【2015年9月】『ベトナムマングローブ子ども親善大使』十五周年を終えて/ホーチミン市はメコン川に沿って発展する
春さんのひとりごと
<『ベトナムマングローブ子ども親善大使』十五周年を終えて>
今年度で十五回目を迎えた『ベトナムマングローブ子ども親善大使』が無事に終りました。毎年一週間だけ夏休みに、日本から小・中学生の生徒たちがベトナムにやって来ます。彼らが来る前の準備と、来てからの対応で気が抜けず、普段は余り意識しては使わない五感をフルに動員して臨むせいか、彼らが帰った後二日間ほどは、毎年頭の中がボーッとした状態と脱力感が続きます。
そして、今年は十五回目という節目の年を迎えただけに、さらに感慨深いものがありました。今まで参加してくれた生徒たちの思い出。振り返ると、多くの印象的な生徒たちの思い出が甦ります。忘れられない生徒たちが多すぎて、到底ここに書き尽くすことは出来ません。
また鮮やかな思い出として蘇るのが、今まで植えてきた数々の植林場所。最初は徒歩で移動し、次には植林場所まで船に乗って行った年もあり、ここ数年はバスでの移動に代わりましたが、カンザーの大地に「日本の生徒たちが植えたマングローブ」はしっかりと根を張り、十五回目のマングローブ植林の歴史がくっきりと刻まれています。
道無き道を歩いて移動し、クリークを泳いで渡り、暑い時にはそのクリークの中で泳ぎ、泥合戦をしたり、水泳大会をしたりしました。植林場所も自分たちで見付けて、空いている土地を見つけては、胎生種子を自分たちで採取し、ベトナムの人たちの助けも借りずに自分たちだけで植えていました。今はもうそういうことが出来なくなりましたが・・・。
道無き道を進んで植林場所まで行っただけに、今は木が大きくなり、枝が伸びて葉が茂っていて、もうその道を歩くことは出来なくなりましたが、(あの時植えたマングローブはさぞ大きく育っていることだろうなぁ・・・)と想像しています。
実際、今年はカンザー訪問を終えての帰り道、たまたま道路沿いに見えたマングローブの林(森まではまだ育っていない)を見て、バスを停めてもらい、生徒たちにも降りてもらい、その林まで歩いて行きました。そこは約10年前に、日本の生徒たちが植えたマングローブの林でした。あの時鉛筆ぐらいの胎生種子から植えたものが、大人の背丈を超えるまでに成長していました。感無量でした。
ここに到るまでを振り返ると、外国人としてベトナムにやって来た何のツテも無い私のような日本人が、現地のベトナムの方々の協力無くして十五回目を迎えることは出来なかったのは間違いなく、多くのベトナムの人たちの支援によってそれが実現したのだとあらためて思いました。
例えば、ベトナム到着後の二日目には毎年歩いて市内観光をする予定があります。その時には、ベトナムの高校生や大学生に一緒に来てもらい、中央郵便局や「戦争証跡博物館」にも一緒に行きます。
そして、「統一会堂」前の公園では毎年恒例の「実践ベトナム語教室」の特訓をします。これはもはや、「親善大使」の定番になりました。毎年涼しい木陰の下でのベトナム語教室を開いています。今年日本から来た生徒は7人。この日集ってくれたベトナム人の生徒さんもちょうど7人。一対一のマン・ツー・マンでベトナム語の勉強が出来ることになります。
みんな忙しい中、学校の時間を調整して、わざわざこの日のために集ってくれたのでした。この日集まってくれた大学生たちに呼びかけてくれたのは、今『村山日本語学校』で日本語の先生として活躍しているHuongさんという女性です。
実は彼女自身が以前この「実践ベトナム語教室」にベトナム側の生徒として参加してくれていたのでした。彼女は毎年この「親善大使」の活動に理解を示してくれて、積極的に大学生たちに声かけをしてくれます。さらには今年からホーム・ステイ時の男子の家が、今まで「Luan先生」宅にお願いしていたのを、息子さんが日本に留学したこともあり、別の家を探すことになった時、新しいホーム・ステイ先の家を紹介してくれたのも彼女でした。
村山元首相がベトナムを訪問した時に、日本語の通訳としてその大任を果たされたのが、他ならぬLuan先生なのですが、Luan先生と知り合えたことで、「親善大使」の活動内容にホーム・ステイが採り入れられ、ベトナム人の生徒たちとの交流会も実現しました。さらには「ホーチミン市友好協会」を訪問し、そこで毎年交流会が出来ているのもLuan先生の支援のおかげなのです。
そしてさらには、今年は特筆すべきことがありました。実は、1997年に「ベトナムマングローブ調査団」として第一回の生徒たちがベトナムに来て、その後「ベトナムマングローブ子ども親善大使」として毎年の生徒たちの参加数が男子・女子が半々くらいになった時から、日本の生徒たちを受け入れた時に、女子の生徒たちのお世話をしてもらうために、毎年ベトナム人で日本語を学んでいる女子大生のスタッフにお願いしていました。
その女子大生のスタッフたちにもまた様々な思い出があります。今まで頼んでいた人たちは三回生や四回生が多く、翌年は社会人になったり、学業に専念しますという理由で、普通は一回ぐらいしか参加することが出来ませんでした。
しかし、全ての大学生たちが、女子の生徒たちの面倒だけではなく、男子の生徒たちの面倒も一生懸命にみてくれていました。最後に空港で日本の生徒たちとお別れする時には、生徒たちもベトナムの女子の大学生も涙を流して別れを告げるのが常でした。
そして今年空港に日本の生徒たちを迎えに行った時、何と偶然にも過去に「親善大使」のアテンドをしてくれた女性に再会しました。私が空港に着いた時にはまだ「Arrived」の表示は出ていませんでした。それで、しばらくゲートの前で待つことにしました。15分くらい待機していると、後ろから私の名前を呼ぶ女性の声が・・・。
(誰だろう・・・?)と思い、振り向くと、そこには背の高い女性が[JTB] と書いてある紙を手に持って立っていました。しかし、その女性を見ても、すぐにはパッとは思い出せませんでした。
そして彼女がニコッと笑った時に(アッ)と思い出しました。彼女は以前「ベトナムマングローブ子ども親善大使」の女子のアテンドをしてくれたLy (リー)さんでした。彼女は「17年ぶりですね!」と言いましたが、私も彼女がいつ参加したのかは正確に思い出せませんでしたが、「親善大使」の活動初期の頃であることは間違いありません。
後で確かめましたら、2000年に彼女は「親善大使」の活動に参加していました。ですから、正しくは15年前です。彼女もあまりに昔のことであるので、よく覚えていなかったのでしょう。しかし、15年前でも「ずいぶん昔」であることには変わりありません。
「いや~~、久しぶりですねー」とお互いに思いがけない再会を喜びました。今年の「ベトナムマングローブ子ども親善大使」の生徒たちが到着する日に、空港で以前その「親善大使」の生徒たちをお世話してくれた彼女に会えるとは、実に奇遇でした。聞けば、彼女は今一児の母になっていると話してくれました。私も感激し、彼女も感激していました。
そして、この場には今年の女子生徒の面倒を見てくれるLinh(リン)さんも来ていました。Linhさんは昨年に続いて二回目です。彼女は昨年の「親善大使」が終了した時点から、「また来年も必ず参加したいです!」と、この行事に今年も参加するのを強く希望していました。
しかし、私自身は直前まで(今年は無理かもしれないな・・・)と思っていました。何故ならば、昨年の「親善大使」が終わってからしばらくして、彼女はその後サイゴンから約2000km離れた、北部のハノイで働き始めたからです。距離の問題、経費の問題もあり、(難しいな・・・)と考えていました。
その後、彼女がたまたまサイゴンに来る機会があり、再会した時に「どうしても次回も参加したいです!」と強い希望を述べてくれました。「いいけど、飛行機代までを会社が出すか分からないよ」と言いますと、「大丈夫です。自分で払いますから」と彼女は答えたのでした。
その返事を聞いた時(そこまで本気なのか・・・)と、胸がジーンとしてきました。「有難う。いろいろこちらも日本側に相談してみるよ」と、その時私は答えて、その場は別れました。彼女は次回も意欲的に参加したい気持ちを強く持っているのが良く分かりました。
そして、「親善大使」の行事が始まる二ヶ月前から「今年の生徒たちはいつからいつまでベトナムに来ますか。それに合わせて飛行機の切符を早めに買いますから」と聞いてきました。彼女は「日本側から私の飛行機代は出して頂けそうですか」とは一言も聞いてきませんでした。参加するのが当たり前という感じでした。
それを聞いた時私は、(今年はサイゴンにいる人で女子の世話をしてもらおうかな・・・)と考えていた案をきっぱりと棄てました。今年もやはり、彼女に女子の世話をお願いしようと考えました。
幸にも彼女の飛行機代は彼女が自腹を切ることなく、日本側のほうで認めて頂けましたが、そのことに対しても、飛び上がって喜ぶというふうでもなく、淡々としていました。やはり自分で飛行機代を払ってでも来るつもりだったのでしょう。
彼女は「親善大使」が来る二日前にハノイからサイゴンに飛んで来ました。そして、「親善大使」たちが日本に帰る同じ日に、彼女もハノイに帰る予定でした。ですから、サイゴンにいるのは約十日間です。
そして、彼女がサイゴンに着いた次の日に、私達は会いました。今年の合宿一週間の運営案を渡して、翌日から来る生徒たちの毎日の流れと、日々の運営の注意点と準備物などを確認しました。その運営案自体は当然全部日本語で書いてありますが、彼女はそれが十分理解出来る日本語能力を備えています。「この意味は何ですか?」と聞いてきたのは、昨年一箇所の日本語の単語だけでした。
打ち合わせが終わり、「よく十日間近くも休みが取れたね」と私が言いますと「ちょうど同じ期間に会社で社員旅行があり、みんなはそれに参加しますが、私はこちらの行事に参加したいと会社に伝えて、それを認めてもらっていました」と言うのでした。
「仕事を休んでこの行事に参加した」と言うと、私のほうが申し訳なく思うだろうなと感じてそう言ったのかどうかは分かりませんが、いずれにしてもハノイの会社を休んで、この「親善大使」の行事に参加してくれたのは事実でした。
Linhさん自身が大変子ども好きで、第二日目の市内観光の時から、女子のみならず男子の生徒たちの手を引いて、その手を振り回しながら歌を歌いながら歩いていました。私のように中年を超えたおじさんたちに出来る芸当ではありません。
市内観光で『戦争証跡博物館』を訪問した時には、館内に掲示してある写真の一つ・一つについて、日本語での説明を加えて、生徒たちに話してくれました。これは昨年も同じでした。その姿を後ろで見ていて、(本当によくやってくれているなぁー)と感心していました。
「親善大使」三日目に、今年第四回目となる「ベトナム人の小学生の生徒たちと一緒に交流会&植林活動」のために、カンザーへ移動しました。ちょうど10時半に『カンザー森林保全局』に到着。ベトナムの生徒たちはもう先に着いていました。
日本の生徒たちが会議室のような広い部屋に入ると、ベトナムの生徒たちが拍手で迎えてくれました。ベトナムの生徒さんたちは昨年と同じく10名待っていました。今年は男子が6名、女子が4名いました。5年生が5人。4年生も5人です。
ベトナムの生徒たちには日本から持ち込んだ名札を渡しました。先ずは、ベトナムと日本の生徒の双方が自己紹介をしました。ベトナム側の紹介はLinhさんが通訳してくれます。日本の生徒たちは昨日覚えたばかりのベトナム語を駆使して、ベトナム語で紹介しました。みんな見事なものです。
中でも小6のTくんの挨拶は、ベトナム側の生徒たちや先生を喜ばせました。はっきりとした発音で、大きな声で話してくれたので、ベトナムの生徒たちも理解できたようです。ベトナム人のみんなから拍手が起きました。
今年のベトナム側の生徒のメンバーの中には、昨年たった一人だけ参加していた4年生の女子がいました。Nghi(ギー)ちゃんという名前です。5年生になってまた、今年も彼女は参加してくれていました。それで、今年持ち込んだ写真のうちの一枚を彼女に渡しました。本人には大変喜んでいました。
昨年、4年生として参加してくれていたのは彼女一人だけだったので、Nghiちゃんに「来年もまたこの植林活動に参加出来るように、学校の勉強をしっかりと頑張ってね!その時、今年の写真をまた上げますからね。」と、彼女には言っていました。その約束を果たすことが出来ました。
そしてその後、いつものように『カンザー森林保全局』局長のLongさんがパワーポイントを使用してカンザーの歴史やカンザーの特産物について説明。彼がベトナム語で話しているのを、今年もLinhさんが日本語で説明します。難しい専門用語なども、生徒たちには優しい言葉に言い換えてくれて、見事なものです。
Linhさんは昨年も同じ内容を通訳したので、Longさんがベトナム語で話しているカンザーについてのマングローブの意義や、その生態系に与える環境の説明などを、私に頼らずに全部一人で通訳しました。日本の小学生たちも、カンザーの小学生たちも、興味深く聞いていました。
そして、この日の午後二時過ぎにバスに乗って植林場所に移動。植林場所に行く手前で、林の中に入りましたが、その地面がぬかるんでいて、ベトナム人の生徒たちも日本の生徒たちも悲鳴を上げます。確かに、足首までズブリと入り込みます。ここを通過するだけで泥だらけになりました。
そして着いた植林場所には、すでにその前の人たちが種子から植えたマングローブが広がっている区画がありました。一年くらい前のようです。その近くに、苗と地面に穴を掘るためのスコップが置いてあり、それを各自手に持って植林の開始。
生徒たちは、一人がマングローブの苗を3・4本手に持ちました。今年も種子を地面に挿す植え方ではなく、土をスコップで掘り、事前に苗床で育成されて、少し生長した苗を植える方法です。「森林保全局」のスタッフがみんなに植林の仕方を説明します。
苗は2~3年掛けてポットの中で育てて来た苗で、高さが1mくらいに成長していました。今年植える苗の種類も、昨年と同じ「ルムニッツエラ」という名前のマングローブです。今年も昨年と同じく一人につき5本用意してもらいました。Linhさんも生徒たちと同じように、自分のぶんのマングローブを植えてゆきました。
この日のこの時間、太陽はジリジリと照り付け、炎天下の中での穴掘りになりました。しかし、今年の日本の生徒たちとベトナムの生徒たちは粘り強いです。昨年はベトナムの生徒たちは30分くらいすると疲れた様子で、少し背の高い木陰を見つけて、そこで休んでいました。今年はそういう場面は見られず、全員で最後まで協力して植林していました。
そして、まるまる一時間半ほどかけて、参加者全員が炎天下の中で汗を流しながら、一緒に穴掘り⇒苗入れを共同してやりました。それが終わり、ベトナム人と日本人の生徒さんたち一人・一人に【植林証明書】の手渡し式。封筒の大きさで、今日の日付、各自の名前が印刷されていました。今年も日本人の生徒たちに加えて、ベトナム人の生徒さんたちのぶんも作成してもらいました。Linhさんや私のぶんまでありました。「2015年第4回日越友好マングローブ植林」は無事終りました。
「親善大使」四日目は、「カンザー博物館」を訪問。しかし、ここでLinhさんに痛恨の悔しい出来事が・・・。ワニ園の中にあるボード・ウォークを歩いている時に、サルが木の上からすごい速さでボード・ウォークの手すりに飛び降りてきて、後ろからLinhさんの大きい、ピンク色の帽子を奪い盗ってゆきました。
さらにそれだけで終らず、Linhさんがかけていたメガネも奪ってゆきました。係員が追いかけましたが、サルの逃げ足の速さには追いつきません。Linhさんだけではなく、生徒一人のメガネと、帽子も二つサルに奪われました。年々奪い方が上手になってゆくカンザーのおサルさんたちですので、来年は要注意です。
カンザー最終日は、ホテルのすぐ前にある市場近くのお土産屋さんで買い物をすることにしました。ホテルの前にあるお土産屋さんでの買い物タイムはいつものことですが、ここにはカンザーでしか売っていない、貝製品のお土産がたくさんあります。しかも単価が安いお土産がたくさんあり、友だちへのプレゼントには最適なので、毎年生徒たちはここで買います。今年もLinhさんは生徒たちが買いたい品物の値引き交渉をしてくれます。
生徒たちが欲しい品物を見定めると、Linhさんがおばさんに値段交渉をしてくれますが、今年はLinhさんが一つ・一つの品物、一人・一人のお土産について、粘ること・粘ること。全員の買い物が終るまで、30分ぐらい経ってもまだ終りません。
日本人であれば(これくらいでいいや。それで手を打とう!)とすぐに諦めますが、ベトナムの女性は値段交渉に関してはみんな手ごわいものです。なかなか、「それでいい!」とは言いません。私たちはそれが終るまでじーっと待機。結局40分ぐらいして、お買い物タイムが終了しました。
その翌日はホーチミン市に戻り、「Saint Vinh Son小学校」を訪問。藤牧さんとOanhさん、生徒さんたちが待っていてくれました。今日のこの時間帯には、小学2・3・4・5年生の生徒さんたちが待っていてくれました。我々がクラスに入ると同時に、ベトナムの歌を披露してくれました。これは四つのクラス全てにおいてそうでした。
Oanhさんから、日本から来た生徒たちの紹介があり、私が改めてベトナムの生徒たちに、この学校を訪問した目的(毎年一回の交流会と生徒たちへのプレゼント)を話します。そして、日本の生徒たち一人・一人がベトナム語で自己紹介をします。
それから、この日に集まった全ての生徒たち一人・一人に、日本の生徒たち一人・一人が自分の手で制服を渡してくれました。日本の生徒たちにはこの学校訪問の前に、「君たちが今日本にいるティエラの生徒の代表として、【がんばりポイント】を寄付してくれた生徒たちに代わって、“頑張ってね!”と、こころを込めて制服を渡して下さいね。」と話していました。
この“頑張ってね!”をベトナム語で言えるように、ニャー・ベーのフェリーを降りた時から、Linhさんにそれを教えてもらい、車の中で練習させました。それで、制服を渡す時には、日本の生徒たちもLinhさんから教えてもらったこのベトナム語の言葉を口に出して渡していました。
生徒さんたちも、実に嬉しい笑顔をして受け取っていました。日本の生徒たちはここでもまた深い交流が出来て嬉しそうでした。日本では当たり前の、授業料無料の「Saint Vinh Son小学校」については事前に生徒たちには説明していましたので、貧しいがために学校に行けない生徒たちがこの地球上に、そしてこのベトナムにもたくさんいるのだという現実も自分たちの目で見て知りました。
「親善大使」6日目は、「ホーチミン市友好協会」で「交流会」を実施しました。我々が部屋の中に入りますと、「ホーチミン市友好連合委員会」の議長・Nguyen Cong Tanh(グエン コン タン)さんが出て来られて、我々に挨拶されました。
Tanhさんは昨年も私たちの対応をして頂きました。私とは今から17年前にお会いしたことがあります。村山日本語学校長のLuan先生も、本当はこの日は用事があり、「所要があって参加できないかもしれません」と言われていましたが、何とかやり繰りして後で来られました。やはり、責任感が強いですね。
そして、時間通り「交流会」は3時から始まりました。最終的にはベトナム側からは7人が参加しました。この「友好協会」での交流会でも、ベトナム側の生徒たちに声掛けして集めてくれたのが、Huongさんでした。
日本から持ち込んだプレゼントをベトナム人の生徒たち全員に配ります。座席配置は、ベトナム人の生徒と日本人の生徒たちが隣同士に座るようにしました。最初にTanhさんから歓迎の挨拶がありました。
「今年もまた日本からみなさんがベトナムに来て頂いて大変感動しています。カンザーでも毎年マングローブの植林をして頂いていますが、大変素晴らしい活動だと思います。そして、今回もまたこのような交流会にも参加して頂いて、嬉しいです。今後もこのような形での交流会が続き、さらにまた日本とベトナムの友好親善が長く続くことを希望しています。」
そして、「親善大使」最終日。朝から「クチ・トンネル」に移動。10時半過ぎに「クチ・トンネル」着。私たちが着いてから、案内人がどの国の言葉のビデオを見に行くのか聞いてきましたので、「日本語だ!」と答えると、その棟の建物に案内してくれました。
それから、いつもの20分弱の日本語でのビデオ上映が始まりました。ここを訪問する人たちが、どこの国の人たちかによって、案内する建物が違うのです。別の建物を通過している時には、英語やフランス語、韓国語の声が聞こえてきました。
ビデオの上映が終わると、女性の係員がクチ・トンネルについてベトナム語で説明します。この時他の日本人のお客が数組いて、ベトナム人で日本語の分かる案内人もいました。その女性の係員が「誰かベトナム語の出来る人が日本語に通訳してくれませんか?」と、ここに座っていた我々に問いかけます。
Linhさんが「あのベトナム人は日本語の分かるガイドですよ。彼に通訳してもらったほうがいいですよ」と、彼のほうを指さしていましたが、彼は恥ずかしいのか、遠慮しているのか、自分には出来ないと思ったのか、すぐには立ち上がりません。彼が立ち上がるまでじーっと待っていると時間が無くなるし、Linhさんもクチ・トンネルについてさほど詳しいわけではないので、私が通訳を買って出ました。
ベトナム人女性の案内人が話したクチ・トンネルのビデオのベトナム語を私が通訳する羽目になりました。後でLinhさんが「よくあんなに詳しい説明ができますね。驚きました」と誉めてくれましたが、まあ、今まで何回もここを訪れて、彼女達案内人の説明を聞いていますので、彼らが話す内容は全て覚えています。
「クチ・トンネル」訪問を終えて、サイゴン市内に向かう途中で昼食を終え、3時半にホテルに到着。この後夕食も摂らないといけないし、帰国まであまり時間がありません。Linhさんもこの日にハノイに帰るので、自分の荷物をまとめないといけません。生徒たちと同じ時間頃には空港に着けばよいので、同じバスに乗って空港に行くことが出来ます。
しかし、しばらくしてLinhさんが慌てた様子で走ってきて「今、航空会社から連絡があり、今日飛び発つ飛行機の時間が早まって、このホテルを5時半頃出ないといけなくなりました!」と言うのです。
「ええーっ!」と私も驚きました。最初の予定では夕食会の場で、「Linhさんとのお別れ会」をする予定だったのですが、それが出来なくなりました。それで、生徒たちには5時から「Linhさんとのお別れ会」をすることを伝えました。
5時前に「Linhさんとのお別れ会」のために、全員がフロント前に集合。生徒たち一人・一人が贈ったプレゼントや、寄せ書きを彼女は手にしています。そして生徒たちから一人ずつお礼の言葉をLinhさんに言いました。Linhさんは涙を流しています。中には顔を両手で覆って涙を流している生徒もいます。Linhさんは最後にみんなと別れる時、一人・一人を抱きしめていました。
「ホテルの外で、タクシーにLinhさんが乗る所までみんなで見送りますよ」と言うと、彼女は「そこで別れると辛いので、このホテルの中でのお別れでいいです。みなさん、一週間本当にありがとうございました。また会いましょうね!」と言って、ドアを開けて、道路に向ってサッサと歩いて行きました。我々もドアを出て、彼女が道路まで行くのを見送りました。彼女は姿が見えなくなるまで、後ろを振り向きながら手を振っていました。
今回「ベトナムマングローブ子ども親善大使」に、Linhさんは二回目の参加を果たしてくれました。サイゴンから2000km離れたハノイから、仕事を整理して飛んで来て くれた彼女の熱意・好意には実に頭が下がります。
後で、彼女が送ってくれた感想文には、
「来年も、再来年も、結婚するまで、今後もずっと参加したいです!」
と書いてありました。来年もまたLinhさんというこころ強いスタッフの協力を得て、第16回「ベトナムマングローブ子ども親善大使」を乗り切ってゆくことになると思います。
ベトナムBAOニュース
「BAO(バオ)」というのはベトナム語で「新聞」という意味です。
「BAO読んだ?」とみんなが学校で話してくれるのが、ベトナムにいる私が一番嬉しいことです。
■ ホーチミン市はメコン川に沿って発展する ■
9月10日、ベトナム、ラオス、カンボジア、の観光局の代表者たちが、「カンザー生態保護区」へのツアーのプログラムに参加した。
ホーチミン市人民委員会グエン・ティー・ホン副主席はラオス、カンボジアの観光局の代表者たちをカンザーのDam Doi(ダム・ドイ)区にある森に案内した。これは、ホーチミン市やベトナムの多様な観光地としての商品を、アジア地域の諸国に紹介するプログラムの一つでもある。
まもなく開催される国際観光フェスティバルでは、参加者はビン・カン・フェリー乗り場から帆船会社の船に乗り換えて旅行するスケジュールを組んでいる。
帆船がカンザー方面に向けて静かに移動し、窓から吹き込んでくる風を受けながら、ラオス、カンボジアからの旅行者たちがカメラで撮影する。旅行者たちは川の景色を座って見物しながら、帆船内では民族音楽や踊りを楽しむことも出来る。
このようなカンザー・ツアーのプログラムは、外国人観光客、特にヨーロッパからの旅行者たちには非常に魅力的に映るだろうとホン副主席は述べた。特にマングローブ林が茂るVam Sat(バム・サット)観光区域ではボートの上からラオス観光局・次官のChaleune Warinthrasak氏は自分の携帯電話でずっと撮影していたし、カンボジアからの旅行者の一団はマングローブの木にぶら下がって眠っているコウモリを双眼鏡でじーっと観察していたりした。
また、このツアーに参加したホーチミン市人民委員会のグエン・ティ・ホン副主席は、ホーチミン市は川のツアーを含め、ツアーのサービスの質の向上に努めてゆくことを力説した。
「今回のツアーは、ベトナムとメコン地域の諸国に川という水路を通して繋がるツアーを結び付け、新しいタイプのツアーの企画・開発を考え、体験する良い機会です。ホーチミン市人民委員会は、観光研究、観光計画の分野をさらに広げる部門を求めていますし、ラオス、カンボジアを経てベトナムのメコン川に注ぐ川に沿って、観光ルートを調査します。
一方、観光業者は、多くのツアー用のボートを数百隻川沿いに待機させ、観光客の到着開始からすぐに運ぶことができるために協力する用意があります。これは、将来の発展に向け定まった方針で、2016年初期までにメコン川に沿って行うこのツアーが、観光業として発展するために、各種のツアーの企画を打ち立て、それを結び付ける努力をしてゆきます」 とホン氏は述べた。
◆ 解説 ◆
この夏にカンザーを訪問した時、ホテルのフロントに座っていましたら、目の前の柱に掛かっている写真に目が止まりました。その写真には、このホテルのマネージャーのThaoさんと一緒に「カンザー博物館」の森の中を歩いている人が写っていました。
ベトナム語で書いてあるその氏名を見ましたら、カンボジアの首相と書いてありました。最近撮影したもののようでした。(何故カンボジアの首相がこのカンザーに?)と思いました。その後すぐにThaoさんがフロント近くまで歩いて来たので、その写真を指差して「これは本当にあのカンボジアの首相ですか」と聞きますと、「そうですよ」と彼は笑って答えました。
私は「そうですか」と答えましたが、「何故カンボジアの首相がここに?」とは質問しませんでした。ただの観光に来たのだろうぐらいに思いました。そしてその後、この記事を読んだ時、(もしやカンボジアの首相がカンザーに来たのは、このための視察だったのだろうか・・・)とも推測しました。
実は今カンザーは海岸の大工事が行われていて、昨年まで海岸に出て夜空を生徒たちと眺めていたのが出来なくなりました。将来的には、今までサイゴン港に船から貨物を降ろしていたのを、このカンザーで降ろす計画があり、そのための大工事だと聞いたことがありますが、いずれにしても海岸の砂地の場所からトタン板で囲われて、立ち入り出来ない状態になっています。
さらには、カンザー郡のマングローブ林を伐採して、新しい道路をまた別に造る計画もあります。私が18年前に足を踏み入れたカンザーから比べると、道路の広さといい、ホテルの数の多さといい、レストランの多さといい、観光客の多さといい(以前はカンザーがどこにあるのか知らないベトナム人もいました)今のカンザーは大きく変化しましたが、この記事を読むとまだまだ変わる可能性が高いということです。