【2018年5月】日本帰国余話・前編
春さんのひとりごと
<日本帰国余話・前編>
今年も四月中旬に日本に帰国しました。二年前は「熊本大地震」がありましたが、今年は何事もなく無事に日本に到着しました。昨年日本に帰国した時は、神戸市内に向かうバスの中から時折見える桜樹にはまだ少し桜が残っていましたが、今年はほとんど散っていました。
今年は日本に帰国する前から訪問したい場所が二つありました。兵庫県神戸市にある『湊川神社』と佐賀県多久市にある『多久聖廟』です。『湊川神社』は1872年、『多久聖廟』は1708年に創建されました。そして、日本帰国後すぐに、この二つの場所の訪問を叶えることが出来ました。今年の帰国時の初めに、二つの忘れ難い思い出を刻むことが出来ました。
● 湊川神社 ●
『湊川神社』は言うまでも無く「楠木正成」を祀った神社です。実は、この『湊川神社』を私は毎年見ていました。私が日本に帰国した時にいつも泊まるホテルが、『湊川神社』のすぐ眼の前にあったからです。
神戸駅に着いてホテルに行く時、ホテルを出て神戸駅に向かう時には、いつもこの『湊川神社』の前を通っていました。でも、今までその中に入ったことはありませんでした。それが、“今年は是非『湊川神社』の中に入ってみよう!”と思ったのは、私が敬愛する「渡部昇一先生」の著作がキッカケです。
渡部先生は、昨年私が日本に帰国してすぐ、【四月十七日】に亡くなられました。青春時代から渡部先生の本に親しんでいた私にとって、渡部先生の訃報は大きな驚きであり、深い悲しみでした。(もうこれからは渡部先生の新しい本は読めないのか・・・)という寂しさとともに、(今まで書かれてきた著作をまたさらに読み返そう)と、これからも決めました。
そして、ベトナムに戻った後も渡部先生の本を続けて読んでいて、渡部先生が書かれている著作の中で、「楠木正成」に触れている箇所が幾つかあり、その「楠木正成」の事蹟にあらためて深く感ずるところがありました。その一つ、「知的人生のための考え方―わたしの人生観・歴史観―」という渡部先生の著作の中で、渡部先生は「楠木正成」について次のように書かれています。
<生き続ける「楠公精神」>
“頭では否定していても、心情としてはよく分かるというものがあります。それどころか、その心情は確かに自分の血にも流れ、そこに美学を感じるというものがあります。そういった想いが多くの日本人に共通している場合、その心情は日本的な精神、もしくは日本的美学と言ってよいように思います。
そういったものの一つに、楠木正成(一二九四~一三三六)の「七生報国の精神」を語らずにはいられません。
この言葉の謂れは、南北朝の時代、南朝の武士・正成が後醍醐天皇に、その戦い方では勝てないという提案をしたにもかかわらず、天皇が頑として受け付けず、正成がそれなら仕方がない、「いまはこれまで」と出陣した時に言った言葉に基づいた話です。・・・
「報国の精神」は戦後も時が経つにつれて薄れてきていますが、「いまはこれまでと潔くあきらめるが、いつか必ず次の世には」という「七生」の精神は、いまなお私たちの心の奥底のどこかで血として流れているはずです。
・・・見方を変えれば、日本という国は、有史以来、神の系譜がそのまま政体の中心である天皇の系譜につながり、途絶えることなく続いている国です。このように、国家のリーダーの先祖が、実は「神」であるという歴史を持つ近代国家はありません”
今まで毎年日本に帰国するたびに、「湊川神社」を目の前で見ていたにもかかわらず、その中に足を踏み入れたことはありませんでした。それが、今年になって私の背中を押したのは、やはり渡部先生が書かれた「楠木正成」についての記述が、私のこころの奥深くに沈んでいて、(そう言えば、日本に帰国した時にいつも見ているあの「湊川神社」が、「楠木正成」を祀った神社ではないか!)と、思い返しました。渡部先生の本に書かれていた「楠木正成」と、いつもホテルに行く途中で見ていた「湊川神社」が繋がったのでした。
その「湊川神社」に、私は日本に着いた翌日、故郷に帰る日の朝、初めて参詣しました。この日は快晴でした。この日、この時、初めて知りましたが、今年が「湊川神社創祀御沙汰150年記念」に当たり、「湊川神社」の正門前には神社建立に到るまでの歴史について、以下のような案内板がありました。神戸市にあるこの案内板の説明を直接眼にした人は少ないと思いますので、敢えてここに紹介させて頂きます。
“楠木正成公は、「智」「仁」「勇」に優れた武将と讃えられてきましたが、江戸時代の元禄五年(一六九二)水戸の徳川光圀公による「嗚呼忠臣楠氏の墓」の建碑がひとつの契機となり、全国各地で正成公への崇拝が澎湃として湧き起こっていきました。
やがて幕末の頃になると、人々の大楠公への敬慕は愈々篤くなり、国事に奔走する日本各地の志士達は大楠公を憂国の士の鑑と仰ぎ、正成公御墓所への参詣者は陸続と現れるようになりました。中でも、薩摩藩・尾張藩・水戸藩等、志のある藩は正成公を祀る神社造営を実現しようと様々な行動を起こしていきます。
そして迎えた明治維新、兵庫裁判所の伊藤博文らの請願もあり、正成公を慕う人々の心は形となり、今より百五十年前の明治元年(一八六八)四月二十一日に明治天皇によって楠公社創祀の御沙汰が下され、明治五年(一八七二)に湊川神社の創建となりました”
門の中に入ると、「楠木正成」を祀った神社にふさわしく、参道の両脇には多くの楠が並び立ち、その奥にある神社の姿が見えてきました。まるで神社が楠に護られているかのような印象でした。その楠には眼にも鮮やかな若葉が芽吹いていました。まずそれに見とれました。
さらに嬉しかったのは、境内にある楠の左側にはソメイヨシノやヤマザクラなどの桜が植えられていましたが、それらがまさに満開に咲いていました。藤の花も藤棚の上で綺麗に咲いていました。その二つが楠の若葉の緑と対照的に映えて、今年帰国しての「春の日本」を感じさせました。
中に入ってすぐ右の場所には、案内板にもあった徳川光圀公の像があり、さらには徳川光圀公の筆跡による石碑「嗚呼忠臣楠子之墓」がありました。その石碑の裏面には、明の遺臣であった「朱舜水」の文章による、「楠木正成」に捧げた感動的な文章が彫られていました。
全部を紹介すると大変な分量ですので、その一部を紹介します。それでも「朱舜水」の「楠木正成」に対する篤い想いは伝わるかと思います。但し、今は使われていない漢語が多いので、難しい字句には平仮名での読みをつけておきます。
「忠孝は天下に著(つ)き、日月は麗(うるわ)しく天地日月無ければ、則ち晦蒙否塞(かいもうひそく)し、人心忠孝を廃すれば、則ち乱賊相尋(らんぞくあいつ)ぎ、乾坤(けんこん) 反復す。余聞く、楠公は諱(いみな)は正成、忠勇節烈、国士無双なりと。その行事(こうじ)を蒐(あつ)むるに、概見(がいけん)すべからず。大抵公の兵を用ふるや、強弱の勢(せい)を機先(きせん)に審(つまびら)かにし、成敗(せいはい)の機を呼吸(こきゅう)に決す。
人を知りて善く任じ、士を體(たい)して誠を推す。是(ここ)を以(も)って謀(はかりごと)中(あた)らざるなく、而(しこう)して戦克(たたかひか)たざるなし。心を天地に誓(ちか)ひ、金石(きんせき)渝(かは)らず。利の為に囘(たが)はず、害の為に怖れず。故に能く王室を興復して、旧都に遷す。諺に云ふ、前門に狼を拒(ふせ)ぎ、後門に虎を進むと。・・・」
「朱舜水(1600~1682)」については私も知ってはいました。しかし、「楠木正成」を称えたこの石碑は初めて見ました。「朱舜水」の「楠木正成」への思いの深さが偲ばれます。「朱舜水」は明の時代の儒学者で、明朝滅亡後に日本に亡命した後、当時水戸藩主であった徳川光圀公が「朱舜水」を招聘しました。「楠木正成」を敬慕すること篤かった徳川光圀公は「朱舜水」に「楠木正成」について詳しく話したことと思われます。「朱舜水」も深く感動したようです。
それが、徳川光圀公が建てた石碑「嗚呼忠臣楠氏之墓」の裏面に彫られた文章なのです。「朱舜水」も自分が仕えた明王朝が滅びた後に日本に来ただけに、自分の境遇と重ね合わせたことでしょう。徳川光圀公は「朱舜水」と出会って以来、「朱舜水」を敬愛し、「朱舜水」の死後にはその遺稿を整理して編纂し、1715年には『舜水先生文集』全28巻としてまとめたと言います。
その石碑を見終えて、神社の建物の前まで歩いて行きました。湊川神社は非常に落ち着いた、簡素な建物でした。そのすぐ左手には神社の事務所があり、その上には大きな看板が掲げられていました。看板には「楠公武者行列の巡行~平成30年5月26日~」と書かれています。
それが何を意味するかが分からなかったので、事務所の中にいる人に聞きました。すると、数枚の資料を私に下さって、その資料を説明しながら、詳しく話してくれました。さすがにそこで働いておられる人だけに、私にも理解しやすい説明をして頂きました。その資料に基づいて、「楠公武者行列」のことについて説明します。
「この武者行列は、今から670年以上の昔、『建武の中興』に大きな功績を残した楠木正成が、隠岐に幽閉されていた後醍醐天皇がそこを出て京都へ戻る途中に、神戸で後醍醐天皇を迎え、京都まで先導した時の行列を再現したものです。その時、楠木正成が後醍醐天皇を先導した晴れ姿を称えて行われています。前回は平成25年5月でしたので、五年ぶりです。今後は五年に一度ずつ行われます」
「今後は五年に一度ずつ行われます」と言われましたが、残念ながら今年のその日、私はベトナムに戻る日の直前と重なり見物することが出来ません。でも、この行事が今後も五年に一度継続して行われるというのは素晴らしいことだと思います。
神社の本殿まで進みました。その周りは落ち葉一つ無いように掃き清められていました。多くの人たちが参拝に来ていました。すると、事務所の横から衣冠束帯に身を包んだ男性が現れて、こちらに向かって歩いて来られました。何か王朝時代に引き戻された感じになりました。後で分かりましたが、その男性はこの後ここで行われる予定の、神前での結婚式の仕事を務められる方でした。
神社の正面に立ち、私もお参りさせて頂きました。その後、「湊川神社 宝物殿」という場所に行きました。建物は二階建てで、そこには「楠木正成」の生誕から「楠木正成」が亡くなるまでの、いろいろな資料や遺品が展示されていました。
一階には「楠木正成」が実際に身に着けていたという「鎧」がありました。その説明文には「300年来、竜野藩主脇坂家の家宝として蔵せられてきたのを、明治24年(1891年)湊川神社に奉納されました」とありました。二階には「東郷平八郎」の書になる「千載之一人臣子之亀鑑」という掛け軸もありました。
一階の左側の部屋にはビデオ室があり、そこでは「楠木正成」の一生が紹介されていました。そのビデオの中に現れた、「楠木正成」が息子・正行と別れる「桜井の別れ」の場面や、正行が弟正時と刺し違えて討ち死にした「四条畷の戦い」の場面などは、かつての日本人にとっては教科書で習い、唱歌などで歌い、誰でもが知り、誰しもが涙していたと私も聞いていましたが、21世紀に生きている私自身もこころ打たれました。
利害損得抜きで、最期に到るまで天皇に忠節を誓い、桜が散るように潔い一生を貫いた「楠木正成」でしたが、後世に与えた影響は実に深く、大きいものがあります。実は私の父は戦時中、近衛兵として「昭和天皇」と「今上天皇」の護りをしていました。「昭和天皇」がご病気の時、そして崩御の時には「テレビを観ながらお父さんは涙を流していたのよ」と、今回の「湊川神社」訪問の話をした時に、母から今年初めて聞きました。
私が日本に帰国し、故郷に滞在している時には、「数学者・岡 潔先生」の全集の本をいつも読み返しています。岡先生の本を読むたびに、「こころのふるさと」に帰ってきたような思いがします。岡先生は楠木正行ほか、日本史を彩る人物について次のように触れられています。
“新しく来た人たちはこのくにのことをよく知らないらしいから、一度説明しておきたい。このくにで善行といえば少しも打算を伴わない行為のことである。たとえば弟橘媛(おとたちばなひめ)が、ちゅうちょなく荒海に飛び込まれたことや莬道稚郎子命(うじのわきいらつこのみこと) がさっさと自殺してしまわれたのや、楠木正行たちが四条畷の花と散り去ったのがそれであって、私たちはこういった先人たちの行為をこのうえなく美しいとみているのである。
「白露に風の吹きしく秋の野はつらぬきとめぬ玉ぞ散りける」という歌があるが、くにの歴史の緒が切れると、それにつらぬかれて輝いていたこういった宝玉がばらばらに散りうせてしまうだろう。それが何としても惜しい。他の何物にかえても切らせてはならないのである。
そこの人々が、ともになつかしむことのできる共通のいにしえを持つという強いこころのつながりによって、たがいに結ばれているくには、しあわせだと思いませんか。ましてかような美しい歴史を持つくにに生まれたことを、うれしいとは思いませんか。歴史が美しいとはこういう意味なのである”
「岡 潔集」第一巻 ~日本的情緒~
岡先生の言葉はまさに至言であり、その予言は当たっているというべきでしょう。今の小中学生たちのどれくらいが、果たして「楠木正成」「楠木正行」「桜井の別れ」「四条畷の戦い」などについて知っているでしょうか、また教えてもらっているでしょうか。
「・・・くにの歴史の緒が切れると、それにつらぬかれて輝いていたこういった宝玉がばらばらに散りうせてしまうだろう。・・・」岡先生のこの言葉の重みをヒシと感じています。ベトナムにふだんいる私は、外国で暮らしていて、しみじみと「美しい歴史を持つくに・日本」を誇りに思っています。
「宝物館」を出ると、大勢の人たちが正装した服装で、神社に集まっていました。「宝物館」の受付の方に聞くと、「今から結婚式があるのですよ」と答えられました。最初に見た、衣冠束帯に身を包んだ男性が神社の前におられました。
この日は天気も快晴で、楠の若葉に溢れた、ここ「湊川神社」で挙式されるというのです。先ず新郎新婦が先頭を歩き、その後をこの日の結婚式に参加される人たちが楠に包まれた参道に集まっていました。それから、二列になってそこを静かに歩きながら、神社に向かって歩いていました。その数は40人ぐらいでした。その厳かな行列の姿を見ていて、大変感動しました。
今回初めて「湊川神社」を訪問し、境内の中に入り、いろいろなものを見て、いろいろなことを考えさせられました。時間にして三時間ほどでしたが、多くのことを学びました。しかし、今回私が見たのはまだまだその一部分だと思います。「朱舜水」の石碑の文を読み解くだけでもずいぶん時間が掛かりましたから。
やはり「湊川神社」は歴史が古いだけに、普通の神社とは別格の感じがします。これからも神戸に行く機会がある時には、必ずこの「湊川神社」を参詣するつもりです。
● 佐賀県『多久聖廟』の釈菜 ●
『多久聖廟』は佐賀県多久市にあります。毎年、春と秋の年二回(四月と十月)、そこでは孔子を祀る「釈菜(せきさい)」という行事が行われています。『多久聖廟』が建てられたのは、1708年と言いますので、今から310年も昔のことになります。「釈菜」も300年以上の歴史があるということです。
実は、今から20年ほど前に、両親と一緒にその「釈菜」を見物に行ったことがありました。そこへは車で行きましたが、車の中で父から「我が家の先祖はこれから行く佐賀県の多久市から来たのだよ」と言う話を聴かされました。
それから、はるかな時間が経ち、そこを訪れていたこと自体をすっかり忘れていましたが、昨年日本に帰国した時、春の「釈菜」は毎年<4月18日>に行われているというのをテレビで知りました。毎年放映されていたのかもしれませんが、その「釈菜」の内容をテレビで観たのは初めてでした。
しかし、昨年私が日本に帰国し、その番組を観た時には、その「釈菜」は終わった後でした。それで、昨年は行くことが出来ませんでした。今年は日本に帰国する予定日と、「釈菜」が行われる日との間に五日ほど余裕がありました。それで、昨年末頃から佐賀県までの移動経路と、「釈菜」についての情報を事前に集めました。
そして、今年の誕生日を迎えた3月30日に、ベトナムから佐賀県多久市役所の「観光課」にメールで問い合わせをしました。その時には私の氏名も添えました。
“今年の春の釈菜についてお尋ね致します。今年の「釈菜」の開始時間は何時からでしょうか。20年くらい前に一度「釈菜」を両親と一緒に見に行ったことがあります。その時には「多久氏」の子孫が来たと分かり、新聞社の取材を父が受けたことがあります。
実は、私は今ベトナムに住んでいまして、今日の3月30日で65歳になりました。今まで元気に過ごすことが出来たのも、両親、そして先祖のご加護のおかげだと思います。それで、65歳になったのを機に、今年は佐賀県の「多久聖廟」で行われる「釈菜」を是非見に行きたいと思います”
それに対して、多久市の「観光課」の方からは以下のような連絡を頂きました。
「開始時間につきましては、式典自体は朝10時ごろから始まりますが、それよりも前に、伝統的な衣装を着た祭官たちの入場等もございますので、9時半ごろには多久聖廟にお越しいただいているのがおすすめです」
さらにまた、「公益財団法人孔子の里」のKGさんからも丁寧な返信を頂きました。
「先日市役所へお問合わせいただいた件で、釈菜についてはこちらが主催として実施しておりますのでご連絡いたします。今年の釈菜については4月18日(水)で間違いございません。開始時間は午前10時からとなっております。
もしお越しいただければ、こちらとしても通常は許可しておりませんが、内部での観覧を準備し、おもてなしをさせていただければと考えております。その場合、お越しいただく方の人数、及び氏名を頂戴できればと思います」
そのような、実に有り難い、丁寧な返事を頂きました。そして、「その場合、お越しいただく方の人数・・・」という内容を読んで、(はて・・・)と思案しました。私は一人で佐賀県の多久市まで行き、一人で「釈菜」を見に行くつもりだったからです。でも、(同郷の多久一族の何人かと一緒に行くことが出来れば、それも意義深いな・・・・)と思いました。
私の故郷の村には今、「多久」姓を名乗る家が6軒あります。しかし、私が故郷に帰った時に顔を会わせて話をすることは少なく、ベトナムからメールや電話で連絡を取ったこともありません。それで、(どうやって、同郷の「多久一族」に連絡を取るべきか・・・)と迷いました。しばらく考えた時に、ふと一人の青年を思い出しました。
その青年とは、2009年4月号の「満月の夜の出会い」で触れた、ベトナムで私が初めて出会ったS君です。日本では会うことがなかったS君でしたが、奇縁ともいうべき偶然で、同郷で隣の家の「多久」姓の親族のS君にベトナムで出会ったのでした。
彼は私と同級生の弟くんの子どもでした。S君とは今でも連絡がつきますので、彼から隣の家にいるS君の親族に「釈菜」のことを知らせてもらい、同郷の村にいる「多久」姓の数家族に、「釈菜」に参加が可能かどうか聞いてもらうようにしました。S君も「わかりました。私の叔父さんに聞いてみます」と連絡をくれました。
しかし、その後S君から来た返信では、今年の「釈菜」が行われる4月18日は平日でもあり、みんな早くから予定を入れていたようで、残念ながら参加出来ないことが分かりました。私がS君に連絡したのは「釈菜」の直前でしたので仕方がありません。それを聞いて、(よし、今年は一人ででも行こう!)と決めました。
感慨深いのは、「釈菜」が行われる<4月18日>というこの日です。実は、<4月18日>は私の父の命日であり、さらには私の祖父の命日も同じく<4月18日>なのです。この同じ日に重なる繋がりには、何か不思議な縁を感じています。
そして、故郷に帰り、「多久聖廟」に行く数日前、我が家の仏壇の横に「多久家の系図」が書いてある一冊の書物をたまたま眼にしました。その書物の題名は「家録」。世代第一代の名前には「多久庄太郎」と言う名前があり、慶応元年生まれと書いてありました。私の家は、今ある「多久家」の本家から分かれた家になっています。
興味深いのは、この書物に挟んで保存してあった新聞記事です。その日付けは、昭和55年(1980年)4月7日となっていました。今までをそれを読んだことがなく、今年初めてこの記事を眼にしましたが、おそらく、亡き父が保存していたのでしょう。その記事のタイトルには「12年間続くいとこ会~佐賀の殿様の末裔30人」と書いてありました。以下がその記事の内容です。
「元佐賀の殿様・多久宗真の末裔という、玉名市石貫にあるその本家、玉名市や県内、県外に散らばった八つの分家のいとこたち合わせて三十人が十二年前からいとこ会を作っており、年に一回の例会が六日、玉名温泉・大和荘で開かれた。
多久家は嵯峨天皇の血流を引き、鎌倉時代に宗真が摂津の国(現在の大阪府)から源頼朝の命を受け佐賀に赴き、元禄時代に鍋島家との勢力争いに敗れて、玉名・北石貫に一族が逃れて農業をしながら家系を受け継いできたという。・・・
もともと、いとこ会は九つある家が毎年持ち回りの形で宴席を設けて近況を知らせ合ったり、親睦を図る意味で行われてきたが、これが一巡、ここ三年間は玉名温泉で開かれている・。・・・大阪から駆けつけたという多久幸雄さん(64)は“古い歴史を守るために団結して家系を受け継がなくては”と語っていた」
現在「いとこ会」は皆さんが高齢になり、亡くなられた方も多いので終了しています。
この記事中にある「多久幸雄」さんは、石貫村にある多久家の本家に繋がる人で、大阪で税理士をされていました。私も20代半ばの頃、一度大阪でお会いしたことがありましたが、今は亡くなられています。この方は歴史に造詣が深く、『肥前多久家のこと』という本を著されました。我が家にもそれが一冊あります。
「多久幸雄」さんにお会いした時、次のように言われました。「自分は60歳を超えた頃から今に到るまで、多久家の先祖についての関心が深まり、多久家のことについていろいろ調べている。それをいつか本にしたい」と。それが結実したのが、『肥前多久家のこと』という本でした。
今年で私は65歳になりました。自分自身では今まであまりそのことを意識してはいませんでしたが、どういうわけかこの歳になった時、不思議と私自身も自分の先祖のことに想いを馳せることが多くなりました。(自分の先祖は一体どこから来たのだろうか・・・)と。それが、佐賀県「多久市」なのでした。
20年前に「多久聖廟」に行った時の記憶は薄れていましたが、今年は玉名からの出発と佐賀県多久市までの到着を詳しく記録し、多久市で何があったのかも手帳に細かく書きました。多久市までは車で行くことも考えましたが、道順に不案内なので電車で行くことにしました。
当日は、朝6時47分に新幹線で新玉名駅発。そして、新鳥栖で長崎本線の「肥前山口行き」に乗り換え。さらに、久保田で唐津線の「唐津行き」に乗り換えて、8時20分に「多久駅」着。自分の苗字と同じ名前の駅に初めて足を降ろしました。自分の姓と同じ駅名が書いてある看板をしばらくじーっと見つめていました。不思議な感じがしました。
駅の周りを見回すと、高い建物は少なく、遠くには緑の森に包まれた山々が見えます。私の故郷にある山と姿が似ている山もありました。多久市は「山と森に囲まれた地」という印象を受けました。地図で確認しますと、確かに多久市は四方を盆地に囲まれた場所にあります。
多久駅に着いた時には、そこで降りる人も多くはありません。改札口を出る時、年配の駅員さんに聞きました。「帰る時にもこの電車を利用しますが、一時間に何本出ていますか」と。すると、「そうですね。一時間に一本しかありませんよ」という答えでした。駅員さんもその方一人しかおられませんでした。
改札口を出た所には「孔子の里 多久~温故而知新」と書いた案内板があり、その横には「多久聖廟MAP」と題した資料がありました。それを二部ほど頂きました。階段を下りて駅前の広場に出ると、当然タクシーが数台は待機しているだろうと思いましたが、一台もいませんでした。タクシーが来るまでしばし待つことに。
駅前の広場には大きな看板が写真付きで立てられています。その説明文は日本語と英語で書いてありました。タクシーを待つ間、「多久聖廟MAP」を読んでいましたが、それに「多久聖廟」について実に分かり易く書かれていたのでご紹介します。
“多久聖廟は、儒学の祖で学問の神様ともいえる孔子様を祀る廟(孔子廟)です。多久4代領主多久茂文は、多久を治めるためには教育が必要と考え、1699年に学問所(後の東原庠舎)を建てるとともに、「敬」の心を育むために多久聖廟を建てました(1708年)。
現存する孔子廟としては、栃木県の足利学校、岡山県の閑谷(しずたに)学校に次いで歴史のある建物で、国の重要文化財に指定されています。建築様式は禅宗様仏堂形式です。創建後、毎年2回孔子様と四配(顔子・曽子・子思子・孟子)を祀る伝統行事「釈菜」を開催しています”
そして、数分後、一台のタクシーが来ました。車の中で運転手さんにいろいろ聞きました。「多久市の人口は何人ぐらいですか。多久市には今も多久姓の人たちがいますか」と聞きますと、「炭鉱が閉山された後、人口が減り、今は2万人ぐらいですよ。多久市には多久姓の人はいないと思います。私も多久市の生まれですが、私の同級生にも一人もいませんでした」と、その運転手さんが答えられました。
十数分ほどして、「多久聖廟」入り口前にある「物産館」に到着。そこでタクシーを降りて、「多久聖廟」まで歩いて行くことに。周りの風景は緑したたる山と森が迫っています。四月半ばですので、萌えるような若葉が芽吹いています。ここは実に、自然美に溢れた雰囲気の中にありました。
途中、江藤新平(1834~1874)が詠んだ漢詩を刻んだ石碑もありました。江藤新平については、私が大学生時代のずいぶん昔に、「司馬遼太郎さん」の歴史小説「歳月」を読んだ記憶が、この石碑を見た時に蘇りました。司馬さんの小説を読んで、江藤新平の人生最期の結末を知った時、(何という凄絶な人生だろうか・・・)と、唸るような強い印象を受けました。
江藤新平は佐賀県人ですが、彼もここを訪れていたわけです。この石碑を見た時、江藤新平に対して非常に親近感が湧いてきました。江藤新平の漢詩は以下です。江藤新平が訪れた時から、ここの風景は変わっていないなーというのが良く分かる詩です。
<聖廟詣>
蔓柏茂松緑欲流 蔓柏茂松(まんぱくもしょう)緑流れんと欲す
聖祠人絶昼悠々 聖祠(せいし)人絶(ひとた)えて昼悠々(ひるゆうゆう)
西瞑猶有尼丘月 西瞑(せいめい)猶尼丘(なおにきゅう)の月ありて
却照扶桑六十州 却(かえ)って照らす扶桑(ふそう)六十州
そこを過ぎて、いよいよ「多久聖廟」に続く参道を歩いてゆきます。「多久聖廟」が見えてきました。1708年の創建と言いますから、310年経っているわけです。「仰高門」と呼ばれる門の先に「多久聖廟」が建っています。古色蒼然という形容が相応しい姿です。
「仰高門」が見える左手には高い樹木が聳えています。パンフレットを見ると、それが「楷樹(かいじゅ)」でした。「推定樹齢60年」と説明がありました。この樹木は岡山の 「閑谷学校」でも見たことがあります。「孔子」の弟子「子貢」が、中国の山東省曲阜市にある孔子の墓の横に、この楷樹を植えたという言い伝えがあります。
ここの「楷樹」は、鹿児島第七高校(今の鹿児島大学)から寄贈されたもので、大正14年にここに植樹されたと書いてありました。ちなみに、多久市は曲阜市と「友好都市」を締結し、今年で25年間の友好交流があると言います。
「仰高門」の手前に受付があり、そこで自分の名前を申し出ました。そこには、私の名前が受付用紙に記入してありました。さらに、私と同じ「多久姓」の人が他に一人おられました。しかし、その方と今回直接お話をする機会はありませんでした。受付で見た「多久姓」は、その方と私の二人だけでした。
受付の人に「KGさんはおられますか」と尋ねますと「少しお待ちください。今から呼んできますので」と言われて、「多久聖廟」の方に行かれました。そして、一人の男性を伴って帰って来られました。その男性がKGさんでした。
私が「今回は本当に有難うございました。ご親切に連絡を頂いたおかげで、今日ここに来ることが出来ました」と挨拶しました。KGさんは笑顔で「お待ちしていました。釈菜が始まるまでに、まだ少し時間がありますので、すぐ近くにある東原庠舎の方を見物して、9時半頃にここに戻って来てください」と言われました。
それで、「釈菜」が始まるまでの間、その「東原庠舎(とうげんしょうしゃ)」に足を向けました。そこにはこの「多久聖廟」に関したビデオや、様々な資料が展示されていました。「東原庠舎」については、頂いたパンフレットに次のように書いてあります。
“ここ多久では三百有余年前の元禄十二年(1699年)に学問所が出来ました。邑主・多久茂文公が設けた学校です。1700年に「学寮」、1718年から「東原庠舎」となります。
「東原庠舎」は、学問を好み、孔子を尊敬した多久茂文が元禄十二年(1699年)に建立しました。この学舎は身分の区別にかかわらず、誰もが学ぶことが出来た、当時としてはユニークな学校でした。
明治初期には、日本最初の工学博士・志田林三郎や明治刑法の草案者・鶴田斗南などの優れた人材を輩出しています。「庠舎(しょうしゃ)」とは地方の学校の意で、「東原庠舎」はこの地区の東の原という名称を冠した校名です”
驚くべきことは、この学校は今から三百年以上も昔に開校したにもかかわらず、その活動が今も連綿として続いているということです。単なる観光名所ではなく、この学校では現在も「論語カルタ大会」や「全国漢詩コンテスト」や「論語教室」などが行われていて、この施設の中で宿泊研修も出来るというのです。また中国への音楽講師の派遣なども行われているといいます。
この「東原庠舎」には、小学生や中学生たちが「論語カルタ」で「論語カルタ大会」の競技に参加している写真もありました。実際に、2017年4月1日発行の「鶴山書院報」という冊子には、このカルタ大会に参加して入賞した生徒たちの名前が載っていました。下は【幼稚園・保育園の部】から上は【高校・一般の部】まで載っていましたので、幼い頃からこの「論語カルタ」に親しんでいることが分かります。
「論語カルタ」については、この学校の中でも販売されていることを知り、早速その場で購入しました。一枚一枚のカルタは文と絵で構成されていて、小中学生でも大変馴染みやすいものになっています。その解説書には次のように書いてあります。
【この「論語カルタ」は教訓の結晶のような論語の言葉から100の言葉を選び出し、百人一首のカルタ風にして、論語のすばらしい教えをわかりやすく親しみやすくするために作成したものです】
その「論語カルタ」の中の数例を紹介します。「天何をか言わんや 四時行われ 百物生ず=天は何も言わないけれども、春夏秋冬は自然とめぐっており、すべての物が生まれている」。「歳寒うして然る後に 松柏の凋(しぼ)むに 後(おく)るるを知る=歳末の厳しい寒さにも松や柏の葉は落ちない。人も普段は分からないが、大変な時にほんとうの強さがわかる」。
漢文のほうは小中学生にはまだ読めないでしょうが、日本語に訳したほうは読むことが出来るでしょう。最も、その意味が深く理解出来るのは長じてからになるでしょうが。しかし、こういう学校が日本の他の地区に果たして幾つあるでしょうか。まさしく、ここは「文教の里」と言っていいでしょう。
時計を見ると9時を少し過ぎましたので、「多久聖廟」のほうに戻りました。そこにKGさんが待っておられました。そして私に次のように言われました。“今日は「多久聖廟」の廟内の中にあなたの席を設けていますので、今から案内します”と。それを聞いた私は大変驚きました。私は単に一人の参加者のつもりで、今回ここに来たのでしたから。
その席まで案内されました。確かに、私の席が「多久聖廟」の中に設けてありました。私の名前が椅子の上にテープで留めて貼ってありました。KGさんがそれを剥がして、「どうぞこの席に座ってください」と言われました。良く見ますと、それは「来賓」 の方のために設けられていた席でした。
「来賓」の席には四・五人ぐらいの席が用意されていました。その一つに私の席を作って頂いていたのでした。私は大変恐縮しました。私の隣の席には、年配の男性が座っておられました。名刺交換をさせて頂きました。その名刺には「孔子の里」の「常務理事・HM」さんとありました。
そして、ちょうど10時に「釈菜」が始まりました。最初は「詣廟(けいびょう)」から始まりました。<聖廟に詣でる>という意味の儀式でしょう。「祭官(さいかん)と伶人(れいじん)の入場です」と言う放送がありました。その先頭には水色の服を着た男性が現れて、その後を十人ぐらいの人たちが続いています。全員男性です。HMさんが言われるには、水色の服を着た人は多久市の市長だということでした。
その後に続く人たちは、「市議会議長」「教育長」「小中学校長」などの人たちだということです。全員が中国の明時代の祭官服を身にまとい、伶人は烏帽子(えぼし)に直垂(ひたたれ)をまとっています。事前に頂いた資料では、毎年の春季「釈菜」のプログラムは次のようになっています。
(1)執事・伶人 入場 10時00分~10時20分(聖廟参道)
(2)献官・祭官 入場 10時20分~10時30分(聖廟参道)
(3)釈菜(せきさい) 10時30分~11時30分(聖廟内)
(4)釈菜の舞 11時30分~11時45分(聖廟境内)
(5)参列生徒の唱歌 11時45分~11時50分(聖廟境内)
(6)揚琴の調べ 11時50分~12時00分(聖廟境内)
(7)孔子の里腰鼓 12時00分~12時10分(仰高門前)
~お呈茶10時~14時(東原庠舎)~
さらに「多久聖廟釈菜式順」という資料には、最初の1番目にある「詣廟」から始まり、最後は92番まで並んでいます。式が始まると、伶人と呼ばれる方による、雅楽の演奏が始まりました。それを演奏しておられるのは、何と全員が多久市役所の職員の方々だとHMさんからお聞きして、大変驚きました。市役所の職員の方々は普段の公務と併せて、毎年二回行われるこの「釈菜」の楽器の演奏も練習されているというのです。
もっと驚いたのは多久市長の奮闘ぶりでした。多久市長は水色の祭官服に身を包んで先頭を歩いて廟内に入られましたが、この1番から92番までの式順を全て踏まれて、釈菜を行われていたのです。一時間掛けて行われる「釈菜式順」の中には、<俯伏・興・拝・興・拝・興・平身>という動作が全部で約10回あります。
その漢字が意味するところから大体の内容がお分かりになるかと思いますが、要は「孔子」「顔子」「曽子」「子思子」「孟子」に対する尊敬を込めて、「立つ⇒座る⇒平伏する」などの動作を繰り返して行うことです。先哲たちに供物を捧げるたびに、それらの動作が繰り返し続きます。
私はすぐ側で多久市長の動作を見ていましたが、一時間の中でそれを間違いなく何回もされているのを見て、(何という密度の濃い儀式だろうか・・・)と感じ入りました。多久市長は、普段の市長職の仕事も務めながら、年二回のこの「釈菜」の儀式もこなされているのです。(多久市の市長の仕事は、実に大変な職務だな・・・)と想像しました。
式の最後の頃になると、「読詩(どくし)」というのが始まりました。これは日本全国からこの「釈菜」に寄せられた漢詩を献じる儀式で、その幾つかが読み上げられました。その全員の方の漢詩が載っている冊子を私も頂きました。そこには47名の方の漢詩が掲載されていました。その冊子の名前は「春季釈菜」です。
その漢詩は全て絶句形式で、【七言絶句】あり、【五言絶句】ありでした。しかし、今の日本でこういう漢詩を毎年の「釈菜」に合わせて作られている方がおられるというのは大変な驚きです。私自身も漢詩を読むことはあっても、作ることはほとんどありませんから。
一時間掛けて「釈菜」が終わると、次は「釈菜の舞」です。この「釈菜の舞」は二千年前から中国に伝わる伝承的民俗芸能との言い伝えがあり、この「多久聖廟」では、その舞を小中一貫校の西渓校の生徒さんたちが舞っていました。これにも驚きました。
その後は、「参列生徒の唱歌」の儀式が始まりました。小中学生の皆さんたちが歌っていた歌は、「孔子」や先哲たちに捧げる歌でした。以下のような歌詞がありました。「文宣王」とは孔子を指します。
一
大聖至聖文宣王 (たいせいしせい ぶんせんおう)
その徳 世界に溢れたり (そのとく せかいにあふれたり)
嗚呼孔夫子 孔夫子 (ああこうふうし こうふうし)
夫子は 国の基なり (ふうしは くにのもといなり)
二
仰げば高き 孔夫子 (あおげばたかき こうふうし)
其仁天地に満充てり (そのじん てんちにみちみてり)
振兼ねたる 王道を (ふるいかねたる おうどうを)
興して 道を示させり (おこして みちをしめさせり)
その次には、小学校の生徒さんたちによる踊り「腰鼓(ようこ)」というのがあり、最後に中国人の方の演奏で「揚琴(ようきん)の演奏」もありました。「揚琴の演奏」は大変懐かしい、こころに響く音色を奏でた演奏で、私のこころに深く染み入るものがありましたが、他の日本人からもアンコールの拍手が起きていました。
しかし、この「釈菜」の儀式の中で私が一番感動したのは、やはり小学生や中学生や高校生たちによる歌唱や踊りです。今の日本で「孔子」や「論語」について幼い生徒たちに教えている場所や学校が果たして幾つあるでしょうか。寡聞にして知りません。況や、本家本元の中国では「孔子」が説いた「儒教」の教えは<批林批孔運動>の後、徹底して追放されたのですから。それに対して、
(この多久市では、孔子を敬う教えが今もずっと生き続けている・・・)
そのことに、実に深い感嘆の念を覚えたのでした。もちろん、まだ幼い小学生や中学生たちは孔子という人がどんな人物で、どんな教えを説いたのかについて、深く知っていることは少ないでしょう。
しかし、将来彼らが長じた時、(ああー、あの孔子とはそういう人だったのか・・・)と理解出来る時が訪れることでしょう。それでいいのだと思います。昔の日本の寺子屋で子どもたちが学んでいた時の教育も、まさしくそのような(長じてからしみじみと理解出来る)教え方だったのですから・・・。
「敬は一心の主宰、万事の根本にして、万世聖楽の基本たり」・・・これは多久4代領主・多久茂文が著した「文廟記」に出ている言葉だそうですが、多久茂文が目指した「敬」の心を養う理想は、この「釈菜」の儀式に参加した小・中・高校生たちの心の中に自然と養われてゆくことでしょう。「釈菜」の最後の儀式が終わった時、私のこころの中には深い感動の余韻が続いていました。
「釈菜」のすべての儀式が終わり、聖廟の中から私が出た時、KGさんが私に向かい「実はFM佐賀の方が“ベトナムから来られたあなたにインタビューしたい”と言われていますがよろしいですか」と言われました。私は「いいですよ」と答えました。すると、男性と女性の二人の方がすぐに現れ、私にマイクを向けて「この釈菜をご覧になられてどう思いましたか」と質問されました。私は正直に次のように答えました。
「大変感動しました。特に、この釈菜の行事を大人たちだけで運営しているのではなく、小学生・中学生・高校生のような若い人たちも一緒になって創り上げ、盛り上げていることに、涙が出るほど嬉しく思いました。また不思議な縁だなと思うのは、私の父と祖父の命日が、実は今日の釈菜の日と同じ、4月18日なのです。何か繋がりがある感じがしています。この釈菜の儀式はこれからも350年、400年、500年・・・と、ずっと続けて欲しいと願っています」
その後、「東原庠舎にお弁当が用意してありますの、この後そちらで召し上がってください」とKGさんが言われましたので、そちらに向かいました。部屋の中に入りますと、「孔子の里」の「常務理事」のHMさんが座っておられましたので、その隣に座りました。HMさんの前には年配の女性が一人おられて、二人で話しておられました。
その年配の女性に、HMさんが私の名前を紹介されました。すると、私が「多久」姓だと知り、その方は身を乗り出して、私にいろいろ質問されてきました。その方に私は、「自分は普段ベトナムにいること」。また、この「釈菜」に参加するまでの経緯を話しました。
その方のお名前はNYさん。彼女は大変な博識で、「杜甫の研究をしています」と話されました。今年、日本全国から献じられた漢詩を載せている「春季釈菜」の中にも、彼女の漢詩がありました。「七言絶句」の詩です。やはり、漢詩に造詣の深い方のようでした。以下が彼女の漢詩です。
<釈菜拝孔子石像>
緑翠朱甍霞彩陳 緑翠(りょくすい)朱甍(しゅぼう) 霞彩(かさい)に陳(つら)なる
庭訓献詩通曲阜 庭訓(ていきん)の献詩(けんし) 曲阜(きょくふ)に通じ
徳高碑誌永陽春 徳高(とくたか)き碑誌(ひし) 永(とこし)えに陽春(ようしゅん)ならん
さらには、この「孔子の里」の常務理事のHMさんの漢詩も載せられていました。HMさんは普段は学校の先生をされていると言われました。私よりも少し若い方のように見受けられました。それだけに、以下のような漢詩を作られていることに大変感動しました。
<戊戌春季丁祭献詞>
春風駘蕩鶴山邊 春風(しゅんぷう)駘蕩(たいとう) 鶴山(かくざん)の邊(ほと)り
釈菜厳修廟堂莚 釈菜(せきさい)厳修(げんしゅう)にして 廟堂(びょうどう)の莚(えん)
祝者清躯従旧節 祝者(しゅくじゃ)は躯(み)を清めること 旧節(きゅうせつ)に従(したが)い
恭謙拝跪聖龕前 恭謙(きょうけん)拝跪(はいき)す 聖龕(せいがん)の前
このような漢詩を作られている二人の方が、私の眼の前におられたのです。NYさんはHMさんの漢詩に対して「ここはこういう表現にしたほうがいいですよ」とアドバイスされていました。私はこの日初めてNYさんにお会いしましたが、NYさんは漢詩に深い知識を持たれているなと感じました。漢詩の世界で、他の人に対してそのようなアドバイスが出来るというのは、並大抵のレベルではないでしょう。
それだけに、(「多久聖廟」の「釈菜」は何と密度の濃い、内容深い儀式なのだろうか・・・)と、あらためて感じ入りました。日本全国を見渡しても、300年以上の昔から、こういう密度、内容の濃い、充実した儀式を今に到るまで続けている所は少ないのではと思います。
「東原庠舎」でHMさんやNYさんとしばらく話した後、今回の「釈菜」に参加させて頂いたお礼を述べて、「多久聖廟」にお別れしました。お二人とのお別れも、大変名残惜しかったです。来年日本に帰国した時の日程が合えば、是非また「多久聖廟」に行きたいと願っています。
ベトナムBAOニュース
「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。
今月はお休みです