【2017年6月】日本帰国余話・中編/紀伊國屋書店とFAHASA、和書売場をホーチミン店舗に常設
春さんのひとりごと
<日本帰国余話・中編>
日本滞在時の五月前半、第一週目は「熊本県立美術館」で<坂本龍馬の手紙>についての講演会に参加することが出来ました。龍馬が実に面白い手紙を書いていたというのは、司馬遼太郎さんの「竜馬がゆく」をはじめ、いろいろな書物で知ってはいましたが、その手紙を直接見て、解説を聞いたのは初めてでした。
そして、五月の第二週目は、熊本市内で留学生として日本語を勉強しているベトナム人の生徒たち、鹿児島県垂水市でカンパチの加工の仕事をしている実習生たちに会うことが出来ました。どちらも嬉しい再会でした。
● 坂本龍馬の手紙展 ●
私が故郷に帰ってすぐ、いつものように玉名市内にある図書館に行きました。すると、その日たまたま、図書館内にいろいろな展示会案内のパンフレットが置いてありました。それらをずっと見ていた時、パンフレットの中の一つに私の眼が吸い寄せられました。そのパンフレットにはこう書いてあったのでした。
「熊日創立75周年記念“土佐の龍馬 肥後の小楠” 土佐から来たぜよ!」
期間は「4月8日から5月14日まで」となっていました。場所は「熊本県立美術館・本館」となっています。その展示会には坂本龍馬の手紙(複製ですが)が展示されているというのです。それを見た私は、(これは是非見に行かないと!)と思いました。
司馬遼太郎さんの「竜馬がゆく」やいろいろな本によって、龍馬が大変な手紙魔であり、かつその手紙の内容が実に面白いとは聞いていましたので、いつかは「龍馬の手紙が見たいものだ!」と思っていました。ちょうど私が日本に帰国していた時、その手紙の展覧会があり、龍馬に関した講演会があるというのは実にいい機会でした。
さらに、5月6日の午後には、「京都国立博物館」の「学芸部上席研究員 宮川禎一氏」による「特別講演会」も行われることになっていました。講演会のテーマは「坂本龍馬の手紙を読む-その面白さ-」でした。そのテーマを見ただけでも、講演内容の素晴らしさが想像できました。そして、結果としてやはり宮川先生の講演は有益なものでした。
実は、たまたまその5月6日には、日本で仕事をしていた時、私が熊本で働いていた時の同僚と熊本市内で宴会をする予定でした。毎年の恒例にしていますが、今年は6名の友人たちが参加してくれました。その中にNHさんという友人がいます。彼も歴史には興味がありますので、一緒に誘おうと思い、電話をしますと「いいですよ!」という返事でしたので、「熊本県立美術館」近くで待ち合わせることにしました。
講演会の開始は午後一時半からでしたので、午後一時に待ち合わせることに。予定通り、彼は一時に約束の場所に先に着いていました。久しぶりの再会で嬉しくなり、固い握手を交わしました。今にして思うと、彼と一緒に「熊本県立美術館」まで行って正解でした。何故なら、私自身は徒歩ではまだそこに行ったことがなく、道順を知らなかったからです。
彼は熊本城内の道順を辿りながら、「熊本県立美術館」まで案内してくれましたが、そこは私が初めて通る道でした。そして、熊本城内から「熊本県立美術館」までの道を歩くことによって、熊本城の復興再建の様子も徐々に見えてきました。
熊本城の再建の開始は、今年の四月からようやくスタートしました。熊本日日新聞(5月5日付け)に載っていた復興計画では、次のように書かれていました。「熊本城が熊本地震前の姿に戻るには、少なくとも20年はかかるとされている。熊本市の試算では、634億円に上る」
何と20年もの長期に及ぶというものなのです。何故そこまでの長い期間に亘るのかというと・・・、大地震で熊本城の石垣全体の一割が崩れ落ちた石垣の一個・一個を、元々積み上げられていた同じ位置、同じ形で置くからだと。
それが、《歴史的文化財》としての「熊本城再建」の方向性として決まったと言います。そのために、崩れ落ちた石の全てに番号を打って場内に置いてあるそうです。そして、実際に熊本城の奉行丸に並べられているのを私も見ました。このことに関して、県会議員をしている私の友人と、後日話をする機会がありました。
彼が言うには、「熊本城の価値は[武者返し]の形の美しさにある。すでに崩れ落ちた石垣自体には破損した石も多く、百パーセント元通りに、同じ姿に復元することは出来ない。だから目指すべき復元計画は[石垣の面としての美しさの同じ復元]ではなく、[武者返しの形の美しさの同じ復元]であるべきだ。その方向でやればもっと早く終わる」と。なるほど、それも一理あるなと思いました。
今の復興計画は当時と同じ場所に、同じ形で、同じ材料を使い、「石垣の面の同じ復元」と「武者返しの反りの同じ復元」の二つを目指しているようなので、二十年という歳月を要するという見込みのようです。いずれにせよ、そのやり方でいけば二十年後に完全に復興した姿を、果たして私が見ることが出来るかどうかは分かりません。
友人と二人で熊本県立美術館まで歩いてゆく途中で、崩れた石垣を平地に置いてあるところや、大天守を支える重機が天守閣を横に貫いている光景も直接見ましたが、お城の大手術のように見えて、痛々しい限りでした。
そして、一時半前に熊本県立美術館に到着。そこは若葉が芽吹き始めた樟の巨樹に囲まれた中にあり、建物の色調と実に調和していて、落ち着いた佇まいと美しさを感じさせました。私自身が熊本に生まれ、熊本で育ちながら、ここに来たのは初めてでした。
友人と二人で受付を済ませました。そこで、この日の講演される宮川先生の手になる「龍馬の手紙の面白さ-薩長同盟に関わる書状-」という資料を頂きました。その後、係りの人に席の方に案内されましたが、すでに八割がたの人が席に座っていて、私の席は友人とは離れた席になりました。
しかし、私が座った席は幸運にも一番前の席でした。恐らく「龍馬の手紙」の説明ではパワーポイントを使って説明されるだろうなぁーとは予想していましたので、その席に座ったのはラッキーでした。ざっと数えましたが、約百三十名の方がこの日の講演会に参加していました。事前に準備されていた椅子だけでは足りずに、後ろのほうでは十数名の方が立って講演会を聴いていました。
そして定刻どおり、午後一時半に宮川先生による講演会が始まりました。司会の方から先に宮川先生の紹介があり、宮川先生は「大分県が故郷」で「1959年生まれ」。今は「京都国立博物館の学芸部上席研究員」として勤められているということでした。宮川先生は年齢の割には見たところ大変若々しく、風貌も爽やかな方でした。最初に宮川先生は次のように話されました。
「今年の2017年は、ちょうど坂本龍馬没後150年に当たります。龍馬は生前に140通ほどの手紙を書いていたとされ、今現在そのうち130通ほどが残っています。今日の講演会ではその龍馬の手紙の中でも、特に龍馬が暗殺される直前の手紙に焦点を当ててお話したいと思います」
それから、宮川先生自らが書かれた、受付で頂いた資料を説明されてゆきました。その資料には、龍馬が明治維新前夜に果たした役割と位置付け、龍馬の手紙の内容と、龍馬がそのような手紙を書いた当時の時代背景を、宮川先生は次のように説明されています。
「龍馬が歴史に果たした大きな役割。それは幕藩体制を打破して近代国家の基礎を築いたことである。その最大の功績はやはり慶応年間の薩長和解の仲介(薩長同盟)、そして大政奉還の推進者であった点であろう。本日は前者、すなわち慶応二年一月の京都で長州の桂小五郎らと薩摩の西郷吉之助らの間に行われた会議に関わった時の龍馬の気持ちを探ってみたい」
「その薩長盟約の会議の前日、一月二十日こそが実は一番重大な日であった。大河ドラマ『龍馬伝』では、ただ桂と西郷が立会人である坂本龍馬の到着を京都で待っていたように描かれてしまったが、それはおそらく事実とは違う。龍馬がその真価を発揮したのがこの日なのである。龍馬のいちばん長い日だったのだ。」
「本日はその慶応二年一月二十日の夜に書かれた龍馬の書簡二通と慶応二年十二月四日に書かれた書簡一通の計三通を取り上げたい。これらの龍馬書簡は大変貴重だ。歴史の面白さの一面を味わっていただきたい」
それから、実際にパワーポイントで聴衆に龍馬の一つの手紙を採り上げられ、その手紙の中で重要な箇所を示されました。宮川先生が指摘された龍馬の手紙の重要な箇所は次の部分です。「慶応二年一月二十日 池内蔵太家族あての手紙」の中に、龍馬が以下のことを書いています。
「ふとあとさきおもいめぐらし候うち、私し出足のせつは皆々様ニも誠に御きづかいかけ候計と存じ(原文のまま)」⇒現代語訳⇒「ふと昔から今までのことを思い巡らせていると、私が出足(脱藩)の際には皆々様にたいへんなご心配をおかけしたことと思いますが・・・」
龍馬が書いた手紙のこの部分を宮川先生は次のように読み解かれました。宮川先生の『龍馬の手紙』に寄せる情熱と解釈のユニークさは、この日出席していた我々には十分理解出来ました。
しかし、この日の講演会に参加出来なかった人、そういう講演会があることも知らなかった人が多いわけで、宮川先生の考えを正確に理解して頂くために、少し長くなりますが、省略せずに全文を載せます。
「薩長同盟締結前夜の龍馬の心境を窺うことのできるまことに貴重な手紙である。これが書かれたのは京都二本松の薩摩屋敷の一室。一月二十日の深夜のことである。この日の午後、坂本龍馬と池内蔵太・新宮馬之助は伏見寺田屋に三吉慎蔵を残して、薩摩藩家老の小松帯刀の屋敷に滞在中の桂小五郎らを訪ねた。薩長交渉の進展を聞くために行ったのだ」
「しかしながら桂からは交渉の停滞と失敗、そして帰国の意志を聞かされたのだ。その状況に驚愕した龍馬は二本松の薩摩屋敷に西郷吉之助を訪ね、再度長州と話をするように強く勧めたのだ。龍馬の人生のクライマックスとなる長い一日だった」
「その夜、龍馬は宿舎の薩摩屋敷の一室で眠れぬままにこのような手紙を認(したた)めた。手紙には薩長交渉のことは一切書かれていない。しかし『私が出足(脱藩)の際には皆々様にたいへんなご心配をおかけしたことと思いますが・・・』と過去を振り返ったところに龍馬の心情が滲んでいる。」
「薩長同盟」の成立における坂本龍馬の活躍は、後世の歴史書では誰もが認めている『史実』になっていますが、その同盟の密約成立前夜の龍馬の懊悩と、密約成立後の嬉しさを「ふとあとさきおもいめぐらし候うち・・・」の手紙に籠めているという説明なのでした。「同盟成立が終わり、自分が土佐藩を脱藩した時から今に到るまでを、龍馬が回想しているのです」という宮川先生の解釈です。
しかも、「薩長同盟」が成立したと言っても、それを書面にしたわけではなし、今のように記者会見を開いて発表したわけでもなく、「密約」ですから対世間的には秘密なのでした。それを知っていたのは、西郷や大久保や桂などの幹部だけでした。
しかし、この手紙から三日後の二十三日に伏見寺田屋で幕吏の襲撃を受け、幕府が龍馬の引渡し要求をした時、薩摩藩はそれを拒絶し、京都の薩摩藩邸まで移送したことで、密約で進んでいた「薩長同盟」が、結果的に衆目の知るところとなり、世間も(ははぁー、薩摩と長州は仲が良い関係になっているのだなー)と分かってしまったと、宮川先生は次のように説明されました。
「伏見で龍馬を救出し、奉行所と一触即発の状態に陥った段階で、薩摩藩は自ら幕府と手切れをしたのである。その状況は幕府も中立の諸藩も伏見の大騒動を受けてはっきりしたはずだ。すなわち龍馬は薩長交渉の仲介をした以上に寺田屋で襲われたことによって薩摩藩を公武合体ではなく長州藩と連携して幕府に対抗する側(尊皇倒幕)へと追いやったのである」
龍馬が書いた上記の一通の手紙から、宮川先生は龍馬の思いをそのように想像されて、この日参加した私たちに非常に説得力のある講演をされました。事実、日本の歴史はそのように動いたのですから、この日参加した皆さん方からも「ほーっ・・・」と言う声が上がりました。
この日の講演会では上記の手紙の他、親戚の娘・春猪に当てたユーモア溢れる手紙や伏見寺田屋で幕吏に襲われた時の顛末を説明するために、家族に宛てた手紙などが紹介されました。それらもまた宮川先生らしいユニークな解釈がされていて、私には大変興味深いものでした。
一時間半に亘る宮川先生の講演の終わりに、司会者の方が質疑応答の場を設けられて三人の方が手を挙げて質問されました。三人の方の質疑が終わった後、最後に私が質問させて頂きました。
「私は普段ベトナムにいて、たまたまこの時期に日本に帰国しました。日本に帰国した数日後のある日、図書館に置いてあったパンフレットで、宮川先生の講演会のことを知り、今日参加させて頂きました。今日の講演会では龍馬の手紙から考察された宮川先生の意見を興味深く聴かせて頂きました。素朴な質問ですが、宮川先生が龍馬の手紙に興味を持たれた時期ときっかけは何だったのでしょうか」
それに対して、宮川先生は次のように答えられました。「いやー、実は私はもともと龍馬のが専門ではなかったのですよ。それがふとしたきっかけで、龍馬の手紙にのめり込みに至っています」と。宮川先生は結構詳しく、長く話されましたので、分かり易いよう宮川先生からお聴きした質問に対する答えを説明しますと、次のようになります。
もともと宮川先生は『龍馬の手紙』が専門ではなく、若くして京都国立博物館に勤めた時、その京都国立博物館内の倉庫に置いてあった、古美術品や書籍などの中にたまたま『龍馬の手紙』があり、先輩の学芸員の方から「あなたはその『龍馬の手紙』を研究したら」と言われたのがきっかけだったそうです。
謂わば、門外漢として「龍馬の手紙」の解読に務めてきたと話されました。しかし、それからだんだんと「龍馬の手紙」に関心が深まり、遂に宮川先生は「坂本龍馬からの手紙~全書簡現代語訳~」という名前の本まで著されるに到りました。それだけ、「龍馬の手紙」には魅力が溢れているということでしょう。
講演会の終了後、隣の部屋にある、龍馬と横井小楠の手紙や書簡がある展示室に二人で行きました。司馬さんの「竜馬がゆく」によって、龍馬の手紙の存在とその内容の面白さについては知っていましたが、複製ながらその手紙を見たのは初めてでした。全部で三十通ほどの龍馬の手紙が展示されていました。
ここにはあの有名な、龍馬とお龍が新婚旅行で高千穂峰に登り、頂上にある「天の逆鉾」を引き抜いた時の状況を図解付きで説明した龍馬の手紙もありました。その手紙は写真などでは見ていましたが、複製ながらその図解も含めて、手紙全部を見たのは初めてでした。
龍馬の手紙はひらがなを多く使い、のびのびとした字体でした。その同じ展示室にあった横井小楠の手紙は漢字を多用し、さすがは豊かな教養が滲み出ていました。小楠は相当な読書家であったろうと想像します。
それに対して、龍馬も小楠に劣らず、独特な字体で美しい手紙文を書いています。龍馬の手紙に共通していたのは、ひらがなや漢字の美しさです。龍馬などは小さい時通っていた塾では劣等生だったという評判ですが、その手紙を見ると大変な素養が伺えました。
二人の手紙からは、江戸時代の武士階級が身に付けていた智識・教養の高さが如何に高いものであったかが、これらの手紙によっても十分に窺い知ることができます。長い平和な時代が続いた江戸時代は、そのような智識・教養の高い武士たちを生み出した時代でもあったのです。
龍馬や小楠だけではなく、幕末期に青年時代・壮年時代を過ごした武士たちの素養の高さは、今の我々から見ると信じられないくらい凄いものだったのだなーと思います。彼らが幕末維新期に遺した漢詩や和歌は、いわゆる「草莽の志士」というレベルを超えています。
そして、その伝統は幕末維新の倒幕運動に参加し、明治期にも活躍した伊藤博文のような政治家や乃木希典のような軍人にも受け継がれてゆくのです。乃木将軍が遺した『金州城外の作』や『爾霊山』などは有名ですが、伊藤博文にも優れた漢詩文があります。
日露戦争が開始しようとする前夜に、アメリカに特使として派遣する金子堅太郎に与えた漢詩が次のようなものでした。これは、私が敬愛して已むことがなかった、今は亡き「渡部昇一先生」の著書「かくて昭和史は甦る」から教えて頂きました。
日露交渉マサニ断エントス (日露関係はついに断絶せんとしている)
四十余年ノ辛苦ノ跡 (明治維新から四十年にわたる苦労も)
化シテ酔夢トナッテ碧空ニ飛ブ (この一戦で消えてなくなるであろう)
人生何ゾ恨マン 意ノ如クナラザルヲ(しかし、たとえそうなっても人生を恨むまい)
興敗ハ他ノ一転機ニヨル (ただアメリカのルーズベルト大統領が動いてくそれが一大転機となって生き残れるかもしれない)
しかし、漢詩文の伝統は、明治時代の夏目漱石や森鴎外のような文人までは脈々と流れていましたが、その後は徐々に薄れてゆきました。専門雑誌は別にして、今では新聞にも月刊誌にも週刊誌にも載ることは無くなりました。和歌や俳句はかろうじて今もその命脈を保っています。
私自身も学校教育では高校生の時に「古典」の時間に漢詩や和歌を習っただけで、その後にも先にも学校の中で先生に教えてもらった記憶はありません。ですから我流で大陸や日本の有名な漢詩や和歌を学び、暗誦していたぐらいで、昔の人たちが時機に応じて漢詩や和歌を詠んだような素養の深さ・高さとは比べるべくもありません。
この日の美術館には龍馬と小楠の手紙のほか、維新期に活躍した志士たちの手紙もありましたが、おもにその二人の手紙を読んでゆきました。龍馬の手紙などは(これが手紙か!)と思うぐらい大変な長さで、巻物に仕立ててありました。小楠の手紙などその筆使いといい、見事な筆跡でした。一字・一字に乱れが全くありません。(どこまで修練を積めばこうなるのだろう)と思わせるほどでした。
明治維新後、日本が欧米の科学技術や文化芸術などをすばやく咀嚼吸収し、社会科学用語医学、法律用語を漢語交じりの日本語に翻訳して、その日本語で高等教育を行い、日本をアジアの国々の中でも抜きん出た国に成し得た背景が、これらの手紙を見ながら理解出来てきました。
江戸時代に武士階級が知性を磨き、深い教養を積んだ彼ら武士たちはペリーの黒船が来るや幕府を倒して明治維新を興し、日本を近代国家に創り上げたのはまぎれも無い事実なのです。先人たちの血の滲むようや努力があってこそ、現在の『日本文明』が成立しているのだと思えるのです。
講演会後の「龍馬と小楠の手紙展」では、一時間ほどゆっくりと時間を掛けて二人の手紙と書簡を見学させて頂きました。今後何回もこういう展示会と講演会はそうそう無いことだろうと思います。それだけに貴重な一日を過ごさせて頂きました。
● 『熊本外語専門学校』を訪問 ●
2017年5月8日(月)に「熊本外語専門学校」を訪問しました。生徒たちの授業が終る少し前にそこに着き、職員室でY校長先生と話しました。Y先生曰く、・・・
「この学校は2013年10月に開講しましたが、その時は8名からスタートしました。それから4年近くが経ち、今50名のベトナム人の生徒たちがここで勉強しています。約6倍の人数になりました」
近年、日本に行くベトナム人留学生の増加は顕著になっています。昨年4月のVIET JOの記事にも次のように載っていましたので、熊本でも同じような状況になっているということです。
「日本学生支援機構(JASSO)が発表した2015年度外国人留学生在籍状況調査によると、2015年5月1日時点での日本におけるベトナム人留学生数は3万8882人で、前年の2万6439人と比べておよそ+47.1%増加した」
今年この学校を訪問した時、女性のUA先生もここで教えておられたので、久しぶりの再会になりました。UA先生は同じ熊本出身で、サイゴンでは私と同じ学校の中で「留学生クラス」を担当しておられました。昨年12月には、社員旅行でニャー・チャーンにみんなで一緒に行ったこともありました。
しかし、「留学生クラス」の生徒たちが全員日本に行った後、クラスが解散したので、この時は一時帰国されていました。また7月から「留学生クラス」が再開したら、サイゴンに戻られます。そのUA先生も涙を流して喜んでくれました。
そして、今年もいつものように授業終了後にベトナム人留学生たちを一室に集めました。彼ら留学生たちにこの学校で再会するのは今年で4回目。授業終了後はそのまま解散になるのがいつものことなので、最初の時は彼らも何故集められるのかが分からない状態でずっと待っていて、そこに私が突然ドアを開けて登場するという“サプライズ”を演出していました。
しかし、今年は4回目になるので、そのパターンが生徒たちも分かってきたようで、「ベトナム人留学生たちは○○教室に集合!」という館内放送が流れてくると、(ははぁ~ん)と察しがつくらしく、私が登場するのを事前に知っていました。次回は別の登場手段・・・、「熊本城でみんなが花見」をしている場面にでも現れようかな・・・・と考えています。
今回この学校を訪問し、教室に入ってからまず、日本に帰国した翌日に大阪でGaiさんに会ったことを話しました。彼女はみなさんのような「留学生」ではなく、「実習生」であること。日本に行って二年弱で「日本語能力試験N2」に合格したことなどを話しました。やはり、みんな感心した表情で聴いてくれました。
それから、今年初めて日本に来た生徒たちに次のことを聞きました。(1)日本に来ての感想。(2)日本に来て驚いたこと。それに対して「街が清潔」「熊本城の桜がきれい」「日本人は親切」・・・などなど、好意的な反応でした。
さらに、<私からの希望>として次のことを黒板に書き、しっかり頑張って欲しいと伝えました。(1)日本語の勉強を優先してしっかり頑張ること。(2)『日本の文化』への理解も深めること。③(3)日本の歴史』についても勉強して欲しいこと。
『日本の歴史』については、たまたまここに来る前に熊本駅の構内の本屋に「日本の歴史人物」という題名の本があり、中を見ると中学・高校生向けのレベルで、漢字には全てフリガナが振ってあったので、(これならベトナム人の留学生たちにも理解しやすいだろうなぁー)と思い、それを購入してこの場でその本を紹介してあげました。
そして終わりに、毎年恒例の『サライ』の歌をみんなに披露。彼らがベトナムにいた時にもこの歌を折に触れて聴かせていましたから、みんな良く知っています。遠く故郷を離れて来た彼らだからこそ、実際に今こうして異国に来て、この歌がしみじみと実感出来ることだろうと思います。みんなしんみりとした表情で聴いてくれました。
そこでは四十分ほどいろいろ話して、またの再会を約束して生徒たちとお別れしました。その後、UA先生とSH先生と一緒に喫茶店に行き、昼食を共にしました。UA先生の話では「ベトナムにいた時にはまだ日本に行く前だったからか、緊張感もあり、努力していたけれど、熊本に来てから少しゆるんでいる感じがします」という話。
SH先生は「今彼らは寮に住んでいますが、夜にみんなで一つの部屋に集まり、大声で騒いでいるので、同じアパートに住んでいる日本人から苦情が来たこともあります」と話されていました。やはり、日本に行ってからも全体の場や個別の場でフィードバックが必要だということです。
ただ私のベトナム人留学生に対する思いを述べますと、彼らがいずれは「日本とベトナムの架け橋」になる可能性を秘めた人材だろうと思いますので、慣れない異国で今後もしっかり頑張って欲しいと思います。ベトナムにまた戻り、将来いろんな分野で日本とベトナムを繋げる仕事をしてくれたらなぁーと希望しています。
● 『鹿児島県垂水漁協』を訪問 ●
5月12日に『鹿児島県垂水漁協』を訪問。ここも今年で4回目になります。実は、ここを訪問する予定日の数日前に、テレビを何気なく観ていましたら、垂水市で『垂水カンパチ祭』なるものが開かれていたのを知りました。今年は5月6・7日に行われていました。
(あれー、そうと知っていれば。『カンパチ祭』に合わせて垂水を訪問したものを・・・)
と思い、Uさんに電話をしますと「カンパチ祭は毎年行われているよ。私もうっかりしていました。来年はそれに合わせて来てよ」と答えられました。「カンパチ祭」の案内はURLでも見ることが出来ます。次のアドレスです。
その「カンパチ祭」があるのを知らなかったので、「12日に垂水を訪問しますよ!」と事前にUさんに伝え、切符を既に購入していましたので、予定日を前倒しで変更することも出来ず、今年の「カンパチ祭」に行くことは出来ませんでした。それこそ「後の祭り」でした。
毎年、私の鹿児島行きの時にはいつもUさんが一緒に同行してくれます。事前に鹿児島に行く日時を伝えるだけで、訪問先への確認と段取りを一人でやって頂き、私は特に何もする必要はありません。当日Uさんは自分の車を運転して、鹿児島中央駅まで迎えにきてくれます。
鹿児島中央駅には11時半過ぎに到着。そこから車で四十分ほどして垂水漁協に到着。漁協の事務所に入ると組合長のHNさんは出かけているとのことで、Uさんと先に漁協内にある食堂で昼食を摂ることにしました。
漁協の前には大型バスが停まり、中から観光客がぞろぞろ降りてきます。彼らも私たちと同じ食堂に入ってゆきます。内村さんによると、最近どうやらこの食堂が「カンパチの美味しい料理」を食べさせてくれると評判になり、桜島見物のついでに観光バスでここまでやってくる人が増えて来たとのこと。
ここではUさんに「カンパチ定食」をご馳走になりましたが、やはり地元で食べるだけに身が締まっていて美味しいものでした。カンパチの頭の煮付けも同じ定食メニューの中に入っていて、味付けが実に上手で、さらにはあの硬いカンパチの頭の骨が口の中に入れた途端にホロホロと溶けるように柔らかくなり、二・三回噛むうちに口の中で消えてゆきました。
昼食を終えてそこを出て、二人で漁協内の事務所に向かっていると、頭から帽子を被り、漁協の制服を着た四人の若い女性が歩いています。一人は一輪車を押しながら立ち止まり「あ、先生!」とこちらを見てニコッと笑いました。ベトナム人の教え子たちでした。
「久しぶり!元気ですか」と聞くと、「はい、みんな元気ですよ」と答えましたが、この時にはまだ仕事中の時間だったので、それ以上長話は出来ず、「何時に仕事は終るの?」と聞くと、「二時半です」というので、「じゃ、その時間頃にまた寮に行きますね」と言ってその場では別れました。Uさんに聞くと、毎日彼らは朝6時半から午後2時半までの勤務だそうです。
そして漁協の事務所に入り、「組合長のHNさんはいますか」と聞くと、「ええ、いますよ。呼んできます」と言って、すぐに奥からHNさんが現れました。まだ四十代半ばくらいの方でした。今ここでは6人の実習生たちがいますが、彼らの評判を聞きました。
「いやー、6人とも実に真面目で、勤務態度もいいですよ。私たちも大変助かっています」
HNさんはそう答えられました。それを聞いて私も嬉しくなりました。安心もしました。その後、Uさんの知人で、鹿児島で「介護施設」を経営しているFMさん宅を訪問。家の中には屋久杉のテーブルや置物が部屋いっぱいに置かれていて圧巻でした。奥さんも同席されていて、奥さんも同じ仕事に就かれています。
FMさんは垂水市で介護施設を経営されていますが、日本人の人手が足りないので、いずれベトナムから人材を受け入れたいという意向でした。同じ仕事を共同でやられている奥さんが心配されていたのは、「鹿児島弁しか話さないお年寄りの言葉を、果たしてベトナムでは標準語の日本語しか勉強して来なかった若者たちが、正確に理解できるだろうか・・・」と言う心配でした。言われてみれば、それも道理です。
鹿児島弁は日本の方言の中でも独特なもので、熊本県人の私でも鹿児島の人たちが純粋な鹿児島弁で話されている時には全然理解出来ません。さらに凄いのは、同じ鹿児島でも山一つ越えれば、また理解出来ない鹿児島弁になるそうです。
その後、二時半近くになったので、Uさんの車で教え子たちが住んでいる寮に行くことにしました。ちょうど仕事から帰って来ていたところでした。彼らが住んでいる寮に入り、テーブルに座るとすぐにコーヒーを我々のために出してくれました。今年の3月に新しく来たばかりの生徒たちに「日本での仕事、生活はどう?」と聞きますと、全員が「毎日大変楽しいです!」と笑顔で答えてくれました。
毎日仕事をしているのですから、キツイこと、辛いことが無いはずがありません。それは私も十分想像出来ます。しかし、彼女たちが第一声で発してくれた言葉が「毎日大変楽しいです!」と言う言葉だったのには救われる思いがしました。まだ日本に着いて間もないので、これからいろいろ大変なことも出てくるでしょうが、日本に来てすぐの生徒たちがそう言う返事をしてくれたのは嬉しい限りでした。
ベトナムから持参した少々のお菓子のお土産を渡して、そこでは一時間ほど話して、「来年もまた来るからね。健康に注意して頑張ってね!」と最後に言葉を交わして彼らと別れました。来年は是非「カンパチ祭」の時に垂水市を訪れたいと思っています。
ベトナムBAOニュース
「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。
紀伊國屋書店とFAHASA、和書売場をホーチミン店舗に常設
和洋書籍や雑誌の販売などを手掛ける株式会社紀伊國屋書店(東京都目黒区)と地場書店チェーン最大手のホーチミン市書籍発行社(FAHASA=ファハサ)は1日、ホーチミン市1区グエンフエ通りのFAHASAグエンフエ店(40 Nguyen Hue St., Dist.1)に、本格的な和書売場を開設した。また、6月1日から11日にかけて「和書展示ウィーク」を開催している。
これに先立ち、紀伊國屋書店とFAHASAは2016年5月に業務提携し、FAHASAグエンフエ店および同市3区のFAHASAタンディン店(387-389 Hai Ba Trung St., Dist.3)の2店舗で和書の販売を開始していた。
和書売場は、6月1日から11日までの期間限定コーナーと常設コーナーに分かれており、ベトナム人向け日本語学習書や日本人向けベトナム語学習書、辞書、児童書、漫画のほか、日本の文化や文学、ファッション、料理、手芸、園芸、建築に関する本など3万冊以上を取り揃えている。
<VIET JO>
◆ 解説 ◆
実は、紀伊國屋書店は約一年前に、同じFAHASAグエンフエ店に日本の書籍売り場を開設していました。その時、私も日本の書籍売り場に行きましたが、置いてあるのは日本のマンガ本ばかりで、大人が読んで買いたいと思えるような本は置いてありませんでした。皆無でした。それ以後、そこに足を運ぶことはありませんでした。
しかし、私がベトナムに戻って六月最初の「日本語会話クラブ」に参加した後、「青年文化会館」内にある喫茶店で昼食を摂りながら話していますと、日本人の知人が「今回新しくFAHASA書店内に新設された紀伊國屋書店は、以前と違い多くの日本関係の書籍が置いてあるそうですよ。この後行きませんか」と誘ってくれました。
それで私も「そうですか。もしそうなら嬉しいですねー。ではお昼ご飯を食べた後行ってみますか」と答えて、早速行きました。FAHASA書店に着くと、一階に日本の本が置いてありました。それを見て大変驚きました。今年私が帰国した時、故郷の本屋で見た最近刊行されたばかりの新刊本と同じ本が幾種類も置いてあったからです。
もっと驚いたのは、日本や中国の古典の文庫本までが揃えてあったことです。「角川ソフィア文庫」です。その文庫コーナーには、「古事記」「日本書紀」「万葉集」「古今集」「枕草子」「源氏物語」「新古今和歌集」「方丈記」「平家物語」「徒然草」「奥の細道」などの日本の古典がズラリと揃えて置いてあったのです。
さらには中国古典の「論語」「史記」「韓非子」「三国志」「菜根譚」までもが揃えてありました。(これは凄い!)と感動しました。しかも、この「角川ソフィア文庫」は日本の古典も中国の古典も、全てに懇切丁寧な現代語訳が添えてありました。これがあれば、一々辞書を引く必要はありません。
(これからこのベトナムで、日本や中国の古典がじっくり読めるとは何と素晴らしいことか!)
と思いました。こういう古典は速読する必要はなく、じっくり時間を掛けて読んでゆけばよいので、時間がある時にゆっくりと古典世界に浸ることが出来るでしょう。
二階にもまた日本の書籍があるというので、階段を上がりました。そしてそこにもマンガや新書版、単行本などの日本の本が一部屋全部を埋め尽くしていました。そこで私の眼に飛び込んで来た一冊の本がありました。不思議なもので、こころの中で明滅している本は向こうから眼に飛び込んで来ますね。
今年四月に亡くなられた、渡部昇一先生の「知的生活の方法」(講談社現代新書)がそれでした。この本は渡部先生が著された時から買い求め、熊本の私の実家にも置いてあり、日本に帰った時には折に触れて読んでいました。何回読んでもそのつど学ばせて頂き、得るところが多く、感動が深い本です。しかし、(失くしてもいけないし、日本に帰った時に読めばいい大事な本だ)と思い、敢えてベトナムまでは持ち込んでいませんでした。(その本が今眼の前にある!)・・・。
しかも何冊も積んであるのではなく、本棚にはただ一冊だけしか「知的生活の方法」は置いてありませんでした。(この一冊の本は遠い日本から、ベトナムにいる私のためにわざわざ運ばれて来たのだ!)・・・、と勝手にそう思い、早速その場で購入しました。思わず頬ずりしました。
それを持ち帰り手に取りますと、奥付には「1976年四月二十日第一刷発行」と書いてあります。実に今から約四十年も前の本なのでした。この本は大ベストセラーになりましたが、後に「知の巨人」と言われた渡部先生の読書体験が率直に語られていて、読者を飽きさせません。私がベトナムで購入したこの「知的生活の方法」は、「2016年十二月五日第八十三刷発行」になっていますから、四十年経った今でも多くの読者に支持されているということです。
今サイゴンには多くの日本料理店が競うように現れ、「日本料理」を味わいたい人には何ら不自由は無くなりました。さらにこうした「日本の書籍」が充実して来たことにより、「日本の本」に対しての飢餓感も少なくなってきたと言えます。
この紀伊國屋書店の充実ぶりを知らなかったので、今回ベトナムに戻る時には、約10キロ弱の日本の本を持ってきました。紀伊國屋書店では日本から取り寄せることも可能だと聞きましたから、今後は日本から重たい本を抱えて来る必要も無くなります。
今後、週刊誌や月刊雑誌などもこちらで読むことが出来れば嬉しい限りです。週刊誌であれば二・三週間後、月刊誌であれば一ヶ月ぐらい遅れてもいいですから、日本に帰る機会の少ないこちらの在住者のために取り寄せて頂ければみんなに喜ばれることでしょう。
さらには、今年六月中旬からはあの「セブンイレブン」もサイゴンに進出して来ました。これで、サイゴンには「ファミリーマート」「ミニストップ」と並んでコンビニの大手の三強が出揃いました。サイゴン在住の日本人には選択肢がいろいろ増えて朗報と言えます。あと、日本に帰らないと満足しないものと言えば、やはり「医療関係」くらいでしょうか。