【2017年7月】日本帰国余話・後編/留学生たちが「屋台村」/岩手・盛岡市
春さんのひとりごと
<日本帰国余話・後編>
五月三週目の終わりに、宮崎県で約三十年ぶりの友人の再会がありました。そして、ベトナムに戻る直前の週には故郷の熊本・玉名で、思いがけない若者との出逢いがありました。その一つ・一つの思い出が、今回の日本滞在時の終わりでは懐かしく、嬉しいものになりました。
● 三十年ぶりに宮崎での友人との再会 ●
五月二十日、宮崎市内で東京時代の旧友と実に三十年ぶりの再会を果たすことが出来ました。東京時代の友人とまさか地元の九州で今年会えるとは思いもかけませんでしたので、本当に嬉しいことでした。
宮崎県には、かつて東京時代に友人だった先輩の奥さんが今住んでおられます。東京時代の先輩の名前は「喜田さん」と言い、大変面倒見のいい先輩で、皆から兄貴分のように慕われていました。私よりも六歳年長でしたが、大変な博識でみんなからも畏敬されていました。
私は東京で大学生時代を過ごしましたが、そのアパートは東京の葛飾区の堀切にありました。そこは、当時、東京の中でも下町と言えました。それだけに、下宿代も安く、我々貧乏学生たちには大変住み易い場所でした。
私が住んでいたアパートにも多くの学生たちが住んでいました。彼らとは、一つの部屋で遅くまで話したり、麻雀をしたり、外で飲んだりして、今でも尽きぬ思い出に満ちています。その中でも、「喜田さん」が友人たちのまとめ役のような存在でした。今から振り返るとん、みんなの「青春時代」の思い出があのアパートには詰っていたような気がします。
不思議なことに、約四十年近く経った今でも、そのアパートの住所を番地まで鮮明に覚えています。最近出会った人の名前などは忘れることがよくあるのに、四十年近くも前の下宿の住所・番地を空で言えるのは自分でも不思議な感じがします。
その下宿には実に面倒見のいい大家さん夫婦がおられました。そこの下宿にお世話になっていた我々下宿人たちは、「おじさん「おばさん」と親しみを込めて呼んでいました。「おじさん」はすでに亡くなられましたが、「おばさん」はご健在です。その「おじさん」「おばさん」の思い出は、今振り返ってもまざまざと甦ります。
そして、「おじさん」「おばさん」の人情の厚さには、誰しもがこころを打たれていました。そのアパートを去る人が出ると、いつも「送別会」を開いて頂いたからです。私が東京を去る時にも「送別会」をして頂きました。「おじさん」からは記念に「象牙製の箸」を頂きました。今でもそれは熊本の実家に大切にしまっています。
私が東京を去る日が近づいた時、俳句が趣味だった「おじさん」に、私が作った次の一句を書いてお渡ししました。
“朝顔や 眠りて次の あるじ待つ”
私が借りていた部屋は一階の西日が射す場所にあり、夏の太陽が傾く頃には暑くてたまらないので、窓際下にある花壇の場所の土に、夏ごろに葉っぱが成長し、朝顔の花が開くように、その種を毎年事前に蒔いていました。
朝顔自体は、俳句の決まりでは秋の「季語」なのですが、「今年の夏には私はその朝顔を見ることが出来ませんが、次の人がその朝顔の花を見ることになるでしょう」と言う意味を込めて、「おじさん」へのお別れの挨拶の言葉とさせて頂きました。
「おじさん」「おばさん」との出会い、そして如何に私たち下宿人が可愛がられたかについては、2014年7月号の「昔の大家さんとの再会」で詳しく触れています。「おじさん」が60歳で定年退職された時、下宿人の中で特にお世話になっていたメンバーが、一冊の文集を編んで、おじさんに進呈しました。文集の題名は『堀切奇譚 ( ほりきりきたん ) 』。
2014年7月号にも載せていますが、そこに寄稿していた六人のメンバーの姓とタイトルが以下です。 この冊子をおじさんに進呈したのは、今から実に40年前ぐらいになります。歳月が流れるのは速いもので、当時還暦を迎えられた「おじさん」の年齢を、私も含めてみんなが超えてしまいました。
◇ 森川荘は楽しかりき ・・・阿部
◇ 堀 切 界 隈 ・・・松本
◇ 堀切に江戸っ子を見て ・・・成田
◇ 変わるものと、変わらざるものと ・・・多久
◇ 還暦を祝い、森川荘を想う ・・・小松
◇ 森川点描 ・・・喜田
私が当時、その中に書いていた文章の一部が以下です。今自分でそれを読み返しても、東京で「おじさん」「おばさん」から如何にお世話になったか、充実していたかが甦ってきます。
「道元禅師の<正法眼蔵>に“有時”という言葉が出てきます。 我々が過ごしている人生は丁度竹のようなもので、ある間隔をおいて節がいくつか刻まれている。普通私達は、渓流に浮かべた笹舟のように時の流れに身をまかせて生きている。 しかし、ある一瞬、あとで振り返ってみると、充実した時間を人はいくつか持っています。そういう充実した時間のことを 道元禅師は“有時”と呼び、竹の節にたとえたのです。 その意味では、東京の生活は私にとって道元禅師のいうところの“我が青春の有時”だったのです。・・・」
そして、今回宮崎を訪ねた時初めて知りましたが、この文集を編んで頂いたのが、実は「喜田さん」の奥さんだったと言うのでした。私が頂いた文集の最後には手書きの文字で「八部の八」と書いてあり、全部で八冊しか作成されなかったというのは分かっていました。(しかし、それにしても、大量に印刷出来ないこういう文集をどうして作成したのだろうか・・・?)と言うのが、私の素朴な疑問でしたが、それを奥さんが作成されていたのを今回初めて知りました。
ここに原稿を寄せた私たち下宿人は「喜田さん」に原稿を渡しただけでした。それを「喜田さん」が活字化されて、コピーを取り、奥さんが冊子にされて「おじさん・おばさんご夫妻」と我々全員に進呈して頂いたのでした。
今回私が宮崎市内で会えたのは、このメンバーの中の『松本氏』でした。悲しいことですが、ここに寄稿していた六人のうち、お二人がすでに亡くなられました。この世におられません。「喜田さん」と「阿部さん」です。お二人とも若くして亡くなられました。
「阿部さん」は大変こころ遣いが優しく、性格も穏やかな人で、みんなから慕われていました。私たちよりも一足早く社会人になってからは、貧乏下宿人の我々に、旅行に行った後には必ず、「土産だよ!」と言って差し入れをしてくれました。今東京時代を振り返る時、お二人の思い出は尽きず、お二人が元気な時に一緒に遅くまで食べて、飲んで、話していた姿を偲ぶたびに涙が溢れてきます。
私が「喜田さん」と出会った当時は、「喜田さん」は東大教養学部大学院に入られていました。その大学院では「国際関係論」を専攻されていました。同じアパートに住み、いつも「喜田さん」の部屋に入り浸っていた私たちは、「喜田さん」の部屋にある本棚の、天井にまでぎっしり積み上げられている本の量のもの凄さに圧倒されました。
「喜田さん」は、東京の大学院を出られた後、上海に赴かれました。そこでは「上海総領事館専門調査員」としての仕事を二年間勤められ、その後日本に帰り、1990年に「九州国際大学」に就職されました。
そして、1992年に「毛沢東の外交―中国と第三世界―」という著作を世に出されました。これは、中国と第三世界に対する研究書として、高く評価された著作でした。その当時、「喜田さん」は気鋭の若手学者と期待されました。
しかし、その僅か一年後の1993年9月、「喜田さん」は突然病気で亡くなられました。まだ四十六歳の若さでした。喜田さんの告別式の時、代表して「弔辞」を読まれた一人の年配の先生が「喜田くん・・・」と呼びかけて、後は絶句された時の光景を、私は今でも忘れることが出来ません。そこにいた我々友人たちみんなが、同じ心情を共有していました。
そして今から九年前、私がたたまた宮崎県を訪ねた時、ご自宅でその奥さんと子どもさんたちに会うことが出来ました。「喜田さん」の遺影を前にして、東京時代の思い出話が尽きることがありませんでした。それ以来、毎年私が日本に帰国した時に、なかなか会えないのは分かりつつ、「熊本に帰って来ました!」と奥さんには連絡していました。
今年帰国した時にも同じように「故郷に帰りました!」と電話で連絡しますと、奥さんが「実はあのアパート時代の松本さんが宮崎に来ることになったそうです。出来れば三人で会いたいですね。三人が一緒に会えればどんなに嬉しいことでしょう」と言われました。
それを聞いた私は驚きました。「あの松本くんが宮崎まで来る!」。たまたま彼は宮崎に所要が出来て、五月二十日に宮崎に行くことが決まり、“その時に「喜田さん」から生前に頂いた手紙を奥さんに是非お渡ししたい”というような連絡が来たというのです。
現在彼は「弁護士」の仕事に就いています。東京での大学生時代、彼とは同じアパートで暮らしていて、毎日顔を合わせる間柄でした。彼は私がそのアパートを去った後、念願の「司法試験」に合格して、彼は兵庫県内で弁護士事務所を開いているというのは、その後の風の噂に聞いてはいました。
そして、弁護士になっていた彼と再会したのは、三十年前にそのアパートの大家さんである「おじさん」の告別式に参加して以来のことです。その時には、当時そのアパートで青春時代を過ごし、「おじさん」「おばさん」に可愛がられていた友人たち全員が告別式に来ていました。その時に、「おじさん」の人徳をしみじみと感じました。
その「松本くん」と三十年ぶりに会える。当時の彼はすらっとした体型で、眉濃く、鼻高く、「美青年」という感じの風貌の持ち主でした。(あれからずいぶん変わっているだろうか・・・)と想像しました。
そして、「喜田さん」の奥さんから電話での連絡があった一週間後ぐらいに、奥さんから一通の手紙を頂きました。その手紙の中には、丁寧にも熊本から宮崎までの移動経路が書いてありました。(わざわざ手紙まで書いて頂いて、本当に几帳面な奥さんだな~)と、そう思いました。
それによりますと、熊本駅前から「南風号」というバスに乗り、熊本駅前を8時38分発、宮崎駅前にはお昼の12時06分着になっていました。そして手紙の最後に「今からこころときめいています」と書かれていました。『三人での再会』をそこまで期待されているのであれば行くしかありません。
当日の5月20日、予定通りに8時38分発の「南風号」に乗り、熊本駅前を出発。さほどお客は多くありませんでした。しかし、実に久しぶりの「南風号」での移動になりました。バスは10時頃八代インターを過ぎ、10時15分頃に人吉に入りました。道路の両側に迫る高い山と深い谷。風に吹かれてゆらゆらと揺れている緑の森の木々。それを窓ガラス越しに見ていると、こころに染みてくるものがありました。
その森の木々の緑をバスのガラス窓越しに眺めていた時、今は亡き「おじさん」のこと。アパートに当時集まっていた友人たちのこと。懐かしいみんなのことを思い出し、胸がジーンとしてきました。様々な思い出が甦り、(今年もし「松本くん」に会えるとしたら、「おじさん」のお導きなのではないか・・・)と思えてきました。
バスの中から見える森の緑は実に瑞々しく、森を覆う木々の葉っぱが太陽の光に照り映えてキラキラと輝いていました。これには大変感動して、じーっと窓の外の景色に見とれていました。(こういう光景を何と表現したらいいのだろうか・・・)と、この季節の森の緑の美しさに、ただただ言葉を忘れていました。
すると、何と翌日5月21日付けの「産経抄」をたまたま開いた時に、この時の私の気持ちをまさしく、見事に言い表してくれた文章が載っていたではありませんか。これには実に感動しました。深く頷きました。以下がその「産経抄」の一文です。
“ 野も山も街の並木も日々、色を濃くしてゆく。この頃は、色や香りを時候のあいさつに託すことも多い。青葉を抜ける風を「緑風」と、若葉の香りを運ぶ風を「薫風」と呼ぶ。「風青し」と書けばさわやかな風の吹く心地がする。五感で確かめたいこの季節である”
途中、小林インターチェンジを過ぎた頃、右手に「霧島山」が見えてきました。今まで何回もその山を見てきていたはずなのですが、その山の姿をあらためて見て、(実に神秘的な姿をしているなぁー)と感じました。神話に繋がる神々しい雰囲気を漂わせていました。
そして、「南風号」は昼12時15分に宮崎駅前に到着。バスを降りた所で、「喜田さん」の奥さんと長女の方、そして次男ご夫妻が迎えに来られていました。ニコニコして迎えて頂きました。みなさんとは9年ぶりの再会になりました。
「喜田さん」の奥さんが言われるには、「約15分後に松本さんは宮崎駅に着かれますよ」と言うことでしたので、みんなで駅の改札口前で待ちました。すると、奥さんが言われたその時間頃に「松本くん」が改札口を出て、私たちの目の前に現れました。すぐに向こうから、みんなに握手を求めてきました。
私は三十年ぶりに「松本くん」の風貌を近くで見ました。昔は黒かった髪が白くなっていた以外は、昔の「美青年」の風貌のままの姿でした。全然変りありませんでした。嬉しくなりました。久しぶりの再会を記念して、駅の改札口の出口で「喜田さん」のご家族と「松本くん」と私で記念写真を撮りました。その写真は、今年の記念すべき一枚になりました。
その後、家族の車に乗せてもらい、大淀川沿いのホテルに昼食に行きました。奥さんが「松本くん」と私たち三人の席を予約されていました。そのホテルは9年前に来た時にも泊まったホテルでしたので、懐かしかったです。大淀川が眼の前をゆったりと流れるのが見える部屋に通されて、三人で食事を楽しむことが出来ました。
そこで初めて、「松本くん」の近況を聞くことが出来ました。彼が今兵庫県で弁護士事務所を開いているというのは、この時彼の口から直接聞きました。彼は私より一歳だけ年下です。私の眼の前に座っている彼を見ていますと、四十年前に初めてアパートで出会った頃の姿が思い出されて、(実に立派になられたなぁ~)と、心底からそう思い、嬉しい気持ちがしました。
「おじさん」がもしまだご健在で、今の彼の姿を見られたら、どんなに喜ばれただろうか・・・と、本当にこころからそう思いました。彼にそう感じたままを言いますと、彼も照れていましたが、それは私の率直な気持ちでした。
この場に、「喜田さん」の奥さんが当時の写真を数枚持ち込まれてきていました。その一枚・一枚のいずれもが大変懐かしいものでした。その中の一枚に「松本くん」が司法試験に合格した時、「おじさん」「おばさん」から合格祝いの宴を開いて頂いた時の写真もありました。
その写真を指で示して、「この時自分が着ていたジャケットは、おじさんから合格祝いに頂いたものなのです」と、当時を懐かしむように話してくれました。その時私はすでに東京を離れていたので、そういうことがあったことはこの時初めて知りました。「おじさん」は下宿人の一人・一人に惜しみない愛情を注いでおられたのだなぁーというのが良く分かりました。
お昼を終えた後も、まだまだ私たちは話し足りなくて、ホテル一階にある喫茶店に行きました。そこではたまたま結婚式の披露宴が行われていました。最初はそのことが分からずに、案内された席に座りましたら、我々以外はその披露宴に参加していた人たちで席が満席になっていました。(まあー、これはこれで面白い)と思い、そこに座りながら、披露宴の進行を横で見ながら、また三人で話し続けました。
そこでもさらに一時間半ほど三人で話しました。名残りは尽きませんが、「松本くん」は友人たちとの付き合いの約束が夕方から入っていたので、私たちは三時半頃にそのホテルで別れることにしました。私もこの日の夕方4時半頃に、宮崎駅前からまた熊本に戻る予定でしたので、短時間ながらもここで密度の濃い会話が出来ました。
その時に話したことは、「おばさん」がまだお元気なうちに、是非当時のメンバーだけでもいいからみんなと東京で再会し、「おじさん」「おばさん」からいつも我々にして頂いた<宴会>を、今度は<おばさんを囲む宴会>として、東京で開いてあげましょうよということでした。
● 故郷で出逢った、40カ国を回った青年 ●
今年の帰国時に、私の故郷で何と106歳の「おばあさん」が亡くなられました。実は、その「おばあさん」は私の家の隣に住んでおられていて、私が小さい時から可愛がってもらっていました。私が日本に帰って来た時にも、杖を付きながら私の家まで歩いて来られて、
「帰って来たつね!元気じゃったね!」
と、いつも熊本弁で嬉しそうに話しかけてくれた「おばあさん」でした。今から六年前の100歳ぐらいまでは、田舎に帰る度に毎年顔を合わせていましたが、その後は養老院に入られたので顔を見ることはありませんでした。
その「おばあさん」が106歳で亡くなられて、告別式が5月15日にありました。私の家はすぐ隣でしたので、「御通夜」にも「告別式」にも<受付係り>として参加しました。私の田舎ではこのような近所のお葬式の場合は<隣保組(りんぽぐみ)>と呼ばれる、同じ村落に住む人たちがいろいろな手伝いをして、助けてあげる仕組みがあります。
おばあさんの告別式が終わり、一段落した後、(もう今年はこの白いYシャツを着ることはあるまい。今回が最後だろう)と思い、告別式で着た白のYシャツをクリーニング屋さんに持ってゆくことにしました。
クリーニング屋さんに行くと、受付に年配の女性が立っておられました。「このYシャツをお願いします」と言いました。「はい、分かりました」と返事されて、その女性は私のYシャツを預かり、受付の台で引換の紙に名前を記入していました。
その時たまたま受付台の横を見ると、一枚の新聞記事のコピーが貼ってありました。新聞記事は「熊本日日新聞」からのもので、日付は、2017年5月10日になっています。タイトルは「イスラエルってどんな国? 訪日の女性 児童と交流 南関第三小」「学校通える 幸せなこと 写真家が講演 玉名・三ツ川小」とあります。
「南関第三小」といい、「三ツ川小」といい、実は私の家からさほど遠くない距離にある学校です。その時、全部の記事を読んでいる時間はなく、その記事の中の「寺本さんは約3年前にタイを旅行した際、貧困のために働く子を見て、夢を届けようと活動を思い付いた。以来、カンボジアやネパールなど40カ国を訪れ、孤児院に日本のおもちゃを贈っている」と書いてあるのに眼が留まりました。
受付されていたその年配の女性に「この人は誰ですか」と聞きましたら、何と「私の息子です!」と言われたではありませんか。しかし、この時は次のお客さんも来ていたので、それ以上の詳しい話は聞けずに、そのまま家に帰りました。
Yシャツを取りに行くのは二日後でしたが、その二日の間にあの記事のイメージがだんだんと膨らんできました。(何というスゴイ若者がこの同じ故郷にいるのだろうか・・・)と感心もしました。
そして二日後に、そのクリーニング店にYシャツを受け取りに行きました。この日もあのときの女性がおられました。Yシャツを受け取った時、あの記事にあった「私の息子です!」と言われた「息子さん」について尋ねました。すると、「今ちょうど玉名に帰っていますよ」と言われました。「本当ですか!」と私も嬉しくなりました。
「では、ここに連絡して頂けますか。実は、私は普段ベトナムに住んでいますが、もうすぐ故郷を離れてベトナムに向かいます。それで、数日後に友人と最後の宴会をしますので、出来ればそこに一緒に参加して欲しいと思います。是非そこで息子さんにお会いしたいのです」
と言って、私の連絡先を紙に書いて渡しました。その女性は嬉しそうな表情で、「分かりました。息子に渡します」と答えられました。
その後、私は寺本さんの記事が載った、その新聞記事のコピーをお母さんから頂きました。その日に参加するのは、私の他あと三人が来る予定でした。彼らにも寺本さんのことを知ってもらいたく、家に帰る途中でコンビニに立ち寄り、人数ぶんをコピーしておきました。
そして、家に帰ってからさらにその記事を詳しく読みました。その記事には、寺本さんがイスラエルの女性と知り合いで、その縁により南関第三小でイスラエルの女性からイスラエルの宗教や文化について小学生たちに講演をしたと書いてありました。
さらに三ツ川小の記事では、「寺本さんは全校児童30人に、海外の働く子どもを写真で紹介。彼らは学校に通うため、生きるために洗車やごみ拾いをしている。学校に通えて家にご飯があることは幸せなことだと語った」と載っていました。
この記事の中で、全校児童が僅か30人しかいないというのも、今の日本の「少子化」を示していて驚きましたが、世界のいろんな国を訪問し、そこで直接見た子どもたちの現状を日本の生徒たちに伝えようとしているその“熱い思い”にこころ打たれました。誰にでも出来ることではないでしょう。
世界各地を旅行したりしている日本人の若者はたくさんいることでしょうが、普通は観光地巡りぐらいで終ることでしょう。また、それが普通ではないかと思います。寺本さんは旅に出た各国で、そこで暮らしている貧しい子どもたちに愛情を注いでいるというのです。
友人たちと宴会をするのは5月23日でしたが、その前日に寺本さんから連絡がありました。「はい、喜んで参加させて頂きます」と連絡が来ました。大変嬉しくなりました。翌日に迫った彼との出逢いが大変待ち遠しくなりました。
当日私は六時頃に待ち合わせ場所に行きました。すぐに私たちの友人三人も着きました。三人とも私の中学生時代の同級生たちです。彼らに寺本さんが載った記事を見せました。みんな「ええー、本当ですか!この人が今日来るのですか」と驚いていました。この記事を頂いたお母さんと出逢ったキッカケについても、私から話してあげました。
そして七時頃に、寺本さんが来ました。やはり、新聞で見た通りの爽やかな風貌をしていました。お互いにみんなで初対面の挨拶をしました。初対面ですが、全員が同じ故郷・玉名の人たちですから会話は弾みます。寺本さんから直接いろいろ話を聴きました。彼は私たちに次のように話してくれました。
「僕は今から三年前にタイへ旅行に行きました。そこで貧しいがために学校に通えず、仕事をしている子どもたちの姿に衝撃を受けました。それで、世界各地のそういう子どもたちの現状を見て写真に撮り、そのような子どもたちの姿を、恵まれている日本の小学生たちに紹介したいと思いました」
この記事には、寺本さんが実際に自分で撮った写真を教室の中で生徒たちに見せている光景が載っています。そして、一人の生徒の感想が書いてありました。「こんなに困っている子どもたちがいるとは思わなかった。学校に行かせてくれる両親に感謝します」と。
彼は大学生時代を東京で過ごしましたが、学費などは両親から一切送ってもらわず、毎朝新聞配達をしながら大学に通い続けたそうです。そして、三年前にタイを訪れた時に「強い衝撃を受けました!」と言って、次のように言いました。彼の心優しさに驚きました。
「僕は自分で自分一人のために学費を稼ぐために新聞配達をしていました。でも、タイの子どもたちは家族を助けるために幼い頃から働いていました。そのことに涙が出てきました。それで、僕も自分のためだけに働くのではなく、人のために尽くしたいと思いました」と、彼はそう答えてくれました。この部分は、彼の言葉そのままです。
今彼は28歳だと言いますから、三年前のその時には25歳ぐらいだったはずです。25歳の若者が、異国の子どもたちにそういう愛情と哀しみを寄せることが出来る。私の25歳の頃を振り返っても、そういう異国の子どもたちにまで愛情を寄せるなど想像も出来なかったことです。寺本さんのような若者が今眼の前に座っていること自体が信じられない思いでした。私の友人たちも感動していました。
「40カ国も回った国の中で、どこが印象深かったですか」と私が聞きました。寺本さんは、「今戦争真っ只中のシリアの人たちは大変優しかったです。訪れた国の中で一番貧しかったと思ったのはバングラデシュでした。街中がゴミだらけでした。でも、子どもたちの表情は明るかったです」と答えました。
彼は今東京で「学童保育」の仕事に就いているといいますから、やはり子どもたちが好きなのでしょう。子どもたちに溢れるような愛情を持っているのでしょう。彼に将来の夢を聞きましたら、「将来はフリースクールを営みたいです!」と答えてくれました。
それを聞いた私は嬉しくなり、「そうですか!実は今ベトナムのサイゴンには、Saint Vinh Son小学校という授業料無料の小学校があり、それを創ったのが日本人であるFさんですよ。あなたのその思いをFさんが聞かれたら、さぞ喜ばれることでしょう。今度紹介しますよ」 と言いますと、寺本さんも「本当ですか!是非紹介してください」と笑顔になりました。
この日の宴会は夜10時近くまで続きました。寺本さんもここに参加した私の友人たちも大変楽しいひとときを過ごすことが出来ました。寺本さんは先に帰りましたが、「来年もまた会いたいですね」とみんなが話していました。私も同感です。
Saint Vinh Son小学校の責任者のFさんには、早速その翌日に連絡を取りました。Fさんも寺本さんと同じ東京に住んでいます。寺本さんの話から始まり、「こういう若者が今私と同じ故郷にいて、将来フリースクールを開きたいという夢を抱いていますので、是非相談に乗ってあげてください」と私がお願いしますと、Fさんは「分かりました。こころに留めておきます」と答えられました。
Fさんと寺本さんが出会えば、寺本さんにもいろんな進展が出てくることでしょう。そのことは彼の活動の輪がさらに広がることにも繋がることと思います。寺本さんは私がベトナムに戻った後、お礼のメールを呉れて、その中で自分の活動を紹介しているブログのアドレスを送ってくれました。以下がそのアドレスです。
https://www.masashiteramoto.com/
これを見ても、いかに彼が幅広い、献身的な活動をしているかが良く分かります。同じ故郷にこういう若者がいることに、深い感動と嬉しさを覚えました。また来年寺本さんと是非日本で再会したいと思います。来年の日本帰国時の楽しみがまた一つ増えました。
ベトナムBAOニュース
「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。
留学生たちが「屋台村」/岩手・盛岡市
岩手県盛岡市の大学や、専門学校に通う留学生たちが屋台村を開き、故郷の料理や文化で市民をもてなしました。
このイベントは岩手大学の留学生と、日本人学生の団体が毎年開いています。8日は岩手大学と盛岡情報ビジネス専門学校に通う、10の国と地域の留学生が、岩手大学構内に屋台村を開いてお振る舞い。
訪れた人たちはベトナムのフォーや、ロシアのリンゴを使ったスイーツなどに舌鼓を打っていました。また各国の音楽や踊りも披露され、ベトナムのバンブーダンスは市民も挑戦。
さんさ踊りは留学生も輪踊りに加わりました。参加した人たちは顔をほころばせ、国際交流を楽しんでいました。
<IBC岩手 ニュースより>
◆ 解説 ◆
この記事の中にある「盛岡ビジネス専門学校」の名前を見て、大変懐かしくなりました。今この学校には、べトナムからの「留学生」たちが勉強しています。そのことを知っていますので、(ああー、日本に行っても勉強だけではなく、日本人との交流でも頑張ってくれているのだなぁー)と嬉しくなりました。
この「盛岡ビジネス専門学校」というのは、岩手県盛岡市にある「龍澤学館」の中の専門学校です。その「龍澤学館」の館長である「龍澤先生」がベトナムに来られた時に、私はサイゴンでお会いすることが出来ました。
それは、今から実に19年前になる1998年のことでした。「龍澤先生」はその時、カンザーでのマングローブ植林を希望されていました。それで、カンザーでマングローブ植林に関わっている我が社を知り、その縁でベトナムに来られることになり、私は「龍澤先生」の知遇を得ることが出来ました。
「龍澤先生」の風貌はまさしく<教育者>そのままの風貌でした。その数年後にベトナムに来られた「龍澤学館」の先生たちにもお会いすることが出来、「龍澤先生」をこころから尊敬している様子が、言葉の端々に出てきていて、(やはり、学校の中の先生たちからも尊敬されているのだなぁー)と感じました。
そして、この「龍澤学館」に留学生を送り出している学校が「Dong Du(ドン ズー)日本語学校なのです。そこの校長先生のHoe(ホエ)先生と龍澤先生が旧知の仲なので、「龍澤学館」に古くから留学生を送り出しているのでした。私自身も龍澤先生を通して、Hoe先生を知りました。
龍澤先生のことを振り返りますと、わざわざカンザーまで行ってズボンを汚しながら、炎天下の中でマングローブを植えられていた姿を今でもまざまざと思い出します。ベトナムにそこまでの理解と愛情を抱いておられたからこそ、今まで長い間「Dong Du日本語学校」から多くの留学生たちを受け入れてきたのだろうと思います。だからこそ、留学生たちも頑張っているのでしょう。
そして、「Dong Du日本語学校」に関しては嬉しいニュースがあります。そこの校長先生のHoe先生に関してです。これは、「Dong Du日本語学校」でHoe先生の秘書を勤められていたIT先生からほんの数日前に聞きました。
それによりますと、しばらくしたらHoe先生の伝記が日本人の手により、一冊の本になって出版されるそうです。もし、それが完成したらどんなに嬉しいことでしょうか。特に「ベトナムの歴史や文化」を学んでいる人たちには必須の一冊になることでしょう。Hoe先生ほど「ベトナムと日本の架け橋」として、波乱万丈の一生を送った人も少ないでしょうから。
Hoe先生の伝記が完成したら、「日本とベトナムの交流史」のあらたな一ページが加わるかもしれません。何故なら、今生きておられる人で、当時日本に留学生として行き、その後ベトナムで「日本語学校」を開設されたのは、実にHoeさんがその代表的な人物なのですから。
IT先生はHoe先生の伝記がいつ完成されるとは言われませんでしたが、さほど遠くない先のようです。もし、「Hoe先生の一代記」が完成したら、その本を読める日が待ち遠しい限りです。