれています。日本の生徒たちとベトナムの生徒たちの交流会。「友好協会」訪問。「ホームステイ」の実現など・・・、「マングローブ植林活動」以外にも、いろんな活動が今実現出来ているのはLuan先生の尽力があればこそです。
そして、私にとってさらに最大の「支え」になって頂いた「人」が、「マングローブ植林行動計画」の浅野さんです。記事の中にも触れてありますが、浅野さんと一緒に過ごした数年間の共同生活があればこそ、いろいろなことを学ぶことが出来ました。最初に知り合った当時はお互いに独身だった二人が、それぞれ家庭を持ち、今も家族ぐるみの付き合いが続いています。
17年前に浅野さんと出会い、同じアパートに住んで朝から晩まで一緒に行動していました。今はもう私は行くことは無くなりましたが、ベトナム北部への出張、南部への出張にも同行して、マングローブの生態系についても詳しく説明してくれました。
そして、夜になると路上の屋台で、貝をツマミに生ぬるいビールをグラスに入れて飲みながら、二人で話していた日々のことを懐かしく思い起こしています。