【2015年4月】元日本兵・古川さんの「40回目の法要」/年間0.8冊――読書が嫌いなベトナム人
春さんのひとりごと
<元日本兵・古川さんの「40回目の法要」>
3月14日土曜日に、メコンデルタのCai Be(カイベー) で行われる、元日本兵・古川さんの法要に参加して来ました。元日本兵の古川さんがCai Beで亡くなられたのは1975年のベトナム戦争が終ろうとする直前でした。それで、今年が「40回目の法要」になりました。
古川さんが亡くなられたのは太陽暦の「1975年3月8日」です。ベトナムでの冠婚葬祭は全て旧暦に基いて行われますが、旧暦では「1975年1月26日」になります。今年の太陽暦で、旧暦の1月26日は3月16日の月曜日になります。
しかし、平日に古川さんの法要が行われるのであれば、遠くにいるベトナム人の親戚や、私達日本人は参加することが難しくなります。それで、古川さんの旧来の友人である、あのYさんが「古川さんの40回目の法要は、みんなが集り易い土日に行うほうがいい」との意見を古川さんの家族が容れて頂いて、3月14日の土曜日に行われることになりました。
そして、今回の古川さんの40回目の法要には、Yさんを入れて五人の日本人が参加することになりました。全員が、4年前に行われた「古川さんの36回目の法要」にも参加した同じメンバーです。Yさん、Nさん、SBさん、KRさん、そして私です。私は昨年も「古川さんの奥さんの法要」に参加させて頂きました。
本当は、あの東京・浅草にあるお好み焼き屋「染太郎」の元総支配人のSさんも、前々から「是非参加したい!」と強い意欲を示されていたのですが、いろいろな事情により、今回は日本から来て頂くことが出来ませんでした。Sさんも大変残念がっておられたそうです。
Yさんは前日に、先にバイクで一人Cai Beに行かれました。Yさん以外の私たち四人は3月14日早朝にBen Thanh(ベンタン)バス・ターミナルに集合。ここから市内バスに乗り、Mien Tay(ミエン タイ)バス・ターミナルまで行きます。昨年もバスに乗ってそこへ行きましたが、その時は2番のバスでした。その時はバスが市内を大回りして行った記憶があります。
今回は事前にYさんが「39番のバスに乗れば、市内を回るルートを走らないで、東西道路のほうを通るので少し早いですよ」と言われましたので、その39番のバスに乗りました。切符はバスに乗り込んでから、車内で買います。途中バスの整備場に10分ほど停車して、その後バスは東西道路に入り、交通渋滞もなく、確かに前回より15分ほど早く着きました。
そしてここで、古川さんの末娘のThuy(トゥイ)さんと待ち合わせをしていました。この末娘のThuyさんが「一番古川さんに似ている」とYさんは言われます。実際に、私も古川さんの写真を見ていましたので、Thuyさんに最初会った時には(確かにそうだな・・・)と思いました。
Cai Beにある古川さんの家までバスで行こうとする時には、国道から分かれた三差路の地点でバスから一旦降りないといけません。Cai Beはバスの終点ではなく、そこを通過してバスはMy Thuan(ミー トゥアン)橋の方向に行きます。
それで、外国人である我々がバスで行く時、その地点に近づいた時に間違いなく降りることが出来るようにと、Yさんが気を遣ってくれて、いつも古川さんの子どもや孫を案内に付けて頂きました。昨年はXuan(スアン)さん、今年がThuyさんでした。
朝7時50分頃我々四人がMien Tayバス・ターミナルに着いた時、Thuyさんもすでに来ていました。私は何回も会って知っていますが、他の三人にもあらためて紹介してあげました。そして切符売り場に行き、バスのチケットを購入しました。昨年はなかなか空き席が無く、Xuanさんが苦労していましたが、今年は難なく買うことが出来ました。一人が10万ドン(約560円)でしたが、これは昨年と同じでした。
そして、バスの発車時間が来るまで、しばらく待合室で待つことに。昨年はその待合室でたまたま二人の教え子に会いましたが、今年はそういう偶然はありませんでした。私はこの待合室の中で、事前に用意していた記事のコピーを三人に配りました。
配った記事は、1991年の「中央公論」に載った阿奈井文彦さんの<ベトナムに帰った「日本兵」>です。Cai Beでの出来事、古川さんや松嶋さんやYさんたちとの交流が書かれています。我々が今から向うCai Beまでの道中で、臨場感に浸りながらバスの中でその記事をじっくりと読んでもらえるだろうと思いました。
8時半にバスは出発。車内は空いていて、五割ぐらいしか乗客はいませんでした。それで、私はバスが発車してしばらくして、外の景色が見やすい窓側に座りました。窓の外に見える景色は、今年もやはり同じでした。今田植えをしたばかりの田んぼがあり、しばらく行くと稲を刈り取った後の風景が現われてきました。いつ見ても、こればかりは不思議な感じがします。
バスに乗って一時間ほどして、バスはTrung Luong(チュン ルーン)高速道路に入りました。高速道路に乗るとやはりスピードは格段に速くなります。30分ほどで高速道路の料金所を出て、バスはMy Tho(ミー トー)市内に入りました。バスの中から私は逐一、Yさんに今現在の位置を携帯のメッセージから送りました。我々の動きに合わせて、古川さんの家で食事の準備と、フェリー乗り場でのバイクの迎えを段取りしていてくれるからです。
Yさんは事前に「何時に着いてもいいように、みなさんが飲むビールはギンギンに冷やしておきますからね」と、冗談交じりで話されていました。そのYさん自身は、前日にベトナムの焼酎をその場の勢いでみんなから飲まされて「どうもまだ二日酔い気味です・・」とメッセージを送ってこられました。
10時半に我々はCai Beに行く三差路の地点に着きましたので、そこで降りました。ここからフェリー乗り場まではバイク・タクシーで行きます。Thuyさんを入れても五人なので、タクシーが見つかればそれが一番いいのですが、ここら辺はバスやトラックやバイクしか走っていません。
それでThuyさんがバイク・タクシーのおじさんと交渉します。昨年はフェリー乗り場までは25000ドン(約140円)でした。Thuyさんがおじさんに聞くと「3万ドン(約170円)でどうだ!」と答えます。Thuyさんはそれに対して「高い、負けろ!」と交渉します。10分間くらいやりとりしていましたね。
我々日本人としては、25000ドンでも3万ドンでも大した違いはないので、早く手を打ってフェリー乗り場まで移動したいのですが、こういう点はベトナムの人は妥協しません。結局、昨年と同じ25000ドンまで値段を下げさせました。みんな一人一台ずつバイクの後ろに乗って、フェリー乗り場まで移動します。
バイクに乗って十分ほどでフェリー乗り場に到着。学校帰りらしい多くの中学生たちがフェリーを待っていました。フェリーが来るまでしばらく我々も待機。私はフェリーが来るまで、昨年Yさんがここのフェリーで遭遇したという民族解放戦線(ベトコン)の話を想起していました。
Yさんが経営していたバナナ園にはある時期が来ると、民族解放戦線の兵士たちが税金や寄付金の取り立てに来たそうです。阿奈井文彦さんが書かれた<ベトナムに帰った「日本兵」>の記事の中にもそのことに触れたくだりがあります。
「ベトコンさんが寄付金を集めに来たんですよ。正月が近いでしょ。兵隊が言うには、われわれはベトナム民族のために戦っている。正月になっても故郷へ帰らずにがんばっている、と。それで寄付を集めているんです」
しかし、ベトナム戦争が終結すると、その彼らの姿も消えてゆきました。それ以来、Yさんの前に彼らが現われたことはありませんでした。そして、Yさん自身の記憶の中からも、彼らの存在は忘れられたものになりました。
昨年の末に、YさんがCai Beの古川さんの家を訪ねての帰りに、このフェリーに乗った時のこと。フェリーの中で自分をジロジロと眺めている80歳くらいの老人がいました。Yさんは大して気に留めないでいました。
すると、その老人がYさんに近寄り、「あなたはもしかして日本人か?」と聞いて来ました。「そうだが・・・」と答えると、「もしや、あなたはベトナム戦争当時にバナナを栽培していた日本人では?」と聞き返してきたので、Yさんは大いに驚いたのでした。
そして、「実は自分は昔、あなたのバナナ園に税金を取りに行ったことがある」と言うのでした。それを聞いたYさんの驚きは大変なものでした。あの当時のベトコンがまだ生きているという事実もさることながら、日本人であるYさんのことをはっきりと覚えていたことに対してです。
しかし、それも当然かもしれません。その当時メコンデルタに“仕事”で滞在していた日本人は稀な存在だったでしょうから。阿奈井さんも「中央公論」に書かれたその記事の中で、Yさんのことを次のように書かれています。(「元ちゃん」とはYさんのあだ名です。)
「当時、メコンデルタの奥深い農村で暮らしていた日本人は(松嶋さんなどの残留日本兵は別にして)、元ちゃん一人ぐらいだろう」
その老人が「どこに行って来たのか」と聞くので、「古川さんの家を訪ねて来た」と言うと、老人は「そうか、そうか」と答えたそうです。そしてYさんが「実は古川さんはすでに亡くなり、来年の3月に<40回目の法要>をする予定でいる。もし良ければ、あなたも参加しないか。みんなも大変懐かしく思うことだろう」と言うと、その老人も「是非参加したい!」と返事されたそうです。
Cai Beから帰って来て数日後に、Yさんがそのことを私に話してくれました。それを聞いた私も大変驚きました。「もし<40回目の法要>にその方が参加できれば、実に面白いですねー」と話したことでした。かりにその老人が当日来てくれれば、ずいぶん面白い話が聞けることだろうなーと、私も期待していました。
しかし、今回<古川さんの40回目の法要>を迎える前に、Yさんが連絡を入れると、本人が言うには、「今体調が悪くなりCai Be市内の病院に入院している」とのことでした。Yさんも私も、今回その老人と古川さんの法要でお会い出来るかな・・・と期待していましたが、それは残念ながら叶いませんでした。
Yさんは、「そのうちCai Be市内の病院にその老人を訪ねてお見舞いに行かないといけないなー」と話されていました。Yさんのことですから、おそらくお見舞いに行かれることでしょう。フェリーの中で40数年ぶりに出会った、かつてのベトコンの人にも優しい心遣いをされるYさんなのでした。
フェリーに乗って7・8分ほどで対岸が見えてきました。半ズボンを履き、サングラスを掛けたYさんの姿が遠くから見えました。お互いに手を振りました。フェリーを降りてYさんに挨拶しました。Yさん以外にも古川さんの家族の数人が、我々をバイクで古川さんの家まで送るために一緒に来ていました。それでも全員は乗れないので、二台だけバイク・タクシーに頼んで、古川さんの家まで行きます。
バイクに乗って20分ほどで、ようやく古川さんの家に着きました。この時、11時15分でした。サイゴン市内からちょうど四時間ほどで着きました。家が改築されていて、一階部分の軒先の床面積が広くなっていました。いつも私たちが夜寝る時に、ゴザを敷いて寝ていた場所です。
実は二月末に古川さんの孫の結婚式がこの家で挙げられることになり、そのために改築されていたのでした。Yさんはその結婚式のために、予定を早めて日本から飛んで来られました。ちょうどベトナムではテト休みに入っている時期でもあり、その時はなかなか切符が取れなかったそうです。
しかし、挙式の一日前にようやくベトナムに戻り、Cai Beまでバイクで駆けつけ、無事に挙式に間に合いました。古川さんの家族はみんな(おそらくYさんが来るのは難しいだろうな・・・)と諦めていたそうですが、バイクに乗って現われたYさんを見て大いに驚き、感激されたそうです。
古川さんの家に着いてすぐに、私たちは古川さんと奥さんの遺影の写真が置いてある部屋に入り、お線香を上げさせて頂きました。そして私は、その写真の横に阿奈井さんが書かれた「中央公論」の記事も添えて、お二人の遺影に向いお参りさせて頂きました。
「古川さん、奥さん、今年もみんなで古川さんの法要にCai Beまで無事来ることが出来ました。今年もまたこの家に泊めさせて頂きます。そして、古川さん、つい一週間前に阿奈井さんが亡くなられました。今ごろそちらで会われていることでしょうか。お二人で楽しく語り合って下さい」
そのようなことを念じて、線香を上げました。思い起こせば、私は四年前の2011年から古川さんの法要に参加させて頂いて今に至っていますが、それもこれも全て、今から約50年もの昔にYさんと古川さんがこのCai Beで繋がられていたからこそです。さらには、古川さんが亡くなられても、Yさんが「古川さんとその奥さんの恩」を忘れずに、家族の人たちとの付き合いを今も続けられているからです。
古川さんと奥さんへのお焼香が終わり、新しく改築して広くなった床の上に家族の人がテーブルとイスを並べました。今から「古川さんの40回目の法要」を偲んでの宴会が始まります。しかし、お坊さんを呼んでいるわけでもありません。家族の代表の長男が「今日はみなさん遠いところを来て頂きまして・・・」と畏まった挨拶をするわけでもありません。
最初にみんなでTiger Beerを手に持ち、「乾杯!」の挨拶をして、法要の始まりです。それから次々と食事が運ばれてきました。Yさんが「ビールをギンギンに冷やしておきますよ!」と言われていただけあって、暑い炎天下の中を移動して来た私たちには、堪えられない美味さでした。
冷たいビールを飲みながら、料理を食べながら、この日集った全員が「いや~、あれから四年も経つのですねー。早いものです・・・」と感想を述べていました。今回参加したメンバーは全員、四年前の「古川さんの36回目の法要」にも参加しましたので、そういう言葉が自然と口を突いて出て来たのでした。
しかし、時間もお昼時になり、隣近所からも多くの人たちが集まるだろうな・・・と思いきや、この日のテーブルは二テーブルだけ。家族の人たちとその親戚、そして私達日本人だけです。四年前には隣近所の人たちも集まり、五テーブルくらいの席が用意されていました。
Yさんが言われるには、「二月の末に孫の結婚式をここで挙げたので、続けて何回も招待しては相手にも迷惑なので、敢えてみんなには声を掛けなかった」とのことでした。まあ、我々もガヤガヤとうるさい中で飲むよりは、静かな、落ち着いた雰囲気で飲めるので、そのほうがいいのです。
それにベトナムの人に良くある「焼酎攻撃」も頻繁に襲ってきません。事実、Yさんは前日古川さんの親戚のベトナム人からこの「焼酎攻撃」に遭い、「いつもだったらビールをガバガバ飲めるのですが、昨日の焼酎のせいか、今もどうも気分が良くありません」と言われて、この日われわれの前ではビールをチビチビとしか飲んでおられませんでした。
ビールを飲みながらあらためて家の周りを見渡しますと、昨年見た時の果樹よりもずいぶん果樹が生長しているなぁーと思いました。ドリアンの木も大きくなっていました。Yさんの話では「二・三年後には収穫出来るだろう」ということでした。
それ以上に目を引いたのはジャック・フルーツでした。大きな実をその枝から幾つもぶら下げて実を付けていました。Yさんが家族から聞いた話では、今年に入ってからジャック・フルーツの収入だけで、何と四千万ドン(約22万5千円)の売り上げがあったそうです。
Cai Beのような田舎でそれだけの収入があるというのはすごいことです。Yさんは「それを聞いて、少し安心しました」と話されていました。いつもCai Beの古川さんの家族に思いを馳せている、Yさんの心情の深さを感じました。
結局、お昼から始まった「古川さんの40回目の法要」の宴会は食べながら、飲みながら二時半頃まで続きました。親戚のベトナム人がYさんにまた焼酎を勧めますが、前日の焼酎攻撃で懲りたせいか、この日Yさんはベトナム人がいくら勧めても断っていました。我々にも勧めましたが、Yさんと同じような状態になってはいけないと思い、失礼にならないように全員断りました。
そして、それが正解でした。実は四時過ぎからYさんが経営していたバナナ園の「第二農園」に行くことになったからです。焼酎を飲んで体が熱くなっている状態では、この炎天下に外に出れるものではありません。
そして、「第二農園」に行く前に、阿奈井さんが自分で描かれた水彩画をYさんから見せて頂きました。阿奈井さんは絵の才能もお有りになったのです。その絵には、「第二農園」に住んでいたYさんの事務所が描かれています。屋根には日の丸があります。この絵は、阿奈井さんが日本でYさんに再会した時に見せられて、Yさんがそれをコピーされて、ベトナムまで持ち込んでこられたということでした。
結局我々日本人が全員と、この日参加していたベトナム人の若者達が五人ほど参加しました。みんなYさんが青春時代を過ごした場所の、今の姿を見たいものだという思いがありました。最近結婚したばかりの、古川さんの孫も夫婦で一緒に来ました。
全員が一台のボートに乗って、「第二農園」を目指しました。ボートを運転していたのは、まだ20代の若い青年でしたが、すごいスピードで水上を疾走してゆきます。ボートの両側から、あたかも白鳥の羽のように白い水しぶきが飛び散ります。一番前に座った若者は顔を上げられないほどです。20分ほどで「第二農園」に到着しました。
四年前にもここを訪れましたが、その時とはずいぶん様変わりしていました。家も数件ありましたが、住んでいるような気配がなく、荒れた状態でした。四年前この区域には、Man(マン)という果物がたわわに実り、それを収穫している人たちがいましたが、今回はそのManの実も見えず、実を収穫している人もいませんでした。さらには、土手も崩れていて、歩くのが大変でした。
土手沿いにみんなで歩いていると、二人の男性が林の中から現われてきました。Yさんを見ると笑顔を浮かべて、握手をしました。Yさんの知り合いのようでした。彼の案内で土手沿いを歩いて行きました。「ここが昔、水門があった所だよ」と彼が指差しますと、Yさんも「そうだ、そうだ!」と肯かれていました。
結局足元の悪さと、あまりの暑さと、景色の変わりように、「第二農園」の見学は30分ほどで切り上げました。帰りもまた高速で飛ばすボートに乗って、古川さんの家近くまで帰りました。ボートに乗って帰りながら、私は(Yさんが青春時代を過ごした第二農園は、あのまま荒れ果ててゆくのか・・・)と思うと、大変寂しい気がしました。いつ訪ねても「Yさんの青春時代の足跡」が残っていて欲しいなぁーと、正直思いました。
そして、古川さんの家に着いて一眠りして、6時過ぎからまた宴会が続いてゆきます。いろいろな料理を作って頂きました。みんなが大変喜んだのが「ニガウリのスープ」でした。ビールを飲みすぎた胃には、この「ニガウリのスープ」が大変美味しかったですね。すぐにそれが無くなると、さらにまたドンブリ一杯のスープを追加で持ってきてくれました。
この頃になると、料理作りで忙しかった女性陣たちも一段落したせいか、別室でビールのグラスを手にして酒盛りを始めます。大きな笑い声が聞こえてきます。Yさんがその輪の中に入り、冗談を言いながら話しかけると、さらにまた笑い声が大きくなります。
夜も食べて、飲んで、8時過ぎには改築して広くなった軒先に早々と蚊帳を吊り、寝ることにしました。夜は涼しい感じでしたが、「朝方は寒くなるよ」と家人が言うので、みんな一人ずつに毛布を配ってくれました。
いつもよりずいぶん早い時間に寝て、目を閉じたものの、なかなかすぐには眠ることが出来ません。このCai Beの地で40年前に亡くなられた古川さんのこと。さらには、つい一週間ほど前に亡くなられた阿奈井さんのことなどを考えていました。そして、古川さんの家族に対する、Yさんの40年以上にも及ぶ思いの数々・・・。
阿奈井さんが記事の中に書かれたその同じ場所に、まさに今私達が着き、同じ家で家族の人たちと一緒に食べて飲んで、この日が終ろうとしています。様々な思いが去来し、すぐには寝付けませんでした。
一人蚊帳を出て、果樹園の中にある月夜に照らされた白い小道をぶらぶらと歩きました。遠くで犬の吠える声がします。暗闇の中に、蛍がチカチカと明滅しています。でも今年の蛍の数は少なかったですね。しばらく、果樹園を照らしている月を眺めていました。そうこうしているうちに、深夜二時頃にようやく深い眠りに落ちました。
翌朝は6時に起床。家族の人が市場に買出しに行き、料理の材料をバイクに積んで帰ってきました。そして、熱いラーメンを作って頂きました。前日飲み過ぎた我々には、胃に軽くて大変美味しいものでした。そのラーメンを食べ終えた後、「そろそろサイゴンに帰る準備をしましょうか」ということになりました。
今年も「古川さんの40回目の法要」に無事に参加することが出来ました。古川さんと奥さんの遺影の写真。古川さんの家族の人たちともお別れです。ここを辞する前に、また全員でお焼香を上げました。最後に、古川さんの長男の方と固い握手をして「来年もまたお会いしましょうね!」と言って別れの挨拶を交わし、8時半頃に古川さんの家族に別れを告げました。
また一人ずつバイクの後ろに乗り、バス停まで行きます。古川さんの末の息子とThuyさんも一緒にバス停まで送ってくれました。行く時には我々にThuyさんが同行してくれましたが、帰りはサイゴンまで一緒に行けないとのことなので、バス停に着いてそこでお別れすることになりました。Yさんはここから、一人でバイクに乗ってサイゴンまで帰ります。
30分ほどでバス停に到着。このバス停は小さな喫茶店を兼ねたバス停で、路上に椅子やテーブルがあり、飲み物も売っています。そこに座り、我々はバスが来るまで待つことにします。Thuyさんがまた切符を購入してくれます。帰り道は9万ドン(約500円)で、行く時よりも1万ドン(約55円)安くなっています。
バス停に着いたら、すぐに全員また家に引き返すのかと思っていると、「バスが来て、みんなが乗るのを見届けてから帰る」と言うのでした。Thuyさんは「バスの車掌に紙を渡して、〔この人たちは外国人で、この場所に着いたら降ろしてくれ〕と伝えるので、バスが来るまでここにいるから安心して!」と言うのでした。最後の最後まで、私たちのことを気遣ってくれました。
そして、9時半にバスが到着し、我々はそのバスに乗ることになりました。送ってきてくれたみんなに最後の挨拶をして、そこでお別れしました。
「今年もお父さんの法要に参加出来て嬉しいです。来年またお会いしましょう!!」
ベトナムBAOニュース
「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。
「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。
■ 年間0.8冊――読書が嫌いなベトナム人 ■
文化スポーツ観光省の統計によると、1人のベトナム人が1年間に読む本は0.8冊。これに対し、今から10年前のマレーシアの統計では年2冊で、その数字は年々増加している。欧州の数字はずっと大きい。
多くの人は、書籍に手が伸びない理由を、価格が収入に対して高い、質が良くない、1人あたり0.35冊分など、図書館にも蔵書が非常に少ないことを挙げるが、しかしこれは、原因の一部を示したに過ぎないだろう。
私の考えでは、その主な原因は、大多数の人々の、知識を蓄積するために読書をしようという意識の低さである。本来書籍から知識を探し求めることを好む年齢であるはずの生徒や学生の多くも、読書に非常に怠惰である。
私が勤務する高校には1,500人近くの生徒に対応する、数千タイトルを蔵書した広々とした図書室があるが、はじめは、毎日20~30人がやってきて読書をしたり、借りて帰ったりしていたものの、最近は1日に数人しか利用していない。
この状況は何も私の学校だけに限らず、ほとんどの高校、省の図書館でも同様で、多くの大学・短大も数千億ドンかけて近代的で立派な図書館を整備 しているが、それでも学生を集められていない。図書館が混雑するのは12月と6月――テスト期間だけであり、その他の時期はがらんどうである。
<HOTNAM News>
◆ 解説 ◆
「1人のベトナム人が1年間に読む本は0.8冊」・・・これはもう、ほとんど本を読んでいないに等しい冊数ですね。
ベトナムでは喫茶店に若い男性が一人でいることがあっても、読書をしている姿を見ることは稀です。私がベトナムに来た当初からこの光景は変わりません。しかし、新聞は良く読んでいます。シクロのおじさんなども木陰にシクロを止め、新聞をじっと読んでいる姿はよく見かけます。
ベトナムの若者たちが昼間から喫茶店にいる光景はよく見かけますが、一人の場合は携帯電話をいじっているか、数人であれば、トランプゲームか(ほとんど賭けていますが)、中国式将棋をしています。一人でじっと読書に耽っている姿を見たことがありません。これは、我々日本人の間でも「ベトナムの人たちはあまり本を読まないのかな?」と、ベトナムの七不思議の一つでした。
これに対して、白人の人たちは「読書」が好きですね。ベトナム国内を私が旅行していた時、バスや列車の中で白人の方と一緒になることがありましたが、彼らはたいてい数冊の本をバッグに入れていて、バスの中での移動中などは、男性も女性も時間があれば本を読んでいました。辞書のような、えらくぶ厚い本を読んでいる人もいました。
「読書が嫌いなベトナム人」・・・このテーマについて、毎週恒例の<日本語会話クラブ>が終った後に、昼食を摂りながらベトナムの若者数人に質問してみました。「こういう記事が最近載りましたが・・・」と私がその要約を話しました。
「そんなことは無い!」「その記事は正しくない!」と言う反論が一人くらいはあるかと思ったら、その数人全員が「そうですね。そうだと思います」と、あっさりと同意しましたので、こちらが拍子抜けしました。
それで、「どうしてベトナム人は本を読むのが嫌いなのか」と、私がその数人に聞きました。
彼らの返事は「ベトナムの若者は読書に対して意欲が弱いから」「今はインターネットを使い、携帯やパソコンでいろんな情報が得られるので、わざわざ本屋に足を運んでまで本を買おうとは思わない」「実用的な、すぐ役に立つ情報や内容を必要とする人が多いから、小説や教養書までは手が伸びない」「面白いと思う本自体が少ない」・・・などなど、いろいろ話してくれました。
確かに、今はインターネットで調べれば、必要な情報は容易に手に入ります。インターネットで新聞も読むことが出来ます。そういう理由からか、私の同僚のベトナム人の先生たち(10数人いますが)も活字媒体の新聞を買って、教員室で読んでいるのは年配の先生一人しかいません。他の若い先生たちに聞くと、「主な新聞はインターネットで読める、見ることが出来るから、お金を出して買うのはもったいない」と言う答えが返ってきました。
私自身は、毎朝ベトナムの新聞を二紙買います。それはカバンに入れて、いつも持ち歩いています。そして、興味深い内容や、日本と関係のある記事などがあれば、クラスの中で生徒たちの一人にその記事を読んでもらいます。時間にして約10分くらいです。
私がそうする理由は、普段生徒たちは寮の中で暮らしていて、平日は外部からの情報が閉ざされているからです。また日本関係の記事が出た時には、彼らの反応や、質問に対しての答えも、ベトナムの文化や習慣を理解する上での助けになるからです。
しかし、私自身もこのベトナムにおいて「日本の本」を読むことは、日本にいる時と比べて格段に少なくなりました。そもそもこのベトナムでは、「日本の本」自体が手に入り難いからです。タイ国には日本の「紀伊国屋」が進出していますが、タイ国よりもはるかに日本人の在住者の数が少ないこのベトナムに、「紀伊国屋」が進出してくれるのはいつのことになるでしょうか。
日本にいる時には単行本であれ、文庫本であれ、月刊誌であれ、週刊誌であれ、新聞であれ、最新の必要なものが容易に手に入りました。しかし、このサイゴンでは最新の単行本、文庫本、月刊誌はまず無理です。かろうじて、【日本⇒ベトナム往復】の飛行機の機内から手に入れたような週刊誌や日本の新聞があるくらいです。サイゴン市内にはそれを専門に売っている知り合いの店があります。
ですから、私自身がベトナムにいて日本に帰ることが出来ない時期に、文庫本や月刊誌を読みたい時には、日本からベトナムに来る人に頼んで持ち込んでもらっています。単行本は日本に帰った時にまとめて買い求めています。そういう環境の中で、今年だけでも10冊ほどは読むことが出来ました。
ある人が言うには、「今はいちいち本屋に行って本を買わなくても、iPadで書籍は読めてしまう。本を何冊も持ち歩く必要も無いし、そのほうが便利だし、経済的だ」とのことですが、どうも私は本屋に足を運んで好きな本を買い、買った本を一ページ・一ページめくりながら読書していくやり方のほうが好きです。
このことに関して、私の尊敬する『上智大学名誉教授の渡部昇一先生』がその著書「知的余生の方法」で次のようなことを書いておられます。
『先だって、友人がすばらしいグレープフルーツを送ってくれた。大きくて甘く、適当に酸味もある。「うまいなァ」と言いながらふと考えた。私は何を摂取しているのだろうか・・・・・・と。オレンジ類だからまずビタミンCだ。黄色いからカロチンも含まれているかも知れないぞ。甘いから糖分もある。これは頭の栄養になるはずだ・・・・・・などと思いを巡らしていると、そんな成分はすべて総合ビタミン剤を砂糖入りの紅茶で飲めば済む話ではないか。それなのに、何で皮をむく手間をかけ、ゴミになるものをわざわざ食べるのか。それはもう「おいしい」からに決まっている。
この時私は気が付いた。情報はインターネットでよいのになぜ、自分は書物をこれほど買うのか。どうして高価な古書まで買うのか。それは書物から得るものは単に情報だけではないからだ。書物はインターネット情報が与えることのできない「楽しさ」を与えてくれるのである。それは古い装丁や世紀を隔てた匂いなどなど・・・・。
最近ではiPad、キンドルなど新たな電子書籍という媒体も現われた。しかし―――と私は考える。インターネットの情報と、読書から得る知識とは本質的に違うのではないだろうか。その違いを比喩で表現したら、食物とサプリメントの関係になるのではないだろうか。・・・・・・
人間の知力も似たようなものではないだろうか。本を読めるようになるにはまず本で字を学ぶ。数学をやるには数学の本を読み、自分で計算することから始まる。・・・自分の考える力や思想を作り上げるには、しかるべき本を熟読することが必要だ。そうして頭は作られる。このようにして出来上がった頭が必要とする情報はインターネットで取る。体を作るのは食物で、それを補うのがサプリメントであるように。』
これを読んだ時、私は「わが意を得たり!」と正直に思いました。やはり自分が好きな本、買いたいと思う本は、自分で本屋に足を運び、それを手に入れたら(今から家に持って帰って読むぞ!)というワクワク感を覚え、その本を手垢が付くまで、表紙が擦り切れるまで繰り返し読んでこそ、それがその本を書かれた人に対しての礼儀だろうと思います。
ですから、今後も私はベトナムの新聞もお金を払って紙媒体の新聞を買い、日本の本や雑誌は日本から来る友人に頼んでベトナムに持ち込んでもらうか、日本に帰った時に買うやり方でいくつもりです。iPadを使って電子書籍を読むことは今後もないでしょう。