【2019年10月号】ベトナム北部への旅・後編/ベトナム人特定技能労働者受け入れ、日本の全旅連が協力覚書
春さんのひとりごと
ベトナム北部への旅・後編
今回の<ベトナム北部への旅>は最初の日から最後まで「台風の襲来」で毎日・毎日が雨続きでした。皆が楽しみにしていたメインの「観光地巡り」が中止になるし、雨が降る中を強行した小舟での観光もありましたが、参加者たちには大変辛い観光になってしまいました。
しかし、旅が終わるとそういう辛い行程の中、Yen Tu山に上った時などはお互いに手を引いて助け合ったり、雨が降る中では傘を差してあげたりと、「みんなで助け合いながら旅行が無事に終わったのだ!」という、強い連帯感が生まれた感じも致します。
さらに、私たちの家族にとっても、今までのように私一人だけの参加とは違い、「台風の襲来」の移動中は、いつも遅れて来る女房や娘の後ろを振り向きながら、何度も待ちながら、ゆっくりと歩いていました。毎日、バイクで移動している「サイゴン生活」では有り得ない「3泊4日の旅」になりました。
そして、サイゴンに戻る前日に、ハノイの地で迎えた<女房の誕生日祝い>。友人の協力で「サプライズの演出」を成功させることが出来ました。それもまた、サイゴンでは実現出来なかった出来事でした。結果として、家族の絆を深めることにもなった、今年の「社員旅行」になりました。
● 北部への旅 3日目:「Trang An (チャーン アン)名勝遺跡群」観光 ●
北部への旅も3日目に入りました。この日は朝5時半頃起きて、窓の外を見ますとやはり雨が降っています。さらには、窓の外から大変ヤカマシイ声が聞こえてきました。ホテルの中にある体育館のような施設の中に多くの若者たちが集まり、何かの声援をしているらしく、時折大きな声で叫んでいます。この時には、何の集まりなのかは良く分かりませんでした。
6時半に家族で一階に降りてビュッフェに入りました。しばらくすると、オレンジ色の制服を着た若者たちの集団がドッと入って来ました。先ほど体育館で大きな声を上げていた若者たちのようです。背中には「体操クラブ」の名前が書いてあります。その若者たちがドンドンと入ってきて、私たちと同じビュッフェの料理に向かいます。
朝早くから活動していて、よほど彼らもお腹が空いていたのでしょう。大皿に盛られていた料理を次々と自分が持っている小皿に取っていきました。先ほどまで山盛りにして置いてあった料理が見る間に無くなりました。私たち家族は早く行ったのでありつけました。
私自身は旅の時に朝はあまり食べないので問題はないのですが、隣に座っていた家族連れは、席に着くのが少し遅くなって、家族の中にいた一人の男の子が「ボクが食べたいものが無くなったよー」と悲しそうな顔をしています。それを見て、思わず笑いました。
ビュッフェでの食事を終えた後、8時15分にホテルを出発。 今日の観光は「Trang An (チャーン アン)名勝遺跡群」の観光です。 Nhin Binh省には「Trang An名勝遺跡群」というものがあることを今回初めて 知りました。
「Trang An 名勝遺跡群」は5つの地区(ホアルー区、ザービエン区、ニョーク アン区、ニンビン市、タムディエップ市)の範囲にまたがり、2014年7月に ベトナム国内で初めて「世界複合遺産」に認定されたということでした。 私が持っているガイドブック「個人旅行ベトナム」は2000年版ですが、 やはり、「Trang An 名勝遺跡群」の項目は有りません。 まだその当時は全然知られていなかったということです。
その「Trang An 名勝遺跡群」には、「チャーン アン景勝地」、「古都ホア ルー」、「タム コック渓谷」、「ビック ドン寺」、「トゥン ニャム」、 「ティエン ハー洞窟」。そして、昨日訪問した「バイ ディン寺」などがある ということでした。この日に見物するのは「チャーン アン景勝地」で、船頭 さんが櫓で漕ぐ、小さい船に乗って観光することになりました。
私が20年前に北部へ旅行に行った時、Sinh Cafeのツアーを利用してNhin Binhまで行きました。その時、「タム コック渓谷」と「古都ホア ルー」にも行きました。「タム コック渓谷」も同じように小舟に乗って観光しました。小舟が進んでゆく両側には田んぼが広がり、稲が植えられていました。ちょうど稲が熟れた時期だったからなのか、左右に広がる田んぼが黄金色に輝いていて、実に美しい光景でした。
「古都ホア ルー」については、L専務がバスの中で次のように解説してくれました。
「ベトナムは紀元前の昔から10世紀まで中国の支配下に ありました。そして、約1000年前に中国の支配を離れ、独立したのが968年で、ホア ルーに首都を置きました。 その時からベトナムの歴史が始まりました。 しかし、この最初の首都のホア ルーもわずか40年で終わり、リー王朝が 始まりました。リー王朝は首都をホアルーからハノイに遷しました。それは1010年のことでした」
「そして短期間ながらタイン ホアに首都が遷り、さらにその次にまたハノイに 戻りました。その後、1802年阮朝が始まりましたが、阮朝は中部のフエに 都を遷都しました。その、阮朝は1945年の第二次大戦の終了とともに終わり ました。その後、またハノイに首都を遷して今に至っています」
バスは8時半にはTrang An観光をする場所に着きました。そこから小舟に乗り、 Trang An観光に行くわけですが、まだまだ雨が降り続いています。靴を履いている人たちも多かったので、皆は土産物売り場にあったビニールのレインコート とゴム草履を買っています。レインコートはYen Tu山に上る時に買ったのが まだ使えたので、家族3人分のゴム草履を買い、その場で履き替えました。 レインコートも小舟に乗る前に着ました。
さらには、ベトナムの女性の人たちがよく被る菅笠(ノン ラー)も購入。 外はまだザーザーと雨が降り続いていますので、ペラペラのレインコート1枚 ぐらいでは頭も顔もびしょ濡れになってしまいます。 それで、このノン ラーは買っておいて正解でした。
カメラで写真を撮ろうとする時にこれが無かったら、直接カメラの機体に雨粒がかかりますから、カメラ自体がポケットから取り出せないのです。(しかし、Trang An観光をすると言いながら、果たしてこの強い雨の中を小舟で行けるのだろうか・・・)と誰しもが思いました。
まだこの時間でも代案は示されませんでしたから、このまま続行ということです。でも、小舟には多くても4人ぐらいしか乗れません。それで、一艘の小舟には私たち3人の家族だけが乗り込みました。頭の上にはノンを被り、その下にレインコートを着て、さらにその上にはオレンジ色をしたライフジャケットまで着込み、ズボンの裾をまくり上げ、裸足にゴム草履・・・と、珍妙な出で立ちでの「Trang An観光」になりました。
9時10分に小舟に乗って出発。小舟の漕ぎ手はおばさんで、年齢を聞くと55歳でした。2010年からこの「小舟による観光」がスタートして、それ以来ずっとこの仕事をしているとのこと。最初に着いた所には小さいお寺がありました。皆がそのお寺に参りに行きましたので、私たちもその後に付いて同じようにお寺の中に入りました。
そのお寺に入る前、入り口で皆が靴やサンダルなどを脱いでいるので、私もゴム草履を脱ぎました。昨日のBai Dinh寺を見物した時も、お寺の中に入って仏像を見た時には、その入り口で皆が靴やサンダルを脱いでいました。宗教的な建物ではそういう振る舞いが自然に行われています。以前、「ミャンマーでも同じだ」と、ある人が書いた「旅行記」で読んだことがあります。
中には仏像がありました。お参りが済んでお堂を出た時、ゴム草履を履こうとして、脱いだ場所を見たらそれが無い!誰かが間違えて履いて行ったのか、それとも盗られたのか、良く分かりません。しかし、余った履物は無かったので、誰かが失敬していったのでしょう。
自分の名前を書いているわけでもないし、同じ色の同じ形のゴム草履ですので、他人が履いていても確かめようがありません。仕方がないのでこの後はずっと裸足での歩きになってしまいました。皆が私の足元をチラッと見ているのが分かりますが、無いものは仕方がありません。でも、平坦な道が続いていたので、足の裏はあまり痛くはありませんでした。
小舟巡りで鍾乳洞の中を通るコースがこの後続くのですが、このTrang Anは ハリウッドの映画『キングコング: 髑髏島の巨神』の舞台にもなったという話で 実際にその時の撮影で使われた戦闘機らしいものが展示されていました。 ここの奇岩が続く風景や青空に映える美しい舞台は、キングコングが暴れまわる 映画の舞台にふさわしかったのでしょう。
さぁー、それからが小舟による鍾乳洞巡り。
しかし、この時もずっと雨が降り続いていたので、晴れた日ならば青空と水面に 映えて美しく見えるはずの奇岩と緑の木々の景色も全然見えません。Trang Anを小舟で観光するのは (晴れた日であったならばどんなに感動的だったろうか・・・)と、 今でも大変残念です。
しかし、小舟による観光地巡りをしている時、雨で景色が煙る中、前を進んで いる小舟が左右に並び立つ、緑の木々に覆われた岩山の間に吸い込まれるようにだんだんと小さくなり、まるで「山水画」を眺めているような気持になりました。 小舟が浮かぶ水面も大変キレイで、水面に手を入れて水をすくうと、透き通った ように澄んでいました。 そして、この日は雨の中、最終的に4つほどの鍾乳洞を小舟で巡りました。
鍾乳洞と言っても、その天井の高さは、私たちが乗り込んだ小舟がやっと通れるほどの高さしかありません。さらに、天井からは長い鍾乳石が至る所に垂れていますので、注意しないと頭をぶつけそうになります。そういう鍾乳石が下に垂れ下がっている場所に近づいた時、おばさんが「頭を下げて!」と注意してくれました。
4つの鍾乳洞を小舟で巡っている時、外は雨が降っているのでカメラを使って写真を撮ることが出来ず、止むを得ず鍾乳洞の中だけの写真を撮りました。雨が降る外ではサッとレインコートの下にカメラを隠し、鍾乳洞に入った時にカメラを取り出して写真を撮る。これを何回も繰り返すことになりました。
そのうちに、カメラの調子がオカシクなり、電源を切ってもレンズが戻らなくなりました。こんなことは初めてでした。当然、それから後の写真はしばらく撮ることが出来なくなりました。後ほど、バスの中に戻ってレンズを乾かしていましたら、しばらくして何とか元には戻りました。
後日サイゴンに戻り、この時の鍾乳洞内で撮った写真を見ましたら、真っ暗な 写真ばかりが多くて、鍾乳洞内がはっきり見える写真はほとんどありません でした。残念です。それこそ、ハロン湾の時も (せっかくハロン湾まで来たのに・・・) と、同僚の先生が言いましたが、このTrang Anも (せっかくTrang Anまで観光に来たのに・・・) という結果になりました。
そして、小舟によるTrang An観光が終わり、お昼の12時にスタート地点に 戻った時、皮肉なことにちょうど雨が止みました。これから、Trang Anを出て レストランに向かいます。12時半過ぎにレストランに到着。 そこでも「ヤギ肉料理」が出てきました。 午後1時半にレストランを出ましたが、また大雨になりました。 これから一路、ハノイに向かいます。ハノイでは、「ホテル呉竹荘」と言う、 日本の名前が付いたホテルがこの日の宿です。
ハノイまではバスで3時間ぐらい掛かるというのでみんなバスの中で寝ています。外はまだ大雨が降り続いていましたので、外の景色もあまり良く見えません。私の女房と娘も眠りました。私は「さすらいのイベント屋」のNMさんに、「今いる場所」「ハノイに入る頃の時間」「ホテルで落ち合う時間は夕方6時」と打ち込んだ内容のメッセージを送りました。NMさんからはすぐに連絡が来ました。「了解しました!ケーキの手配も終わりました」と。
「ホテル呉竹荘」には割と早く、3時20分に到着。 市内中心部にある「ホアンキエム湖」からはさほど遠くない場所にあります。 フロントの近くの部屋には日本の漫画の本もたくさん有り、娘も喜んでいます。 ホテル内にいた従業員に「このホテルのオーナーは日本人なの?」と訊くと 「そうです」との答えでした。
● 「ブンチャー オバマ」の店へ行く ●
部屋に荷物を入れると、娘が「ハノイ名物のブンチャーを食べたい!」と言う のでした。「ブンチャーならサイゴンにもあるじゃないか」と、私が言うと、 「そうだけど、ハノイでハノイ名物のブンチャーが食べたいの!」との答え。 私もブンチャーは大好きなので、「良し、今からブンチャーを食べに行こう!」 と決めました。
サイゴンにいる時、麺料理の中で、私はフォーやフーティウはスープ自体が熱く、フー・フー言って汗を掻きながらスープを飲み、麺を食べることになるので、最近はほとんど食べません。それに比べて、ブンチャーはスープが熱くもないので汗を掻かないで食べることが出来ます。かと言って、スープが冷たくもなく、食べやすいのです。また、私はブンの麺のほうが好きです。女房もブンチャーを食べに行くことに同意しましたので、3人で出かけることに。
NMさんとは6時にホテルで待ち合わせなので、ブンチャーの店に早く行き、 早くホテルに戻らないといけません。私は(ハノイでブンチャーを食べるなら 是非あそこに行こう!)と、前々から考えていた店がありました。 オバマ大統領が食べに行ったブンチャーの店です。 どういう経緯でオバマ大統領がそういう庶民的な店に行かれたのかは分かり ませんが、サイゴンにいる私たちの間でも大変話題になりました。
2016年5月にオバマ大統領がベトナムを訪問した時に食べに行ったのが、 その「ブンチャー」の店でした。しかし、その店名は知りません。 それでホテルのフロントの男性に、「ブンチャー オバマの店に行きたいのだが・・・」と言うと、すぐに分かった らしく、その店の名前と住所を紙に書いて女房に渡してくれました。 「ブンチャー オバマ」という単語で通じたので、ハノイでは有名なのでしょう。
ホテルからはさほど遠くなく、タクシーですぐに着きました。 その店の正式な名前は「HUONG LIEN (フーン リエン)」。 さほど間口が大きい店ではありません。一階は満席だったので二階に行きました。 オバマ大統領が食べたのも二階だったそうです。 壁にはオバマ大統領が食べている時の写真が掲示されています。 二階の席も八割方は埋まり、欧米人や韓国人らしき人たちもいます。
メニューを見ると、普通のブンチャーが4万ドン(約185円)なので、高くは ありません。Combo Obamaというセットメニューもありました。 オバマ大統領が来店した時に注文したメニューだそうで、ブンチャーと春巻、 そしてハノイ・ビールの3つで、値段は9万ドン(約416円)。 私たちはブンチャーだけ頼みました。
しばらくしてブンチャーが来ました。娘にとってはハノイで初めて食べる「ハノイ名物のブンチャー」です。サイゴンのブンチャーと違う点がありました。サイゴンではブンを漬ける汁と、焼いた豚バラや肉団子が入っている容器は茶碗サイズなのですが、ここでは大きなドンブリの容器に入って出てきました。娘は一口食べて「美味しい!」と言って、ゆっくりと味わっています。
ここで、女房には夕方の予定を話しました。「夕方からは自由時間になっているので、特にみんなと一緒に夕食を食べなくてもいいそうだよ。旅行会社が手配するレストランのメニューは同じパターンが多くて、皆も飽きてきている。それで、昨日友人のNMさんに連絡したら彼もたまたまハノイにいて、NMさんがホテルまで来てくれるので、夕食を私たち家族と一緒に食べましょうということになったよ。それで、いい?」と。
女房もNMさんは良く知っている人だし、「会社の社員旅行というのは、毎日同じメニューが多いわね」と昨日もこぼしていたので、「いいわよ。そうしましょう!」と同意してくれました。娘もニコッと笑いました。前日バスの中で娘にこっそり話して以来、いつも3人が同じ行動パターンでしたから、娘に打ち明けたのはバスの中で耳打ちした、その時だけでした。それを聞いて、娘は(そうだ、この後お母さんには内緒の、「誕生日のパーティー」があるんだ!)と思い返したらしく、ブンのお代わりをしようとしたのを止めました。
● 誕生日の「サプライズ」 ●
そして、「ブンチャー オバマ」の店を出てホテルに戻り、NMさんがホテルに来る夕方6時まで部屋の中で過ごしました。添乗員には事前に、「私たちは今夜の夕食は一緒には行けないこと」を伝えておきました。そして、夕方6時になり、私たちは一階に降りました。一階に降りると、我々と同じように、夕食を別行動で摂る人たちが十人ぐらいいました。やはり「同じメニューで飽きたから」という答え。ちょうその時、NMさんがドアを開けてホテルに入って来ました。ハノイでの久しぶりの再会でした。
いつものように、被っていたトレードマークの帽子を取り、「やー、やー、やー」と、大きな声であいさつしてくれました。娘の誕生日祝いの時には何回も参加してくれていましたので、娘もNMさんは良く知っています。NMさんの右手には大きな袋がぶら下がっています。しかし、女房はその中身が「バースデー・ケーキ」であることは知る由もありません。
この時も外は大雨なので、歩いて行ける距離の店で食事をすることにしました。 それで、女房と娘はホテルでしばらく待機してもらい、私とNMさんが二人で先にホテルを出て適当な店を探しに行くことにしました。すると、ホテルから 歩いてすぐ近くに、こぢんまりとした「ピザ屋」がありました。NMさんには そこで「女房の誕生日祝い」の準備をしてもらうことに。
その後、女房と娘を迎えに行き、その「ピザ屋」に到着。 我々以外にはお客さんは誰もいません。 大きなレストランよりもかえってこういう小さい店のほうが気を利かせてくれます。飲み物が全員分テーブルに並んだ後、みんなで<乾杯!!>をして、♪♪♪Happy Birthday to you!! ♪♪♪
とNMさんと娘と私が歌声を上げて、やおら袋から「バースデー・ケーキ」をNMさんが取り出すと、女房が驚いたこと、驚いたこと。下を向いてしばらくうつむいていましたが、顔を上げた後、女房が「もー、本当にサプライズですね」と叫びました。その言葉を本当に嬉しそうな表情で言いました。
店員さんもそのことを知り、♪Happy Birthday♪の音楽を掛けてくれました。 NMさんの協力のおかげで、「サプライズは大成功!」でした。 サイゴンではこういう「サプライズ」は出来なかっただろうな・・・と しみじみと思い、NMさんには感謝に堪えませんでした。
● 北部への旅 4日目:「ハノイ市内」観光 ⇒サイゴンへ ●
この日で、今回の「ベトナム北部への旅」は終わりです。この日は「ハノイ市内観光」をして、午後にサイゴンに戻ります。朝8時にバスはホテルを出て、「ホアンキエム湖」に向かいました。まだこの時までは雨は降っていませんでした。曇ってはいましたが、全員傘も差さず、レインコートも着ないで歩いていました。
ホアンキエム湖の近くでバスから我々は降りました。そこから先は車やバイクなどが入れない「歩行者天国」になっていたからです。しばらくは歩きでの移動になります。私と女房にとっては久しぶりのホアンキエム湖でした。娘は初めてでした。このホアンキエム湖を見ると、湖面を眺めているだけでこころが安まり、首都の中心部にこのような湖が有ること自体が、いつ来ても落ち着いた印象を受け、嬉しい気持ちが湧いてきます。
しばらく皆で湖の周りの道沿いを歩きました。バスもバイクもトラックもその道を通らず、そこを歩いているのは観光客やベトナムの人たちだけです。ですから大変静かなものです。(歩行者天国にして良かったなぁー)と思いました。しばらく歩いてゆくと、昔ハノイに滞在していた時に良く通った、湖に面した喫茶店が有りました。一人だけでここを訪れていたならその喫茶店に入ったでしょうが、その時は団体で歩いていたので、それは叶いませんでした。
そして、ホアンキエム湖の北側に位置する『玉山祠(ぎょくさんじ)』の前で、 小島に掛かる赤い色をした「The Huc (テー フック)橋」をバックに全員で記念 撮影。『玉山祠』はホアンキエム湖の中に浮かぶ小島ですが、小島の中には お寺があり、「三国志」の英傑「関羽」の像があります。さらには、大きな 「亀の剥製」もあります。以前、わたしもそれを実際に見たことがありますが、 誰しもがその大きさには驚きます。
しかし、その「亀」は頭の形から見て、それは私が日本でも時々食べていた 「スッポン」でした。「スッポン」は私の故郷・熊本で「スッポン料理」と して食べることが出来ます。値段が高いので一年に数回ほどしか食べません でしたが、最初に「スッポン」の生き血をワインで割って飲み、次に「サシミ」 「唐揚げ」「鍋」などがコースとして出てきます。わたしも大好きでした。 以前ここに来て、この大きな「スッポン」を見た時、 (何人前のスッポン料理が出来るだろうか・・・)と、ふと思いました。
結局我々は『玉山祠』の方には行かず、そこから歩いて「旧市街」の方に行き ました。しばらく歩いて休んでいると、そこにバスが我々を迎えに来ました。 今回の旅の最後の観光は「ホーチミン廟」です。 ホーチミン廟は1975年に完成しました。「ホーチミン廟」は<バーディン広場> にありますので、そこに行きます。ホアンキエム湖からもさほど離れていない ので、すぐに着きました。バスから全員が降りました。
しかし、まさにここに着いた時も大雨。切符をチェックする屋根付きの待合所があったので、しばらくそこで待機。しかし、なかなか雨が止みそうにありません。ガイドがしびれを切らして、「時間があまり無いので、行きましょう!」と皆を催促します。雨具を持って来た人たちはそれに従い、待合所から出ました。女房と娘もレインコートをバスから持ってきていましたので、一緒に付いて行きます。私は何も持ってきませんでした。
私は「以前、ホーチミン廟の中に入り、ホーチミンには会ったことがあるので、ここで皆が戻るまで待っているよ。どうせ、バスはまたここから出るのでしょう」と言ってしばらくそこにいました。私の他にも数人同じように、そこから出ない人たちがいました。
すると、5分ほどして娘が引き返してきて、「私たちが乗って来たバスは、先ほど着いた場所にずっといるのではなくて、別の場所に移動して、そこで皆を待つことになったよ。そこまで皆一緒に行かないといけない。だから、お父さんも一緒に来て!」と言うではありませんか。
(やれ、やれ、また旅行会社の連絡ミスか・・・)と呆れました。であれば、そこまで行くしかありません。私と一緒に、他の数名も移動しました。「ホーチミン廟」まで歩いて行くことになりました。そして、<バーディン広場>の中にある「ホーチミン廟」が見えてきました。この時も雨がザーザーと降っています。
しかし、その「ホーチミン廟」が眼の前に見えているのに直接そこには向かわず、ホーチミン主席が生前に執務していた部屋や食堂などがある建物のほうに案内してゆきます。一つ・一つの部屋は小さいものでした。部屋の内部は質素なものでした。さらに、外国からの要人が来た時に使っていたという、外国製の乗用車もそこに置いてありました。
そこを見終わった後、(いよいよ次は「ホーチミン廟」見学か)と思いきや、 その次はお寺に連れて行かれました。ここも私は来たことがありました。 お寺の名前は「一柱寺」。その名前の通り、一本の柱で支えられているお寺です。 お寺と言っても、その形はずいぶん小さく、皆がどんどん中に入ってお参り 出来るようなお寺ではありません。
「一柱寺」は小さい池の中に浮かんでいて、階段を上るようになっています。 その池には睡蓮の花が咲いています。この寺の云われについて、添乗員が説明 していました。「李朝の王様が世継ぎに恵まれていなかった頃、蓮の上で子供を 抱いた観音菩薩の夢を見て待望の子どもを授かったとされ、王様が感謝の気持ち で建立したのがこの一柱寺である」と言うことで、子どもがなかなか出来ない 人が子宝に恵まれるのを祈願するために、このお寺にお参りするということ でした。
それが終わり、添乗員が降る旗は「ホーチミン廟」のほうに向かいます。左手に「ホーチミン廟」が見えてきました。この時には雨も少し小降りになりました。すると、添乗員が持っていた旗は左に見える「ホーチミン廟」には向かわずに、最初に着いた待合所のほうに向かってゆきます。「あれ、ホーチミン廟のほうには行かないの?」と皆が添乗員に訊きます。ベトナム人の先生たちも「どうしてあそこに行かないの?」と口に出して訊いています。
すると、その添乗員が言うには、何と 「ホーチミン廟は“今工事中”なので、見学出来ない!」とのこと。 「ええーっ!」と皆が驚きました。 ベトナム人の参加者も日本人の我々も全員が初めてその場で 「今工事中で見学出来ない」ということを聞いたのでした。 「だったら、何ためにここまで来たのか。一柱寺だけの見学のために来たのか」 という疑問でした。私と横を歩いていたベトナム人の先生たちも 「今初めて私たちも聞きました!」と呆れていました。
旅行会社は「ホーチミン廟が今工事中であること」という情報を事前に掴んでいなかったのか・・・という素朴な疑問です。添乗員がベトナム語で説明していたのを、ベトナム人の先生が私たち日本人には「工事中」と訳してくれたのですが、外から見る限りではそういう「工事」が行われている様子はありません。
最終日の「市内観光」の目玉の「ホーチミン廟」見学も出来なくなり、皆は落胆していました。私はバスに乗り込んだ後、考えていました。「工事中」という言葉の意味についてです。(もしかしたら、添乗員はあのことを「工事中」と言ったのでは・・・)と、以前「ホーチミン廟」を訪問した時に、事前に聞いていたことを思い出していました。
承知のように、「故ホーチミン主席」の遺体はガラスケースの中に入れられて 永久保存されていますが、毎年一度はその「遺体のメンテナンスが行われる」 という情報です。「それがいつなのか?」はこの時には思い出すことが出来ず、 サイゴンに戻って調べましたら、果たして、旅の情報に <ホーチミン廟のメンテナンス>についての記事がありました。
「年1回、遺体のメンテナンスのため、雨季の2ヶ月間は入場できなくなる。
■メンテナンス (クローズ) 期間:2019年6月14日(金)~8月16日(金)約2ヵ月間■
この記事が載っていたのは、「2019年5月」ですから、その時の段階で すでに旅行会社の関係者たちには事前に分かっていたはずなのです。あの添乗員 たちはそれすらも知らなかったのだろうか・・・と思いました。 或いは、私たち日本人に訳してくれたベトナム人の先生が 「遺体のメンテナンス中」を「廟の工事中」と間違えて訳したのだろうか・・・と。 いずれにしても、この日予定していた「ホーチミン廟」見学は出来なくなり ました。
そこの見学が「不可」と分かれば、皆バスに乗ってそこを去るしかありませんでした。私自身は以前一度、ガラスケースの中の「故ホーチミン」には会いましたので、特に落胆はしませんでした。いかに「偉い人」でも、遺体は遺体、美術品でも芸術作品でもないのですから、人さまの遺体を見るのは一度見れば、それで十分です。
それから、10時40分にそこを出て、私たちは昼食のためにレストランへ。 11時にそこへ到着。そのレストランの名前は「SEN(蓮)」と言う名前で、 その名の通り、池の中に蓮の花がキレイに咲いています。 ここはビュッフェ形式のレストランで、驚くような多くの種類の料理が皿に 盛られていました。大人も子どもたちも皿に山盛りにして食べていました。 ここは有名なレストランらしく、四・五台の大型バスからお客さんたちが 降りていました。
12時半にそのレストランを出て、ノイバイ空港に向かいました。すると、空港に向かっている時にだんだんと晴れ間が見えてきて、空港に着いた時には完全に晴れていました。北部に着いた最初の日は雨。そして、2日目も3日目も雨続き。それが、4日目も午前中は雨。サイゴンに戻る日になって、晴れ間が戻ったのでした。(何だったのだ、今回の旅は・・・)と思いました。
12時50分に空港に着き、搭乗手続きをして、3時15分に飛行機はノイバイ 空港を飛び立ちました。5時半にタンソニヤット空港に到着。今年の「ベトナム 北部への旅」の社員旅行は無事に終わりました。 毎日・毎日が雨続きでメインの観光が出来ずに残念でしたが、女房の「誕生日 パーティーのサプライズ」が成功したことだけでも、忘れられない旅になりま した。
そして、実は『今年の社員旅行』は、私にとって、今の学校での『最後の社員旅行』にもなりました。今までベトナムの生徒たちに教えていた今の学校を 9月いっぱいで辞めることにしたからです。その大きな理由は、 <バイクによるベトナム南北縦断の旅>の夢の実現に向けて、いつまでも 先に延ばすことは出来ない、そろそろ腰を上げないといけないな・・・ と考えた次第です。
サイゴンからハノイまで約1,800km。もし、さらに足を伸ばすならサパまで2,000km。往復で4,000km。バイクでの走行中、山あり、坂道あり、大雨あり、天候の急変あり、バイクの故障なども起こることでしょう。サイゴンに戻る日がいつになるか分からないので、一旦学校を辞めることにしたのでした。
今まで「学校の社員旅行」では、ベトナムの国内のみならず、国外も含めて 多くの場所を訪問しました。ベトナムの国外では「カンボジア」「タイ」、 そして、昨年は「中国」へも行くことが出来ました。 普通は、日本語を教えている学校で、このような「社員旅行」を実施して いる所は少ないだろうと思います。
「学校の社員旅行」に参加したおかげで、自分一人だけではまず行けない ような所にも行けて、各地の見聞を深めることが出来ました。 (おそらく今後二度と行くことは出来ないだろうなぁー)という所へも 行くことが出来ました。それらが、今でも「懐かしい思い出」として 甦ってきます。
ベトナムBAOニュース
「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。
ベトナム人特定技能労働者受け入れ、日本の全旅連が協力覚書
労働傷病兵社会省海外労働管理局と日本の全国旅館ホテル生活衛生同業組合連合会(全旅連)は4日、日本における宿泊業でのベトナム人特定技能労働者の受け入れ推進に関する協力覚書を締結した。日本の宿泊業へのベトナム人労働者の送り出しと受け入れについて、双方が推進する活動の協力枠組みを構築する。
レ・タン・ズン労働傷病兵社会次官は、「双方の合意に基づくプログラムの実施により、宿泊業のベトナム人技能労働者に新たな就労機会が開かれる。また、労働と職業訓練、国内労働市場と国際労働市場の連携強化に貢献する」と述べた。
日本の宿泊業では、フロントや接客などで2万2000人の外国人労働者が必要になるとされている。労働傷病兵社会省は2019年7月に、日本の4省庁(法務省、外務省、厚生労働省、警察庁)と日本における在留資格「特定技能」を有する外国人に係る制度の適正な運用のための基本的枠組みに関する協力覚書(MOC)に署名した。
これにより、介護や宿泊業、電気・電子情報関連産業、自動車整備など14の特定産業分野で、ベトナム人技能労働者が日本で就労する機会が増えることになる。
<VIETJO>
◆ 解説 ◆
この記事を読んで(やっと動き出したか・・・)と言う感じです。 (やっと・・・)と言うのは、約5年前から私の知人が 「宿泊業務での仕事にベトナム人の若者を採用して、ホテルや旅館などで働いて もらいたいと考えている。ついては、いろいろ人材派遣会社を紹介して欲しい」という相談を受けたことがあったからです。
その知人の話によると、日本での人手不足はホテルや旅館などにも及んでいて、 なかなか日本では人が集まらないということでした。しかし、「宿泊業での ベトナム人特定技能労働者」の送り出しはなかなか進まず、年に数回はベトナム を訪れていたその知人は、ベトナム側でなかなか進まない現状を見て、ベトナム からの採用は諦めたのか、仕事そのものを辞めたのか分かりませんが、最近は会うことが無くなりました。
「特定技能労働者」は送り出すまでに時間が掛かるので、短期間で送り出せる「実習生」に企業側も力を入れてきたわけですが、ようやくその比重を「特定技能労働者」のほうにも傾け始めたということになります。しかし、その「特定技能労働」も、日本で学んだ経験が本国で活かされないと、長続きはしないでしょう。
もともと「技能実習生制度」の目的は「日本で学んだ経験や技術を本国に戻って活かす」という趣旨で始まったものなのですが、3年間日本で働いた後、本国に戻っても、日本で学んだことは何も活用されないまま、ベトナムでの生活を過ごしている若者が多いのです。ベトナムに戻っても日本の会社で働いている若者が少なく、田舎で農業をしながら両親と一緒に暮らしています。
それは、それで構わないのですが、せっかく日本で学んだ経験や技術が生かされる 場が無い、あっても少ない。私は時々ですがコンビニに立ち寄ることがあります。 今ベトナムには日本から進出して来たコンビニが幾つかあります。 「ミニストップ」「ファミリーマート」「セブンイレブン」などです。
そこで働いているベトナム人の若者たちは現地採用の若者たちでしょう。 (日本にもあるこのようなコンビニで、ベトナムの若者が実習し、接客の仕方、 レジの打ち方、商品の並べ方などを覚えて多くの経験を積めば、ベトナムに 戻っても、日本と同じ名前のコンビニでそのまま働けるのではないか・・・) と、店を出る時、ふっとそういう気持ちが起きます。