【2019年12月号】バイクで<ベトナム南北縦断の旅>に挑戦・中篇/英コンテナの39人遺体、16人が無言の帰国
春さんのひとりごと
バイクで<ベトナム南北縦断の旅>に挑戦・中篇
★4日目:Da Nang(ダ ナン) ⇒Dong Hoi (ドン ホイ)★
朝5時45分にDa Nang 市内を出発。早朝のDa Nang市内は車やバイクも少なく、 スイスイと走れます。この日の目的地はDong Hoi(ドン ホイ)市。そこまで 行くには、Hai Van (ハイ バン)峠を上り、山越えしてHue市内に入り、そこから さらに北上してDong Ha(ドン ハー)市を通過し、Dong Hoiまでの行程です。 私自身は今までそこに宿泊したことはありません。
朝6時半にHai Van峠の麓に着き、そこから坂道を上りました。坂道を上ること 30分ほどすると見晴らしの良い場所があり、そこでバイクを停めて一休み。 そこに「Hue市まで86km」の標識が有り、その標識の先から下の景色が良く 見えます。下にはキレイなビーチがあります。有名な「Lang Co(ラン コー) Beach」です。私以外にも、バイクで来た2,3組がここで写真を撮っていました。
そして、またバイクを走らせると、突然牛の群れが国道をゆっくりと歩いて いました。その数は七頭いました。その歩みはヤギよりも遅く、ゆっくりと 歩いています。すぐ近くに飼い主は見ませんでしたが、どこかで見張っているのでしょう。ヤギや牛にはこの後も至る所で遭遇しました。 ヤギは群れて歩いていましたが、牛は一頭だけの時もありました。先に走っていた山元さんの話では「猿もいましたよ!」と言うことでしたが、私はお猿さんには会えませんでした。
ここは国道なので、バスや車やバイクが走りますが、運転手も慣れたもので、 そのヤギや牛たちを避けながら通過して行きます。ヤギや牛も本能的に知っているのか、慣れているからなのか、車やバイクを恐れて、彼らが突然走り出したりすることはありません。そういう意味では、サイゴンの街中で、私たち人間が道路を横切る時、ゆっくり・ゆっくりバイクを避けながら歩くのに似ているなーと、 オカシクなります。
Hai Van峠をバスで越えたことは有りますが、バスは一時停止もしないし、 降りることも出来ません。しかし、今回バイクで走っていた時、景色の美しい場所が現れると、バイクを停めてしばらく眺めていました。人工の建物などは所どころ有る茶店ぐらいで、大きな建物は有りません。 ほかは、山道を削って造られている道路ぐらいです。
峠の上から下を眺めると、海が見えるところまでずっと緑の森林が続いています。カーブを曲がるたびに、また違う景色が広がってきます。道路から下を見ると、深い谷が海のほうまでずっと続いています。私と同じようにバイクでツーリングしている人たちもいて、彼らも同じような場所で写真を撮っていました。欧米人のグループもいましたので、私も彼らに頼んで写真を撮ってもらいました。
ちょうどこのHai Van峠を越えていた時、バイクの距離メーターをふと見たら 「00000.5km」になっていました。10万キロを超えたので、メーターが元のゼロに戻っていました。このバイクは約10年前に購入したバイクなのですが、この Hai Van峠を走っていた日に10万キロを達成したわけです。よく頑張ってくれました。今まで10年近くもの間、パンクしたのは数回ぐらいで、故障らしい故障は ほとんど有りませんでした。やはり、HONDAのバイクはスゴイです。
今回の旅では、写真を撮るたびにバイクのエンジンを切っていたせいからか、 数分ほどエンジンが掛からないことが有ったぐらいで、旅の期間中、故障知らずでした。10万キロをこの日に超えたということは、サイゴンの「ベンタン市場」前を出発した時に記録していた走行距離が「99,033.5km」だったので、この時点ではサイゴンから966.5km走ったことになります。
そして、7時45分にHai Van峠を越えて麓に到着。そこには列車が通過するための鉄道の踏切があり、ちょうどその時間が列車の通過時間になっていて、多くのバイクが踏切の前で待機していました。これもまた面白い光景でした。 15分ほどその踏切の前で我々が待っていると、長いコンテナの貨車が通り過ぎてゆきました。
麓に下りてしばらく行くとトンネルがあり、そこを抜けると「Hueまで57km」の標識がありました。そこの近くにガソリンスタンドが有り、先に進んでいた山元さんがそこで待っていてくれました。それから二人でHueを目指して進み、 Hue市内に入ったのはちょうど9時半。フエ市内を流れるHuong(フーン)川も久しぶりに見ましたが、大変好きな川です。ここで今回初めてのオイル交換。
Hueには今回泊まらずにそのまま通過。Hue市内を過ぎた頃から道路沿いに 「烈士の墓」が幾つも私の眼に入りました。日本では今次の大戦では国内が戦場になったのは沖縄だけでしたが、「ベトナム戦争」ではベトナム全土の農場の 80%が戦場になったと言われています。ベトナムの各地の至る所で、このような「烈士の墓」を眼にします。ベトナムの南部の「カンザー郡」にもあります。
バイクで走っている時のスピードは、バスや車に乗っている時と違い、遅いのでこういう記念碑や動物や川や滝など、いろいろ珍しいものに出会うたびにバイクを停めてゆっくりと見ることが出来ます。このHue市内に入る前の場所でも、巨樹の下に設置された屋台の喫茶店で、ゆっくり寛いでお茶を飲みながら休んでいる人たちもいました。 私はそこで休みはしませんでしたが、(さぞ涼しいだろうなぁー)と思いました。
さらにはトラックの荷台に豚を満載して運んでいるトラックも見ました。 そのトラックには豚さんが押し込まれている場所が三段ベッドのように組み立てられていて、その狭い空間に豚さんたちがお尻を道路側に向けて横たわっています。最初見た時には面白い光景だなと思いましたが、そのトラックが通り過ぎた後、(もうすぐ人さまに食べられるのかな・・・)と思うと、憐れみも感じてきます。どこかで私も食べるのかもしれません。
私はそうして時々バイクを停めて写真を撮ったりしていますが、山元さんはバイクをバンバン飛ばして先に進んで行きます。交差点などで右折や左折する道路に入る場合はそこで待っています。進路が一直線に進むだけでいい場合、山元さんはドンドン先に進んで行きますので必ず私たち二人ははぐれます。
このパターンはこの後もずっと続きましたが、その日に宿泊する場所は事前に二人で決めているので、そこに着いてから「今どこにいますか?」と連絡すれば良く、大した問題は起きませんでした。このHue市内からスタートした後も同じく、山元さんはドンドン先に進んで行き、しばらくして見えなくなりました。
そして、しばらくして「今私は国道15号線を目指して走っています。そちらの道のほうが山道が多く、景色もキレイだろうし、それに車も少ないので安全でしょうから」という連絡が来ました。それで私も 「そうですか。では後で私もそちらの国道に入ります」と返事を出しました。
すると、それから30分ほどして「地元の人に国道15号線に行きたいと言うと、 その道は道路の状態が危ないので行かない方がいいと言われたので、また国道1号線に戻ります!」と山元さんから連絡が来たのでした。それで、私は国道1号線をそのまま走り、山元さんと合流するまで(しばらく喫茶店でお茶でも飲んで待っていよう)と思い、私が通過してきた、 途中の大きな建物や地元の市場の名前を知らせました。
そして、「その近くの喫茶店で待っていますよ」というメッセージを送り、 喫茶店に入りました。そこはちょうど交差点の場所にありましたが、 (看板の文字が見えにくいなぁー。もしかしたら、見逃すかもしれない)と思い、 注意して交差点のほうを見ていますと、30分ぐらい経った時、果たして青い上着を着た山元さんの姿が見えました。
しかし、信号が青になった状態でしたので、声を掛ける間もなく喫茶店の前を 通過してしまいました。慌てて、私もすぐに喫茶店を出て後を追うことにしました。追い付いた後、「あの交差点にある喫茶店にいましたよ。少しゆっくりしたら 良かったのに」と言いますと、「そうでしたか。でも回り道をして無駄な時間を費やしたので、ゆっくりしている暇はありません。暗くなる前に早くDongHoiに着きましょう」と、暗くなることを恐れる山元さんなのでした。
この後もまた山元さんはバンバンとバイクを飛ばして行きました。私はまた 途中・途中で写真を撮りながら進みましたので、山元さんの姿が見えなくなりました。まあ、でもDong Hoiに泊まることは二人で決めていましたし、 そこまでは迷うような道ではなかったので問題はありませんでした。
そして、私がDong Hoiに着いたのは4時20分。そこから山元さんに連絡をしますと、 「今私は昔の古城の門らしい場所にいます。国道をそのまま来れば、この城門や城壁が見えるはずですから、その近くにいます」との返事が有りました。 それで、そのままバイクを走らせていますと、果たして山元さんが城門の近くでバイクを停めて待っていてくれました。
その城門と城壁を私は初めて見ました。大変古い時代に建てられたのは間違いなく、Dong Hoi市に入った、外から来たお客さんをこの城門が歓迎してくれているような気持にさせられました。この城門が建てられた当時は、両側に 守衛が槍を持って立っていたのでしょうが、この時は誰もいません。
それからホテル探しに行くことに。少しバイクを走らせていただけで、この Dong Hoiは港町だというのが良く分かりました。海に繋がるクリークの中に、船体が青と赤のペンキで塗られた漁船が何艘も浮かんでいました。 「古城の城門」「港町」「漁船」・・・これらを短い時間の中で眼にした私は、 このDong Hoiという町が不思議と気に入りました。
すぐにホテルは見つかりました。クリークに架かる橋を渡ると数件のホテルがありました。そのホテルの前のクリークの中にも漁船が浮かんでいます。クリークも大きなものではなく、幅10メートルぐらいで、橋が架かっています。その橋の向こう側にはレストランらしいものもあります。その落ち着いた光景が気に入り、すぐそこに決めました。ホテルの名前は「Sao Mai」で一泊20万ドン。
そして、夕方6時半にホテルの前のクリークに架かる橋を渡り、夕食に行くことに。クリークには船が浮かんでいて、中がレストランになっていますが、まだこの時は誰もお客はいませんでした。橋を渡った所にある小さい店に入りました。そこには「牡蠣のお粥」があり、それを注文。ビールで先ずは「乾杯!」しました。「牡蠣のお粥」の中に入っていた「牡蠣」は小ぶりで、大変美味しく、ビールのつまみに合いました。
その日の移動が終了すると、ビールで「乾杯!」しました。サイゴンからここ までの走行距離は1,158kmに達していました。そこでも、山元さんと二人だけで缶ビールを10本飲み、さらにまたホテルに戻って4本飲んでしまいました。 女房や友人・知人に「無事にDong Hoiに到着しました!」の連絡をしました。今回の旅の間、その日の目的地に着いた時には、必ず皆に連絡を入れることに していましたが、その連絡が終わると、自分でも不思議と、安心して深い眠りに就きました。
★5日目:Dong Hoi(ドン ホイ)⇒Thanh Hoa(タイン ホア)★
朝4時半に起きると、窓の外は大雨。6時頃に少し小降りになり、Dong Hoiを 出発。いつまた強い雨が降るか分からないので、ホテルを出る時に雨合羽を着てからバイクを走らせました。 この辺りはベトナムの地図の行政区で言えば「北中部」に入ってゆきます。
これから北に進む従って、「北部」と呼ばれる地域に入りますが、特に眼を 惹くのが「Thit Cho(犬肉)あります!」の看板の多さです。大きな文字で 書かれた看板が道路沿いに立っていました。 サイゴンにも「犬肉」を食べさせる所は有りますが、このように目立つ看板ではありません。やはり、北部の人たちは犬を食べる風習が南よりも広まっているのでしょう。
別の場所で見つけた看板の中には「Lau Meo(ネコ鍋)」までありました。 「ネコの肉」を揚げたのは、以前サイゴンでそれと知らないまま食べたことはありますが、「ネコ鍋」は私もまだ食べたことは有りません。途中ではヤギさんたちの群れにも出会いました。ベトナムではいろんな動物たちが道路上を運ばれ、道路の脇で遊び、道路沿いのレストランで食べられているのです。
ホテルを出た時から、小降りの雨が降ったり、止んだりしていましたが、9時過ぎになると前が見えないぐらいの強い雨が降り始めたので、家の軒先を借りて雨宿り。軒先を拝借した家は、その時たまたまシャッターが下りていたので、しばらくバイクを停めていても大丈夫でした。しかし、なかなか雨が止みそうにありません。
すぐ隣を見ると、ベトナム語で「ビール」「アヒルの孵化寸前の卵」と書いた看板が立てかけてある食堂があったので、 (しばらく雨も止みそうもないし、ビールは飲めないが、朝飯代わりにアヒルの卵でも食べるか)と思い、その店に入りました。 この時点で、いつもの如く山元さんは先に進んでいて、私一人だけでした。
店の中にはおかみさんが一人いて、私が「アヒルの孵化寸前の卵を下さい」 と言うと、「今それは有りません」との答え。「では何が有るの?」と訊くと「Bun Bo Tai(ブン ボー ターイ)が有るよ」と言うのでそれを頼むことに。 Bun Bo Taiというのはスープの中に、Bunという米の麺と牛肉が入ったもので、 (雨が止むまでは何でもいいや)と思って食べたのですが、これが意外と旨かったのでした。
それを食べ終えてもまだ雨が止まないし、私の他にお客は誰もいないので、 自然とおかみさんとの話が始まり、 「あんたはどこの国の人?どこから来たの?」と私に訊いてきました。「私は日本人だけど、あのバイクでサイゴンから来たよ。今からハノイを目指して行く途中です」と答えると、おかみさんは驚いた顔をしていました。
「ところで、ここの地名は何?」と私が地図を見せて訊くと 「Ha Tinh (ハーティン) 省 Cam Xuyen (カム スイン) です」との答え。 地図で確認すると、Ha Tinh市内に入る手前の場所にありましたので、Ha Tinh 市内まであと少しの場所にいたわけです。そして、私が日本語を教えていた学校の生徒の中には、このHa Tinh省出身の生徒がいました。その時 (ああー、こういう所から来ていたのか・・・)と思い返しました。
10時半頃雨が小降りになってきました。長時間、店にお邪魔してしまったので、おかみさんにお礼を言ってそこを出ました。おかみさんも「気を付けて行きなさいよ」と言ってくれました。
そして、Ha Tinh市内に入ったのは11時20分。Ha Tinh市内はそのまま通過して、「Vinh(ヴィン)市まで6km」と標識が出ていた交差点を左へ曲がりました。この時12時40分。途中でまたまた牛さんたちの群れに出会いました。
この場所辺りを通過していると「犬肉有ります!」の立て看板がさらに多くなりました。その他に「これは何だろう?」と首を捻るような看板もありました。道路沿いに洗車場の看板があり、その看板には「Rua Xe」「Tam Heo」 という文字があります。「Tam Heo」の文字の上には豚さんの絵もあります。 「Rua Xe」は「洗車」の意味で、これは分かりました。
しかし、「Tam Heo」の意味が分からない。「Tam=洗う」「Heo=豚」。 「Tam Heo」=「豚を洗う」・・・。 (洗車場で豚を洗うとは、一体どういう意味だろう?)と首を捻りました。 サイゴン市内や郊外でもこのような看板を見かけたことはありません。 このことは山元さんと夕方再会した後、夕食の時にも質問しましたが、 山元さんも「私も分からないのです」と答えられました。その意味は、 翌日ハノイに着いて、ベトナム人に訊いて分かりました。
翌日、ハノイのレストランで働いていたベトナム人の従業員にその写真を見せて 訊くと、「実際に生きた豚を洗車場に持ち込む」そうです。途中で見たように、 豚さんたちは暑い炎天下の中をトラックに押し込まれた状態で移動しているので、 時々は洗車場に立ち寄り、水で体を洗って冷やしてあげないと、豚さんが弱ってしまうのだと言います。文字通り「豚を洗う」という文字のままでした。いやー、「所変われば品変わる」で、いろいろな違いがあって面白いものです。
夕方3時半に山元さんより連絡がありました。 「今すごい大雨で雨宿りしています」と。私も雨の中を進むしかありません。 道路の両端には深さ20cmほど水が溜まり、その中をバイクで走ると雨水が舞い上がります。運動靴を履いていたら、びしょ濡れになります。やはり長靴を買っておいて正解でした。結局、運動靴を履いたのは最初の一日だけで、後の移動はずっとこの長靴を履いてバイクに乗っていました。初日に交通警察に長靴を取り上げられなくてラッキーでした。
強い雨はThanh Hoa市の35kmぐらい手前ぐらいから小降りになり、 Thanh Hoa市内に着いたのは5時半。この街・Thanh Hoaは黎(れい)朝の初代 皇帝(在位:1428年-1433年)・Le Loi (レー ロイ)の出身地としても知られて います。ベトナムの街には、各地の通りの名前にもこの名前が付けられている のをよく目にします。
山元さんに連絡すると「今Le Lai (レ ラーイ)通りという名前の場所にいます」 との返事が有りました。Thanh Hoa市にはそのLe Lai通りも有り、上記のLe Loi の名前を付けたLeLoi通りも有ります。ややこしいのですが、初めて来た街だけに、その通りがどこに有るのかが分からず、仕方なくバイクタクシーのお兄さんにそこまで案内してもらい、ようやく再会出来ました。案内してもらった時間は短いものでしたが、「案内したからお金を頂戴!」 と言うので5万ドンあげました。
それから二人でホテル探しに行きました。ここはホテル代が安くて15万ドン。 その後夕食へ。この日は雨の中の移動が長く続き、二人とも疲れていました。あまり食が進まず、ビールも多く飲めず、空芯菜炒めとトウモロコシを揚げた簡単なものだけで夕食は終わりました。 明日はいよいよ今回の<バイクで南北縦断の旅>の折り返し地点・Ha Noiに 向けて出発です。この日は338kmを走っていました。 ハノイにいる友人たちに「明日ハノイに着きます!」と連絡しました。
★6日目:Thanh Hoa (タイン ホア)⇒Ha Noi (ハ ノイ)★
朝4時45分に起床。まだ薄暗い時間でしたが、大雨の音で起きました。今日で二日続きの雨です。台風の影響らしいのですが、昨日の時点で、この日に「ハノイ到着!」を数人の友人たちに連絡していたので、予定通り出発しました。ホテルを出たのが6時。外はまだ雨が降り続いています。
Thanh Hoa市の郊外に出て、今年8月の社員旅行で訪問したNinh Binhにだんだん近づいてきました。Ninh Binh観光でお馴染みの、山水画のような山容の山々が左手に現れてきました。この頃から、バイクで走っている時の左右の光景が眼に沁みるような気持になりました。山、川、畠、湖、森、人家、牛、ヤギ、・・・ そして、池で楽しく泳いでいるアヒルなどを眺めながら走るのが実に楽しいし、自分の眼に焼き付くような感じでした。
(この道をまた通ることはあるだろうか・・・。もし、帰りに同じ道を通ることがあっても、同じ景色を見ることはないだろうな。今、左右に見えている建物、店を見ることもないだろう。途中で出会った牛、豚、ヤギ、アヒルさんたちに再び会うこともないだろう。今、眼の前からこちらにバイクで走ってくる人とすれ違うことも二度はないだろう・・・)という感覚に襲われたのでした。
8時20分頃、「ハノイまであと100km」の標識が見えました。早ければお昼すぎには着くぐらいの距離になりました。 (いよいよ、もうすぐハノイに到着だな・・・)と思っていたら、それから20分もしないうちに突然パンク。 ゴミ収集の時に使用している大きな箱が道路脇に置いてあり、そこにバイクを 停めたのがマズかったようで、後輪がガタガタ・グラグラ揺れだしました。
(近くに修理屋さんは・・?)と見回すと、分離帯の向こう側の道路のほうに、バイクの修理屋らしき店の看板があります。ホッとして、そこまでバイクを押してゆきました。10分ほどでそこに着きました。そこは確かに「バイクの修理屋」でした。すでに先客があり、そのお客さんのバイクを直していました。少し待つことにしました。
すると、15分ぐらいして、若い店主が「これはここでは直せない」と言うではないですか。「ええーっ!」と驚きました。店に入った時、ペシャンコになったタイヤを指さして「パンクだ!」と示し、彼も了解していたからです。(何でパンクの修理ぐらいが出来ないの?)と思いました。
「どうしたらいいの?」と訊きますと、同じ道路沿いのほうを指さして「あっちのほうに別の店があるよ」と言うのでした。さらに私が「ここからどのくらい?」と訊くと、「400mぐらい先にある」との答え。仕方がありません。そこまでまたバイクを押してゆきました。
確かに、400mぐらい行くと別の修理屋が有りました。 すると、そこの従業員はすぐに状況を理解したらしく、テキパキとバイクのタイヤを外して、パンクの箇所を見つけてくれました。今までの経験から、タイヤを外すのは先が平らな鉄の棒を使い、人間の手で簡単に外せるものと思っていましたが、彼は機械を使いました。
タイヤをバイク本体から取り外した後、機械の上にそれを置き、グルーッと タイヤを回すとタイヤが外れました。どうやら、そういう機械が先の修理屋には無かったので、ここを紹介したのだなというのが分かりました。 タイヤを外した時に見たら、私のHONDAの AIRBLADEにはチューブ自体が有りませんでした。
翌日、ハノイに来てくれたNTさんから教えて頂いたのですが、AIRBLADEは 「チューブレス・タイヤ」だと言われるのでした。10年近く乗りながら、 パンクしたことが余り無く、パンクしてもいつも修理屋さん任せでした。 自分ではパンクの修理などしたことが無いので、その時初めてそのことを知りました。従業員がパンクしている箇所を見せてくれましたが、何と3cmぐらいの長さの、大きなクギが刺さっていたのでした。
パンク修理をしている時、そこには数人のおじさんたちもいて、私に向かい「あんたはどこの国の人だ?どこから来た?」といろいろ質問してきます。「日本人だよ。このバイクでサイゴンから来た。ここまで6日で着いたよ」と言うと、「ほー、それはスゴイ。では、ここで酒でも飲んでゆけ」と言うのでした。まだバイクで走らないといけないので、それは丁重に断りました。
今でもその時のことを思い出すのですが、旅先での人の優しさに触れて、私のこころの中で「懐かしい思い出のアルバム」の一枚になっています。 30分ほどで修理が終わりました。値段を訊くと「5万ドンでいいよ」と言うので、 5万ドンにチップを弾んであげて渡しました。 今回の旅で、パンクしたのはこの時一度だけでした。
9時50分にパンク修理が終わり、すぐにNinh Binh市内に入りました。 すると、道路右手に突如大きな宮殿が現れました。 まさに「宮殿」と呼ぶべき大きさでした。正面に「THANH THANG PALACE」という名前があります。 (何に使う建物なのだろう?宗教的な施設なのだろうか・・・?)と思いました。 しかし、人の気配がしません。観光客もいません。
宗教的な施設なら、信者らしき人たちがいるのでしょうが、そういう人も いません。車が一台前に停まっているだけでした。 後日、ベトナム人の知人にその写真を見せると「大金持ちの豪邸ですよ。 あの辺りはお金持ちの人が多くいて、豪邸を建てるのが趣味なのです」 と言いましたが、直接その建物に入って訊いたわけでは無いので、真相のほどは分かりません。
Ha Noiの手前にあるPhu Ly (フー リー)という名前の街まで「あと20km」の標識が見えました。この辺りもNinh Binh地方の独特の山容が続いています。 その絵画的な美しさの山を土砂の採掘のためか、山を削り取っていました。100年後、200年後にここを通る人たちの前には、今こうして見えている山は姿を消しているかもしれません。
11時半にPhu Ly市に入った時、ようやく雨も止みました。Ha Noiまで59km、Nam Dinhまで30kmの標識が有りました。私の教え子たちの出身地には、このNam Dinhも多くいます。サイゴンにいた時、生徒たちに「君の田舎はどこ?」と訊いた時、いろんな地名を答えていましたが、今までは地図の上だけの地名でした。今回の旅では、生徒たちが答えていた幾つかの地名を実際に走りました。中にはすでにその田舎に帰っている生徒たちもいることでしょうが、会うことはありませんでした。
「Ha Noiまで50km」という標識が見えました。 Ha Noi市内までもうすぐの所まで来ました。時刻はちょうど12時半。 Ha Noi市内に入る前に、私の大好きな「Bun Cha(ブン チャー)」の店の看板が ありました。いつも食べている店で、同じものを頼んでも目新しさは有りませんが、 こういう旅の場合は毎日違う場所で食べるので、(さて、どんなものが出てくるかな・・・)という期待感が有ります。しかし、我ながらオカシイことに、 今回の旅で、お昼ご飯を食べたのはこの時が初めてでした。
「Bun Chaを下さい!」と言って出てきたのを見ると、サイゴンで食べる 「Bun Cha」とは違っていました。「Bun」の白い米の麺は同じだけれど、 「Cha」のほうが違う。サイゴンでは、Bunを漬ける甘酸っぱい汁の中に、 焼いた豚バラや肉団子がそのままの形で入っているのですが、ここではそれをシソの葉で巻いてあり、そのシソの葉も焼いてあるためか、黒い色をしていました。 でも中身は同じ。さらには、揚げ豆腐まで付いていました。やはり、ここで食べた 「Bun Cha」も美味しかった。値段も3万ドンと大変安かったのでした。
ちょうど1時にそこを出てHa Noi 市内に向かいました。 そして、2時10分に「Hoan Kiem(ホアン キエム)湖」の側をバイクで通過。 2時半に、この日のホテル「ATRIUM HOTEL」に到着。 旧市街のDao Duy Tu通りという場所にあり、一泊50万ドン。「さすらいのイベント屋のNMさん」が予約してくれていました。 少し高いけれど、この辺りではこの値段が普通だとのこと。
ホテルの前には、いつものように、先に着いていた山元さんが立って、私を 待っていてくれました。ハノイのホテル前に着いた時のバイクのメーターを確認すると「00717.6km」。HaiVan峠を越えていた時に「00000.0km」とゼロに 戻ったから、あの時から「717.6km」を走ったことになります。 「ベンタン市場前」からの合計の距離は1,684kmになりました。
10月10日に、サイゴンの「ベンタン市場前」を出て、10月15日ハノイ着。 移動期間は6日間。バイクで「ベトナム南北縦断の旅」の半分が終了しました。 そしてこの日、山元さんと私のハノイ到着を歓迎してくれた<友人たちとの宴会>に歩いて移動しました。そこには、NMさん、ISさん。そして初対面のSHさんも来てくれました。
さらには、今ハノイに住んで仕事をしているLinhさんも参加してくれました。 Linhさんは我が社の「ベトナムマングローブ子ども親善大使」の女子のアテンドを、 2014年と2015年の2回続けて努めてくれました。彼女の故郷はハノイで、今は 「日本国際観光振興協会」に勤めていると話してくれました。彼女が得意とする、 日本語を活かす仕事に就いているのが嬉しいです。
ハノイの夜は友人たちの歓迎で嬉しい一夜になりました。 途中で起きたハプニング、面白い出来事などを話しながら、 楽しい時間を過ごすことが出来ました。あらためて、(ああー、<バイクで南北縦断の旅>の半分が終わったのだなぁー)という 感慨が湧きました。この日はベトナムが参加しているサッカーの試合があり、多くのお客さんたちがレストランの前でテレビ観戦していて、店の通りは大変賑やかでした。翌日もHa Noiに滞在する予定です。
(・・・後編に続く)
ベトナムBAOニュース
「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。
英コンテナの39人遺体、16人が無言の帰国
英国で10月23日にベルギーより到着した冷凍コンテナ内から39人のベトナム人の遺体が見つかった事件で、27日午前5時ごろ、16人の遺体を乗せたベトナム航空[HVN](Vietnam Airlines)の航空機がハノイ市ノイバイ国際空港に着陸した。
16人の遺体は、犠牲者の出た各地方自治体が手配した救急車に載せられ、埋葬のため故郷へ運ばれた。遺体のベトナムへの搬送は数回に分けて行われる。今回が最初の搬送で、北中部地方ゲアン省、ハティン省、クアンビン省の犠牲者が無言の帰国を果たした。
同日朝、グエン・スアン・フック首相は再び遺族に深い哀悼の意を表明した。 また公安省と関連当局に対し、引き続き英国当局と緊密に協力して緊急に捜査を進めるよう要請した。
外務省によると、搬送費用は遺体が棺に入った状態であれば2208GBP(6620万VND=約32万円)、遺体を火葬し骨箱に入った状態であれば1370GBP(4110万VND=約19万9000円)。
政府が国庫から資金を拠出して遺体の搬送費用を立て替え払いするが、 最終的には遺族が負担することになっており、地方自治体が遺族に働きかけながら費用を政府に返済する。なお、犠牲者の出身地と人数、性別、年齢は以下の通り。
北中部地方ゲアン省:21人(男性15人・女性6人、18~44歳)
北中部地方ハティン省:10人(男性9人・女性1人、15~37歳)
北中部地方クアンビン省:3人(男性3人、27~33歳)
北部紅河デルタ地方ハイフォン市:3人(男性2人・女性1人、15~41歳)
北部紅河デルタ地方ハイズオン省:1人(男性1人、17歳)
北中部地方トゥアティエン・フエ省:1人(男性1人、34歳)
<VIETJO>
◆ 解説 ◆
この事件が起こったのは10月23日でしたが、そのニュースが報道された日の翌日、私は<ベトナム南北縦断の旅>を終えて、約二週間ぶりにサイゴンに戻ってきました。最初の報道では、英国の警察は「39人の遺体はすべて中国人密航者とみられる」と発表していましたので、異国で亡くなったその人数の多さに驚きながらも、(わざわざ中国から英国まで何をしに密航してまでゆくのか?)というぐらいの感想で、特別な感慨はありませんでした。
しかし、状況が変わってきたのはその後です。11月2日に、ベトナムの新聞にその続報が入りました。その記事が<VIET JO>にも載りました。以下です。
「英国エセックス州警察はベトナム現地時間2日午前2時20分、死亡した39人全員がベトナム人とみられると発表した。39人の身元についてはまだ明らかにされていない」。
それからしばらくして、私のかつての教え子の女性から連絡が届きました。ベトナム国内を驚かせたこのニュースが、実は私にも関係があったのだ・・・と驚き、深い悲しみに沈んだのはその時です。彼女が言うには「あの39人の中の1人は、かつて学校で学んだ同じクラスの友達ですよ!」と。その名前と故郷も教えてくれました。「Mさんですよ。故郷はHa Tinh省です!」と。
私はそれを知り「ええーっ!」と驚くしかありませんでした。彼女のことは私も覚えていました。非常に明るくて、真面目な生徒でした。さらには、彼女の故郷・Ha Tinh省には、今回の旅では行きも帰りもそこを通っています。そこを通過していた時は、まだこの事件が起きる前だったわけですが、何も知らないでバイクで走っていたわけです。
今月号の中で、Ha Tinh省について触れた中で、 「私が日本語を教えていた学校の生徒の中には、このHa Tinh省出身の生徒がいました。その時(ああー、こういう所から来ていたのか・・・)と思い返しました」と書きました。そう書いてゆきながら、涙を抑えることが出来ませんでした。
今まで、私は多くのベトナム人の若者たちに「日本語」を教えてきましたが、このように悲しい運命をたどった教え子はいません。彼女は2016年に日本に行き、今年の6月にベトナムに戻って来たばかりなのでした。彼女は、「日本に行ったけれど、期待していたほど貯金が出来なかった」と、お父さんに話していたそうです。
家族の話では、彼女は「大変な親孝行の娘」だったと言います。日本に行く 生徒たちは「家族や両親のために日本に働きに行きます!」とよく言います。 彼女は帰国後さらにまた、イギリスを目指しました。 今回の「イギリス行き」も、その<強い親思いの気持ち>からだったのでしょう。 しかし、彼女はイギリスの地で亡くなりました。まだわずか26歳の若さでした。
そして、ようやくその遺体が11月27日、故郷・ベトナムの地に戻ってきました。ご両親の悲しみは如何ばかりでしょうか・・・。その日私は一日中、自分の部屋で涙を流していました。
“謹んでご冥福をお祈りいたします。Mさん、故郷の地で、やすらかに眠ってください”